影うす~い一人目の妃
ボレスワフ3世妃 ズビシュワヴァ・キョヴスカ
1085~1114/在位 1107~1114
ブワディスワフ1世のあとを継いだボレスワフ3世には
父王の一人目の妃とも愛妾ともいわれるプレゼクラヴァが生んだ異母兄ズビクニェフがいて
案の定、君主の座をめぐって争っておりました。
ズビクニェフのバックには神聖ローマ帝国がついてましたので
ボレスワフはキエフ&ハンガリーと手を組もうと考えまして同盟を結びました。
その際にキエフ大公スヴャトポルク2世の王女ズビシュワヴァと婚約し
1102年に結婚しました。
この方のエピソードといったら、王子ブワディスワフ(2世)を生んだことだけで
没年もはっきりしておりません。
ボレスワフが1115年に再婚しているので、1114年までに亡くなったと言われております。
がっかりしないで… 次の妃はパワフルですので。
子どものために(?)大奔走
ボレスワフ3世妃 シャロメア・ベルギェウ
1093~1144/在位 1115~1138
ボレスワフ3世の二人目の妃シャロメアはベルク伯ハインリヒの娘です。
母はフォーブルク辺境伯ディエポルド3世の姉か妹、あるいは
ハンガリー王シャロモンとユディタの王女ソフィアの孫と言われています。
ただこの説は否定的に考えられているそうです。
シャロメアの妹リキサがボヘミアのブラディスラフ1世と結婚してまして
ポメラニアまで領土を広げていたボレスワフがボヘミアと関係を築きたくて協定を結び
シャロメアとの再婚が決まりました。
前妃ズビシュワヴァは王子一人と王女一人を生んでましたが
シャロメアは13人のお子様を生みました。
前妃の子どもを可愛がったかどうかは不明だけど
人が生んだ子なんかかまってられないわよ! といったところじゃないかしら?
しかもシャロメアは子どもを育てるだけじゃなく
子どもたちの代理となってがんがん政治に介入しようとしました。
つまり、相続原理に従って前妃が生んだブワディスワフが王に就いて
我が子たちがそのおこぼれにあずかるなんて堪えられない!! ってことです。
シャロメアは力のあった宮中伯を辞職させ
反ブワディスワフ派のプファルツ伯を後がまに据えたりしています。
そんなことを許すなんて、ボレスワフはシャロメアの言いなりだったのかしら?
シャロメアの意志を尊重してか、自分の死後国をブワディスワフ一人に譲らず
子どもたちに分割して与えるようにしています。
各君主領土を拡大して自分の勢力を強めようと血眼になっているこの時期
ものすごーく浅はかな決断としか思えません。
シャロメアにも再婚しない、修道院に入らないという条件で領土が与えられました。
しかし、ちっぽけな領土では満足いかなかったとみえて
一応君主の座についたブワディスワフへの反抗を続けます。
味方を得るために、ブワディスワフへの相談は一切無しで
娘をキエフ大公フセヴォロド2世の王子スヴャトスラフと結婚させようとしました。
王家の結婚は政略ですからね… 君主を無視するとはけしからんことですよ。
ブワディスワフは速攻でキエフに働きかけ、この縁談は破談になりました。
代わりにブワディスワフの王子ボレスワフとフセヴォロド2世の王女が結婚しました。
野望は叶わないまま、シャロメアは1144年に領地で亡くなりましたが
その後彼女の王子ボレスワフが巻き返し、1146年に君主の座を手に入れます。
なんと! この時ボレスワフが手を組んだのは、シャロメアが追い出した宮中伯でした。
母親の頑固な意志を受け継いで立派に育ちましたね… と褒めるべきか…
その後二人の王子も君主になっております。
シャロメアのDNAを受け継いだ王子たち…
実の兄弟でありながらドロドロしそうな兆しですね。
(参考文献 Wikipedia英語版)
ひとことK-POPコーナー
かわいらしいイメージも良かったのですけども、B.A.Pがワイルドになって帰ってきてくれてちょっと嬉しいよ
ヒムチャンが早くよくなるといいですね
ボレスワフ3世妃 ズビシュワヴァ・キョヴスカ
1085~1114/在位 1107~1114
ブワディスワフ1世のあとを継いだボレスワフ3世には
父王の一人目の妃とも愛妾ともいわれるプレゼクラヴァが生んだ異母兄ズビクニェフがいて
案の定、君主の座をめぐって争っておりました。
ズビクニェフのバックには神聖ローマ帝国がついてましたので
ボレスワフはキエフ&ハンガリーと手を組もうと考えまして同盟を結びました。
その際にキエフ大公スヴャトポルク2世の王女ズビシュワヴァと婚約し
1102年に結婚しました。
この方のエピソードといったら、王子ブワディスワフ(2世)を生んだことだけで
没年もはっきりしておりません。
ボレスワフが1115年に再婚しているので、1114年までに亡くなったと言われております。
がっかりしないで… 次の妃はパワフルですので。
子どものために(?)大奔走
ボレスワフ3世妃 シャロメア・ベルギェウ
1093~1144/在位 1115~1138
ボレスワフ3世の二人目の妃シャロメアはベルク伯ハインリヒの娘です。
母はフォーブルク辺境伯ディエポルド3世の姉か妹、あるいは
ハンガリー王シャロモンとユディタの王女ソフィアの孫と言われています。
ただこの説は否定的に考えられているそうです。
シャロメアの妹リキサがボヘミアのブラディスラフ1世と結婚してまして
ポメラニアまで領土を広げていたボレスワフがボヘミアと関係を築きたくて協定を結び
シャロメアとの再婚が決まりました。
前妃ズビシュワヴァは王子一人と王女一人を生んでましたが
シャロメアは13人のお子様を生みました。
前妃の子どもを可愛がったかどうかは不明だけど
人が生んだ子なんかかまってられないわよ! といったところじゃないかしら?
しかもシャロメアは子どもを育てるだけじゃなく
子どもたちの代理となってがんがん政治に介入しようとしました。
つまり、相続原理に従って前妃が生んだブワディスワフが王に就いて
我が子たちがそのおこぼれにあずかるなんて堪えられない!! ってことです。
シャロメアは力のあった宮中伯を辞職させ
反ブワディスワフ派のプファルツ伯を後がまに据えたりしています。
そんなことを許すなんて、ボレスワフはシャロメアの言いなりだったのかしら?
シャロメアの意志を尊重してか、自分の死後国をブワディスワフ一人に譲らず
子どもたちに分割して与えるようにしています。
各君主領土を拡大して自分の勢力を強めようと血眼になっているこの時期
ものすごーく浅はかな決断としか思えません。
シャロメアにも再婚しない、修道院に入らないという条件で領土が与えられました。
しかし、ちっぽけな領土では満足いかなかったとみえて
一応君主の座についたブワディスワフへの反抗を続けます。
味方を得るために、ブワディスワフへの相談は一切無しで
娘をキエフ大公フセヴォロド2世の王子スヴャトスラフと結婚させようとしました。
王家の結婚は政略ですからね… 君主を無視するとはけしからんことですよ。
ブワディスワフは速攻でキエフに働きかけ、この縁談は破談になりました。
代わりにブワディスワフの王子ボレスワフとフセヴォロド2世の王女が結婚しました。
野望は叶わないまま、シャロメアは1144年に領地で亡くなりましたが
その後彼女の王子ボレスワフが巻き返し、1146年に君主の座を手に入れます。
なんと! この時ボレスワフが手を組んだのは、シャロメアが追い出した宮中伯でした。
母親の頑固な意志を受け継いで立派に育ちましたね… と褒めるべきか…
その後二人の王子も君主になっております。
シャロメアのDNAを受け継いだ王子たち…
実の兄弟でありながらドロドロしそうな兆しですね。
(参考文献 Wikipedia英語版)
ひとことK-POPコーナー
かわいらしいイメージも良かったのですけども、B.A.Pがワイルドになって帰ってきてくれてちょっと嬉しいよ
ヒムチャンが早くよくなるといいですね
神聖ローマ帝国の官職名って東欧方面多いですね^^;
ますますコンガラガリます><
コンクラーベ始まりましたね~^^
日本ではほとんどニュースにならないので
私はBSの海外のニュースを見たりしてます^^;
たぶん我が子を王にしたかった後妻王妃は多かったと思いますが、中世初期は王になれないと“ どんな仕打ち ” にあうかわからないと思うと、我が子を王にしたい気持は切実だったでしょうね?
エリア55さま、こんばんわ
プファルツ伯ってもとはドイツの官職だったみたいですが、後年はプファッルツ伯っていう地位があったと記憶しているんですが… 今度調べてみます。
コンクラーベ、だんだんニュースでとりあげられるようになりましたね。
だんなさんが「なかなか決まらないからコンクラーベだ」と消耗なダジャレをとばしております
ズビシュワヴァ・キョヴスカ妃の肖像画ですが、google.pl (グーグルポーランド)で、
Zbysława kijowska と検索語を入れて、画像のところを押すと、一番最初に出て来ますよ~。
またどこかのページでおじゃましますね!
こんばんわ
コメントありがとうございます。
さっそく探してみたらありました。
ありがとうごさいます。
そんなわけで今から差し替えますね