まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

フランス王フィリプ2世妃 イザベル

2009-02-11 15:57:55 | フランス王妃・王女
最初の犠牲者といえるかも…
フィリプ2世妃 イザベル・ド・エノー


1170~1190/在位 1180~1190

イザベルは10歳の時、共同君主だったフィリプと結婚し、
半年後に王妃になりますが、この結婚は、フィリプの相談役で、イザベルの母方の叔父
フランドル伯フィリプ・ダルザスによって進められたものでした。
(フランドル伯の爵位は、1911年シャトノワ家からフランドル=エノー家の
 イザベルの父に移ります。紛らわしいので念のため…)
 
       

             
             こちらだと幼さが分かりますね

イザベルはアルトワを持参金として持っており、賞賛で迎えられましたが
翌年、16歳になったフィリプ2世は叔父フラドンル伯と開戦し
さらに1184年には子供を生まない(こればっかり!)という理由で
イザベルと離婚しようとします。

だからっ! イザベルは14歳でしょ! 生めって言う方がおかしいじゃないか!
本当にせっかちで困ったもんです。

王の叔父ロベールが仲裁に入り、この離婚は回避され
1187年に待望の王子(後のルイ8世)が誕生しました。
ほら、待ってたらよかったんじゃないの!

1190年、イザベルは双子を生むのですが、翌日亡くなり
生まれたばかりの二人も4日後に亡くなりました。




              
愛妾になった王妃
フィリプ2世妃 アニェス・ド・メラニー


1180~1201/在位 1196~1199

イザベルの死から6年後の1196年、フィリプ2世はアニェスと結婚しますが
実はこれ、再々婚なのです。

フィリプ2世は1193年に、デンマーク王ヴェルデマー1世の娘インゲボルグと再婚しましたが
なんと 翌日結婚を無効にしてしまいました。
その後、彼は一貫して「自分は独身だ」とのたまうわけですが
インゲボルグも、彼女を支持する教皇もそんなこと認めていませんでした。

フィリプ2世は「独身ですから」と再婚に踏み切ったのですが
最初はジェノア伯ギョーム1世の娘マルグリットと結婚するつもりでした。
ところがなにもかも決って彼女がパリへ向かう途中
トマス・ド・サヴォイが彼女を連れ去り結婚してしまったのです。
文句は言ってみたものの後のまつり、すでにマルグリットは人妻ですので
16歳のアニェスと結婚することにいたしましたとさ。

      
教皇インノケンティウス3世は再三忠告しますが
フィリプ2世はまったく聞き入れず、とうとう1199年に破門されてしまいました。
たぶん破門だけなら堪えなかったのでしょうけど、
どうやら村八分がちな境遇になったみたいで食料品などにも事欠くようになって
フィリプはアニェスと離婚することに承知しました。

とはいえ、かたちだけインゲボルグと復縁した後も
フィリプ2世はアニェスを度々呼び寄せ、離婚後に子供が2人生まれています。
けれどもアニェスは失意に陥り、1201年に若くして亡くなります。

だって、“ 王妃 ” から “ 王の愛妾 ” になってしまったのですもの。
逆ならいいけどさ!
良家で育ったお嬢様のプライドが許さなかったんだと思うわ。

どうしてとっとと再婚しなかったんでしょう? 別れても好きだった?
フィリプ2世が殺したといっても過言ではないね!

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王ルイ7世妃 アリエノール

2009-02-11 14:13:41 | フランス王妃・王女
一度紹介済みですが…
ルイ7世妃 アリエノール・ダキテーヌ


1122~1204/在位 (フランス王妃)1137~1152
          (イングランド王妃)1154~1189

イングランド王ヘンリー2世妃エリナー として紹介済みなので省略しようと思いましたが
ちょっと補足を・・・
ご存知のようにフランス国王の3倍の土地を持っていたアリエノール。
ルイ7世と彼女の結婚式はそれはそれは荘厳で、1000人のお客様がいたそうです。

ルイ7世とアリエノールとの間に王子が生まれなかったこと、
そしてアリエノールがこともあろうにヘンリー2世と再婚したことが
この後イングランドとフランスの壮絶な領土争いを激化させます。

なにしろ、国内の半分以上の領土がイングランドのものになってしまうので
フランス王の狼狽と困惑は相当なものだったでしょう。




               
ワンポイント王妃
ルイ7世妃 コンスタンス・ド・カスティーヨ


1141~1160/在位 1154~1160

ルイ7世とアリエノールが離婚した表向きの理由は “ 近すぎる血縁 ” でしたが
再婚したコンスタンスは、更に近いという・・・
この時代、血縁のない人を同じ階級から探そうって方が難しいんじゃなくて?

        

13歳で34歳のルイ7世と結婚し、17歳でマーガレットが生まれます。
19歳でアリスを生みますが、コンスタンスはその時に亡くなりました。




               
野心まんまんの王妃
ルイ7世妃 アデル・ド・シャンパーニュ


1140~1206/在位 1160~1180

アデルの父シャンパーニュ伯ティボー2世は
シャンパーニュ伯領、ブロワ伯領、シャルトル伯領を持つ大領主でした。
アリエノールにごっそり領土を持っていかれたルイ7世にしてみれば
魅力的な縁談だったでしょう。

アデルとその兄弟たちは権力欲が強かったようで
兄のシャンパーニュ伯アンリと弟ブロワ伯ティボーは
ルイ7世とアリエノールの間に生まれた姉妹を妻にしていました。
そのためアデルは王の妻でもあり、義理の妹でもあります。

       

1180年、息子フィリプがアルトワの女相続人イザボー・ド・エノーと結婚し
王位に就くと、アデルたちの権勢に翳りが見え始めます。

フィリプが王になってからは力を失いつつあったアデルも1190年から2年間
王が十字軍に参加中摂政を努めています。
アデル最後の晴れ舞台ですね。

その後はフィリプ2世が再婚したため表舞台から退き
修道院の創設などに力を注いでいましたが、1206年に亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王ルイ6世妃 リュシエンヌ

2009-02-09 22:29:12 | フランス王妃・王女
                 アデライードのコイン(?)です。
                       こんなものしか見つからなくて…


エピソードがありません…
ルイ6世妃 リュシエンヌ・ド・モンモランシー


1088~1137/在位せず 

“ 肥満王 ” などと呼ばれていたルイ6世は、皇太子時代の23歳の時最初の結婚します。
リュシエンヌは16歳で結婚したのですが、19歳の時「王子が生めないから」という理由で
離婚されました。
しかし19歳ですからまだまだ余裕はあるというのに離婚されたところをみると
何か他に理由があったのでは…?

ルイが王になる前年に別れたので王妃にはなれませんでしたが
後に再婚して2人の子供に恵まれています。

    



中身で勝負
ルイ6世妃 アデライード(アデル)・ド・サヴォワ


1092~1154/在位 1115~1137

離婚から8年、ルイ6世が再婚したアデライードは、美しくない、といいますか
醜いという評判の女性だったのですが、思いやりがあって信心深く
切り盛りに長けたしっかりものだったそうです。

フランスの王様の中に、顔じゃなくて中身で女性を見て下さる方が
ひとりでもいて良かったっす・・・

アデライードは政治的にも活動的で、ルイ6世の治世中王家の会計書類に
45回も彼女の名が登場したらしいのです。
彼女の署名は王と同等に扱われていたということでしょうか?

ルイ6世は、“ カペー王朝始まって以来の最強の王 ”と言われ
29年の治世は戦いと王家の権力拡大に明け暮れていました。
しっかり者の王妃がいたから、安心して宮廷を任せられたのかもしれませんね。

9世紀に建てられた巡礼者たちの集会所を
サン・ピエール教会として建造する令を発したのもルイ6世とアデライードで
1134年に着工しています。

王が亡くなると表舞台からさがり、マシュー1・ド・モンモランシーとの間に
子供を1人生んだものの再婚はしませんでした。
◯◯夫人としてより、王の未亡人として余生を送りたかったようです。

ただ彼女にもひとつ悪い噂が・・・
アデライードはある若い騎士に馬上試合で魅せられてしまったのですが
彼には既に婚約者がいました。
彼の名はウィリアム・ド・アールビニー、
イングランド王ヘンリー1世の未亡人アデライザ・オブ・ルーヴァンと婚約していました。

ウィリアムに拒絶されたアデライードは
彼を誘い出しライオンのオリに入れてしまいましたが
彼は素手でライオンを殺したという…

これはイギリスのWilliam Dugdaleによるもので、なんか嘘くさいっていうか
嘘だろう!と言われております。
フランスとイギリスが仲悪い時に書かれてますからね。

1153年、アデライードは息子ルイ7世が完成させたサン・ピエール教会に隠遁し
翌年亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王フィリプ1世妃 ベルタ

2009-02-09 00:55:34 | フランス王妃・王女
太り過ぎで離婚!?
フィリプ1世妃 ベルタ・ド・オランド


1055~1093/在位 1072~1092

フィリプ1世は8歳で即位します。
14歳までは母であるアンヌ・ド・キエフがまるで女王のように君臨しており
母の死後も摂政で義理の叔父フランドル伯ボードゥアン5世に支配されていました。

      
20歳の時にベルタ・ド・ホランドと結婚します。
これはベルタの母ゲルトルードが再婚した、フランドル伯ロペール1世と
フィリプ1世が結んだ和平条約の条項によるものです。
ちなみに、フランドル伯ロベール1世の父は摂政だったボードゥアン5世で
母親はフランス王ロベール2世の娘アデルですから
二人はやっぱ親戚同士なんですよね…うぅぅ、ややこしいっ

5人の子供に恵まれ、一応何事もなく20年の月日が流れた頃、37歳になったベルタは
突然太り過ぎを理由にフィリプ1世に離婚を申し渡されました。
実はこの時すでに王には愛する女性がいました。

離婚されただけでなくモントルイユの要塞に軟禁されたベルタは
1年後に亡くなるんですけど、はたして自然死だったんでしょうかね?
次の嫁はなんでもやりそうなタイプなんですもの…




            
天使のような顔で・・・
フィリプ1世妃 ベルトラド・ド・モンフォール


1070~1117/在位 1092~1108

ベルタを離婚したフィリプ1世はさっさと再婚しますが、相手にも夫がいました。

         
ベルトラドはたいそう美しかったようで
19歳の時アンジュー伯フルク4世に言い寄られ結婚しました。
フルク4世は好色として評判の男性で、ベルトラドと出会った時には46歳、
4人目の妻がいましたが、ベルトラドに猛烈アタックで結婚にこぎつけました。
アンジュー家は名家ですし、多少やらしいオヤジでも大目に見てもらえるかも…

結婚から3年後、ベルトラドは夫のもとを去ってフィリプ1世のもとへ走り二人は再婚します。
フィリプ1世も18歳年上の40歳なので、年上好きなのかもしれませんが
あるいは肩書きに弱いタイプなのかもしれませんね。

この結婚によって二人は破門され、フィリプ1世は破門を解いてもらうために
何度もベルトラドと別れると誓うのですが、結局彼女のもとへ戻ってしまう…
ということを1104年まで繰り返していました。
情けないですねぇ いや、不屈の愛ですね、きっと
そんなわけで、フィリプ1世は十字軍に参加できませんでした。

ベルトラドは自分の息子フィリプに王位を継がせたかったのですが
前妻ベルタの息子ルイが邪魔でした。

彼女はイングランド王ヘンリー1世にルイを逮捕してくれるよう頼んだり
機会があれば殺しちゃおうかな? と毒を用意してみたりしたそうです
その夢は叶わずフィリプ1世の死後はルイが王位につきます。

ちなみに先夫フルク4世との間に生まれたフルク5世は
後にイェルサレム王として即位しています。

ベルトラドは47歳で亡くなります。
イギリスの史家マームズベリー曰く“ その死に顔は若々しく美しく
ヴェールの下の表情はまだまだ男性には魅力的でまるで天使のようだった ”
てぇことですが、男の人ってこんなタイプの女性には抗えないんでしょうね?
中身はどうであれ…

ショッキング!!
パソコンのアップデート時にトラブルがありまして
家系図が入っていたフォルダが消えてしまいましたっ
一応バックアップはとってあったけど、かなり前のもので
修正とか追加がされておらず、いちいちチェックしなきゃならない状況です。
真剣にデータレスキューの購入を考えているところです。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王アンリ1世妃 マティルダ

2009-02-05 01:32:38 | フランス王妃・王女
              肖像画は二人目の妃アンヌ・ド・キエヴ

婚約者と同名だった
アンリ1世妃 マティルダ・ド・フリーズ


~1044/在位 1034~1044

アンリ1世はカペー家の慣例に従って、父王の存命中に戴冠を受け
1027年から共同君主となっていましたが、王として即位したのは1031年、
結婚はその3年後の1034年でした。

アンリは神聖ローマ皇帝コンラッド2世の娘マティルダと婚約していたのですが
彼女が子供の早産が原因で死亡したため
ブルンスウィック伯の娘であるマティルダと結婚することになりました。

詳しい経緯は分かりませんが、両マティルダともドイツ方面出身なので
なにかドイツ方面に対して思惑があったのかもしれません。

フランスはまだ各公領君主の力が強く、王権が及んでいませんでしたから
ドイツ(旧東フランク)に同盟国を見いだしたかったのでしょうか?

しかし、婚約中に子供を早産って? できちゃった婚約?
結婚していたという説もあります。

     


遠い国からやって来た
アンリ1世妃 アンヌ・ド・キエヴ


1024?~1075/在位 1051~1060

マティルダを失ったアンリ1世はふさわしい家柄から再婚相手を探そうとしますが
これは…と思う娘は法的に結婚が許されない血縁者ばかりという問題にぶつかります。

そこで、ここなら縁も薄かろうと思われるキエフ公国に使者を出し
大公ヤロスラヴ1世の娘アンヌを選びます。

1053年にアンリ1世の義理の甥にあたるノルマンディ公ギョーム
(後のイングランド王ウィリアム1世)がマティルダ・オブ・フランダースと結婚すると
アンリ1世はものすごく脅威を感じ、二度ほどノルマンディーに攻め入りますが敗れます。

そんな不安定な情勢の中、1060年に王が亡くなると
アンヌは8歳で即位したフィリプ1世の摂政になります。

フランスには “ サリカ法 ” というものがあって、女性は王になれないのですが
アンヌは摂政という名で女王の座についた最初の女性と言われています。
彼女は才女だったらしいのですが、フランス語が未熟だとして
反対意見を唱える人々もいたようです。

まだ若いし、摂政という重責にストレスもあったでしょう。
1年後にアンヌは野心満々のヴァロア伯レイフ3世に接近し略奪婚します。
レイフの妻が教皇に訴え出て二人は破門されてしまいました。
しかし息子であるフィリプ1世は母を許します。
(後年、フィリプ1世自身が似たような境遇に陥ります フランスって…)

1074年にレイフが亡くなると、アンヌは息子が君臨するフランス宮廷へ戻り
1年後に亡くなりました。

教皇に破門されたアンヌではありますが、フランスのにミサを持ち込んだのは
彼女だったらしいですよ。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王ロベール2世妃 コンスタンス

2009-01-29 22:28:43 | フランス王妃・王女
猛女現わる!
ロベール2世妃 コンスタンス・ダルル


986~1034/在位 1001 or 1003~1031

ロベール2世はベルタと離婚後、プロヴァンス伯ギョーム1世の娘コンスタンスと再々婚。
これが波瀾万丈の始まりでした。

      

この結婚には先妻ベルタの実家バーガンディー公家も猛反発し
その上、コンスタンスの親族さえも彼女に白い目を向けました。
ロベール2世の友人ユーグ・ド・ボーヴェは王に離婚を進言しますが
コンスタンスは親族の騎士にユーグを殺させるという仕打ちに出ます。

さすがにロベール2世も愛想を尽かしたのか、1010年には前妻ベルタを連れてローマを訪れ
教皇にコンスタンスとの離婚とベルタとの復縁を願い出ます。
これはどうやら受理されなかったようですが
怒りに燃えたコンスタンスは次男、三男の2人を父王に反抗するよう焚き付けます。

次男アンリと三男ロベールは母の言う通りに父王の領土を攻撃し始め
ロベール2世は劣勢にたたされます。
最終的には父子は和解し、王がなくなるまで戦闘は行われませんでしたが
ロベール2世の死後、今度はコンスタンスと息子たちに不和が訪れます。

コンスタンスは自分の領土の、アンリとロベールへの分割と譲渡を拒みます。
アンリは弟の援助を受けて母がいるポワシー城を包囲しました。
さすがのコンスタンスも領土を譲るしかありませんでした。

ところでコンスタンスは諍いの中、王に刺客を差し向けられたこともあったようで
その時には教会の前に仁王立ちになり、ステファン(刺客か?)の両目を
自らえぐり出したと言われています
この中世的な悪行にコンスタンス自身が手をくだしたとは考えられませんが
そう言われかねないほど激しい女性だったと思わせるエピソードですね

1034年、コンスタンスが亡くなるとロベール2世の側に埋葬されましたが
ロベール2世は、せっかくの静かな眠りを3年で妨げられて・・・
本当はベルタが良かったんじゃないでしょうかね?

               
             王妃、お怒りのご様子ですね。
          「離婚してやんないわよっ!」とか言ってるのでしょうか?
                  王の迷惑そうな顔・・・


(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王ロベール2世妃 ロザーラ

2009-01-29 22:26:53 | フランス王妃・王女
                肖像画は2人目の王妃ベルタ

たった数日の王妃の座
ロベール2世妃 ロザーラ(シュザンヌ)・ディタリー


937~1003/在位 996

ロザーラはイタリア王ベレンガール2世の娘で、カール大帝の7代子孫にあたります。
最初の夫はフランドル伯アルヌルフ2世でしたが51歳の時死別します。
彼女は息子の摂政になりましたが、同年あるいは翌年
35歳年下 のロベールと再婚します。

これは、フランス王座の世襲を夢見る父王ユーグ・カペーが勢力拡大を狙ってまとめた縁談で
ロベールはまっっったく乗り気ではありませんでした。
だって十代の若者ですもの・・・女性に対していろいろ夢や希望もありましょうに
35歳年上の女性と結婚させられるんじゃ・・・ 気持ちは分かります。

けれどもロザーラにはモントルイユとポンテュウが持参金としてついてきます。
ロベールはロザーラとの結婚を承諾します。
ロザーラはこの結婚にともなってシュザンヌに改名しました。

はたして二人が夫婦として生活したのか? ちょっと計り知れませんが
結婚から6年、ユーグ・カペーが亡くなりロベールが王として即位すると
彼はただちにベルタ・ド・バーガンディと結婚するためロザーラを絶縁します。

ロザーラは離婚後フランドルに戻りましたが、どんな気持ちだったかしら?
まわりから後ろ指とかさされなかったのかしら?
「あんな若い男と再婚するからよぉ」なんて意地悪を言うばあさまがいそう

      

1003年にロザーラは亡くなりましたが、ロベール2世は彼女が持参した領地を
息子のフランドル伯に返却することなく、フランス王国領として保持し続けました。

ちなみにですが、ロベール2世と3番目の王妃の間に生まれたアデルの結婚相手は
ロザーラと最初の夫との間に生まれた息子の息子でした。
わかりませんねぇ・・・ 当時の結婚って




神の怒りにふれたか?
ロベール2世妃 ベルタ・ド・ブルゴーニュ


964 or 967~1016/在位 966~1000

ロベール2世が即位するやいなや再婚したベルタは西フランク王ルイ4世の孫でした。
彼女との結婚は西フランク王位を争っていたカペー家とカロリング家が結びつくことを意味し
カペー家の王権を強化する上で重要なものでした。

       
ベルタも再婚で、最初の夫はブロワ伯ウードで983年頃に結婚しましたが996年に死別。

好都合なことにロベールも王となり、自由にロザーラと離婚することができます。
普通は父王だったり、夫だったりの死後1年ぐらい喪に服すものだと思うんですが
二人は即再婚します。

しかし、ロベール2世とベルタはいとこ関係にあり
この結婚によって教皇グレゴリー5世から破門を言い渡されてしまいます。
999年、子供が生まれてすぐ亡くなったことで
ロベール2世は破門の恐ろしさが身にしみたのか、教皇シルヴェスタ2世に許しを請い
1000年ベルタとの結婚を解消します。

『カノッサの屈辱』とかありましたけど、教皇の破門てそんなに恐ろしいのかしら?
奥様だって子供を亡くして悲しんでいるだろうに、神を怖れて離婚しちゃうって
人としてどうなんでしょう?

いとこ同士の結婚は他にもかなりあると思うのですが
(なにしろいくつかの家同士があっちで結婚、こっちで結婚している状態で
 家系図グチャグチャ~、です)
教皇が与える特免状の基準も曖昧な気がします。 家の力かしら? 献金の金額かしら?

ベルタは再婚せず余生を過ごしたようです。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス王ユーグ・カペー妃 アデライード

2009-01-28 22:44:52 | フランス王妃・王女
伝統を誇る家系の源
ユーグ・カペー妃 アデライード・ダキテーヌ


945 or 952~1004/在位 987~996

やっちまいました…フランス

フランス王妃に関する文献は、手に入りやすい日本語のものだと
ほぼマリー・アントワネットカトリーヌ・ド・メディシスに集中していて
他の女性のエピソードは皆目手がかりがないのですが、家系図作っちゃったし…
Wikipediaを頼りに頑張ります(フランス語はわかりませんのでね)

さて、フランスですが、フランク帝国の一部である西フランク王国が
後のフランスになっていくので、西フランクをフランスとするものもあるのですが
ちょいとめんどくさいので、カペー家が王になったところから始めます。

カロリング家最後の王ルイ5世の死にともない、領封君主たちから選出されたのが
カペー王朝の始祖ユーグ・カペーでした。
父のパリ伯ユーグは西フランク王ロベール1世を父に持ち
同じく西フランク王ウードを叔父に持っていました。
祖父や父などはロベール家とも言われます。

      

当時は国といっても、アキテーヌ公、ブルゴーニュ公、ノルマンディ公、
プロヴァンス候、フランドル伯などの大領主が自分たちの領土を支配していて
カペー家もたんなる領主の一家系にすぎませんでした。

そりゃあもう各家入り乱れての戦いが繰り広げられていて
カペー家が王家として確立するのはずっと後になります。

ユーグ・カペーは王になる前の970年、アキテーヌ公の娘アデライードと結婚します。
これは両家の休戦の担保として結ばれた婚姻でした。
アデライードの母もノルマンディ公ロロの娘ですから
たぶんアキテーヌ公家とノルマンディ公家の和解のために嫁いだのではないでしょうか?

ユーグ・カペーはせっかく手に入れた王位を息子に譲ろうと奔走し
生前に息子ロベールへの継承を確実にします。

これが後にヴァロア家、ブルボン家へとつながり
ヨーロッパ中に家系をはりめぐらせるカペー家の一歩となりました。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする