goo blog サービス終了のお知らせ 

まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

フランス王ルイ11世妃 マルグリート

2009-02-28 21:45:11 | フランス王妃・王女
可愛いだけじゃだめでした
ルイ11世妃 マルグリート・デコッセ


1424~1445/在位せず

まだまだイングランドとは不穏なフランスは、挟み込んでしまいましょうと
スコットランドのジェイムズ1世から皇太子ルイの妃を迎えました。

      

12歳で嫁いできたマルグリートはとても可憐で美しく、その上優雅で
父王シャルル7世の大のお気に入りになり、臣下の評判も上々でした。
しかしまだまだ子供っぽく、恋愛などに興味津々で、ポエムなどを書く少女に過ぎず
(だって12歳だもの)自分では疎外感を感じていたようです。

そんなマルグリートとルイの夫婦仲は最悪でしたが、その大きな要因のひとつは
ルイと父王が喧嘩を始めると、しばしばマルグリートが王の味方をすること…
うーん 子供の喧嘩ですね。
ルイもマルグリートのひとつ年上の十代まっただ中、反抗期ですかね。

思えばいくら広いとはいえ、宮廷内には父母、祖父母のみならず
叔父だ叔母だ、従兄弟だ従姉妹だ小姑だ…と一族郎党がいるわけで
そんなところへ外国からやてきて、誰を頼りにすればいいのか迷いますよね。
現代ならまだお母さんにご飯作ってもらってる年齢ですからねぇ。

不幸な結婚によってマルグリートは鬱症状に陥り、自分に対するゴシップは
夫ルイの仲間に流されていると思い込むようになりました。
(ちなみにそのゴシップとは、詩人を集めて不貞をはたらいているとか
 子供が欲しくないのでコルセットで締め付けているとか…)
身も心もボロボロになったマルグリートは、21歳の時、出産で亡くなりました。

最後の言葉は「あぁ、人生なんて! その話しはしないで」ですって。




             
ひたすら待つ女
ルイ11世妃 シャルロット・ド・サヴォワ


1443~1483/在位 1461~1483

ルイはマルグリートの死から6年後、8歳のシャルロットと再婚します。
8歳・・・だんだん驚かなくなってきました
で、シャルロットは15歳の時第一子を生んでますが、それも驚かなくなりました。

      

なんだか分からんが、シャルロットはいろいろな美徳を備えていたようなのです。
でもルイは彼女にかまわずほったらかし状態。
驚くべきは、1461年にルイが王に即位すると
シャルロットは即座にブルゴーニュへ追っ払われてしまったということです。
しかもなんの手当も与えず、シャルロットはブルゴーニュ公妃イザベラの助けがなければ
暮らしていけないような有様でした。
王妃が一領主の庇護を受けるなんて…

不思議なのはその後も5人ばかり子供が生まれているんですよねぇ。
気が向いたら行って…ってことですかね? 
女嫌いかと思ったら愛人も何人かいるのよね。 ふざけた野郎だぜ

ルイ11世は名君の部類に入るそうで、百年戦争で荒廃したフランスを立て直したそうですし
「最もキリスト教的な王」と言われるほど敬虔に教えを守ったそうですが
偏屈で陰険だったらしいです。

人里離れた地方で寂しい人生を送っていたシャルロットは
ルイ11世の死から4ヶ月後、アンボワーズで亡くなりました。
王がやって来るのをひたすら待つだけの短い人生…羨ましくないですね。

(参考文献 柴田三千雄『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王シャルル7世妃 マリー

2009-02-28 21:44:55 | フランス王妃・王女
家族ぐるみで王に貢いだ
シャルル7世妃 マリー・ダンジュー


1404~1463/在位 1422~1461

シャルル7世と王妃マリーは共に
ジャン2世とポンヌ・ド・リュクサンブールの血を引いています。

      

1422年にマリーと結婚する2ヶ月前、シャルルは王の宣言をしましたが
0歳のイングランド王ヘンリー6世(の摂政)が正式な後継者として
王を宣言していました。
シャルルを王と認めたのはアルマニャック派だけでした。

2人が戴冠をするのは1429年、ジャンヌ・ダルクの活躍により
オルレアンを取り戻してからになります。

シャルル7世は、イングランドを撃退し完全に王権を取り戻すために
マリーの実家アンジュー家、中でも母ヨランダ・ダラゴンから莫大な援助を受け
1453年、やっと百年戦争を終結させました。

それなのに! そんなに世話になっておきながら!
シャルル7世は、1440年頃から愛妾アニェス・ソレルに入れあげるようになります。
彼女は王を尻にしき、派手好きで宮廷を華美にし、女王のように振る舞ったとかで
息子ルイ(後の11世)は公然と父王に反抗するようになります。

1450年にアニェスが毒殺された時にはルイも疑われたりしたようですが真相は不明です。
でもマリーは犯人にお礼が言いたいくらいだったでしょうね。

マリーは王の死後2年たった1463年に亡くなりました。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王シャルル6世妃 イザボー

2009-02-28 10:31:25 | フランス王妃・王女
軽佻浮薄? 権謀術数?
シャルル6世妃 イザボー・ド・バヴィエール


1370~1435/在位 1385~1422

稀代の淫蕩ぶりと放蕩三昧ぶりが取り沙汰され悪評名高いイザボーは
15歳の時2歳年上のシャルル6世と結婚しました。

どうしていきなりドイツ方面から王妃を? と思ったのですけど
ルクセンブルク家とかハプスブルク家への牽制でしょうかね?

2人の結婚生活は平穏無事に過ぎていったようですが
1392年頃からシャルル6世がしばしば発狂するようになり
“ 狂気王 ” といわれるようになってしまいます。
王は母ジャンヌ・ド・ブルボンからブルボン家の呪われた血を引き継いでいました。

王の摂政の座を巡ってアルマニャック派とブルゴーニュ派が
内戦を繰り広げるようになりますが、イザボーの悪評はここから始まります。

まずはアルマニャック派の王弟オルレアン公ルイと関係を持ち始めます。
オルレアン公は1407年、ブルゴーニュ公ジャンの家臣に暗殺されますが
イザボーが生んだ12人の子供のうち8人は、王が発病した1392年から
オルレアン公が亡くなった1407年までに生まれています。 あやし~ね

シャルル6世は、発病(分裂症らしい)していないと、まったく普通の人でしたが
発病するとイザボーが誰だか分からない上に怯えだすということで
愛人をあてがいましょう、ということになりました。
オデットという女性が1405年頃からお相手を務めています。

気を悪くしたのかどうだか分かりませんが、イザボーは王に変わって、というか
王よりしゃしゃり出てヴァロア家の結束を固めようとしますが、
アルマニャック伯(彼とも噂があります)にパリから追放され
その腹いせかブルゴーニュ公ジャンと関係を持ち始めます。

       

なんで身内ばっかり? 自分の魅力でヴァロア家をまとめようとしたのでしょうか?
だとしたら、彼女も必死で闘っていたことになりますが。

彼女のお騒がせは留まるところを知らず、1420年、イングランドとトロワ条約を結んだ際
王太子シャルルが王の子ではないという噂を否定しなかったためシャルルは後継者から外され
王は娘カトリーヌの婿イングランド王ヘンリー5世を後継者に指名してしまいます。

また、放蕩に耽り、子供たちは食べる物が無く修道院に庇護を求めたことさえ
あったと言われています。(それも1度じゃないの!)

1422年に王が亡くなると、ヘンリー5世が王と宣言した統制下に居座り
こりもせず政治に影響を及ぼしたといいますが
同じ頃王位を主張して戦っていた息子シャルル(7世)のことはどう思っていたのでしょう?
父親は誰にせよ、母親はイザボーだろうに。

1435年イザボーがパリで亡くなると、待ってましたとばかりに
シャルル7世(及びアルマニャック派)とブルゴーニュ派は和解しましたとさ
めでたしめでたし。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王シャルル5世妃 ジャンヌ

2009-02-25 07:52:50 | フランス王妃・王女
呪われた血筋を持つ
シャルル5世妃 ジャンヌ・ド・ブルボン


1338~1378/在位 1364~1378

シャルル5世は、皇太子時代の12歳の時、同じ年のジャンヌと結婚します。

“ 賢明王 ” といわれるシャルル5世は、見た目は小さな頃煩った病のせいで
決して “ 見目麗しい ” 王ではありませんでしたが、財政や経済に通じていて
まれに見る知能の持ち主だったと言われています。

一方、ジャンヌはブルボン家の出身ですが、祖父の初代ブルボン公ルイ1世
父のピエール1世、兄のルイ2世などは、なんらかの精神疾患を持っていて
ジャンヌもその不幸な血を受け継いでいたと思われます。

      

ジャンヌの精神疾患は7人目の子が生まれた頃からその兆候が強くなりました。
9人の子供が生まれましたが、その中の7人が10歳になるまでに夭折し
成人したのは後のシャルル6世とオルレアン公ルイだけでした。

不幸なことに、シャルル6世はジャンヌから呪わしい血を受け継いでしまい
“ 狂気王 ” といわれた彼のもと、フランスは内戦に陥ります。

ジャンヌは9人目の子、王女カトリーヌを出産した時に亡くなりました。
実は陣痛の最中に風呂に入りたいと言いだし、医者の忠告も聞かず
こっそり入浴したことが原因でした。
その直後カトリーヌは無事生まれたものの、ジャンヌは命を落とします。

シャルル5世はこの知らせを聞くと大変な打撃を受け、2年後に亡くなるまで
完全に回復することはありませんでした。

ジャンヌの精神疾患がどの程度のものかは分かりませんが、非道な王が多い中
愛を注いでくれた王が側にいる幸せを理解することはできたのでしょうか?
理解できていたらいいなぁ… 
残されている銅像などは2人の仲睦まじさが表れているように見えるんですけど。

              

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王ジャン2世妃 ボンヌ

2009-02-24 01:07:57 | フランス王妃・王女
               肖像画は2人目の妃 ジャンヌ1世

芸術のパトロン
ジャン2世妃 ボンヌ・ド・リュクサンブール


1315~1349/在位せず

“ 善良王 ” といわれるジャンの最初の妃ボンヌは
シャルル4世妃マリー・ド・リュクサンブールの姪にあたります。
本名はユッタでしたが結婚の時にボンヌに改名しています。

後は…芸術が大好きで特にギョーム・ド・マシューを愛好していたということしか…

ジャンが即位する前年、ペストで亡くなっています。

       



正義漢の妻も楽じゃない・・・
ジャン2世妃 ジャンヌ1世・ドーベルニュ


1326~1360/在位 1350~1360

ボナが亡くなるとすぐ、ジャンはオーベルニュ女伯ジャンヌ1世と再婚します。
ジャンヌ1世は12歳の時、ブルゴーニュ公フィリプと結婚しましたが
20歳の時死別していて、23歳で王太子妃となりました。

1350年ジャン2世が即位しジャンヌは王妃となりましたが、結婚から6年後
ジャン2世はポワティエの戦いで大敗し、イングランドの捕虜になってしまいます。

父王エドワード3世同様騎士道精神溢れるエドワード黒太子は
囚われのフランス王を厚遇し、決して粗末に扱わなかったといわれています。
ジャン2世も捕虜生活をエンジョイしてたなんて言われたりして…

身代金300万クラウンをつくるため、息子のルイを身代わりの人質に残して
フランスに帰った時のことです。
ルイは父王同様手厚くもてなされていましたが、それを逆手に取り
易々とイングランドから逃れて来ました。
それを知ったジャン2世は激怒し、自らイングランドに渡り捕虜の身に逆戻り。
正義漢というか、バカ正直というか…

イングランドで何かいいことでもあったのかしら?
ジャン2世は1364年にロンドンで亡くなりました。

ジャンヌがイングランドを訪ねたかどうかは分からないのですが
たぶん訪れてないんじゃないかと…戦時中だし。
後半ほとんどおいてけぼり状態、善良な人も時として困り者ですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王フィリプ6世妃 ジャンヌ

2009-02-23 21:56:10 | フランス王妃・王女
才知も評価されず
フィリプ6世妃 ジャンヌ・ド・ブルゴーニュ


1293~1348/在位 1328~1348

ヴァロア家初の王になったフィリプ6世は、フィリプ3世の男系の孫だったため
王位を継承しました。

メーヌ公時代の1313年にブルゴーニュ公女ジャンヌと結婚していました。

        

ジャンヌの姉はルイ10世妃マルグリートですが、姉が不幸な最後を遂げたのに対し
彼女は王を尻にしいた王妃と巷間で噂されていたようです。

知的で意志の強いジャンヌは、後年百年戦争で飛び回る王の摂政として
充分力を発揮しましたが、なんでも政務にうちこむあまり恐ろしい顔つきになり
悪魔のように見えたとまで言われる始末、評判は芳しくありませんでした。

高貴な女性は美しく上品であれば良い、という時代ですが
それだけしかない女性が不幸な目に遭っている例はいくらでもあります。
髪を振り乱して仕事に没頭する女性、結構じゃないですか!
でもフランス的審美眼でいうと、そういう女性は粋じゃないのかもね。

史家の中には「彼女はまるで女王のように振る舞い
彼女に反する者は破滅に追いやられた」と記している人もいます。
中世には多かれ少なかれ誰でもやっていたことだと思いますけど…

ジャンヌは自分がそうであったように、学識がある女性や読書家に寛大で
息子ジャンにも写本をさせたり翻訳をさせるなどさせていました。
(だから戦争弱くなっちゃった?)

55歳の時、フランスで猛威をふるった黒死病(ペスト)で亡くなりました。

家庭内に限って考えれば、多少威圧的ではあっても夫の留守を守り
教育熱心な良妻賢母な女性なんですけどねぇ
いったい何が女性の評価を決めるのか? 分からないものです。



パワフルな前妻がいたので…地味です
フィリプ6世妃 ブランシュ・ド・ナヴァル


1331~1391/在位 1350

フィリプ6世はジャンヌの死から2年、57歳で19歳のブランシュと再婚します。
もう跡取りがいるからいいじゃない というのは庶民が考えることで
政治的に老体に鞭打つ必要もあったのかもしれませんね。
中には自らすすんで再婚する王もいたかもしれませんが…

ブランシュの母方の祖父はルイ10世です。
ヴァロア家も、カペー家が王家になってまずそうしたように
王家の土台を強固なものにする必要があったのかもしれません。

      

結婚から8ヶ月後フィリプが亡くなりました。
ブランシュは妊娠中で後に王女ジャンヌが生まれました。
ジャンヌは20歳の時アラゴン王ファン1世と結婚するためにパリを発ちますが
アラゴンに到着する前に亡くなってしまいました。

ブランシュは錬金術に凝りだし、宮廷内にいくつも実験室を造ってしまったということですが
何かに打ち込まなきゃやってられないですよねぇ。
どうして再婚しなかったんでしょう?
そういえば、王の死後再婚するフランス王妃って少ない気がします。

ちなみに、百年戦争勃発の原因は “フランスの女豹 ” ことイザベルを母に持つ
イングランド王エドワード3世が、1339年、王位継承権を主張して
フランスに進軍したことに始まります。
もしや、イザベルは息子にフランス王位を継がしたいために、ルイ10世、フィリプ5世、
シャルル4世という兄弟の妃を告発したんじゃ…?という穿った見方もできますね。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王シャルル4世妃 ブランシュ

2009-02-21 12:48:42 | フランス王妃・王女
                肖像画は2人目の妃マリー

姉とともに捕えられ・・・
シャルル4世妃 ブランシュ・ド・ブルゴーニュ


1296~1326/在位 1322

兄王ルイ10世、フィリプ5世に嫡子がいなかったため王位についたシャルル4世は
フランスでは “ 美男王 ” と言われていてハンサムを想像させますが
同様に統治していたナヴァールでは “ 禿頭王” …つまりハゲ頭と呼ばれてたらしいです。 
ナヴァールにしてみれば占領されたようなものだから、少しは恨みつらみも…ね。
後年ルイ14世とかが被っていたようなカツラは、まだなかったのでしょうか?

      

ブランシュはフィリプ5世妃ジャンヌ同様、エドワード2世妃イザベルの告発によって捕えられ
姉ジャンヌが釈放され、ルイ10世妃マルグリートが死亡した後も
ひとり残されたまま1322年まで牢獄の中で暮らします。
心細かったでしょうね? 自分はどうなるのか…恐ろしさもあったでしょう。

夫シャルルが4世として即位すると、教皇ヨハネス22世が2人の離婚を認め
ブランシュは晴れて釈放されました。
その後は修道院で過ごし、30歳で亡くなりました。

12歳で結婚し、18歳から26歳までが投獄生活、哀れですね
まだ殺されなかっただけいいのかもしれないけど…

いったい女性の一生をなんと考えていたのでしょうね?
庶民の女性の生活も決して楽なものじゃなかったと思いますが
いくら裕福でも完全に “ 持ち駒 ” として右に左に動かされる人生なんて。
この時代の女性の扱いはひどいもんだと怒らずにはいられないです。



なんで馬車なんかに…?
シャルル4世妃 マリー・ド・リュクサンブール


1304~1324/1322~1324

シャルル4世はブランシュと離婚するやいなや、as soon as マリーと再婚します。

マリーの生家ルクセンブルク家はフランスの一領主で
マリーの父ハインリヒもリュクサンブール伯ヘンリだったのですけれど
1804年、ドイツ諸公家に推挙されて神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世に即位しました。

      

ドイツはナッソウ家、ヴィッテルスバハ家、ホーエンシュタウフェン家
ハプスブルク家などがお互いを牽制しつつ、皇帝の権力の弱体化を狙って
ハインリヒ7世を推したのですが、フランスとしては黙ってられませんね。

思えばノルマン家がイングランド王になったために双方の国土の取り合いは
激化していくばかりです。
リュクサンブール家は押さえ込んでおかなければ…かどうかは分かりませんが
ともかく、シャルル4世は皇女マリーと結婚しました。

結婚後まもなくマリーは妊娠しましたが、馬車に乗っている時事故にあい
深刻な状態に陥ります。
回復しないまま王子ルイを早産しましたが、ルイは数時間後に亡くなり
マリーも数日後に亡くなりました。 19歳でした。



お家断絶の憂き目にあった王妃
シャルル4世妃 ジャンヌ・デヴルー


1310~1371/在位 1325~1328

3人目の妃ジャンヌはシャルル4世の従妹にあたるため
教皇からの特免状をもらって結婚しました。

       

ジャンヌが王子を生まないとカペー家の直系は途絶えてしまうため
14歳の彼女の肩には背負いきれないほどの重責だったことでしょう。
たて続けに王女が生まれましたが、1328年にシャルル4世が逝去
王位はカペー家からヴァロア家にうつります。

自分ひとりのせいでないとはいえ、周りの目は厳しかったはず
つらかったでしょうねぇ。
18歳で未亡人になったシャンヌは再婚はせず宗教生活に入ります。
61歳で亡くなりました。

ちなみに次王ヴァロア家のフィリプ6世妃ブランシュはジャンヌの姪
フィリプ6世の息子オルレアン公フィリプの妃はジャンヌの娘でした。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王フィリプ5世妃 ジャンヌ2世

2009-02-21 00:12:05 | フランス王妃・王女
スキャンダルをのりこえた王妃
フィリプ5世妃 ジャンヌ2世・ド・ブルゴーニュ


1292~1330/在位 1316~1322

フィリプがまだ摂政時代に結婚したジャンヌは
ブルゴーニュ伯オットー4世とアルトワ女伯マオーの女相続人で
両親に男子が生まれなければ、ゆくゆくは2つの伯領を継ぐ女性でした。

       

15歳の時フィリプと結婚したジャンヌは1314年、エドワード2世妃イザベルの告発によって
当時の王妃マルグリート・ド・ブルゴーニュとともに投獄されました。
同時に妹のブランシュも捕えられ、こちらは離婚されていますが
ジャンヌは終始一貫して無実を訴え続け、夫フィリプも彼女を擁護しました。

当時一大スキャンダルとなり舅のフィリプ4世はそのせいで命を縮めたとまで言われた事件
よく強い気持ちで戦い通せたものです。
とうとう議会で無実が承認され宮廷に戻ったジャンヌは
1316年、一転して王妃の座につくことに…人生ってわかりませんね。

フィリプ5世とジャンヌの間には7人の子供が生まれましたが、4人が夭折し
生き残ったのは3人の王女たちでした。
よってフィリプ5世は手に入れた王位を子供に継がせることはできませんでした。

ルイ10世の王女ジャンヌをサリカ法で撃退した人ですからねぇ…
(*サリカ法…ひらたくいうと「女性は王位を継げません」という法律です)

1322年にフィリプ5世が亡くなると、ジャンヌは自分の領地のひとつ
アルトワに引き下がり静かに暮らしたそうです。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王ルイ10世妃 クレマンス

2009-02-18 21:43:19 | フランス王妃・王女
幸せは続かず・・・
ルイ10世妃 クレマンス・ド・オングリー


1293~1328/在位 1315~1316

マルグリートの死後5日でルイ10世が再婚した相手のクレマンスは
ヴァロア王家の初代王フィリプ6世の従妹にあたります。
父親のカルロ・マッテロはハンガリーで摂政を務め
クレマンスの兄カーロイ1世によって、アンジュー家はハンガリー王位についていました。

      

ナヴァールを手に入れたカペー家は、ハンガリーも! と思ったのでしょうか?
当時のアンジュー家はルイ8世から出ているカペー家の傍系です。
手を拡げようと考えたとしてもおかしくないですね。
それでクレマンスと結婚するためにマルグリートを…?

王妃になったからといって安穏にしていてはいけませんね。
周りの政治情勢や国力のバランスなどを注視していないと足下をすくわれます。
王を上手くコントロールしておかなければ、不要になったら抹殺…
容姿や家柄はさることながら、聡明さが求められる地位なのかもしれません。

さて、ルイ10世とクレマンスの新婚生活ですが
結婚から10ヶ月後の1316年6月、ルイ10世が急逝します。
テニスの試合中冷たい水をゴクゴク飲んだ後苦しみだしたということで
毒殺説もありましたが、赤痢だったみたいです。

当時クレマンスは身ごもっていました。
ルイ10世の弟で摂政フィリプ(後の5世)は
前妻マルグリートとの間に生まれたジャンヌを即位しようという動きにサリカ法で対抗し
11月にクレマンスが生んだジャン王子がジャン1世として即位します。
ところが!0歳の王ジャン1世は生後6日で亡くなってしましました。

その後王になったフィリプ5世は、ジャン1世を死んだ赤ちゃんととりかえて
王位を奪ったという噂が流れ、30年後には自分がジャン1世だと名乗る者も
現れましたが(もちろんすぐ処刑)定かではありません。

             
                 ジャン1世です。
                あどけなさが見てとれますね…地蔵みたい


クレマンスはジャン1世が亡くなるとパリを去り
アヴィニヨンやプロヴァンスで隠遁生活を送った後35歳でなくなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王ルイ10世妃 マルグリート

2009-02-18 21:43:01 | フランス王妃・王女
奸策か? 真実か?
ルイ10世妃 マルグリート・ド・ブルゴーニュ


1290~1315/在位 1314~1315

マルグリートの人生は物語にもなっているそうですけど、それもそのはず
ひどい話しでございます。

マルグリートは15歳の時、王太子だった親戚(従甥らしいです)のルイと結婚します。
彼女の母はルイ9世の娘アニェスで、例によって親族で結束を固め
権力拡大を狙う政略結婚でした。

     

1314年、ルイが王に即位しマルグリートも王妃になりますが
しばらくするとルイ10世の妹であるイザベルが、王妃の不貞を目撃したと申し立て
マルグリートは投獄されてしまいました。

さて、このイザベルですが、イングランド王エドワード2世妃で
“ フランスの女豹 ” と言われる女傑です。
彼女は既にイングランドに嫁いでいたはずですが
夫エドワード2世を倒す機会をうかがうため
愛人マーチ伯とフランスで待機していた頃の話しでしょうか?
自分は愛人連れて来といて何言っちゃてんのかしら ? イザベル。

投獄から2年近くたった1315年8月14日、マルグリートは獄中で亡くなりました。
夫ルイ10世の命令によって絞殺されたという噂がもっぱらでした。
なぜなら、ルイ10世はマルグリートの死後5日で再婚したからです。
もしかするとイザベルは兄ルイ10世の奸策に協力したのかもしれませんね。

しかしマルグリートにも悪い噂がないわけではなく
ルイ10世との間に生まれたジャンヌ(後のナヴァール女王ファナ2世)も
誰の子だか分からないと言われたりしているのでね…
結局ジャンヌは父方は疑わしいけど、母方からは確実にルイ9世の血を
引いているということでナヴァール女王に即位しました。

ちなみに、同じくイザベルの告発で捕えられたフィリプ5世妃ジャンヌは
無実を訴え続け潔白だということで釈放されています。

(参考文献 wikipedia英語版)
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王フィリプ4世妃 ジャンヌ1世

2009-02-17 01:22:42 | フランス王妃・王女
女王であり王妃であり
フィリプ4世妃 ジャンヌ1世・ド・ナヴァル


1271~1350/在位 (ナヴァール女王)1274~1305
           (フランス王妃)1285~1305

ジャンヌが、父王の死によりシャンパーニュ公となり
ナヴァール女王ファナ1世として即位したのは、わずか3歳の時です。

母ブランシュ・ダルトワは摂政 兼 後見人になりますが
新王が女相続人であることに加え、摂政までが女性という弱みに
列強国からつこ込まれないよう、強力な後ろ盾を捜していました。

白羽の矢がたったのはフランスのフィリプです。
家系図からみても分かるように、ブランシュの実家アルトワ家も
遡ればフランス王家につながるわけで、安心かつ無難な選択といえます。

     

ジャンヌは13歳の時、皇太子フィリプと結婚し
その2ヶ月後夫の即位でフランス王妃になりました。

この結婚で、共同統治とはいえナヴァールとシャンパーニュ公領を手に入れたフィリプ4世は
さらなる王権拡大を目指し、フランドルやイングランドとの戦いを死ぬまで続けます。

ジャンヌは1305年、出産の際に死亡しましたが
後々フィリプ4世が殺したという説も出ています。

もし本当だとしたら、そんな必要あるのかなぁ?
だって自分は共同統治者だし、ファナ以外に直系の継承者がいないのだから
王冠はゆくゆくは子供にいくわけでしょう?

ブロワ家の傍系が騒いでいたのかしら? 適当な男子がみあたらないのですが…
娘たちの嫁ぎ先が黙っていなかったのでしょうか?

それより、政治的な陰謀というドラマティックなものでなく
結婚生活20年、夫婦にしか分からない悶着がエスカレートしたのでしょうか?
離婚したらナヴァールを失うから殺しちゃえ! っていう…
そんなことで殺されたとしたら、王妃という立場も楽じゃないですね。

ちなみにフィリプ4世は “ 端麗王 ” などと言われています。
かなりの男前だったらしいですけど冷酷だったということです。
そんなにかっこよいのだったら(フランスだし)愛人がたくさんいそうなものですが
今のところ手がかりがありません

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)

フランス史10講 岩波書店


このアイテムの詳細を見る

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王フィリプ3世妃 イザベル

2009-02-15 10:29:42 | フランス王妃・王女
聖戦が命取りに?
フィリプ3世妃 イザベル・ダラゴン


1247~1271/在位 1270~1271

アラゴン王ハイメ1世の王女イザベルは15歳の時
2歳年上の皇太子フィリプと結婚しました。

   

父王ルイ9世が参加した第8回十字軍にはフィリプも参加し、イザベルも同行します。
しかしこの遠征は失敗でルイ9世は死亡しました。
帰路の途上のカラブリアで、イザベルが妊娠6ヶ月であることが分かりましたが
フランスに帰り着く前に子供を死産し、自らも17日後になくなりました。

フィリプはイザベルと子供の亡骸をパリまで持ち帰り埋葬しました。



                 
               
子育て上手?の王妃
フィリプ3世妃 マリー・ド・ブラバン


1254~1321/在位 1274~1285

フィリプ3世はイザベルの死から3年、20歳のマリーと再婚します。
彼女は1男2女を生みますが、王女のひとりが “ 慈愛の王妃 ” とよばれた
イングランド王エドワード1世妃マーガレットです。
息子のエヴルー伯ルイももの静かで思慮深く、政策通だったといいますから
子育て上手だったのでしょうか?

     

子供のみならず、フィリプ3世もマリーの影響で、前妻イザベルの生家
アラゴン王家(ウルヘル家)に敵対するようになります。

イザベルの家系図に見るように、フィリプ3世の叔父シャルル・ダンジューは
1266年ナポリ・シチリア王カルロ1世として即位しますが
1282年にウルヘル家のピエトロにシチリアを奪われてしまいます。
マリーはこの件に王の注意を向けさせ、戦いに駆り立てたと言われています。

これが政策的なものなのか、前妻イザベルに対するジェラシーからなのかは
ちと量りかねますが、ジェラシーの方がドラマチックでよいですね

31歳の時、フィリプ3世が亡くなると修道院に入り67歳で亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王聖ルイ9世妃 マルグリート

2009-02-13 22:42:20 | フランス王妃・王女
聖人の妻も楽じゃない・・・
聖ルイ9世妃 マルグリート・ド・プロヴァンス


1221~1295/在位 1234~1270

マルグリートの姉妹たちは “ 暗めの髪と澄んだ瞳を持つ美しい人 ” と
その美をたたえられていたらしいのですが
姉妹たちの父親プロヴァンス伯はこれを最大限に利用しようとしたようですね。

      

長女マルグリートは13歳で聖ルイ9世に嫁ぎます。
次女エレオノーレはイングランド王ヘンリー3世に
三女サンチャはヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャードに
四女ベアトリスはルイ9世の弟アンジュー伯シャルルに、それぞれ嫁ぎます。

イングランドとフランスは相変わらず一触即発の状態。
その両方に2人づつ嫁がせるとは、策略なんでしょうか?
それとも双方から熱望されたんでしょうか?
プロヴァンス伯は強大な力を持つ名家ですから、イングランドもフランスも
味方につけておきたかったのでしょうね。
その上美人ときてますからね

ルイ9世はフランス王の中で唯一聖人に加えられています。
これはルイ9世がとても敬虔な教徒で、慈愛の心に富み
貧しい人たちに慈善を施しをしたりしたことに加え、十字軍に2回参加し
その遠征先で死亡したことが要因となったようです。

マルグリートも第7回十字軍に同行しています。
彼女が夫同様敬虔な教徒だったのかどうかは不明ですが
当時は遊山気分で十字軍に同行する妃はけっこういたみたいです。
王妃が同行すると荷物が増えたり侍女がついてきたりで
かなり足手まといになると思うんですけど…

しかしマルグリートは、ルイ9世が捕虜になった時、
短期間とはいえ十字軍を率いたり、身代金の交渉をしたりと
重責を背負いながら奮闘しました。

美しいマルグリートとルイ9世は、結婚当初はかなり仲睦まじかったようです。
こんなことがエピソードとして残っているのもどうかと思いますが
寒い夜にマルグリートが自分のショールをルイ9世の肩にかけたりしたっていう…

それから、聖人というだけあってルイ9世は地味な格好をしていたそうです。
マルグリートは王の身分にふさわしくないと思い、美しい衣装を着るよう薦めますが
王はそれに答えて「あなたが私の望む装いをしたら、あなたの望む装いをしよう」と
言ったとか…

後年は、逆にルイ9世が家族の意見をまったく顧みなかったため
かなり熾烈な夫婦喧嘩を繰り広げていたという説もあります。
王様も庶民も同じですね

ルイ9世が第8回十字軍の途上で死亡すると、マルグリートはプロヴァンスに帰りますが
イングランド王ヘンリー3世の妃となったエレオノーレにはとても頼りにされて
2人の信頼関係はエレオノーレが亡くなるまで続きました。

思えばルイ9世、母親も妻もけっこう政治観があって、頼りになって、
強い女性だっただけに、十字軍は唯一自由になれる場だと考えたんじゃ…?
もちろん、信仰心も強かったのでしょうけれど。

余談です
フランス王として唯一聖人になったルイ9世の名は、後年植民地などを獲得した時
地名に冠されることになりました。
一番有名なのはアメリカのセント・ルイスです。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王ルイ8世妃 ブランシユ

2009-02-12 01:18:33 | フランス王妃・王女
肝っ玉王妃
ルイ8世妃 ブランシュ・ド・カスティーヨ


1188~1252/在位 1223~1226

“ 獅子王 ” と呼ばれるルイ8世の妃に最初に選ばれたのは姉ウラッカでしたが
2人の母方の祖母にあたるエリナー・オブ・アキテーヌが姉妹を見比べて
妹ブランシュの方がフランス王妃に相応しいだろうという判断を下し
急遽変更されました。おいおい…
(ちなみにウラッカはポルトガル王アフォンソ2世の妃になります)

       
彼女が祖母のいう資質の片鱗を見せ始めたのは
まだ王太子妃だった28歳の時でした。

1916年、イングランドのジョン王が亡くなりましたが
ブランシュは継承権を持っていたため夫ルイはイングランドに攻め入ります。
父王フィリプ2世は承認は与えたものの、援助はしてくれませんでした。
そこでブランシュは自らカレーで艦隊を編成するなどしてルイをサポートします。
しかしこの侵攻は失敗に終わります。

1226年、ルイ8世が亡くなると、ブランシュは12歳で即位したルイ9世の摂政、
そして、6人とも7人ともいわれる子供たちの後見人になります。
しかし幼王を戴いたカペー王家の状況は厳しく、ブランシュは反王派や
イングランドの野心などを退けなければなりませんでした。

シャンパーニュ伯ティボー4世がブランシュに献身的に尽くしたり
教皇の使節であるロマーノ・ボナヴェンチュアがやけにパリに長居したことで
彼らとあらぬ?噂をたてられたりしました。
ルイ8世はティボー4世と王妃に毒殺されたとの噂までまででる始末。

しかし彼女の強靭な精神はこれらに耐え抜き
巧みな軍事的采配や外交術で臣下に畏敬の念を抱かせ、反王派を撃破します。

こんなにやり手の母を持った息子は…もちろん言いなりになりますよねぇ。
ルイ9世は親政を始めてからもブランシュの影響下にあり
十字軍参加の際には再びブランシュを摂政に指名します。

ブランシュは王の不在を守り、遠い地で闘う息子に物資を送り続けます。
一説にはルイ8世の温厚な性格は、王妃の専横的な態度が形成したものだ、とまで
言われたブランシュですが、やっぱり母親なんですね。

1252年、ムランで高熱にを出したブランシュはパリに連れ帰られますが
回復することなく数日後に亡くなりました。

祖母エリナーは、ブランシュのどの部分がフランス王妃に相応しいと思ったのでしょう?
気の強さ? 賢明さ? したたかさ?
いずれにしても12歳の少女から王妃の素質を見いだすとは…
エリナーは人を見る目があったということでしょうか。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王フィリプ2世妃 インゲボルグ

2009-02-11 15:58:33 | フランス王妃・王女
よくぞ生き延びた!!
フィリプ2世妃 インゲボルグ・ド・ダーネマルク


1175~1236/在位 1193、1200~1223

イングランド王ヘンリー8世の王妃たちに対する極悪非道はよく耳にしますが
フィリプ2世もけっこう酷いぜっ!

イザベルの死から3年後、フィリプ2世はデンマーク王女インゲボルグと再婚します。
ところが翌日になると結婚を無効にすると言いだし、彼女を故国に帰そうとします。

国で盛大に見送られて来たのにすぐ帰るなんて恥ずかしいですよねぇ?
インゲボルグもおめおめ国に帰ってなるものかと、ソワソンへ向い教皇に直訴します。
ただ18歳ですから、本人の意志だったのか…?
お付きの女官や家臣の入れ知恵かもしれません。

インゲボルグはなおも自分は正当な王妃であると訴え続けますが
シャンパーニュに集められた議会は王の意向に同意し
王は独身ということになってしまいました。

フィリプ2世はアニェス・ド・メラニアとの結婚、そして破門の末の離婚があって
1200年にインゲボルグを呼び寄せ復縁します。
これにはインゲボルグの兄であるデンマーク王ヴェルデマー2世の圧力もありました。

      
例によってイングランドと戦争状態にあったフランスは
絶対に北欧から攻め込まれたりしてはならなかったのです。
逆サイドからイングランドを責める手伝いをしてほしいぐらいです。

そういったわけでインゲボルグを呼び寄せたフィリプ2世ですが
復縁と名ばかり、そのまま彼女をエタンプ城の塔に閉じ込めてしまいました。

食事は不規則で不十分、訪問者は誰もいないという環境の中
彼女は13年間生き延びます。 よくぞ頑張った!!
2回だけデンマークの懺悔僧が塔を訪れたということですから
もしかして死にそうな状態になったことがあったのではないでしょうか?

フィリプ2世はとうとう1213年に王妃を塔から放ち和解しますが
これはデンマーク王家との繋がりを利用してイングランド王位を主張するためです。

フィリプ2世は、イングランド、神聖ローマ帝国などとの戦いを勝ち抜き
フランドル伯まで加わった大連合軍まで破って ” 尊厳王 ” なんて呼ばれてますが
男としてはサイテーでしょ
騎士道精神のかけらもなし!って感じよ。
インゲボルグに奪われた青春時代を返してあげてほしいわ!

解放された後のインゲボルグは王の近くにいるのがいやだったのか
ほとんどの時間を自分が設立したサン・ジャン=ルイの修道院で過ごし
王より14年長生きして1223年に亡くなりました。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする