
華やかな一家の陰で生きた皇女
フランツ1世皇女 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ
1738~1789
フランツ1世とマリア・テレジアに16人のお子さんが生まれたのは有名なお話し。
皇女は11人で、有名なのはなんと言っても十一女のフランス王ルイ16世妃
マリア・アントニア(マリー・アントワネット)ですよね。
さて、他の皇女の皆さんはどんな人生を送られたんでしょうか?
長女のマリア・エリーザベトは3歳で亡くなっています。
マリア・アンナは次女で、宮廷ではマリアンネと呼ばれていました。

マリアンネはとても知的な女性でした。
でも、詳しいことは不明なんですけど(脊椎カリエス説あり)
身体的にちょっと悪いところがありました。
最初の縁談が破談になってからはお妃候補にあげられることがありませんでした。
皇子誕生を待ち望む中生まれてきた二人目の皇女で、すぐに皇子ヨーゼフ(2世)が生まれ
病弱だったマリア・アンナは、最初から女帝の目をひきませんでした。
加えてマリア・クリスティーナという女帝のお気に入りと
マリア・エリーザベトという各王室で評判になるほどの美しい娘が生まれて
もはやウィーン宮廷にマリアンネの居場所はないようなものでした。
マリアンネの唯一の理解者と思えた父フランツ1世が亡くなると
女帝はプラハに設立した貴族の娘たちのための帝国立修道院の院長に
マリアンネを指名しました。
この地位はマリアンネに80,000フローリンの年収をもたらすことになりました。
しかし荷が重かったか、マリアンネは健康を理由にプラハを訪れることなく
珍しく女帝と大喧嘩をしてまでクラーゲンフルトのエリーザベト修道院の行きを希望します。
エリーザベト修道院は貧しい人々のための修道院で、格も収入も落ちます。
しかし、修道院長クーエンベルク伯夫人はマリアンヌの数少ない親交の相手でした。
女帝はマリアンネが死にかけた時に一度だけ、娘を愛していると言う声明文を出しただけで
マリアンネに必要以上の愛情をかけてはいなかったようでした。
しかし女帝が肺炎になり死を迎えようとしていた時、ずっと看病したのはマリアンネです。
女帝が亡くなると、マリアンネは弟のヨーゼフ2世から修道院行き急き立てられ
クラーゲンフルトへ向かいました。
この時、女帝は遺言でマリアンネへの報酬を一切減らさないように明記しています。
これがなければヨーゼフは年俸を減らしていたはずです。
家具、リネン、ワインなどをヨーゼフからさんざん削られた上で出発したマリアンネは
自ら州知事に質素な出迎えを要請しています。
マリアンネのクラーゲンフルト行きは町に誇りと活気をもたらします。
病院や修道院も改装されました。
また、名を秘して貧しい人や病人に寄付していたそうです。
修道院に入った後も、家族との関係を絶ったわけではなく
特にマリア・エリーザベトとはしばしば仲良くしていたようです。
マリー・アントワネットはヴェルサイユへ向かう途中でこの修道院に立寄り一泊しています。
姉妹で名残惜しい夜を過ごしたことでしょうね。
1789年のナポリの食糧危機では、妹のナポリ王妃マリア・カロリーナとともに
自前で代金を払って穀物を送り出しました。
マリアンネを忌み嫌っていたヨーゼフ2世も、病院の改装などにあたっては
(しぶしぶですが)資金を出しています。
マリアンネは死の直前までクラーゲンフルトがあるケンテルンの人々に謝意を表し
51歳で亡くなりました。
埋葬は質素なものでしたが、かつてないほど人々が嘆いたそうです。
小さな頃から疎まれたり蔑まれたりしているとひねくれてしまうことも多々ありますが
マリアンネの場合は人の痛みがわかる指導者としての性格形成に役立ったようですね。
クラーゲンフルトに移ってからは、奉仕や芸術・学問について語り合える友人ができ
新たに学び始めた考古学についてもアクティブに活動できたりして
宮廷ですごすより、きっと幸せでしたよね?
(参考文献 テア・ライトナー『ハプスブルクの子供たち』)
フランツ1世皇女 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ
1738~1789
フランツ1世とマリア・テレジアに16人のお子さんが生まれたのは有名なお話し。
皇女は11人で、有名なのはなんと言っても十一女のフランス王ルイ16世妃
マリア・アントニア(マリー・アントワネット)ですよね。
さて、他の皇女の皆さんはどんな人生を送られたんでしょうか?
長女のマリア・エリーザベトは3歳で亡くなっています。
マリア・アンナは次女で、宮廷ではマリアンネと呼ばれていました。

マリアンネはとても知的な女性でした。
でも、詳しいことは不明なんですけど(脊椎カリエス説あり)
身体的にちょっと悪いところがありました。
最初の縁談が破談になってからはお妃候補にあげられることがありませんでした。
皇子誕生を待ち望む中生まれてきた二人目の皇女で、すぐに皇子ヨーゼフ(2世)が生まれ
病弱だったマリア・アンナは、最初から女帝の目をひきませんでした。
加えてマリア・クリスティーナという女帝のお気に入りと
マリア・エリーザベトという各王室で評判になるほどの美しい娘が生まれて
もはやウィーン宮廷にマリアンネの居場所はないようなものでした。
マリアンネの唯一の理解者と思えた父フランツ1世が亡くなると
女帝はプラハに設立した貴族の娘たちのための帝国立修道院の院長に
マリアンネを指名しました。
この地位はマリアンネに80,000フローリンの年収をもたらすことになりました。
しかし荷が重かったか、マリアンネは健康を理由にプラハを訪れることなく
珍しく女帝と大喧嘩をしてまでクラーゲンフルトのエリーザベト修道院の行きを希望します。
エリーザベト修道院は貧しい人々のための修道院で、格も収入も落ちます。
しかし、修道院長クーエンベルク伯夫人はマリアンヌの数少ない親交の相手でした。
女帝はマリアンネが死にかけた時に一度だけ、娘を愛していると言う声明文を出しただけで
マリアンネに必要以上の愛情をかけてはいなかったようでした。
しかし女帝が肺炎になり死を迎えようとしていた時、ずっと看病したのはマリアンネです。
女帝が亡くなると、マリアンネは弟のヨーゼフ2世から修道院行き急き立てられ
クラーゲンフルトへ向かいました。
この時、女帝は遺言でマリアンネへの報酬を一切減らさないように明記しています。
これがなければヨーゼフは年俸を減らしていたはずです。
家具、リネン、ワインなどをヨーゼフからさんざん削られた上で出発したマリアンネは
自ら州知事に質素な出迎えを要請しています。
マリアンネのクラーゲンフルト行きは町に誇りと活気をもたらします。
病院や修道院も改装されました。
また、名を秘して貧しい人や病人に寄付していたそうです。
修道院に入った後も、家族との関係を絶ったわけではなく
特にマリア・エリーザベトとはしばしば仲良くしていたようです。
マリー・アントワネットはヴェルサイユへ向かう途中でこの修道院に立寄り一泊しています。
姉妹で名残惜しい夜を過ごしたことでしょうね。
1789年のナポリの食糧危機では、妹のナポリ王妃マリア・カロリーナとともに
自前で代金を払って穀物を送り出しました。
マリアンネを忌み嫌っていたヨーゼフ2世も、病院の改装などにあたっては
(しぶしぶですが)資金を出しています。
マリアンネは死の直前までクラーゲンフルトがあるケンテルンの人々に謝意を表し
51歳で亡くなりました。
埋葬は質素なものでしたが、かつてないほど人々が嘆いたそうです。
小さな頃から疎まれたり蔑まれたりしているとひねくれてしまうことも多々ありますが
マリアンネの場合は人の痛みがわかる指導者としての性格形成に役立ったようですね。
クラーゲンフルトに移ってからは、奉仕や芸術・学問について語り合える友人ができ
新たに学び始めた考古学についてもアクティブに活動できたりして
宮廷ですごすより、きっと幸せでしたよね?
(参考文献 テア・ライトナー『ハプスブルクの子供たち』)
実は私がマリア・テレジアの娘たち(有名なマリー・アントワネットを除いて)一番興味をもったのはこのマリア・アンナでした。
まりっぺさんの言う通り、とても知的な女性だったにも関わらず、病弱だったのと、ある本で読んだのですが、あまり見た目が妹たち(ミミとリースル)と比べるとよくなかったというので、女帝からもあまり愛情を掛けられなかったというので、私はそれまでマリア・テレジアを
文字どおりの国母、良妻賢母として見ていたのでかなり複雑な気持ちになり、マリア・アンナ
に好感をもつようになりました。
皇子誕生が待ち望まれる中で生まれた皇女だったというだけならまだしも、その皇太子ヨーゼフが生まれると今度はその知的なところが疎まれる原因になった、と本で読んだので一体どうしろっていうんだ、と思ってしまいました。
リースルと仲が良かった、とありますが、どうやらそれはリースルが美貌を失ってから共通の敵ミミに対抗する時だけだったようだし(それまではリースルはミミと組んでマリアンネをさんざん馬鹿にしていた)らしいので、どうにも好きになれません。
自分がマリアンネのような状態だったら、絶対ひねくれたまんまで彼女のようにはなれないな、と思います。
クラーゲンフルトに行ってからはいろんなことを語り合える友人もたくさんできたようだし、
マリア・テレジアの娘たちの中では彼女が(恋愛結婚したミミよりも)一番いい人生を送ったのではないか、と私は思います。
その作品内では他にも母親が彼女を邪険に扱う光景を見てそんな母を真似するように姉を馬鹿にする弟妹たちの有様なども取り上げられていて、そんなこんなで家族の中で孤立無援に等しい状態だった彼女がたまたま訪れたクラーゲンフルトの地とエリーザべト修道院で彼女の外見を馬鹿にしない人々に初めて会い、その人々たちとの交流を機に傷ついた心が少しずつ癒されていき…と、短編にしてはなかなか濃い内容の作品でした。
その短編にもあったように母親の生前は確かに不遇の一言に尽きる人生だった模様ですが、クラーゲンフルトに移住してからはケイコ・オカモトさんも書いてらっしゃるようにいい後半生を過ごせたのではと私も思います。
こんばんわ
コメントありがとうございます。
マリア・アンナのソースは、ほぼテア・ライトナーの『ハプスブルクの子供たち』によるものですが、概ねマリア・テレジアやヨーゼフ2世から冷たくされ、妹たちからも見下されたような内容になっていました。
歴史上の人物は著述者の見解によって変えられてしまう傾向もありますから注意しなければなりませんが、私はこのブログを書くうちに、マリア・テレジアやヴィクトリア女王を良妻賢母だと決めつけてしまうことには疑問が生まれてきました。
マリア・テレジアに限って言えば、やはりヨーゼフ2世やミミへの偏愛ぶりが目につきます。
ヨーゼフ2世はあまり高く評価されない傾向がありますが、それもマリア・テレジアに反発したという点が強調されている場合が多いですよね。
果たしてマリア・テレジアが是で、ヨーゼフ2世が否か…というのも見解のわかれるところかもしれません。
後に皇帝になったレオポルト2世がちくちくとマリア・テレジアの贔屓ぶりに触れているのも、兄に較べて自分が蔑ろにされた思いが込められているのかしら…なんて思ったりします。
レオポルト2世はリースルがマリアンネに対して都合のいい時だけ仲良くして、あとは悪口三昧だったことも書き記しています。
さすが名君の誉れ高いレオポルト2世、細かいところに目が届いていますね。
いずれにしても、不幸な少女時代を送ったマリア・アンナの後半の人生は幸せだったんじゃないかと、私も思います。
心を寄せる人もいたようですし、家族という一番うちとけたい人たちから蔑まれることがなくなったんですものね。
私は今、王侯貴族の子女の修道院入り問題に興味があるのですが、マリアンナの件も参考になりました。
今後さらに調べてみたいと思います。
お返事ありがとうございます。
私もテア・ライトナーの本でマリア・アンナの詳しい事を知ったのですが、初めて彼女の事を知ったのは本屋で立ち読みした漫画でした。
立ち読みしたので内容だけしか覚えていなかったのですが、Hopeさんのコメントにある短編漫画をまとめたものだったのではないかと思います。
その中でまだ幼いマリー・アントワネットが母やミミとリースルの真似をして、マリアンネを馬鹿にしているような場面があったのですが、
実際の彼女はミミとそんなに仲が良くない感じだし、まりっぺさんの言うとおり著述者によってその人の印象が変わるものだから、事実はどうだったのかと思います。
マリー・アントワネットは軽率な行動ばかり強調され、それで革命で処刑されて当然と片付けられがちだけど、もちろん彼女にもいいところはあるわけで、いずれにしても歴史上の人物を一つの言葉で決めつけてしまうのは危険だな、
と思います。
送信していました。
(慌て者でごめんなさい)
ケイコ・オカモトさんだと思ってましたよ。
いつもていねいなコメントありがとうございます。
歴史上の人物に対する評価やエピソードは刻々と変わっていっているようなので、なるべく多くの文献を参考にできればいいんですけど、ついつい怠け癖が…
また気がついたことがあったら教えてくださいね。
ミミとは、それ以上に悪く、ミミは母のお気に入りであったため、母は、ミミのマリアンネに対するあること無いことを告げ口ばかりしていて、ますます母との溝が深まるばかりだったらしいですね…
ヨーゼフとも、もともと仲は良くなかったですが、イザベルが嫁いで来ると、マリアンネは、この美しく、上品で、教養豊かで、誰からも好かれる気質、つまり、自身が欲しがる全てを兼ね備えた義妹に嫉妬し、心の支えだった父も、イザベラが気に入り、イザベラを嫌悪したため、ヨーゼフと険悪に、父とも、彼女が亡くなる迄、仲が悪くなってしまい、ますます辛い立場に追いやられてしまったらしいですね。可哀想…だけども、辛い思いをしてきたマリアンネには、人の痛みを理解できる優しい心を持つようになり、弟ヨーゼフや妹アマーリエとのことで怒る母を宥め、とりわけ仲の良かったアマーリエに関しては、何とか仲を取り持とうとしたらしいですが、二人とも頑な(つまり、そういうとこは、似ていたわけで…(汗)だったので、上手くいかず、母とアマーリエの仲をさらに拗らせようとしたとされるミミを叱咤したらしいですね。マリアンネのこういう所は、やはり、長女、だと思いますね。
母が床についた際には、マリアンネがつきっきりで看病したのを、母は感動したらしいですが…あれほどに贔屓されまくったミミは、母の看病をしなかったのでしょうか?まさか、ミミは、母が余命幾何も無いことを悟ると、これ以上、母におねだりできない、と去ったとか?
母は、死ぬ間際には、きちんとマリアンネの事を気遣ってくれて、マリアンネは、嬉しかったでしょうね。晩年は、心の友に恵まれ、静かに亡くなったそうですね。兄弟姉妹の中では、幸せな晩年でしたね。