西郷南洲顕彰館の高柳館長の話を聴く機会を得た。西郷隆盛を顕彰する館の館長だから隆盛を讃えるのは当然なのだが、同じ薩摩人である大久保利通を見る目は憎悪に近いものがあった。
※ 開会前、講師席にあった西郷隆盛像を写しました。
「北海道南洲会」という団体が昨年9月に札幌に誕生したそうである。
その北海道南洲会が初めてのイベントとして、11月6日(土)KKRホテル札幌で鹿児島市にある西郷南洲顕彰館の高柳毅館長を招いての講演会を催した。
「南洲」とは普通には「南国」という意味であるが、鹿児島において「南洲」とか「南洲翁」といったら西郷隆盛を表す言葉である。鹿児島市内には「南洲墓地」「南洲神社」「南洲顕彰会館」など西郷隆盛にちなんだ表記が目立っている。「南洲」とは西郷家の号であり、西郷隆盛に対して最も敬意を表す表現法が「南洲翁」という呼び方だそうである。
※ 講演開始を待つ高柳館長です。
さて高柳館長の話であるが、西郷研究者として地元ではかなり高名な方のようである。氏は1973(昭和53)年に「西郷隆盛伝 終わりなき命」を上梓したが、その時点ではまだ分からなかった点や疑問点がいくつかあったそうだ。その点についてその後も研究を深め、30年来の研究結果の総まとめとして「今、蘇る真の西郷像」として発表したそうである。
その中で高柳氏は、西郷の行動原理は「知行合一」であり、思想的バックボーンは「敬天愛人」であると強調した。
「知行合一」とは、知ることと行うことは一体であるという概念で、自分が正しいと思ったことは断じて行わなければならないとする考え方である。西郷はその行動原理に忠実に一生を駆け抜けたと高柳氏は語った。
また、「敬天愛人」は西郷の遺訓の中に出てくる言葉である。遺訓の中で「敬天愛人」に関わるものとして次のような言葉がある。
「道は天地自然の物にして人はこれを行うものなれば天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我が愛する心を以て人を愛するなり」(遺訓二十四)
「道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ」(遺訓二十一)
実は西郷はこうした考えを聖書を入手し読み込むことによって自らの考えに昇華していったと高柳氏は解説した。
※ 講演中の高柳館長は大久保利通の人間性を鋭く追及しました。
こうした西郷のことを高柳氏は次のように評します。
西郷というのは、慎重にものを考え、なおかつそれを断固として実行した人である。こういう人物を歴史の中で探してみれば、孔子とか王陽明とか、あるいは仏陀とかキリストとかが思い浮かびます。西郷はこれら極めてまれな聖人君子を見習い、愚直なまでに志向した人です。
こうした滅私奉公的な西郷の生き方は薩摩人に深く敬愛され、慕われた。
対して、同じ薩摩人であった大久保利通は高柳氏によると極めて“俗人”だったようである。出世栄達のためならあらゆる手練手管を使い、政敵は完膚なきまで叩きつぶすという大久保の考えや行動を高柳氏は憎悪にも等しく糾弾する。
例えば、大久保たちの明治政府に怒る側近たちの訴えに重い腰をあげ西南戦争に突入した西郷に対して、大久保は同じ明治政府の伊藤博文に対して「ついてはこの節、事端をこの事に発(ひら)いたのは誠に朝廷不幸の幸いと、竊(ひそか)に笑いを生じておるぐらいでございます」と書状を送っている。自分が仕掛けた挑発に獲物(西郷)が掛かった。「してやったり」といわんばかりの気持ちを書き送っている。
大久保には明治政府の立役者という一方の評価もあるが、薩摩人(鹿児島県人)の評価は高柳館長の言葉が代表しているようである。
私が今春鹿児島を訪れたときに乗ったタクシーの運転手も「鹿児島での西郷の人気は格が違います」と言っていたが、鹿児島市内を巡ってみてそのことを実感した。
確かに大久保利通に関する史跡もあるが、それはまるで添え物といった感じであくまで薩摩を代表する人物は「西郷隆盛」である、といった感じだった。
※ 西郷は生涯写真というものを撮らせなかったそうです。
そこでこの絵は輪郭は従兄弟の大山巌を、目鼻は弟の西郷
従道を参考にして描かせた絵だそうです。
私の浅はかな知識でこれ以上このことを論ずるのは相応しくない。
この稿の最後は、ネット上に公開されていた「西郷隆盛の生涯」の最後尾に書かれてあった一文を紹介して閉じることにする。
若き日、島津斉彬に見出されて世に出て以来、西郷は常に人々の人望や信頼を集め、明治維新という一大革命を成し遂げる原動力となりました。
しかしながら、西郷自身はそのことに少しも驕ることなく、常に民衆のことを考えた政治を行い、自らも無欲で質素な生活をすることを常に心がけました。
このような庶民性や人間性をもった英雄は、日本には彼一人しか存在していません。
西郷隆盛は、日本史上最も清廉誠実な人物であり、最も徳望ある英雄であったと言えるでしょう。
まさにこうした姿が真のサムライ“ラストサムライ”と称される所以でしょう。
※ 開会前、講師席にあった西郷隆盛像を写しました。
「北海道南洲会」という団体が昨年9月に札幌に誕生したそうである。
その北海道南洲会が初めてのイベントとして、11月6日(土)KKRホテル札幌で鹿児島市にある西郷南洲顕彰館の高柳毅館長を招いての講演会を催した。
「南洲」とは普通には「南国」という意味であるが、鹿児島において「南洲」とか「南洲翁」といったら西郷隆盛を表す言葉である。鹿児島市内には「南洲墓地」「南洲神社」「南洲顕彰会館」など西郷隆盛にちなんだ表記が目立っている。「南洲」とは西郷家の号であり、西郷隆盛に対して最も敬意を表す表現法が「南洲翁」という呼び方だそうである。
※ 講演開始を待つ高柳館長です。
さて高柳館長の話であるが、西郷研究者として地元ではかなり高名な方のようである。氏は1973(昭和53)年に「西郷隆盛伝 終わりなき命」を上梓したが、その時点ではまだ分からなかった点や疑問点がいくつかあったそうだ。その点についてその後も研究を深め、30年来の研究結果の総まとめとして「今、蘇る真の西郷像」として発表したそうである。
その中で高柳氏は、西郷の行動原理は「知行合一」であり、思想的バックボーンは「敬天愛人」であると強調した。
「知行合一」とは、知ることと行うことは一体であるという概念で、自分が正しいと思ったことは断じて行わなければならないとする考え方である。西郷はその行動原理に忠実に一生を駆け抜けたと高柳氏は語った。
また、「敬天愛人」は西郷の遺訓の中に出てくる言葉である。遺訓の中で「敬天愛人」に関わるものとして次のような言葉がある。
「道は天地自然の物にして人はこれを行うものなれば天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我が愛する心を以て人を愛するなり」(遺訓二十四)
「道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ」(遺訓二十一)
実は西郷はこうした考えを聖書を入手し読み込むことによって自らの考えに昇華していったと高柳氏は解説した。
※ 講演中の高柳館長は大久保利通の人間性を鋭く追及しました。
こうした西郷のことを高柳氏は次のように評します。
西郷というのは、慎重にものを考え、なおかつそれを断固として実行した人である。こういう人物を歴史の中で探してみれば、孔子とか王陽明とか、あるいは仏陀とかキリストとかが思い浮かびます。西郷はこれら極めてまれな聖人君子を見習い、愚直なまでに志向した人です。
こうした滅私奉公的な西郷の生き方は薩摩人に深く敬愛され、慕われた。
対して、同じ薩摩人であった大久保利通は高柳氏によると極めて“俗人”だったようである。出世栄達のためならあらゆる手練手管を使い、政敵は完膚なきまで叩きつぶすという大久保の考えや行動を高柳氏は憎悪にも等しく糾弾する。
例えば、大久保たちの明治政府に怒る側近たちの訴えに重い腰をあげ西南戦争に突入した西郷に対して、大久保は同じ明治政府の伊藤博文に対して「ついてはこの節、事端をこの事に発(ひら)いたのは誠に朝廷不幸の幸いと、竊(ひそか)に笑いを生じておるぐらいでございます」と書状を送っている。自分が仕掛けた挑発に獲物(西郷)が掛かった。「してやったり」といわんばかりの気持ちを書き送っている。
大久保には明治政府の立役者という一方の評価もあるが、薩摩人(鹿児島県人)の評価は高柳館長の言葉が代表しているようである。
私が今春鹿児島を訪れたときに乗ったタクシーの運転手も「鹿児島での西郷の人気は格が違います」と言っていたが、鹿児島市内を巡ってみてそのことを実感した。
確かに大久保利通に関する史跡もあるが、それはまるで添え物といった感じであくまで薩摩を代表する人物は「西郷隆盛」である、といった感じだった。
※ 西郷は生涯写真というものを撮らせなかったそうです。
そこでこの絵は輪郭は従兄弟の大山巌を、目鼻は弟の西郷
従道を参考にして描かせた絵だそうです。
私の浅はかな知識でこれ以上このことを論ずるのは相応しくない。
この稿の最後は、ネット上に公開されていた「西郷隆盛の生涯」の最後尾に書かれてあった一文を紹介して閉じることにする。
若き日、島津斉彬に見出されて世に出て以来、西郷は常に人々の人望や信頼を集め、明治維新という一大革命を成し遂げる原動力となりました。
しかしながら、西郷自身はそのことに少しも驕ることなく、常に民衆のことを考えた政治を行い、自らも無欲で質素な生活をすることを常に心がけました。
このような庶民性や人間性をもった英雄は、日本には彼一人しか存在していません。
西郷隆盛は、日本史上最も清廉誠実な人物であり、最も徳望ある英雄であったと言えるでしょう。
まさにこうした姿が真のサムライ“ラストサムライ”と称される所以でしょう。