ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

無責任で意味不明な東電の『無主物』論を、あっさり通した、無責任で意味不明な裁判官

2011年11月30日 | 日本とわたし
朝日新聞に、2011/11/24に掲載された『プロメテウスの罠』の記事写真を書き写したものをここに残しておきます。

無主物の責任

放射能はだれのものか。
この夏、それが裁判所で争われた。
8月、福島第一原発から約45キロ離れた二本松市の『サンフィールド二本松ゴルフ倶楽部』が東京電力に、汚染の除去を求めて仮処分を東京地裁に申し立てた。
-事故のあと、ゴルフコースからは毎時2~3マイクロシーベルトの高い放射線量が検出されるようになり、営業に障害がでている。
責任者の東電が除染をすべきである。

対する東電は、こう主張した。
-原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。
したがって東電は除染に責任をもたない。

答弁書で東電は放射性物質を「もともと無主物であったと考えるのが実態に即している」としている。

無主物とは、ただよう霧や、海で泳ぐ魚のように、だれのものでもない、という意味だ。
つまり、東電としては、飛び散った放射能物質を所有しているとは考えていない。
したがって検出された放射能物質は責任者がいない、と主張する


さらに答弁書は続ける。
「所有権を観念し得るとしても、既にその放射能物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。
つまり、債務者(東電)が放射能物質を所有しているわけではない」


飛び散ってしまった放射性物質は、もう他人の土地にくっついたのだから、自分たちのものではない。
そんな主張だ。
決定は10月31日に下された。
裁判所は東電に除染を求めたゴルフ場の訴えを退けた。

ゴルフ場の代表取締役、山根勉(61)は、東電の『無主物』という言葉に腹がおさまらない。
「そんな理屈が世間で通りますか。無責任きわまりない。従業員は全員、耳を疑いました」
7月に開催予定だった『福島オープンゴルフ』の予選会もなくなってしまった。
通常は年間3万人のお客でにぎわっているはずだった。
地元の従業員17人全員も9月いっぱいで退職してもらった。
「東北地方でも3本の指に入るコースといわれているんです。本当に悔しい。除染さえしてもらえれば、いつでも営業できるのに」

東電は「個別の事案には回答できない」(広報部)と取材に応じていない。

(前田基行記者)敬称略



この記事の中の、東電の理屈を、もっともやと思える人がいるやろか?
原発をあちこちに、無理矢理、あるいは金をバラまいた挙げ句に騙して建て続けた原発狂団と電力会社は、
事故が起こるたんびに、こんな、悪い冗談みたいな屁理屈を堂々と申し立てて、それをまた裁判所の連中やら政府やらマスコミやらが擁護していくんやで。

これは、サンフィールド二本松ゴルフ倶楽部だけの話とちゃうんやで。
なんとかして責任から逃れようとしてる国と企業と原発狂団は、あの手この手で、いつものように根回しして、金にものを言わせていくはずや。
そんな連中相手に、もう個別で闘うてる場合とちゃうと思うねん。
全国規模で、思てたけど、あの摩訶不思議な普通がまかり通ってる地域の人相手に、エネルギー使てる場合でもないし、
せめて、実害を受けてる人達をひとまとめにして、何千人、何万人、何十万人規模の集団訴訟を起こすことはできひんの?
そういう準備はもう始まってるの?
こんなどうしようもないこと言うもんを相手に闘わなあかん人らの手伝いを、どうしたらできるんか、教えてくれへんやろか。




美しい村や町を、山や海を、大人や子供を、動物や植物を、じわじわと殺していく原子力発電所

2011年11月30日 | 日本とわたし
前田せいめい氏の写真集『飯舘村-IITATEMURA』に出会った。

三重県と大阪、そしてちょっとだけ名古屋。
これが今回のわたしの旅。

電車や車の窓のむこうに、田んぼや山々、そして川が流れていた。

飯館村には、というか、東北には、一度も行ったことがないけど、前田氏の写真を眺めてるだけで、どれだけ豊かな自然に恵まれている土地かよくわかる。
村民が一体となって、豊かで美しい自然の中で、慎ましく、人間らしく、幸せに生きていける村造りに励んでいた。
ひとりひとりの大変な努力が実を結び、形となって現れてきて、村全体が喜びに溢れていた矢先だった。

あの日あの時、1年を通して滅多に吹くことのない虎捕山から吹いた風は、そんな人々の想いや喜びをすべて、吹き飛ばしてしまった。
永遠の彼方に。

風に紛れ込んでいた悪魔は、我々が気づかぬうちに作られていた建物が生み出した。
その悪魔は、我々が使っていた電気を作っていた。
そんな恐ろしい物で作られていた電気を、呑気に使い放題していたことを恥じ、なんとかして地球上から、悪魔がウジャウジャいる建物を無くしていこうと立ち上がったわたし達。
そんな建物を、自分達の住居のすぐ近くに建てられまいと、もう何十年も前から立ち上がっている人達がいたことも知らずに、
知ろうともせずに、
今頃になって立ち上がったわたし達を見て、今更何を言うてるか!と思う人もいるだろう。
やっと気がついてくれたかと、少しの安堵の感を抱いてくれた人もいるだろう。

原子力発電所は、放射性物質の館。
電気を作ってるふりして、核兵器のもとを日々製造し、それをあちこちに輸出してる。
戦争狂の連中の憂さ晴らしと、破壊好きの欲求を満たし、己の懐を潤すために。

小さな事故は数えきれないほど起きていて、放射能汚染はあちこちで、すでに起こっている。
計測してないから知らなかっただけ。
見えない、聞こえない、匂わない、透明な悪魔は、核施設を持つ国を薄く濃く、まんべんなく汚してる。

日本一の村だと、暮らす人達が誇っていた村がひとつ、殺されていく。
同じような天災が起こり得る時期がきてしまったというのに、まだ50以上もの美しい村や町や海や山の近くに、このバケモノは存在する。
そのことの意味を、どうして日本の人達は知らないふりをしているのだろう。

父の遺骨

2011年11月30日 | 家族とわたし
会う毎に老いていく母が、去っていくわたしに手を振ってくれる。
いつもそれを見るたび、胸がきゅっと締めつけられるねんけど、今回はなぜか、寂しゅうて哀しゅうて、電車の中で泣けてきた。
ああ、わたしはまたこんなふうに、遠くに離れていってしまうんやなあと。
43才の誕生日に、桜の花びらが散るのを電車の窓から眺めながら、日本と、日本に暮らす皆にさよならを言うた時と同じぐらいの寂しさで。

旅の最後に、弟に会いに行って、彼のおごりで居酒屋で飲んでた時、末期癌で入院した父を、毎日欠かさず見舞いに行ってた弟の話になった。
弟の彼女と一緒に「えらいなぁあんた」と褒めた。
弟は父から、幼い時は虐待に近い扱いを受け、青年時代には、父の借金の肩代わりをさせられたり、名義を勝手に使われたりして、成人した頃には、社会でまともに働けないような状態にされてしもた。
そんな父親を、毎晩欠かさず見舞いに行き、そのことを父も、ほんまに喜んでた。
「いろいろえらい目に遭わせてしもたのに、こんなにようしてくれて……」と、何度も何度も、申し訳無さそうに言いながら。

そんなことをしみじみと思い出しながら話していると弟が、
「僕、親父に謝ってもらいたかってん。一言でええから、すまんかったって言うて欲しかってん。それ聞きとうて毎日通てん。言うてくれるまで待っとったから、毎晩遅なってん。こいつはそんな時、晩ご飯食べるの待っとってくれてん」
「けど、とうとう親父は、ひとっことも謝らんかった。謝らんと死んでしもたんや」と言った。

親戚の誰もが感心した弟の優しさの裏に、こんな哀しい願いが隠れてたことを知った晩、えらいもんが見つかった。
それは父の遺骨。
弟のマンションの玄関口に積まれてた荷物の中から出てきた。
父の6番目の、最後の伴侶となった女性が、父の位牌だけを抜き取って送ってきた仏壇の中に、それは入ってた。
わたしが持ち帰ると決め、機内持ち込みの荷物の中に入れた。
空港で一回だけ聞かれた。
父の遺骨です、と答えた。

父は11年もの間、他の荷物と一緒に、狭い箱の中に閉じ込められていた。
遺骨と一緒に、父の高校時代の成績表や、古い古い写真なども出てきた。
お供えに必要な道具も見つかった。
父の成績表を見て、「親父、アホやったんや」とか、「数学はめちゃイケてるやん」とか言いながら笑う弟。
息子にとうとう謝らなかった父が、照れ臭そうに、きまり悪そうに、そんな弟とわたしを見下ろしているような気がした。

不思議の国になってしもた日本

2011年11月30日 | 日本とわたし


昨日の夜、日本から帰ってきた。
行きしなに、みんなにえらい心配かけた。
今回ばかりは自分でも自信無かったけど、とりあえず一番の問題は飛行機の中で解決したし、最初の一週間を母の家でゆっくりしたので、なんとか無事に、旅を終えられた。



忙しい中、会いに来てくれたみなさん、ほんまにありがとう。
今回の旅では、会えると思てなかった人にも会えた。
ツィッターで知り合うた廃炉運動仲間は、飛行機待ちのわずかな時間を承知で、不便なとこにある空港に、しかも平日に、都合をつけて来てくれた。



母の喜寿の祝いにと、戻った日本。
なにひとつ変わってなかった日本。
食べ物は美味しくて、景色は秋の風情を漂わせてる。
公共の乗り物は相変わらずきちっとしてて、丁寧で、律儀で、にぎやかで……。
町ではクリスマスが始まってて、あちこちの駅デパートの地下の食品売り場は、買い物客でごった返してる。
テレビの民放は、クイズ番組かバラエティショー。
キャンキャン声の若い女の子がアホ言うと、バカ受けして笑うおっさん連中と観客。
今まで写真でしか見んかった政治家がしゃべってるのを聞いたけど、言うてることが解らんし、心や意志がこもってないから聞き辛い。



日本のホカ弁、やっぱ最高!めちゃ美味しい!
けど、口に運ぶたび、歯で噛むたび、これはどこの野菜やろ?どこから来た肉やろ?どこの米が混じってんのやろ?なんて考えた。
なんちゅうクソな国やねん!

このアジも美味しかった。
母が、わたしが来るからと、買うてくれてたアジ。これってどこの海で獲れたん?なんて聞けんかった。


倹約しながら細々と暮らしてる親戚が、わたしが来るからと頼んでくれた懐石の出前。
好物やからと連れてってもろた鰻屋、カレー屋、手作りのお料理。
二十年ぶりの懐かしい町の、豆腐料理にお茶に饅頭。
久しぶりに再会した友達と入った焼き鳥屋。



美味しいもんだらけやん!あかんやん!悔しいやん!
けど、関西やからまだ食べた。食べられた。地産のもんやと確認したら、それなりに口に運べた。
けど、関東より以北に暮らす人にとってはそれが難しい。
難しいどころか、よりにもよって、国の行政がいろいろ企んで、選択する意志を弱らせ、選択できる場を次々と壊しにかかってる。



空も海もこんねんきれいのに、わざわざ事故現場からバラまかれた汚染物で汚されかかってる。
この電線を独り占めしてる、核兵器製造会社を守りたいがために。
 


今回、あの事故があってからずっと、毎日欠かさず日本をじっと見つめてきた。
ツィッターで情報を得ては読み、他と読み比べたり調べたりする毎日が続いた。
その上で、思たことをここに書いたり、ツィッターでつぶやいたり(呟きにしては声がデカいけど)しながら日本を見守ってきた。
苦しんでる人、迷てる人、困ってる人、弱ってる人の助けになりたかった。
政治家も報道機関も、市民の命なんか屁とも思てへんことを知り、愕然としたり憤ったりした。
絶望したけど、同じ思いを持つ人達と出会て、国をあてにせんと立ち上がれるよう、ほんまのことを知ってもらえるよう、毎日毎日訴えてきた。

その思いが、なんでこうも伝わりにくいのか。
そらそうやわ。
あそこまで普通やったら。

今までとなんも変わってないとこで、自分だけ変わることの大変さ、難しさ。
無知な人、あるいは無知を装うてる人の嫉妬とあやふやな恐怖感は、知って変わろうとしてる人を、すごい力で押しつぶそうとする。
それにも負けずに変わるのには、それ以上のすごい力が要る。
勇気と根気と、自分を信じる力。

知ろうとせん人にも知ってもらいたい思てたけど、もうそれよりもまず、知ったことで今までと違う考え方を基に行動しようとしてる人を守らなあかん。
そう思た。
人数は少ないけど、エネルギーの無駄遣いしてる場合とちゃう。
これは長い長い闘いになるんやから。
知ろうとせん人、知りたくない人、知っててもやっぱりどうしても行動したくない人、できひんと思い込んでる人も、わたしら同様、大人としての責任を持ってそうしてるはずやから。



電車の窓から見えた農村。
ここにもきっといつか、微量であっても、存在するはずのなかった放射能が入り交じってくる。
政治家が勝手に、ほんまはちゃんと調べてもせんくせに、現場できちんと確認してもせんくせに、どれだけの影響が出るかも解らんくせに、
「助け合いの気持ちで、瓦礫や食品を受け入れる。それが日本人としての支援だ」、なんて言うてバラまいた放射能汚染物質。
ほんで、影響が出る頃には引退して、自分が犯した恐ろしい殺人幇助の罪も償わんまま、充分な役人年金と荒稼ぎした金で、のほほんと隠居生活してるはず。
もしも誰かに、そのことで突っ込まれても、「あの時はああ言うしか無かった」と、しれっとした顔で言えるはず。

不思議の国日本で過ごした2週間。
政治家や企業の悪巧みで建てられた原発は、放射能物質をまき散らすとんでもない核兵器製造工場やとわかった今も、それを廃止せなあかんと思う人が少ない国。
なんでやろ?
そのわけを実感できた2週間。
あいつらの悪巧みは、原発を増やすだけやなく、人の気持ちを操る術も知ってる。
それに協力する奴や機関も、規模がハンパやない。
まあ、それぐらいの勢力や権力持ってな、ここまであからさまにウソをつき続けることはできんかったやろ。

毎日毎日、心配しながら、あれこれと調べながら、子育てしてるおかあさん達の大変さ。
まるで危機感の無い人達に囲まれて、変人扱いされたり、実際に邪魔されたりしてる、行動をし始めた人達のしんどさ。
それがほんまにどれほどすごいもんか、しみじみと実感できた2週間。
成田空港の建物の中にも、喉をチリチリと焼くもんが存在してた。
小型機に乗り換えるために外に出た時、そのチリチリ感が強くなり、そこで初めて「あ、ここは成田やった!」と気がついて、慌ててマスクした。
マスクをしたんはわたし独りやった。
そのチリチリ感が偶然やったんかどうか確かめとうて、帰りもマスクをつけんかった。
やっぱりチリチリは存在してた。
もう慣れてしもて気がつかんようになってる人達に言いたい。
どうか、マスクだけでもええからしてください。