まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
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ハンガリー王アンドラーシュ2世妃 ヨラン

2010-08-31 00:33:47 | ハンガリー王妃
            肖像画が無いので母親のヨハンナ・オブ・フランダースを…

聖教者の争いをまねく・・・
アンドラーシュ2世妃 ヨラン・クールトニー


1200~1233/在位 1215~1233

それもくだらない争いなの…  本人に罪はない(と思う)んですけどね。

アンドラーシュ2世との結婚は母方の伯父ハインリヒ1世がアレンジしました。

     

戴冠はエステルゴムの大司教ヤノーシュによって執り行われましたが
代々ハンガリー王妃の戴冠を行ってきたヴェスプレームが黙っちゃいません。

司教ロベルトが教皇インノケンティウス3世にクレームを送りまして
わざわざ特権を認めさせております。

まあ、こういう宗教の特権の所在に関しては度々起こっていた問題だと思いますが
ヨランにはこれしかエピソードが無いので書いときます。

お子さんはアラゴン王ハイメ1世妃になったヨランしかいませんでしたが
暗殺された前妃ゲルトルードが遺した5人のお子様たちとは仲良くやっていたようです。

33歳で亡くなりエグレシのシトー派修道院に葬られました。


疑惑の王子を生んだ妃
アンドラーシュ2世妃 ベアトリックス・エステイ


1215~1245/在位 1234~1235

ベアトリックスはエステ候アルブランディーノ1世の娘ですが
父親は生まれた年に亡くなったため、叔父のアッツォ7世に育てられました。

        

王妃ヨランを亡くしたばかりのアンドラーシュ2世、55歳、まだまだ男盛り!は
エステ家を訪れた時18歳のベアトリックスに恋してしまいました。

アッツォ7世は、持参金無し&ベアトリックスの父親の権利は放棄する、という
かなりの好条件でベアトリックスをアンドラーシュに嫁がせることができました。
( “ 持参金無し ” というのは、嫁に出した実家はシメシメ と思っていても
 出された娘は嫁ぎ先で肩身がせまい思いをしたそうですよ)

ところが、1234年に結婚したふたりの関係はすぐに悪化いたしました。
やっぱ年の差かしらねぇ?

結婚から1年ちょっとしか経っていない1235年にアンドラーシュ2世は亡くなり
最初の妃ゲルトルードの王子ベーラ4世が即位しました。

ベーラ4世は即位するやいなやベアトリックスを追放しようとします。
ベアトリックスも負けじと妊娠を発表しましたが
浮気でできた子どもだと決めつけられ逮捕されそうになりました。
ベアトリックスは神聖ローマ帝国に逃れて、そこで息子のステファンを生みました。

本来ならハンガリーで爵位を手にできるはずのステファンのために
ベアトリックスは奔走します。
まずは叔父アッツォ7世のもとに戻ろうとしましたが断られ
ヴェネチアにハンガリーとの戦争を援助してもらおうと試みますが失敗します。

よっぽど人望が無かったのか、それともちょうど時期が悪かったのか…

しかし後年ステファンはスラヴォニア公イシュトヴァーンになり
その子供がアンドラーシュ3世としてハンガリー王位につくことになります。

果たしてステファンは誰の子なんでしょうね?
本当にアンドラーシュ2世の子だったら、そりゃあ悔しかったろお…
アンドラーシュがせめてあと1年長生きしてくれていたら
ベアトリックスとステファンの人生はまったく違ったものになっていたでしょうね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
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