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田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北の縄文とは?

2016-07-11 16:53:29 | 大学公開講座
 今、「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産登録を目ざしてさまざまな活動を展開している。そもそも縄文文化は全国的に展開された文化だと思われるのだが、なぜ「北海道・北東北」なのか? 講師の説明に耳を傾けた。 

               

 7月9日(土)午後、札幌国際大学において「縄文世界遺産講演会」が開催され、参加した。講演は北大大学院文学研究科の小杉康教授「北の縄文 ~ 世界遺産と人類史」 と題して講演された。

 札幌国際大学は初めて足を踏み入れた大学だったが、私立の大学だけあってキャンパスの構成や建物群はとても整えられている印象だった。
 講演会はその一角、6号館の1階611教室で行われた。受講者は私のようなシニア世代と札幌国際大学の学生さんが主だったようだ。

          

 小杉教授はまず「縄文文化」について、その特徴・誕生の背景を説明しながら、次のように明解に定義してくれた。
「縄文文化とは、氷河期の終わりから後氷期にかけての地球規模での温暖化とそれにともなう海水準の上昇・海進といった自然環境の変動の中で、新たに形成された湿潤・温暖な中緯度森林帯の海浜環境に適応し展開した人類文化です」
 つまり、自然環境が温暖化し始めたことにより、四季の変化が生れ、森林植生が回復し始めた。森林回復に伴い植物性資源が多様に生れ、さらに動物相にも変化が生れ中・小型動物が多く生まれた。また、温暖化によって海面が上昇し、海進があって遡上性魚類が発生し、それを捕獲する漁法(定置漁具)も生まれた。

          
 
 さらに小杉氏は、縄文文化の特徴を次のようにまとめた。
「縄文文化の最大の特徴は、一万数千年に及ぶ長期間にわたって、移動性の高い生活から本格的な定住生活にいたるまでの変化に富んだ移住形式を呈しながら、狩猟・漁労・採集を中心として、一部に栽培も組み込んで多種多様な食料資源を開発した生業を基本としていた点です」
 小杉氏も指摘するように、縄文文化の最大の特徴は「移住」の生活形態から、「定住」へと生活形態が変わった点にある。
 特徴の中で明記されていないが、もう一点重要なのが「土器」の発明である。土器によって食料の煮沸が可能となった。このことによって食料を加工することが可能となり、そうした食生活の変化が幼児の死亡が減り、老人の命を長らえることとなり、人口が増えていったという。

                    

 さて、最初の問いである「なぜ北海道・北東北なのか?」という点についてである。この点については小杉氏も危惧している点であるようだ。したがって、世界遺産の登録を目ざす場合には、北海道・北東北でなければならない「ストーリー」を描かねばならないとした。その「ストーリー」とは…。
 一つは、本州おいては縄文文化の後に「水稲栽培」が導入されたことにより「弥生文化」の時代を迎えるが、北海道・北東北においてはそのまま縄文文化が継続されてきたことがある。(北東北については諸説あるようであるが…)
 二つ目は、遺跡で見られる大規模記念物にその特徴があるとされる。大規模記念物とは(1)盛土遺構、(2)ストーンサークル、(3)周堤墓、などである。北海道・北東北においては祖先観念を象徴するこれら大規模記念物が盛んに構築されたという特徴があるという。また、その形状においても本州では円環形のものが多かったが、北海道・北東北では列状形、あるいはその発展形が多いことも特徴だそうだ。

 つまり、小杉氏は「北海道・北東北」の縄文文化には、次のような特徴があり、それをストーリーとして描くべきだとした。
「縄文文化の後半期には、分布域の東半にあたる日本列島東部・北部地域では、小地域を中心とした社会的な統合を強めるために祖先観念を象徴する大規模記念物が盛んに構築され、またそれらをノード(結節点)とする地域社会間のゆるやかな交流が維持された」

 関係者を中心として官民挙げて「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録を目ざしての活動が活発化しているが、今後もその動向を見守っていきたいと思っている。

映画 166 はなちゃんのみそ汁

2016-07-10 20:33:06 | 映画観賞・感想

 素直に感動できた映画だった。ストーリーは乳がんを患い余命を悟った若妻が幼い娘に「みそ汁」の作り方を教えながら食べること・生きることの大切さを伝えようとする映画である。主演の広末涼子、滝藤賢一、そして娘役の赤松えみなの好演が光る映画である。 

               

 7月8日(金)夜、道新販売店の招待による「はなちゃんのみそ汁」の映画会が道新ホールで開催され、妻と一緒に鑑賞してきた。
 映画についての予備知識はなく、若妻が癌と闘う映画程度の知識だった。(原作も、TVドラマも見ていない)

 主演が広末涼子と聞いて、映画そのものにあまり期待はしなかった。というのも、広末がデビューしたころはボーイッシュな外見と清純派のイメージで好印象を持っていた。しかし、その後数々の醜聞を聞くに及んで、画面で演ずる彼女の裏側を想像してしまうとどうしても共感を持てなかった。
 今回の映画でも、健気な若妻を演じる彼女に最初はどうしても引いてしまうところがあった。しかし、やはり彼女はある種の天才なのだろうか?ナチョラルに若妻を演ずる姿に自然に惹きこまれていってしまったのだ。

 相手役の滝藤賢一は、その容貌そのままのちょっとコミカルな面と、その裏に潜む優しさを好演していた。特に闘病ものというどうしても暗くなりがちな画面を、彼のコミカルな演技で救った場面が何度もあった。

 娘役の赤松えみなは、演技経験ゼロと言いながら、健気に娘役を好演していた。監督の阿久根知昭の指導力だろうか?

          
          ※ 映画での主人公、滝藤賢一、広末涼子、赤松えみなの三人です。

 ストーリーの中で、ちょっと残念と思われた部分があった。それは、若妻・千恵(広末涼子)が乳がんを患い、摘出手術を受けた後、抗がん剤治療や民間療法で一時は完治した。
しかし、その後千恵は妊娠したことが判明する。出産には女性ホルモンが活性化し、がん再発の危険性が高いことから千恵は出産をあきらめようとする。ところが、夫(滝藤賢一)の喜びようや願い、あるいは親の期待から産むことを決心した(と私は見たのだが)のだが、その心の揺れをもう少し丁寧に描いてほしかった、という思いが残る。
 というのも、出産が遠因となってがんは再発したのだから…。

          
          ※ 確かではありませんが、実話の中の安武千恵さんとはなちゃんと思われます。

 だだし、千恵にとって出産はけっして後悔するものではなく、短い日々ではあったが、愛娘・はな(赤松えみな)との温かな日々、そして自らの思いを繋ぐことのできたという喜びが、彼女に「私はツイていた」とのメッセージを残させたのだから…。

 闘病ものというと、どうしても暗い映画になりがちであるが、しかし涙は極力省き、前向きな明るさを失わない映画に仕上げたのは監督・阿久根知昭の力であり、思いであろう。それでもじんわりと感動できた映画だった。


創薬という難しい話を聞いた

2016-07-09 21:27:39 | 講演・講義・フォーラム等
 創薬とは、単に新しい薬を見い出すことではないらしい。創薬とは、新しい薬を見い出すにあたって、最適な疾患、併用薬、安全性、副作用、診断マーカーなど多くの情報を創り出すという相当にハイレベルな研究を指すということなのだが…。 

 北大の公開講座「『国のかたち』を案ずる時代の知恵」の第2回の講座は、北大大学院の有機合成意訳学の堺谷政弘准教授「高齢化社会と創薬」と題して講義された。

               

 いや~、正直言って「恐れ入りました(m(._.)m)」という思いだった。
 薬を創り出すということ自体が、私の関心事ではなかったのだが、その講義内容がまるで薬学部の学生対象のような高度なもので、私にはチンプンカンプンの内容だったのだ。     今回の講座の受講者のレベルはかなり高いのではと推察されるのだが、講義後の質疑応答の際に「前半は難しい話だった」と正直に吐露している方がいたことからも、その難しさを想像いただけると思う。

               

 創薬に関して私が理解できたことは、一つの薬を創り出すには約10年の期間と100億円以上の資金を要する、とてつもない大事業のようなのだ。したがって、創薬に取り組む企業は世界の中でも巨大な製薬会社しか取り組むことができないらしい。
 そこで今では創薬に関する基礎研究は大学が担っていることが多いようだ。北大もその一つとして研究に取り組んでいるということだ。さらには、その基礎研究を創薬に結び付けるために大学に創薬センターを設けたり、さらには大学研究者によっては創薬ベンチャーを設立したりする場合もあるらしい。講師の堺谷氏も(株)ライラックファーマという会社を設立したということだ。

 その後の話は、画期的な新しい薬が創り出された話や、堺谷氏が現在取り組んでいる研究の話があったが、私にはどれも難しすぎた。ただ、そうした方々の努力があって、不治の病、あるいは難病とされた病気にも光が灯されてきているようだ。

 講座の後半、高齢者社会の現状に触れられたが、日本が世界のどの国よりも高齢化の速度が速いこと、要介護者の数が爆発的に増えていくこと、あるいは生活習慣と癌との関係、生活習慣と認知症の関係、などどこかで一度は聞いたことが多かった。

                  
          ※ 堺谷氏自身胃癌を患われ全摘出され、その後回復された姿だそうです。

 その中で、氏ならでは思われた話は、日本では世界に先行して臨床試験が行われる例が稀であるという。世界に先駆けて高い効果の出る新薬を使用できるようにするためにも、積極的に臨床試験へ参加する人が増えてほしい、と訴えた。そのことが創薬研究を発展させることに繋がると…。

 癌や認知症を克服する新しい薬が次々と創薬され、普段通りの生活(QOL)ができる期間を保ち続けることが、家計も国家財政も負担が減ることに繋がる、と話を締められた。
 う~ん。ちょっと私には難しかったかも…。

童心に帰ってさくらんぼ狩り

2016-07-08 16:18:25 | その他

 鈴なりのさくらんぼを目の前にすると、私の理性はどこかへ飛んでしまった。目の前のさくらんぼを摘まんでは、口の中に次々と放り込むという贅沢に夢中になった。果物や農産物の「○○狩り」と称するレクリェーションはヒトを童心に帰らせる作用があるようだ。 

          

 昨日、息子から突然電話が入った。「娘が学校から帰ったらさくらんぼ狩りにいかないか?」と…。息子は職場の創立記念日で休みだったようだ。
 午後2時半過ぎ、孫娘が学校から帰るのを待って、私たち夫婦に、息子、そして孫娘の4人で西野にある「阿部さくらんぼ園」に向かった。(息子の奥さんは勤務で参加できず)

 「阿部さくらんぼ園」は西野地区の坂道の多い住宅地の奥の、小山の中腹といったところに駐車場があり、その先の小山の上がさくらんぼ畑だった。駐車場から受け付けのある入口まではけっこうな急坂である。

          
          ※ 平日午後3時過ぎだったのに、けっこうな数の車が駐車していた。

          
          ※ 駐車場から坂道を案内に従って進みます。

          
          ※ こうした階段状の急坂を上ってさくらんぼ園の入口を目ざします。
 
 入園料は平日のため大人500円、子ども(小学生)300円と格安である。これで園内では食べ放題だという。(ちなみに土日祝日は大人800円であった)
 平日だったが、若いママたちを中心にけっこうな入園者で賑わっていた。

          
      ※ ようやくさくらんぼ園の受付に到着です。下の写真のように料金や注意書きが書かれていました。
          

 さっそく小さなカゴを手にさくらんぼ畑に入った。かなり規模の大きなさくらんぼ園である。
 それぞれの木にはさくらんぼの実がたわわに実っている。全体としての色づきはまだ黄色っぽいものが多く、完熟期はもう少し先かな?と思われた。それでも摘まんで頬張るさくらんぼは甘く美味しかった。

          
          ※ 私たちも写真のように脚立を使い、少しでも光が当たって熟している実を探しました。         
          

 次から次へと、摘まんでは頬張っていた。さくらんぼ狩りに夢中になる私の様子はもう幼児と変わらぬ姿だったのではないか?(変なおじいさん?)
 私はこうした類いの経験はあまり多くはない私だが、それでもその度に感ずるのは、ついつい夢中になってしまう自分の姿である。きっとヒトの中に眠る本性のようなものが刺激されるのだろうか?
 毎年春になると、タケノコ採りの老人が山中で行方不明になる事件が多発するが、あの方たちもついつい夢中になってしまった末に起こった事件のように思われる。

 飽きるほどにさくらんぼを頬張った私たちは、さくらんぼ園で「種飛ばし競争」に興じた。これが孫娘の心をキャッチした。鬼ごっこのように周りを駆けまわりながらひと時を興じた。
 さくらんぼを食べ飽きた私たちは、お持ち帰り用のさくらんぼをカゴに入れて受付のところへ帰ってきた。
 お持ち帰り用は、100g100円ということで、我が家は1,300gを持ち帰ることになり、あまりに多かったので知人におすそ分けすることにした。

          
          ※ 園の入口には札幌市内を見渡せる展望台がありました。

 ○○狩りはヒトの本性が刺激されるようで面白い。妻とは、次に「えだまめ狩りに出かけようか?」と話しをしているところである。


大平まゆみが語る音楽の二つの力

2016-07-07 22:28:21 | 講演・講義・フォーラム等
 大平まゆみさんとは、ヴァイオリニストであり、札響のコンサートマスターを長く務める札幌交響楽団の顔ともいえる存在の方である。過日、彼女が「かでる講座」の7月講師を務め、お話と演奏で優雅な2時間を過ごした。
 

          

 7月5日(火)午後、7月の「かでる講座」が開講された。今回は札響のコンサートマスターである大平まゆみさん「生の音楽の素晴らしさ」と題して、お話と演奏を聴かせてくれた。
 私が「かでる講座」で彼女のお話と演奏を聴くのは確か3回目のはずである。これまでは演奏が主で、お話はほんの添えもの(失礼!)という感じだったが、今回はお話と演奏がほどよくミックスされ、構成にも工夫された講座だった。

          
          ※ 講義をされる大平さんです。

 まずは、大平さんが登場する際のテーマ曲ともなっているエルガーの「愛の挨拶」から演奏が始まった。
 その後からは、次の曲を意識されたお話を挟みながら、彼女の素晴らしい演奏が続いた。演奏された曲は次のとおりである。
 (1)エルガー / 愛の挨拶
 (2)バッハ / 舞曲 ガボット
 (3)モーツァルト / アイネ・クライネ・ナハトムジーク
 (4)モーツァルト / メヌエット
 (5)ジュール・マスネ / タイズの瞑想曲
 (6)ドヴォルザーク / ユーモレスク
 (7)受講者の机間を巡りながら懐かしい日本の唱歌を10数曲連続して演奏した。
 リクエストの応えて
 (8)サラサーテ / ツィゴイネルワイゼン
 (9)ニーノ・ロータ / 太陽がいっぱい

                 
                 ※ 受講者の間近で演奏を披露する大平さんです。

 彼女の卓越した技量で奏でられる曲の一つ一つは、いつ聴いても心から癒される思いである。特に今回は、リクエストで演奏された「ツィゴイネルワイゼン」に大きな感動を覚えた。会場の拍手がなかなか鳴り止まなかったことからも全体が感動していたと思われた。なのに、最後が「太陽がいっぱい」とは…。(場の空気を読んでリクエストしてほしい!)

 今回の講座で、彼女はさまざまなことを語ってくれた。その中でも「音楽の力」について彼女が語ったことを記憶しておきたいと思った。
 「音楽の力」その一は「音楽は体に良い」と言った。音楽とは、空気の震え伝えることだという。それは耳だけに限らず、身体全体でその震えをヒトは受け止めているという。ヒトの体をつくる60兆の細胞にその震えが伝わるという。つまり60兆の細胞の核が音楽によって活性化されるそうなのだ。音楽療法とは良く知られたところであるが、その効果の傍証はいたるところから報告され、長寿で有名な日野原重明医師も音楽療法を積極的に取り入れているという。

 もう一つ、彼女が「音楽の力」として「音楽は人生の思い出に繋がる」と話し、自身の過去の出来事に触れた。確かに、音楽と共に自らの過去の出来事が鮮明に思い浮かんできたということを誰もが経験しているのではないだろうか?

 繰り返しになるが、今回の講座はお話と演奏がほどよくミックスされていて、受講していてとても心地良い講座だった。

 ところで余談であるが、私は大平まゆみさんの素敵な名刺を所持していることがひそかな自慢である。私の過去の仕事上の関わりの中で彼女からいただいたものである。
 私の宝物とまでは言わないが、大切に保管しているものの一つである。

          
          ※ かなりつや消しの写真となってしまいましたが、個人情報ですのでご容赦を!

          
          ※ 名詞は二枚ものになっていて、見開きにするとこのようになります。(外側)

          
          ※ こちらは見開きの内側です。

大谷翔平が日本ハムの一員であることの幸せ

2016-07-06 22:53:15 | スポーツ & スポーツ観戦
 今のプロ野球界で最もホットな話題を提供している選手は、大谷翔平投手(選手)をおいて他にいないだろう。これまでのプロ野球界の常識を覆すような投打でハイレベルの活躍を続ける大谷の存在は誰の目にも驚異に映っている。そんな彼が北海道日本ハムファイターズの一員であることが何より幸せなことである。 

          

 何を隠そう私の日常の関心事の中で、日本ハムファイターズの成績、動向はかなり上位を占めることがらである。
 日本ハム球団が北海道に移転した直後はなかなか馴染めなかったが、球団の地域密着戦略にまんまとハマってしまい、気がついたら日本ハムファンになってしまっていた。
 直接球場まで足を伸ばすことはそれほどないが、チームの戦績にはいつも一喜一憂している自分である。

 その中でも大谷翔平である。3日(日)の対ソフトバンク戦の先発投手 兼 1番打者には驚いた。これまでも投手として登板しながらさまざまな打順で登場していたが、1番打者とはまったく予想もしていなかった。それだけで十分な驚きなのに、試合開始直後の先頭打者として初球をいきなりホームランするなんて、まるで野球マンガの世界の話を現実のものとしたようなものだ。
 投手としても8回まで零封し、完封勝利に貢献した。

                 

 大谷翔平の存在は、今や日本中のプロ野球ファンの大きな注目の的だと思う。ファンばかりじゃなく、他の選手、プロ野球関係者、いや米大リーグのスカウトマンにとっても目を離せない存在だろう。
 そんなスーパーな大谷翔平が北海道日本ハムファイターズの一員なのである。北海道人である私にとってはこの上ない幸せなことである。
 日ハムではダルビッシュが在団していたときも、全国的な話題だった。
 二人とも未完成の高卒選手として入団し、順調に成長し、全国的な存在になった。
 何がそうさせるのだろう?

               

 良く言われることであるが、一つはスカウティングが優れているということが言われている。それは日本ハム球団が即戦力より将来性を見据えた戦力の発掘に力点を置いているということだ。
 さらにもう一つの優れているところが、育成システムの素晴らしさである。大谷だけではなく、日ハムでは高校卒の選手が次々と活躍している。
 昨年の例ではあるが、日ハムでは昨季獲得した新人選手8人のうち、実に7人を一軍公式戦にデビューさせている。こうした例は他の球団では考えられない。若手にチャンスを与えて、彼らの意欲を喚起させているのである。そうした中から、陽岱鋼が、中田が、さらに最近では中島が、西川が、チャンスを掴みレギュラーの座を獲得するまでになった。

               

 こうした球団の姿勢が大谷の投打二刀流の挑戦も可能にさせているように思えてならない。他の球団なら、早い段階でどちらか一方に専念させようとしたのではないだろうか?
 大谷の投打にわたる活躍は、多くの人の目を日ハムへ向けさせ、さらには北海道に目を向けるキッカケになってくれているように思える。
 北海道に住む私にとって、大谷の活躍は身内の活躍のように思える幸せを感じさせてくれるのである。
 スーパーな活躍を見せる大谷翔平が怪我などせずに、これからも活躍し続けることを北海道の一ファンとしてず―――っと願っている。

自然災害 ~「場の予測」とは?

2016-07-05 21:13:43 | 大学公開講座
 講師の丸谷氏は言う。「時の予測」は難しいが、「場の予測」は可能であると…。そして講師は主張する。日本においては「時の予測」をするより「場の予測」によって災害の軽減を目ざすべきだという。「時の予測」とは?「場の予測」とは? 

          
          ※ 直近の熊本地震で引き起こされた崖崩れの様子です。(ウェブ上から拝借)

 今年度も昨日(7月4日)より北大の全学企画による公開講座が始まった。
 今年のテーマは「『国のかたち』を案ずる時代の知恵」というテーマである。
 このテーマについて若干考察してみたとき、私は“案ずる”という言葉に注目した。案ずるとは、さまざまな解釈が可能だが、一般的にはネガティブな言葉である。北大の大学人たちは、この国の現状、行く末に対して“やや心配している”と解したのだが、どうだろうか?講座を受講する中で、そのことも考えてみたい。

 さて、第1回目の7月4日(月)は、農学研究院の丸谷知己特任教授「自然災害は予測できるか ~攻めから守りの時代へ~ 」と題して講義した。
 丸谷氏は自然災害に関わる日本の現状について次のようにまとめた。
 (1)日本は4枚のプレート境界にある稀有な国である。(地震が多い)
 (2)日本は火山列島である。(110の活火山)
 (3)日本上空に強い偏西風が吹いている。(台風の通り道、多雨地帯)
 
 こうした現状は我が国が自然災害を引き起こしやすい条件を備えていると言える。ところが、地震発生や火山噴火、豪雨や台風などの自然災害の発生を現代科学はほとんど予測できていない現状である。
 丸谷氏は、自然災害によってヒトが被害を蒙るのは、地が揺れ、山が火を噴き、雨に打たれるからではないという。ヒトの命や財産が脅かされるのは、それらによって引き起こされる建物の崩壊や山地斜面が崩れることだ、と指摘した。

           
           ※ 講義中の丸谷知己特任教授です。
      ※ 特任教授とは、丸谷氏が定年(65歳)を迎え、さらに大学から要請されて教授の任にある人のようです。

 つまり現代の科学において、いつ地震が来るか、いつ火山が噴火するか、いつ大雨が降るかを予測することは困難だが、どの建物が壊れ、どの斜面が崩壊するかは予測できる可能性が大きいという。
 言葉を替えると「いつ」という「時の予測」は不能だが、「どこが」という「場の予測」は可能である、ということだ。
 「場の予測」が可能なら、ヒトはそこから「逃げる」ことが可能になるというわけである。

                 

 さて、ここまで丸谷氏は解説してから、「国のかたち」について論じた。つまりこれまでの日本は、「時の予測」をすることや災害を防御することに研究も予算も注いできたが、「場を予測」する研究や開発に軸足を移すべきではないか、と主張する。
 「場の予測」…、どこが崩れやすいのか、どこが噴火しやすいのか、どの建物が危ないのか、etc…。

 最後に丸谷氏は、我が国では“国土強靭化”ということが叫ばれているが、それは力づくで自然災害を防ぐということではなく、真の強靭化とは“しなやかさ”ではないかと説く。自然災害列島の日本に住む我々には“逃げる”という思想が必要である、と結んだ。

          
          ※ 東日本大震災時の津波の様子です。(ウェブ上から拝借)

 丸谷氏の講義はレポした以外についても多々論じられたが、講義の大要については間違ってはないと思う。
 講義を聴いて、私は傾聴に値する講義内容だったと思うのだが、はたして現実の科学の世界、あるいは国の行く末を論じる人たちの間で、このような考え方がどの程度の共鳴を得ているのだろうか、という点が気になった…。

縄文土器の野焼きをする

2016-07-04 15:51:58 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連

 土器の野焼きである。その方法は原始的ではあるが、体験してみて相当に高温の中で焼成されることが分かった。数千年、あるいは一万数千年前に人類はどのようにして土器を焼成するという術を獲得したのだろうか? 私は一日縄文人となって縄文土器の焼成を体験したのだった。
 
 3週間前に「私は縄文人になった?」とレポしたが、北海道博物館のワークショップで粘土を成型して土器をつくった。
 それを昨日(7月3日)野焼きして、縄文土器を完成させる工程の講座があった。本来は成型したものを2週間置いて先週の日曜(6月26日)焼くはずだったのだが、雨天のために延期され、昨日実施したのだ。

          
          ※ 今回の会場となった江別市セラミックアートセンターの建物正面です。

          
          ※ セラミックアートセンターの裏庭で開会式を行いました。

 午前10時、江別市のセラミックアートセンターに受講生は集まった。
 同センターの裏庭には野焼き用の炉があるので、そこを利用させていただき野焼きを実施した。
 野焼きの工程には、「てり焼き」といって、本焼きの前に乾燥した土器の水分をさらに除去するために、火から少し遠ざけて土器を炙る。約1時間半、土器の表面をまんべんなく炙るようにする。

          
       ※ 「てり焼き」の様子です。炉の周りに土器を並べ、水分を除去して割れるのを防ぎます。

 それから、いよいよ「本焼き」である。この準備が私には想像していなかったものだった。炉の中(炉といっても野原にレンガを3~4段組んだだけの簡素なものです)土器を並べ、その脇や隙間、あるいは上部に土器が隠れるほどに薪を並べ、積み上げるのです。薪の量は相当な量だった。
 そして火を入れると、炉の中の薪は勢いよく燃え上がった。温度は600℃~800℃くらいになるという。燃え上がっているときは、とても熱くて傍に寄れなかった。

          
          ※ 「本焼き」の準備です。最初に「江別土器の会」の本格的な作品を炉に並べています。

          
          ※ 全ての土器を炉に入れた後は、ご覧のように薪を炉いっぱいに積み上げました。

          
          ※ 炉の中の薪は勢いよく燃え上がり、炉に近づけないほど温度は上がりました。

 この日の野焼きには、私たちだけではなく、「江別土器の会」、「江別市子ども学芸員カレッジ」と私たちと3団体の方がつくった土器の野焼きが行われた。「江別土器の会」の方々の作品は、さすがに慣れていてかなり高度な作品を作っていたのが目立った。

 焼き上げること約1時間半、それから火が消えて収まるまで1時間、ようやく作品を炉から取り出す作業が始まった。焼成の中で割れてしまう作品はほとんどなかったようだ。それだけ良質の粘土だったのか?それとも指導が良かったのか?
 私の作品(と云えるほどのものでもないが)も無事に焼き上がった。但し、私のものだけではないが、底の部分や器の一部が黒く変色してしまったのは残念だった。
 そのことについては、最後に解説があった。実はこの日朝方まで雨が降っていた。そのため炉に底にあたる部分が冷やされてしまい十分に温度が上がらなかったことが原因なのでは、ということだった。残念!

          
          ※ 「本焼き」が終わったところです。土器はまだまだ熱く直ぐには取り出せません。

          

          ※ 恥ずかしながら私の二つの作品です。どちらも底の部分が黒くなりました。

          
          
          
          ※ 「江別時の会」の方の本格的な作品です。さすがですね。

 主催者(道博物館)は、残り火で「焼きマシュマロ」を作ったり、「焼き芋」を提供してくれたり、サービス満点の講座だった。
 朝9時に家を出て、帰宅したのは午後4時過ぎということで、私はこの日も一日縄文人の気分を味わった。

          
          ※ 残り火で焼いた「焼きいも」を頬張る参加者たちです。

 ところでリード文における疑問だが、少し調べたところ石器時代の人たちは狩猟生活を主としていたが、その中で火を使って肉を焼くという術を獲得していたが、その火を扱う中で土(土器)が固く変化することを発見したのではないかということである。土器を獲得したことによって人々は食材を焼くだけではなく、煮るという方法を獲得したという。
 お勉強になりました~。

          
    ※ 裏庭の一角にはレンガ製のモニュメントが建っていました。原田ミドー作の「風の門」という作品です。


北海道低山紀行 62 稀府岳(702.1m)

2016-07-03 22:04:40 | 北海道低山紀行 & Other
 辛い思いだけが残る登山となってしまった…。何度も何度も途中から引き返そうと思った。意地だけで登った稀府岳(まれっぷだけ)だった。稀府岳は私の登山観を根底から覆す山として記憶に残ることになるかもしれない。 

 伊達紋別岳を登り終えた私は汗をたっぷり吸った下着と登山用のシャツを着替えて、直ぐに稀府岳の登山口に向かった。
 稀府岳の登山口は、整備された登山口とは言い難く、ちょっと侘しい感じさえした。登山ポストの記録を見ると、この日は誰も登山をしている人はいないようだった。

          
          ※ 登山口にあった登山ポストです。後ろにあったトイレは私設のため使用不可とのこと。

 伊達紋別岳を登り終え、疲れは感じていたが、移動と休憩に1時間のインターバルを取ったことで、やや体力の回復も感じたので「よし!登ろう!」と気持ちを奮い立たせて午後1時に登山を開始した。

          
          ※ 車道を利用した登り初めの登山道ですが、車はほとんど走っていないようです。

 最初は作業道のような林道を上がっていく。林道とはいっても車はほとんど通らないのだろう、鬱蒼とした林の中を進んだ。
 体力が少しは回復したのではと思っていたが、30分も進むともうダメだった。少し斜度がきつくなっただけで肩で息をしている。「こんなことでは頂上はとても無理ではないか?」と思い始めていた。
 しかし、自分で課した「一日で二つの山を登る」というノルマを達成しなくては、という思いだけで足を前へ進めた。

          
          ※ 登山道は時にはこうしたワイルドなところもありました。
          
 遂にまだコースの半分までも行かないところで足が止まってしまった。腰を下ろせるところを見つけて座り込んでしまった。座り込んだとき、ふと登山パンツを見てみると小さな虫がうごめいている。ダニだ! 実は伊達紋別岳で出会った人に「これから稀府岳に行く」というと、「稀府岳はダニに気を付けてください」とアドバイスをいただいていた。
 体力を使い果たし疲労困憊の域にあったが、ダニに恐れをなして、慌てて立ち上がったのだった。

          
          ※ 徐々に登山道の傾斜が急になってきました。

 何時止めよう、何時引き返そう、とばかり考えながら、この時点ではガイドマップにある中間地点の「お尻愛の木」までせめて行こう、と自分を叱咤して登り続けた。
 なんとか「お尻愛の木」のところまで到達した。面白いネーミングだが、2本の木がちょうどお尻を付けたような形をしているところから付けられた名称のようである。

          
          ※ 木の形が「お尻愛の木」というようなネーミングを想起させたのですね?

          
          ※ 標高が高くなるにつれ、登山道にはササが目立ち始めました。

 「ここまでにしよう」と思ったのだが、どうも自分に課したノルマが気になった。このことは、私がブログをしていることが良かれ悪しかれ影響していた。というのも、途中引き返した、とレポするのがとても恥ずかしく思ってしまったのだ。私は意地だけでさらに高みを目ざした。しかし、意地だけではどうにかなるほど登山は甘くない。私の登っている姿を他人が見たら、それはまるでカメの歩みのようだったろう。

          
          ※ やがて樹林帯を抜け、笹原が広がる尾根コースへと出ました。

          
          ※ 空は晴れ、真っ青な空の中を往くのは気持ちは良かったはずですが…。
          
 「お尻愛の木」を過ぎて、しばらくすると伊達紋別岳と同じように樹林帯が切れて、笹原のコースとなった。
 笹原になっての目標は「ガマ岩展望台」である。登山口から1時間45分もかかりガマ岩展望台に着いた。それまで何度も休憩を取っていたが、ここでも15分もの休憩を取った。

          
          ※ この岩の形が「ガマ」を連想させたのでしょうか?

           
          ※ ガマ岩展望台から室蘭市の方向が望めました。白鳥大橋も見えます。         
          
 辛さについてこれ以上書くのはよそう。ともかく辛さは続いたが、前稀府岳などいくつかのピークを越え、15時30分ようやく「稀府岳」山頂に立った。
 山頂の標識を撮影しながら「これを撮るためだけに意地で頑張ったんだよなぁ…」と一人呟いていた。

          
          ※ こうした笹原のコースが山頂まで続きました。写真のピークは前稀府岳です。

          
          ※ 前稀府岳山頂から目ざす稀府岳の山頂です。

          
          ※ この一枚の写真を撮るために苦しい思いをしてしまいました。

          
          ※ 山頂から午前中に登った前紋別岳、伊達紋別岳の二つのピークが望めました。         

 登山時間を見ても私がいかに苦戦したかがよく分かる。伊達紋別岳はほぼ標準時間で登っているのに対して、こちらは標準時間の3.5割増しの時間となっている。いかに休み休み登ったかが如実に表れている。
 もう体力限界はとうに過ぎていた。しかし、下山を同じようなペースで下りていたら午後6時近くになってしまう。辛い体に鞭打ちながら下山し続けた。なんとか午後5時を少し回ったところで下山を終了することができた。しかし、リード文のところで触れたように、私はこの稀府岳登山を教訓としなければならないと思っている。(それは後半に記す)

          
          ※ 午後5時が近くなり、光の届かない森の中はかなり暗くなっていました。

【稀府岳 登山データ】
標 高  702.2m (標高差  513m)
駐車場  登山口のところに駐車場有り(4~5台駐車可能?)
行 程  ※ グランドシニアの足とお考えください。
     登山口→(1時間45分)→ガマ岩展望台→(30分)→稀府岳山頂→(20分)ガマ岩展望台→(60分)→登山口
時 間  上り(2時間15分) 下り(1時間20分)
天 候  晴、無風
登山日  ‘16/07/01


※ 最近になって、妻は私が登山しているときに必ずといって良いほど電話をしてくるようになった。その訳は、目的の山が遠くなり車の運転が心配なことと、山での安全を確認したいという思いからのようだ。この日も、伊達紋別岳を上っている時と稀府岳を下山しているときに電話が入った。
 稀府岳を下山しているときにだった。その際の私の応答は疲れ果てた声だった。すると妻は「そんなことで楽しいの?」と問うた。そのとおりだ。楽しいどころか、辛いだけの登山になってしまっていた。これでは登山を楽しむという私の思いとは違う登山になってしまっている。
 「できるだけ多くの山を登りたい」、その一心から自分の体力を度外視した計画を立ててしまっていた。
 もっと無理なく、あくまで楽しむ登山に徹しなければ…。「田舎おじさん!それは趣味の登山とは言えないぞ!」と自らを戒めた私だった。

北海道低山紀行 61 伊達紋別岳(714.6m)

2016-07-02 23:55:07 | 北海道低山紀行 & Other
 好天とあって山頂からの眺望は素晴らしかった。しかし、私は伊達紋別岳を標高が低いことで少し侮っていたようだ…。この日二つの山(稀府岳)を計画していたのだが、この山で私はすっかり体力を使い果たしてしまったのだった…。 

   
   ※ 伊達紋別岳山頂からの眺めをパノラマに収めてみました。右奥に見える羊蹄山の頭が雲に隠れています。

 睡眠時間3時間ほどで目を覚ましてしまった私は無理を承知で7月1日未明に車を伊達市に向かって走らせた。
 伊達紋別岳の登山口に着いたのは、朝の4時30分だった。さすがに疲れを感じていたので車の中で仮眠を取った。

          
          ※ 登山者専用の駐車場が用意されていました。

 7時45分用意を整え、登山口に向かった。登山口は駐車場から標識に従って林の中を進むと、登山届用のポストがあった。ここまで私の足で15分かかった。

          
          ※ 駐車場から写真のような案内に導かれて登山口に到達します。

          
          ※ 登山口に至る前に振り返ると、遠く伊達の街、手前には太陽の園の施設群が見えます。

          
          ※ ちょっとくたびれかけた登山ポストで記帳して。

 ガイドブックによると、登山道はカシワの若木の明るい林から、暗いトドマツ林、そして広葉樹林の顕著な尾根道に続くとあるが、私にはその樹種の違いはあまり意識しなかった。それより休みどころなく高度を上げ続ける登山道の方が気になった。
 朝から陽射しは強かったが、前半は前述のように林間コースだったので陽を気にすることなく、日陰の中を登り続けることができた。しかし、湿気が高く直ぐに汗が吹き出し始めた。

          

          ※ 登山コースいろいろ、全体に非常に整備された登山コースでした。

          

 林間コースの中、3合目で樹林が切れて見晴らしの良いところに出る。「一望台」とも称するそうだ。
 その後もコースはぐんぐん高度を上げていった。登りはじめは、次の山のことも考えてペースをゆったりと考えていたのだが、そんな余裕はすっかりどこかに消えてしまった。私には珍しく下半身まで汗まみれになったのは、体調にも問題があったのだろうか?

          
          ※ 3合目の「一望台」ですが、霧がかかっていて遠望が効きませんね。

          
          ※ 「ガンバレ岩」に励まされ、汗だくの登山が続きました。

          
     ※ 花の季節が終わった中で見かけた一輪。花びらの形からはランの仲間のようにも思えますが…。

 登山開始後70分後に7合目の通称「いっぷく広場」に到達した。ここで視界がパーッと開けた。樹林帯を抜け、そこから先は笹が生い茂る稜線が広がっていた。
 すでに体力をかなり消耗していた私はここで10分間の休憩を取った。

          
          ※ ベンチも用意された「いっぱく広場」でゆっくり休みました。

          
    ※ いっぷく広場から、これから行くコースを俯瞰します。目的の「伊達紋別岳」はまだ見えません。
           

 7合目で標高644m、山頂で714mだから、標高差はわずか70mである。ところがそうは問屋がおろさなかった。7合目から一度大きく下ってから登り返すのである。そんなところが少なくとも2か所あった。
 笹原を行くコースは見晴らしが効き、林間より気持ち良い。しかし、この日はピーカンの天気のため、陽射しが強かった。

          
          ※ 笹原のコース脇で見かけた可愛い花はナデシコの仲間だと思います。。

          
          ※ 笹原にくっきりと登山道が見えています。写真のピークは「前紋別岳」です。
          
 これまでには無かったロープ場をよじ登り、「みはらし平」を経由して、「前紋別岳」に立った。ここの標高が715mだから、こちらの方が標高は高いのだが、目的の「伊達紋別岳」はまだまだ先だった。ここでもまた一度下って、登り返し、山頂に立ったのは7合目から50分後だった。

          
          ※ こんなロープ場の急登も二カ所ありました。

          
          ※ 「みはらし平」で振り返ると、この日の午後登る「稀符岳」が見えました。

          
          ※ 稀符岳は右側のピークが山頂と思われます。

 この山頂の眺望が見事だった。360度視界を遮るものがない!有珠岳、昭和新山、洞爺湖、羊蹄山が手に取るように見える。反対側を見れば伊達市内、そして太平洋だ。太平洋上には霧が発生していたが、よく見るとその向こうに山群が望める。考えてみると、内浦湾を挟んで渡島半島の山々を望んでいたのだ。その眺望には十分に満足した私だった。

          
          ※ 前紋別岳を経由して、その先に見えるピークが伊達紋別岳
山頂です。


          
          ※ 伊達紋別岳の山頂標識です。

          
          ※ 写真では薄っすらですが、太平洋の雲海の向こうに渡島半島の山群が見えます。

 ところが私の身体は想定した以上に疲労していた。
 帰宅して考えてみた。伊達紋別岳の標高は714.6mである。札幌圏の低山程度である。ただし、標高差が635mとあった。そこをガイドブックの筆者は標準時間として2時間10分と提示していた。ここが問題では?と考えた。つまり標高差635mを2時間10分かけて登ることはかなりのペースが必要となるのでは、と思ったのだ。
 ちなみに、私にとってはかなり難しい山だった「無意根山」の場合、標高1,464m、登山口からの標高差784mである。ここを標準時間では3時間40分かけている。このことは登山コースの中に平坦な部分がかなり含まれていることを示唆しているのではないか。事実、私の記憶でもコースは登り続けるだけではなく、平坦な道もかなり含まれていて、そこで一息つくことができたと記憶している。
 標高が低い、簡単な山、と侮っていたところが自分にあったように思う。今さらながらの思いだが、山を見る場合、標高、標高差、そして登山標準時間を確認することが必要だと教えられた思いである。 

【伊達紋別岳 登山データ】
標 高  714.6m
駐車場  施設内(太陽の園)に登山者用駐車場有り(未舗装、10台くらい駐車可能)
行 程  ※ グランドシニアの足とお考えください。
     登山口→(70分)→7合目「いっぷく広場」→(50分)→伊達紋別岳山頂→(45分)7合目→(45分)→登山口
時 間  上り(2時間00分) 下り(1時間30分)
天 候  晴、無風
登山日  ‘16/07/01


※ 実は昨日、室蘭からブログを発信し、室蘭の道の駅「みたら 室蘭」の駐車場で今年2度目の車中泊を始めた。眠りに就いたところ、今まで経験したことのないような痛みが下半身に走った。あの足の裏がこむら返りになる痛みが、大腿部付近で頻発した。
初めての経験で不安になった私は、翌日の予定をあきらめ帰宅することにした。
またまた深夜に車を走らせ、今日の未明に家に帰り着いた。妻に話すと、妻は私のような痛みを伴った痙攣を何度も体験したことがあり、大したことのないことだ判明し、安心して爆睡したのだった。