まりっぺのお気楽読書

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フランス王シャルル4世妃 ブランシュ

2009-02-21 12:48:42 | フランス王妃・王女
                肖像画は2人目の妃マリー

姉とともに捕えられ・・・
シャルル4世妃 ブランシュ・ド・ブルゴーニュ


1296~1326/在位 1322

兄王ルイ10世、フィリプ5世に嫡子がいなかったため王位についたシャルル4世は
フランスでは “ 美男王 ” と言われていてハンサムを想像させますが
同様に統治していたナヴァールでは “ 禿頭王” …つまりハゲ頭と呼ばれてたらしいです。 
ナヴァールにしてみれば占領されたようなものだから、少しは恨みつらみも…ね。
後年ルイ14世とかが被っていたようなカツラは、まだなかったのでしょうか?

      

ブランシュはフィリプ5世妃ジャンヌ同様、エドワード2世妃イザベルの告発によって捕えられ
姉ジャンヌが釈放され、ルイ10世妃マルグリートが死亡した後も
ひとり残されたまま1322年まで牢獄の中で暮らします。
心細かったでしょうね? 自分はどうなるのか…恐ろしさもあったでしょう。

夫シャルルが4世として即位すると、教皇ヨハネス22世が2人の離婚を認め
ブランシュは晴れて釈放されました。
その後は修道院で過ごし、30歳で亡くなりました。

12歳で結婚し、18歳から26歳までが投獄生活、哀れですね
まだ殺されなかっただけいいのかもしれないけど…

いったい女性の一生をなんと考えていたのでしょうね?
庶民の女性の生活も決して楽なものじゃなかったと思いますが
いくら裕福でも完全に “ 持ち駒 ” として右に左に動かされる人生なんて。
この時代の女性の扱いはひどいもんだと怒らずにはいられないです。



なんで馬車なんかに…?
シャルル4世妃 マリー・ド・リュクサンブール


1304~1324/1322~1324

シャルル4世はブランシュと離婚するやいなや、as soon as マリーと再婚します。

マリーの生家ルクセンブルク家はフランスの一領主で
マリーの父ハインリヒもリュクサンブール伯ヘンリだったのですけれど
1804年、ドイツ諸公家に推挙されて神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世に即位しました。

      

ドイツはナッソウ家、ヴィッテルスバハ家、ホーエンシュタウフェン家
ハプスブルク家などがお互いを牽制しつつ、皇帝の権力の弱体化を狙って
ハインリヒ7世を推したのですが、フランスとしては黙ってられませんね。

思えばノルマン家がイングランド王になったために双方の国土の取り合いは
激化していくばかりです。
リュクサンブール家は押さえ込んでおかなければ…かどうかは分かりませんが
ともかく、シャルル4世は皇女マリーと結婚しました。

結婚後まもなくマリーは妊娠しましたが、馬車に乗っている時事故にあい
深刻な状態に陥ります。
回復しないまま王子ルイを早産しましたが、ルイは数時間後に亡くなり
マリーも数日後に亡くなりました。 19歳でした。



お家断絶の憂き目にあった王妃
シャルル4世妃 ジャンヌ・デヴルー


1310~1371/在位 1325~1328

3人目の妃ジャンヌはシャルル4世の従妹にあたるため
教皇からの特免状をもらって結婚しました。

       

ジャンヌが王子を生まないとカペー家の直系は途絶えてしまうため
14歳の彼女の肩には背負いきれないほどの重責だったことでしょう。
たて続けに王女が生まれましたが、1328年にシャルル4世が逝去
王位はカペー家からヴァロア家にうつります。

自分ひとりのせいでないとはいえ、周りの目は厳しかったはず
つらかったでしょうねぇ。
18歳で未亡人になったシャンヌは再婚はせず宗教生活に入ります。
61歳で亡くなりました。

ちなみに次王ヴァロア家のフィリプ6世妃ブランシュはジャンヌの姪
フィリプ6世の息子オルレアン公フィリプの妃はジャンヌの娘でした。

(参考文献 Wikipedia英語版)

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