吉田美和の歌唱力は、文句のつけようがない。
吉田美和より歌のうまい人は、数多くいると思うが、歌の理解力、表現力は群を抜いている。
そして、歌手としての迫力も際立っていると思う。
この歌手としての迫力。
これが、歌手を一流か、そうでないかを判断する一番の条件なのではないか、と常々私は思っている。
どんなに音程がしっかりしていても、ただ歌っているだけでは、人の心は動かない。
楽器もそうだ。
ピアノやバイオリンを音符通りに正確に弾けたとしても、そこに感情が入らなければ、それは「よくできました」で終わってしまう。
「たいへん よくできました」のハンコをもらうためには、人間としての感情、経験が入り込むことが必須条件だ。
たとえば、写実派の絵画は、写実とは言いながら、時に現実を無視した光の当たり方や遠近法を取り入れていることがある。
それは、現実の世界を忠実に模したものではなく、画家の頭に浮かんだ風景を素直に表現したから、そうなる。
現実世界をそのまま写し取る能力では、絵画は写真にかなわない。
そのままの景色を残したいなら、写真で残せばいいのだ。
吉田美和の歌は、絵画で言えば、写実派とは遠いところにある。
自分の書いた歌詞、書いたメロディを忠実に歌おうとは、決して思っていないように思える。
そのときの自分の感性そのままに、自分の歌世界を表現する。
たとえば、私の好きな歌「何度でも」は、歌うたびに、歌の表情が変わる。
一度として、同じ表情にはならない。
ときに、伸びる音に抑揚を付け、ときに突然音を切ったりもする。
それは、どの歌手もしていることかもしれないが、凡庸な歌手がそれをすると破綻することが多い(確実にリズムが乱れる)が、吉田美和は、たとえ乱れたとしても、それさえも表現の一方法として、歌に命を与えることができるのである。
その歌手としての力量が、つまり「迫力」ということだ。
吉田美和のプロフェッショナルとしての技量の全ては、この「迫力」に支えられていると思う。
ドリカムの歌には、ラブソングでさえも「迫力」を感じる。
元気になる。
そこが、好きだ。
吉田美和より歌のうまい人は、数多くいると思うが、歌の理解力、表現力は群を抜いている。
そして、歌手としての迫力も際立っていると思う。
この歌手としての迫力。
これが、歌手を一流か、そうでないかを判断する一番の条件なのではないか、と常々私は思っている。
どんなに音程がしっかりしていても、ただ歌っているだけでは、人の心は動かない。
楽器もそうだ。
ピアノやバイオリンを音符通りに正確に弾けたとしても、そこに感情が入らなければ、それは「よくできました」で終わってしまう。
「たいへん よくできました」のハンコをもらうためには、人間としての感情、経験が入り込むことが必須条件だ。
たとえば、写実派の絵画は、写実とは言いながら、時に現実を無視した光の当たり方や遠近法を取り入れていることがある。
それは、現実の世界を忠実に模したものではなく、画家の頭に浮かんだ風景を素直に表現したから、そうなる。
現実世界をそのまま写し取る能力では、絵画は写真にかなわない。
そのままの景色を残したいなら、写真で残せばいいのだ。
吉田美和の歌は、絵画で言えば、写実派とは遠いところにある。
自分の書いた歌詞、書いたメロディを忠実に歌おうとは、決して思っていないように思える。
そのときの自分の感性そのままに、自分の歌世界を表現する。
たとえば、私の好きな歌「何度でも」は、歌うたびに、歌の表情が変わる。
一度として、同じ表情にはならない。
ときに、伸びる音に抑揚を付け、ときに突然音を切ったりもする。
それは、どの歌手もしていることかもしれないが、凡庸な歌手がそれをすると破綻することが多い(確実にリズムが乱れる)が、吉田美和は、たとえ乱れたとしても、それさえも表現の一方法として、歌に命を与えることができるのである。
その歌手としての力量が、つまり「迫力」ということだ。
吉田美和のプロフェッショナルとしての技量の全ては、この「迫力」に支えられていると思う。
ドリカムの歌には、ラブソングでさえも「迫力」を感じる。
元気になる。
そこが、好きだ。