東京事変のことを書こうと思う。
と言いながら、少々脱線する。
日本のミュージシャンは優秀な人が多いという話。
日本のミュージシャンは、クラシックやジャズの分野では、世界的に認知されている人が多い。
しかし、ロックやポップスの分野では、優秀なアーティストが世界的に必ずしも認知されないという現実がある。
それに関して、少し偏見が混じっているとは思うが、私は、こう思っている。
クラシックという音楽には、どこかハイソサエティの自尊心を満足させる要素がある。
それは歴史であったり、長年培われたリスナーのマナーであったり、殊更に厳かな演出などが、聴く側にクラシックを聴くことによって、ある種の特別感を抱かせ、自尊心、優越感をくすぐるからなのだと思う。
そういう人たちは、形式として、「柔軟性のある思考」を表に出したがる傾向にある。
つまり、優れた才能に国境はない、という思考方法だ。
だから、クラシックの嗜好者は、国境の垣根を取り払って、優れたアーティストに対し、惜しみない賛辞を贈る(振りをしている部分も多少あると思うが)。
例えば、ジャズは、虐げられた黒人音楽をルーツにしているが、その根本は、「自由へのこだわり」にある。
自由に、音楽を仲間と共有すること。
それが、ジャズという音楽だ。
ここにも、国境はない。
黒くても、白くても、黄色くても、音楽を共有できれば、仲間と認める。
それは、クラシック嗜好者の柔軟性とは根本的に違うものだが、ジャズの場合は、より自由を取り込んだ柔軟性がある。
だから、優れたアーティストは、容易に認知される。
では、ロックやポップスはどうかというと、大衆性の強いこれらの音楽は、大衆的であるが故に、全体主義的、排他的な部分をリスナーが持つ傾向が強いと思う。
これらは、流行歌だから、その国の現状(あるいは、時々の流行)を歌うことが多い。
他国の人が、共感できない現象が歌われることも多いだろう。
つまり、ポピュラー音楽は、その国固有の文化、現象を歌われた場合、垣根ができてしまうのである。
だから、ロックやポップスの嗜好者は、他国の音楽に対して、排他的である(あるいは、その音楽に共感しようとしない)。
日本には、ロックやポップスの分野で優れたミュージシャン、クリエイターが、たくさんいる。
しかし、クラシックやジャズの分野ほど、世界的に認知されていないのが現状だ。
それは、上に書いたように、ロックやポップスの嗜好者が、自国以外の優れたアーティストのパフォーマンスに、共感する能力に乏しいからである。
そして、他の理由として、各国の音楽市場の性格による場合もある。
世界の音楽の2大マーケットは、アメリカと日本。
この2つの音楽市場は、巨大だから、自国だけで市場が完結している。
言ってみれば、成熟した内向きの市場だ。
韓国のように、外に市場を広げなくても、とりあえず日米は内部だけで、マーケットを維持することができる。
ただ、同じ内向きでも、性格はかなり異なる。
アメリカは、世界の音楽市場をリードしているから、特別なことをしなくても、アメリカの流行が世界の流行になるという配信力を持っている。
それに比べて、日本は、アメリカに比べて配信力が弱い。
そして、上に書いたように、ロックやポップスの嗜好者は、他国(アメリカの音楽以外)の音楽に対して排他的であるという「壁」が存在する。
K-POPが世界的にブームであるという報道があるが、私は、K-POPはいまだ認知途上の段階であると判断している。
少なからぬマニアが、会場に足を運んだのは事実だとしても、各国の音楽チャートを賑わしているという報道は聞いたことがない。
各国のベストテンに数度ランクインしたからといって、それは流行とは言わない。
だから、K-POPにも、ロックやポップスの嗜好者は、他国の音楽に対して排他的であるという「壁」が存在すると私は判断している。
前置きが長くなった。
そこで、東京事変である。
私は東京事変は、世界最強のユニットの一つだと確信している。
そのアンサンブルの強固さは、英米の幾多のバンドと比べても、遜色がないと私は思っている
ただ、英米のロック嗜好者が、東京事変の音楽を認めることに関しては、先の理由で、私は絶望的な確信を持っている。
どんなに優秀な音楽を構成しても、ロックやポップスの嗜好者の排他性に勝つことは出来ない。
と、ここまで書いたところで、話が脱線しすぎたので、この項は、次回に続きます。
と言いながら、少々脱線する。
日本のミュージシャンは優秀な人が多いという話。
日本のミュージシャンは、クラシックやジャズの分野では、世界的に認知されている人が多い。
しかし、ロックやポップスの分野では、優秀なアーティストが世界的に必ずしも認知されないという現実がある。
それに関して、少し偏見が混じっているとは思うが、私は、こう思っている。
クラシックという音楽には、どこかハイソサエティの自尊心を満足させる要素がある。
それは歴史であったり、長年培われたリスナーのマナーであったり、殊更に厳かな演出などが、聴く側にクラシックを聴くことによって、ある種の特別感を抱かせ、自尊心、優越感をくすぐるからなのだと思う。
そういう人たちは、形式として、「柔軟性のある思考」を表に出したがる傾向にある。
つまり、優れた才能に国境はない、という思考方法だ。
だから、クラシックの嗜好者は、国境の垣根を取り払って、優れたアーティストに対し、惜しみない賛辞を贈る(振りをしている部分も多少あると思うが)。
例えば、ジャズは、虐げられた黒人音楽をルーツにしているが、その根本は、「自由へのこだわり」にある。
自由に、音楽を仲間と共有すること。
それが、ジャズという音楽だ。
ここにも、国境はない。
黒くても、白くても、黄色くても、音楽を共有できれば、仲間と認める。
それは、クラシック嗜好者の柔軟性とは根本的に違うものだが、ジャズの場合は、より自由を取り込んだ柔軟性がある。
だから、優れたアーティストは、容易に認知される。
では、ロックやポップスはどうかというと、大衆性の強いこれらの音楽は、大衆的であるが故に、全体主義的、排他的な部分をリスナーが持つ傾向が強いと思う。
これらは、流行歌だから、その国の現状(あるいは、時々の流行)を歌うことが多い。
他国の人が、共感できない現象が歌われることも多いだろう。
つまり、ポピュラー音楽は、その国固有の文化、現象を歌われた場合、垣根ができてしまうのである。
だから、ロックやポップスの嗜好者は、他国の音楽に対して、排他的である(あるいは、その音楽に共感しようとしない)。
日本には、ロックやポップスの分野で優れたミュージシャン、クリエイターが、たくさんいる。
しかし、クラシックやジャズの分野ほど、世界的に認知されていないのが現状だ。
それは、上に書いたように、ロックやポップスの嗜好者が、自国以外の優れたアーティストのパフォーマンスに、共感する能力に乏しいからである。
そして、他の理由として、各国の音楽市場の性格による場合もある。
世界の音楽の2大マーケットは、アメリカと日本。
この2つの音楽市場は、巨大だから、自国だけで市場が完結している。
言ってみれば、成熟した内向きの市場だ。
韓国のように、外に市場を広げなくても、とりあえず日米は内部だけで、マーケットを維持することができる。
ただ、同じ内向きでも、性格はかなり異なる。
アメリカは、世界の音楽市場をリードしているから、特別なことをしなくても、アメリカの流行が世界の流行になるという配信力を持っている。
それに比べて、日本は、アメリカに比べて配信力が弱い。
そして、上に書いたように、ロックやポップスの嗜好者は、他国(アメリカの音楽以外)の音楽に対して排他的であるという「壁」が存在する。
K-POPが世界的にブームであるという報道があるが、私は、K-POPはいまだ認知途上の段階であると判断している。
少なからぬマニアが、会場に足を運んだのは事実だとしても、各国の音楽チャートを賑わしているという報道は聞いたことがない。
各国のベストテンに数度ランクインしたからといって、それは流行とは言わない。
だから、K-POPにも、ロックやポップスの嗜好者は、他国の音楽に対して排他的であるという「壁」が存在すると私は判断している。
前置きが長くなった。
そこで、東京事変である。
私は東京事変は、世界最強のユニットの一つだと確信している。
そのアンサンブルの強固さは、英米の幾多のバンドと比べても、遜色がないと私は思っている
ただ、英米のロック嗜好者が、東京事変の音楽を認めることに関しては、先の理由で、私は絶望的な確信を持っている。
どんなに優秀な音楽を構成しても、ロックやポップスの嗜好者の排他性に勝つことは出来ない。
と、ここまで書いたところで、話が脱線しすぎたので、この項は、次回に続きます。