映画づいている私だが、映画は最もコストパフォーマンスが優れているエンターテイメントではないかと思っている。この映画も戦前、戦後の世相を灯台守の生活を追いながら描いて見せる貴重なフィルムである。
今回の日本映画名作祭は「国立近代美術館フィルムセンター」所蔵のフィルムの提供を受けて、全国各地のさまざまな団体が主催する行事のようだ。
代金は一本500円だからとてもリーズナブルといえる。
こうした映画祭でなくとも、新作を映画館で観る場合でも私たちシニアは1,000円で観賞できるのだから、映画はコストパフォーマンスに優れている娯楽だと思う。
さて、この「喜びも悲しみも幾年月」だが製作されたのは1957(昭和32)年ということだから戦後もそれなりの年数を経過してのものである。しかし映画の年代設定は1032(昭和7)年だから、戦争に翻弄された灯台守夫婦の一代記を描いたものだ。
全国の灯台を転々とする灯台守の生活の過酷さと、海を背景とする美しい情景が映画に大きな陰影を与えている。せっかく慣れたと思ったたら、また新しい任地に赴かねばならない灯台守の宿命は、私自身の現役時代をも投影するような思いで画面を見入った。
喜びも悲しみも幾年月(1957年作品、カラー、スタンダード、161分)
ある灯台守の妻の手記からヒントを得て、木下恵介が作り上げた夫婦の一代記である。上海事変の1932年、新婚早々の一組の夫婦が観音崎灯台に赴任した。二人の生活は、戦争に翻弄される日本と同じ苦労をたどる。戦後も一人息子の死や娘の結婚という悲喜こもごもの連続であった。25年にわたる夫婦の姿を通して、木下は『二十四の瞳』と同じように、日本の同時代史を見事に描いてみせる。木下は、日本人好みの感傷を織り交ぜながら波瀾万丈の一代記をうまくまとめ上げ、北は北海道の納沙布岬から南は五島列島の先の女島まで、全国15ヵ所に横断ロケを敢行し、その後のロケ地とのタイアップによる製作方法の先駆けとなった。作品は記録的大ヒットとなり、(おいら岬の~♪、灯台守は~♪)で始まる映画の主題歌も、行進曲風なアレンジによる若山彰の歌唱により多くの人々に親しまれた。「キネマ旬報」ベストテン第3位。
楢部さんの講演によると、この映画は松竹映画会社が斜陽になりかけたときに、会社の再興を託されて製作されたものだそうである。幸い資料にあるように記録的な大ヒットとなったということだから、木下監督の会社内における立場にも変化をあたえたことだろう。
また、楢部氏の話から日本における灯台守の仕事は機械化が進み、次々と無人化されていき、ついに主人公も勤めた経験のある五島列島の女島灯台も平成18年に閉鎖され、国内の全ての灯台が無人化されたということである。
ちなみに講演された楢部氏は昭和30年に松竹に入社し、この映画で初めてプロデューサーの一人として名を連ね、木下監督の映画づくりに関わったということだ。
「二十四の瞳」でもそうだったが、この映画においても木下恵介監督は登場人物に戦争の愚かさを口にさせている。声高にではなく、静かに語らせるところに木下監督の確固たる信念を見る思いがする。