自らも聖人になりそうだった初代王妃
聖イシュトバーン1世妃 ギーゼラ・バヨロルシャーギ
985頃~1065/在位 1001~1038
久々の王妃シリーズはハンガリーです。
ハンガリー王家は途中からハプスブルク家のものになってそのまま終焉を迎えましたが
けっこう古くからあった王国でした。
他のヨーロッパ諸国同様ローマ帝国の支配を経験し、5世紀にはフン族のアッティラ大王、
7世紀にアヴァール族に支配され、その後はフランク王国の支配下にありました。
897年にマジャール族のアールパード公が征服し、ハンガリーは大公国になりました。
1001年に王国となって、五代目にあたるイシュトヴァーンが初代の王として即位しました。
ギーゼラはバイエルン公ハインリヒ2世の公女です。
ハンガリー大公ゲーザは、西方への足がかりがほしくて公子イシュトヴァーンと
ギーゼラとの縁談を決めました。
ふたりには、少なくとも3人のお子様が生まれています。
ひとりは聖イムレ、王女アガサはエドワード・アジリングの妃になり
その娘がスコットランド王マルカム3世妃聖マーガレットです。
(アガサはキエフ大公ヤロスラフ1世公女説もあります)
聖人目白押しですが、ギーゼラも18世紀に列聖が検討されています。
しかし聖人にはなれませんでした。
ギーゼラは、改宗間もないハンガリーでキリスト教の布教に奔走し
夫イシュトヴァーン同様尊敬を集めていたようです。
しかし王の死後は国から出て行くように強要され、故郷バイエルンに戻りました。
次の王はよその家系ですからね…
影響力のある前王妃がいるのを嫌ったんだと思います。
どこの国も、王国ができたばかりの頃には争いや裏切りが渦巻いていたのですね。
ギーゼラはパッサウの修道院で余生を送り、そこで亡くなりました。
彼女の墓所は聖地となっているそうです。
(参考文献 加藤雅彦氏『ドナウ河紀行』 Wikipedia英語版)
聖イシュトバーン1世妃 ギーゼラ・バヨロルシャーギ
985頃~1065/在位 1001~1038
久々の王妃シリーズはハンガリーです。
ハンガリー王家は途中からハプスブルク家のものになってそのまま終焉を迎えましたが
けっこう古くからあった王国でした。
他のヨーロッパ諸国同様ローマ帝国の支配を経験し、5世紀にはフン族のアッティラ大王、
7世紀にアヴァール族に支配され、その後はフランク王国の支配下にありました。
897年にマジャール族のアールパード公が征服し、ハンガリーは大公国になりました。
1001年に王国となって、五代目にあたるイシュトヴァーンが初代の王として即位しました。
ギーゼラはバイエルン公ハインリヒ2世の公女です。
ハンガリー大公ゲーザは、西方への足がかりがほしくて公子イシュトヴァーンと
ギーゼラとの縁談を決めました。
ふたりには、少なくとも3人のお子様が生まれています。
ひとりは聖イムレ、王女アガサはエドワード・アジリングの妃になり
その娘がスコットランド王マルカム3世妃聖マーガレットです。
(アガサはキエフ大公ヤロスラフ1世公女説もあります)
聖人目白押しですが、ギーゼラも18世紀に列聖が検討されています。
しかし聖人にはなれませんでした。
ギーゼラは、改宗間もないハンガリーでキリスト教の布教に奔走し
夫イシュトヴァーン同様尊敬を集めていたようです。
しかし王の死後は国から出て行くように強要され、故郷バイエルンに戻りました。
次の王はよその家系ですからね…
影響力のある前王妃がいるのを嫌ったんだと思います。
どこの国も、王国ができたばかりの頃には争いや裏切りが渦巻いていたのですね。
ギーゼラはパッサウの修道院で余生を送り、そこで亡くなりました。
彼女の墓所は聖地となっているそうです。
(参考文献 加藤雅彦氏『ドナウ河紀行』 Wikipedia英語版)