まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ボヘミア王オタカル2世妃 マルケータ

2018-03-30 20:22:18 | ボヘミア王妃
継承のためなら!の歳の差婚
オタカル2世妃 マルケータ・バーベンベルスカー


1204〜1266/在位 1253〜1260

父王ヴァーツラフに対して反乱をおこし、投獄されたオタカルでしたが
1253年にめでたく王に就くことができました… 5年ぐらい待てばよかったのにね。

結婚は2回しているのですが、1回目のお相手は26歳年上
オーストリア公レオポルト6世公女マルケータでした。
すごいね! 26歳年下… 見てるだけでいいや。

実は21歳ぐらいで、ドイツ王ハインリヒ7世と結婚していました。
けれども、オタカル同様、ハインリヒも父親の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に対して
反乱をおこし、失敗して1242年に亡くなりました。

マルケータはその後静かに隠遁生活を送っていたのですが
そうもしていられなくなりました。
       
ちょっと入り組んでるから、上手く説明できるかどうか… いきますよ!

マルケータの弟フリードリヒ2世が、1246年に嫡子無しで死去したため
オーストリア公領とシュタイアーマルク公領に対して
マルケータか姪のゲルトルード、どちらの夫も権利を主張できる立場になりました。

そこでヴァーツラフ1世は、長男ヴワディスワフをゲルトルードと結婚させて
この継承争いにくいこんでいきました。
ところが、結婚の翌年の1247年にヴワディスワフが亡くなります。

ゲルトルードの再婚相手バーデン辺境伯ヘルマン6世が1250年に亡くなると
ヴァーツラフ1世の野望は再燃します。
次男オタカルとゲルトルードを結婚させる作戦だったのですが
オタカルが兄の未亡人との結婚を断固拒否しました。

倫理上の問題なのか、兄さんのおさがりなんて!! というプライドだかはわかりませんが
7歳年上のゲルトルードとの結婚を断り、26歳年上のマルケータとの結婚を承諾しました。
       
1252年に結婚はしてみたものの、マルケータはもうすぐ50歳(一説には50歳以上)です。
嫡子が生まれるわけない! ということで、オタカルは
1254年、マルケータの侍女だった愛妾アニェス・クネリングとの間に生まれた息子を
教皇に認めてもらおうとします。

これに失敗すると、オタカルはマルケータとの結婚の失効を訴え、1260年に許されました。
            
でもさ、オーストリア・シュタイアーマルク公領は手放さないのよ、どう思う?
(後にドイツ王ルドルフ1世に奪われます)

結婚を無効にされたマルケータは、オーストリアに帰っていきました。
帰国後は “ ローマ王妃 ” と呼ばれていました。

没年は1266年か1267年で、希望どおり父親が建てたリリエンフェルト修道院の
父の隣に埋葬されました。

静かな生活から引っぱり出しといてなんなのよ!
26歳年上ってことは、最初からわかってたじゃないか!!

マルケータ自身がどう思っていたのか、まったくわからないのが残念ですね。
何度も言うけど、わたしは見てるだけでいいです。 できたら歌って踊ってほしい…

                
               Jarmily Haldovéさん作マルケータ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『すばらしい新世界』“世界はひとつ” への簡単ではない道のり

2018-03-19 22:24:23 | イギリス・アイルランドの作家
BRAVE NEW WORLD 
1932年 オルダス・ハクスリー

オルダス・ハクスリーは、短篇を2篇ほど読んだことがあったみたいですが
印象に残っているのは『ジョコンダの微笑み』というお話しだけでした。

で、裏表紙のあらすじを読んで「な、なんて面白そうな!」と思い手にした
『すばらしい新世界』なのでしたが…

すごく興味深い内容ではありましたが、わたしはちょっと好きになれませんでした。
ざっと書いてみるね。

地球は、九年戦争を終えたあと、戦争を放棄し平和に共生する道を選びました。
もはや “ 国 ” という概念はないみたいで、大陸や都市は世界の中の一都市という
認識になっているみたいです。
本当にそうなっていたら素晴らしいことですね!

人々は世の中になんの不満も抱いておらず、仕事の後はデートや映画
スポーツを楽しみ、孤独や哀しみを感じる暇はありません。
進歩した技術のおかげでほとんどの病気は絶滅し、若々しいまま年老いていきます。
夢のような世界ですね! 老けないなんて…

しかしその実態は…

主な舞台は、ロンドン孵化条件づけセンターというところなんですが
このセンターは世界各地にあるようです。

そこで行われているのは “ 人間の製造 ” って感じかな?
子供は身ごもるものではなく、受精卵の段階で上流のアルファ・ベータ
下層のガンマ・デルタ・イプシロンに選別され、ビンに入れられ
各々の階級にふさわしい薬品や刺激を与えられて育てられます。
それだけでなく、仕事にあう体型や体力に仕上げられます。

生まれた後は、あかちゃんの時から睡眠療法で各々の階級にピッタリの
例えば「ガンマでよかった、ベータのように勉強しなくて良いから…」というような
スローガンをたたきこまれます。

家庭や両親というものは存在せず、おぞましく卑猥なものと考えられています。
でも寂しくないのは “ みんなはみんなのもの ” というスローガンのもと
ひとりの人ではなく、たーくさんの人と付き合うから…
一部の方々には嬉しい世界かもしれませんね。

だから、人々は自分の境遇に満足しきっているわけですね。
ちょっと悩みがあれば、ソーマというものを飲めば楽しい気分になれるというわけで
だーれも世の中に疑問を感じず生きています。
だから争いもおこらず、世界はアッパラパー的に平和を謳歌しているのね。

ここまでで長くなっちゃったのであらすじは省くんだけど
やはり「なんかおかしいかも…」と思う人はいるわけです。

間違ってビンの中にアルコールを入れられてしまったと噂される
アルファプラスらしからぬ(背が低くハンサムでない)容姿のバーナード・マルクス

ものすごくアルファプラスらしいモテモテ男のヘルムホルツ・ワトソン

バーナードが “ 野人保護区 ” から連れて来た、文明人の息子らしいジョン

この3人がなにかしでかしてくれるかと思ったんだけどな…
でも皆が幸福な世界なら変えなくてもよいのか…? 判断がつきかねるラストでした。

それにしても、世界から争いをなくし誰もが幸せだ!と思う世界にするためには
こんなにも手間ひまかけなきゃならんのだろうか?

以前、誰だっけ? グレアム・グリーン
『最後の言葉』という短篇を読んで、やはり “ 世界はひとつ ” は
何かの犠牲の上にしか成り立たないのではないかと思った記憶があります。

お互いの精神的安定のために、せめて三軒隣りの国ぐらいまでは仲良くしたいものですけど…

わたしは読み終わって混乱してますが…
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね



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ボヘミア王ヴァーツラフ1世妃 クンフタ

2018-02-22 21:37:13 | ボヘミア王妃
                Jarmily Haldovéさん作

どさくさでお葬式をあげてもらえず…
ヴァーツラフ1世妃 クンフタ・シュタウフスカー


1202〜1248/在位 1230〜1248

オタカル1世の後、オタカルの叔父さんにあたるブレチスラフ3世(ジンドリフ)が
一瞬ボヘミア公になりました。
この方はプラハで司教をしていたみたいで、未婚のようです。
        

次にオタカルの弟ブラジスラフ3世がボヘミア公になります。
ヘイルヴィダ(?)という妃がいましたが、詳細はわかりません。

                
             この方らしいです Jarmily Haldovéさん作          

で、王位を継いだのはオタカル1世の王子ヴァーツラフ1世でした。

お妃はドイツ王フィリップの王女クンフタでした。
お母さまはビザンツ皇女イリーナで、姉に神聖ローマ皇后ベアトリーチェがいます。

6歳ぐらいの時に父親が殺害され、数ヶ月後に母親が出産で死去します。
その時にはすでにヴァーツラフと婚約していたみたいで
両親の死後すぐにプラハに向かいました。
結婚は、それから16年後…長いあいだ婚約者だったんですね。
        
1230年に王妃になりました。
これまでの王妃同様、いくつか修道院を建てました。

1247年に、後継者である長男ヴワディスワフが亡くなったのですが
その翌年、次男オタカル(2世)が、不満を抱えた貴族たちにかつがれて
ヴァーツラフ1世に反乱をおこしました。
後継者に決まったのに、なぜ待てなかったのかしらね?

クンフタはその反乱の最中、プラハで亡くなりました。
46歳ですね… 病気なのか、息子の反乱にショックを受けてかよくわかりません。
息子に対してどんなアクションをおこしたのか知りたいところですね。

なにせ反乱の最中だったもので、夫も息子も葬儀を行おうとしませんでした。
どちらかが喪主になったとしても、もう片方は出席できないよね? かわいそう…

反乱は、クンフタの死去後、ヴァーツラフ1世が息子を投獄して終わりました。
せめてその後でもいいからお葬式をあげてあげればよかったのにね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとこと平昌オリンピックコーナー
4年に一度しか見ないような競技が多いのですが、やはり燃えますね! メダルも過去最多だそうでおめでたいですね
でも、まったくスポーツができないわたしから見ると、出るだけでもすごいですよ〜 選手のみなさん
メダルが取れなくて悔しがるのはいいのですけど、落ち込んだりしないでね


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ボヘミア王オタカル1世妃 コンスタンツィエ

2018-02-19 10:22:29 | ボヘミア王妃
プロフィールに偽りあり?
オタカル1世妃 コンスタンツィエ・ウヘルスカー


1180〜1240/在位 1199〜1130

「血縁があるから」と、前妃アデレータに離婚を言い渡したオタカルですが
同年に再婚したコンスタンツィエはバリッと親族関係にあります。

コンスタンツィエは、ハンガリー王ベーラ3世とアンナ・シャティヨンの王女でした。
兄姉に、ハンガリー王イムレ、アンドラーシュ2世、ビザンツ皇后マルギトがいます。
     
オタカル1世の治世中、コンスタンツィエはオタカルの共同寄贈者として
多くの教会や修道院を寄進したと記録が残っています。

それは良いことなんですが、それ以外がけっこう胡散臭いかんじ?

ある書簡によると、ブジェツラフとオロモウツの解放が認められるようサポートしたと
されているのですが、どうやらこれは偽文書みたいで
同じようなエピソードが聖イシュトヴァーンにあるらしいです。

また、ホドニーンに “ 偉大なるチュートン人(銅像?) ” を立てたってことになってますが
これはねつ造らしい…

どうしてそんな嘘をつきましたかね? 聖人にでもなりたかったのでしょうか?

1930年、オタカル1世が亡くなりました。
1931年、ローマ教皇グレゴリウス9世が、教皇の権威のもと
コンスタンツィエと彼女の持参金を保護下におきました。
中には、ブジェツラフを含む6つの領地も含まれていました。

これは良いことなんだろうか? 悪いことなんだろうか?
言葉通り保護してくれるのかしら? それとも横取りされちゃったってこと?
ちょっとよくわかりません。

コンスタンツィエは、1232年にティシュノフ近郊にポルタ・チェリ修道院を建て
そこの尼僧になりました。
1240年に亡くなり、そのままそこに埋葬されたようです。

ちなみに、オタカル1世は聖ヴィート大聖堂に葬られています。

                
         Jarmily Haldovéさん作コンスタンチェ 上の画の場面かしら?

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
SHINee WORLD THE BEST 2018 -FROM NOW ON- 
京セラドームに行ってきました
スタートから涙が出てラストまで止まりませんでしたが
メンバーたちと一緒に泣ける時間を与えてもらえてよかったと思っています
東京ドームでもきっと泣くと思う… でも5人に「ありがとう」を伝えに行きたいと思います


そしてグリコの看板を撮ったらオーブが写りました
やっぱりジョンも大阪に来ていたんだね… と思えて泣けてきた


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ボヘミア王オタカル1世妃 アデレータ

2018-02-08 21:18:31 | ボヘミア王妃
王妃の座は降りるもんか!!
オタカル1世妃 アデレータ・マイシェンスカー


1160〜1211/在位 (公妃)1192〜1193、1197〜1198 (王妃)1198〜1199

コンラト2世のあとを継いだのは、ソビェスラフ1世の公子ヴァーツラフ2世でしたが
すぐにオタカル1世にその座を奪われ、ラウジッツで捕らえられて
1192年に亡くなるまで投獄されていました。 未婚かもしれません。

オタカルが継承したのですが、ドイツ方面の争いにクビをつっこみ失墜します。
一瞬、叔父さんにあたるジンドリフがボヘミア公になります。 未婚らしいです。

次に弟のヴラジスラフ3世がボヘミア公になりましたが
1年でオタカルに取って代わられました。
ヘイルヴィダという妃がいましたが、チェコ語が読めず詳細はわかりません。

                
              この方らしいJarmily Haldovéさん作

そして再度オタカル1世がボヘミア公になり、ボヘミア王になります。
オタカル1世妃は、マイセン辺境伯オットー2世の娘アデレータです。
      
二人はオタカルの追放中、1170年に出会っています。
政治的な理由も無いとは言えないが、どうやらアデレータが妊娠しちゃって
結婚を強いられたみたいです。
1178年に結婚するのですが、すぐにヴラチスラフが生まれちゃってます。

1192年にボヘミアへ戻りましたが、1193年には廃位されボヘミアを去ることになります。
アデレータは兄弟のもとに身を寄せ、オタカルはドイツの公爵の傭兵になりました。
この時、アデレータがオタカルに「どこかで働いてよ!」と傭兵になることを
すすめたことから、夫婦は仲違い中でした。

1197年、オタカルはボヘミア公に返り咲き、さらに1198年にボヘミア王になると
1199年、血縁を理由にアデレータとの離婚を決心します。
わたくし、一生懸命探してみたのですが、どこが血縁なのか辿りつけませんでした。
さらにオタカルは、一男三女の子供たちとも縁を切ろうとします。
これはものすごくリスキーですね。 跡取りがいなくなっちゃう。
家族全員が嫌いだったってこと? つまはじき父さんだったのでしょうか?

オタカルはアデレータに離婚を宣言するとすぐに
ハンガリー王ベーラ3世の王女コンスタンチェと再婚しました。
さては離婚前から決まっていたか?
ちなみに、オタカルとコンスタンチェは遠い親族にあたります。

アデレータは1205年に娘のマルケータを連れて、ボヘミアに一時帰国します。
オタカルがマルケータとデンマーク王ヴァルデマー2世との結婚を決めたからで
アデレータはマルケータとボヘミアを発つと、その後は戻りませんでした。

教皇はとっくにオタカルとアデレータの結婚の無効を言い渡していましたが
アデレータはあきらめず、ずっと王妃を名乗って争っていました。
けれども1210年に敗れ、ガックリしてしまったのか1211年にマイセンで亡くなりました。

どうせ返り咲けないなら第二の人生を歩めばよかったのにね。
そんなに王妃のタイトルが惜しかったのでしょうか?
イヤらしい話しになりますが、王の未亡人になると年金がいただけたらしいので
そういうのも関係していたのかしら?

                
               Jarmily Haldovéさん作アデレータ

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことハンドメイドコーナー
何年か前、分冊もの ロビ を作っただんなさんが、今回は『ねこあつめ』の羊毛フェルトに挑戦するそうな!!
初回のしろねこさんが上手くできたら定期購読するらしい


これです
作ってみたいな!という方は下の画像をクリックしてね




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『王妃に別れをつげて』たった二日で世界は変わる

2018-01-20 19:52:17 | フランスの作家
LES ADUEUX A LA REINE 
2002年 シャンタル・トマ

ヴェルサイユを描いたもの、マリー・アントワネットの生涯を描いたもの、
フランス革命を描いたものは山のようにあって、到底全部は読みきれないですね?

わたしもハナから読破は諦めて、ぼんやり知ってるし… てな感じでやり過ごしてるのですが
この小説は、王妃の朗読係から見た革命前の二日間、という背景が面白そうだったので
読んでみることにしました。

感想なんですけど…
フランス革命がなかったら、ヨーロッパに独裁国家という概念は生まれなかったのかなぁ…
などと思ったりしています。
歴史とか思想とか、よく解んないまま書いてますけどね

たとえばね、1789年、7月15日の夜中に何者かがルイ16世を起こすという
前代未聞の出来事があり、バスティーユがパリ市民たちによって攻撃され陥落した、と
伝えられたというウワサがヴェルサイユ宮殿内に広がります。
貴族たちはもちろん「そんなバカな!」と思うんだけど
それはバスティーユが陥ちたということより、市民たちがなぜそんな事を考えるのか…
ということが理解できないようなのね。

神から選ばれて代々続いている王や貴族たちがいるのに、自分たちで指導者を選ぼうなんて
考えるわけないじゃないか、ということだったみたいです。

けれどもバスティーユ陥落は本当らしいということになり、宮殿内がざわつきはじめます。
そして驚いたことに、まず「宮殿の門は閉めるべきじゃない?」という意見が交わされます。

つまりね、戦争も反乱も予想してなかった王や貴族たちが暮らすヴェルサイユ宮殿は
門を開けっ放しにしていて、町人も、行商人も、物乞いも出入り自由だったんだって!

自分たちは権力で下々の民たちを押さえつけているという意識はないし
まさかそんなことで恨まれるなんて… と思っていたんでしょうね。

その後、君主を引きずり降ろす事ができるんだと知ってしまった各国の民たちは
チャンスを狙い始め、王制を倒して指導者になる人が現れます。
だけど、王や貴族と違って「当たり前」と思ってないから、その座を手放さないように
必死で守りに入りますよね、秘密警察作ったり、密告させたりして。

だから、絶対王政と独裁とは、ちょっと違うもんだったんじゃないのかな?
何言ってるかわからなくなってきたので、これ以上考えるのはやめときますけど…

さて、物語では、ヴェルサイユでは前日まで儀式に乗っ取った日常が送られていて
ルイ16世たちは豪勢で何時間も続く晩餐を食べて、選ばれし貴族たちが侍っていたのに
7月16日には様相が一変します。

ルイ16世は市民たちの前に徒歩で現れ、熱狂で迎えられたことに気を良くして
マリー・アントワネットや弟のアルトワ伯(後のシャルル10世)が
宮殿を発とうと説得しても、ヴェルサイユに残る決心をします。
それどころか、宮殿を警護していた海外の兵士たちも国に帰してしまいました。

王の就寝前の謁見は閑散としたものになり、フランス人の衛兵たちは横柄になります。
召使いたちは呼んでも来ないし、宮殿内で配られたビラには(貴族の)処刑者リストが
書かれていて、その筆頭は、マリー・アントワネットとアルトワ伯でした。

マリー・アントワネットは、お気に入りだった友人たちの部屋を訪ねますが
みな宮殿を発った後でした。
そして、誰よりも愛していたガブリエル・ド・ポリニャックも逃亡を決めました。

主人公のアガート・ラボルトという朗読係補佐の女性は、二日間の宮殿内の人々と
王妃の変化、そして自分自身の変化を驚きを持って見つめていましたが
最終的には王妃の命令で宮殿を後にします。
その命令の内容はふせときますが、一番泣けるシーンかもしれないです。

ストーリー自体は、そんなに驚くべきものでもなんでもないんだけど
窮地に陥った貴族の右往左往ぶりと無力さ、薄情さが興味深い物語でした。

でも自分もそうするなぁ、きっと。
「王妃は自分の意志で残るんだから…」と言い聞かせ、さっさと荷造りをするよね。
だから、逃げ出したガブリエルなども責められませんでした。

ちなみに、王妃に忠誠を示したために惨殺されたとされるランバル公妃は
この物語の中では、お気に入りだったようには描かれていませんでした。

フィクションなのでね…
でも、物語に登場する王妃の小間使い頭のカンパン夫人が後に回想録を出版してます。
荷造りシーンや食事シーンなどはそれを下敷きにしているかもしれないですね。
だとすると、マリー・アントワネットのパーソナリティが
少しは垣間見える貴重な一冊かもしれないです。

以前映画化されたみたいですね?
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね




ひとことK-POPコーナー
BIGBANG うたんぷ を手に入れ、さっそくみんなに送りつけたわけなんだが、かなり歌ってくださるので
ビックリしちゃいました  電車の中などでお年寄りやあかちゃんがドッキリしないように気をつけなければ…


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ボヘミア公ソビェスラフ2世妃 エリシュカ

2018-01-13 21:06:08 | ボヘミア王妃
                Jarmily Haldovéさん作
どうも前妃とくらべちゃってねぇ・・・
ソビェスラフ2世妃 エリシュカ・ポルスカー


1152?〜1209/在位 1173〜1178

1173年に、一度ベジドフを敗ってボヘミア王になったソビェスラフ2世の妃は
ポーランド公ミェシュコ3世とエルジェビエタの公女エリシュカです。

実はエリシュカは、生年がはっきりしていないばかりか
本当に王女だったのかどうかも定かではないんです。

だけど名前が一緒だからエルジェビエタの娘だと信じられているらしい…
今ツっこみましたよね? 名前みんなおんなじじゃん!! と

1173年に結婚しました。
     
1178年、ベジドフがプラハを包囲した時、エリシュカは城にいて逮捕されました。
けれどもすぐ解放されました。

ソビェスラフは1179年に再度蜂起するんだけれども、ベジドフに完敗します。
夫婦はポーランドではなく、ハンガリーに亡命しました。

1180年にソビェスラフ2世が亡くなるのですが、ポーランドへは帰らず
すぐにラウジッツ辺境伯コンラト2世と再婚しました。
あやしーね… なにかを勘ぐりたくなってしまうわたし…

その後の記録はないのですが、1209年に夫コンラト2世が、エリシュカの義兄
ポーランド大公ヴワディスワフ3世をレブスの戦いで敗っていまして
これは、エリシュカの死に捧げれたものだと言われています。

夫コンラト2世は1210年に死去しました。
エリシュカはドーベルルーク修道院、夫はヴェクセルブルク小修道院に埋葬されています。
なぜかしら? 一緒じゃないんだね。


               
                Jarmily Haldovéさん作
なにもわからない若妻
コンラト2世妃 ヘリチャ・ズ・ヴィッテルスバハ


1160〜1198/在位 1189〜1191

コンラト2世は、ヴラジスラフ2世が一生懸命つながりを求めた
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の引き立てで、まずは初代モラヴィア辺境伯に叙されます。

そして1189年に、フリードリヒ1世と地方貴族たちの後押しでベジドフを敗って
ボヘミア公になりました。

コンラト2世の妃は、プファルツ伯オットー7世の娘ヘリチャです。
           
1176年、16歳ぐらいで、25歳ぐらい年上のコンラトと結婚しました。

コンラトはナポリ包囲中の1191年に亡くなるんですが
その後ヘリチャがどうしていたのかわかりません。
30歳前後なので、再婚しようと思えばじゅうぶんできる年なんですけどね。

子供がいないと記録もないとは… 王妃の人生って寂しいものですね。
1198年に亡くなっています。

(参考文献 Wikipedia英語版)

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ボヘミア公ベジドフ妃 アルジェビタ

2018-01-03 09:53:57 | ボヘミア王妃
                Jarmily Haldovéさん作
戦場で旗を振る王妃
ベジドフ妃 アルジェビタ・ウェルスカー


1145〜1189/在位 1172〜1173 1178〜1189

あけましておめでとうございます
今年1年が皆様にとって夢と希望と妄想にあふれた1年でありますように…

ボヘミアの継承問題は混沌を増していきますよぉ
退位・復位の繰り返しで、順番がよくわかんないよーーー!!

とりあえず、父王ヴラジスラフ2世から指名されてボヘミア公になったベジドフ。

ベジドフの妃は、ハンガリー王ゲーザ2世とエウフロジーナの王女アルジェビタです。
1157年か、1159年に結婚しました。

アルジェビタは2回、ベドジフの不在中摂政を務めました。
一度はソビェスラフ(後の2世)からプラハを守ることに成功しています。
ソビェスラフとの関係はこんな感じ
          
この争いの最中、アルジェビタは戦場に現れたらしいよ! それも旗持って!!
白旗じゃないですよ、旗を振って戦士たちを鼓舞したんですよ。
君主の妃みずから… 士気があがりますよね。

1184年には、同じような状況でコンラト(2世)に勝利しました。

コンラトとのつながりはこんな感じ
            
しかし、1189年にはコンラトに降伏しました。
その時に捕らえられて亡くなったのか、その後亡くなったのかはわかりませんが
1189年に45歳ぐらいで亡くなっています。 処刑じゃなければよいのだが…

いくら旗を振って励ましても、こんなに攻めてくるんじゃね… しかも親戚ばっかり。
戦わされる兵士たちもいい迷惑ですよね! 親族会議で決めてほしいよ。

お子様は一男六女ですが、男の子はたぶん成人していません。
成人していたら、今後の一族の争いに加わっていたかもしれないですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー
去年の12月18日にとても悲しい事があって、仕事にはなんとか行って、考えると泣けてくるので仕事に集中して
でもやはり夜になると泣けてきて… という感じで、なにも手につかない年末を送りました
まだ辛くて歌声は聞けないし、映像も見られません
でも新しい年がやってきたし、現実をうけとめていかなくてはね…

ジョンヒョン、6年間、辛い時や悲しい時、支えになってくれてありがとうございました
あなたがくれた歓びは忘れません  ご冥福をお祈りします


ひとこと年越しコーナー

で、本当は行こうかどうしようか迷ったんだけど。せっかく当たったし、旦那さんも楽しみにしてたし…というわけで
今年も東急ジルベスターコンサートで年越ししてきました
『展覧会の絵』のカウントダウンはピタッとキマって気持ちがよかったです 少し前むきになれました


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ボヘミア王ヴラジスラフ2世妃 ユディタ

2017-12-14 10:00:52 | ボヘミア王妃
                Jarmily Haldovéさん作
歴史的な橋に名を残した王妃
ヴラジスラフ2世妃 ユディタ・ドゥリンスカー


1135〜没年不詳/在位 1158〜1172

ブラジスラフ2世が、前妃ゲルトルーダの死から3年後に再婚したのは
チューリンゲン方伯ルートヴィヒ1世の娘ユディタです。
ユディタは、ブラジスラフより15〜20歳ぐらい年下で18歳ぐらいでした。

歴史家によれば、ものすごく美しく、知的で品格があり、ラテン語も話せて
政治的な知識も持ち合せていたようです。

結婚の最大の理由は、ユディタの兄チューリンゲン方伯ルートヴィヒ2世の奥さまが
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサの義理の妹にあたるということ。
どんなに “ 親戚の親戚 ” 的に薄い繋がりでも、もっておきたかっのでしょうね。
       
結婚後、2年ぐらいして男の子が誕生しました。
この時ユディタは、二十歳さこそことは思えない世渡り上手ぶりを発揮します。

中世では、母親が子供の名前をつけるのが一般的だったそうなのですが、ユディタは息子に
一族の伝説的な創始者である、プシェミスルという名をつけようと考えました。
(オタカル1世の正式名称は、プシェミスル・オタカル です)
貴族たちや国民たちの♥をつかみそうなアイデアですね!

やはり神聖ローマ皇帝を手に入れる一家の出、女性も帝王学を学ぶのかもしれません。
ブラジスラフの不在中は、君主の代理を務めるほどの手腕だったようです。

そんなユディタなのですが、1158年にブラジスラフが王になった後も
王妃として戴冠したという記録がないんだって!

ブラジスラフ2世の治世中、ヴルタヴァ川の橋の建設が始まりました。
これは中世初の石造りの橋で、ユディタ橋と呼ばれていました。
この橋は1342年に洪水で流され、1357年に神聖ローマ皇帝カール4世が再建
現在はカレル橋として有名です。

夫を支えてきたユディタですが、継承争いでは意見がわかれました。
ユディタはオタカルを強く推しましたが
ブラジスラフは前妻ゲルトルーダとの息子ベジドフを指名しました。
ま、長男ですからしかたないか…

1172年、ヴラジスラフ2世が退位すると、一緒にチューリンゲンへ亡命しました。
ユディタには里帰りになりますね。

2年後、ヴラジスラフはドイツ・ザクセン州のメラーネで亡くなります。
残念なことに、ユディタがいつ、どこで亡くなったのかは知られていませんが
息子オタカルの治世まで生き延び、1210年に75歳で亡くなったという説があります。

1160年頃にユディタがチェコのテプリツェに設立した
ベネディクト派の修道院に埋葬されているのが、後に見つかっています。

ヴラジスラフ2世の王子たちは、どちらもハンガリーの王女たちと結婚してますね。
ハンガリー、よっぽど味方にしときたかったんだろうか?
     
橋の名前にまでなった王妃の没年がわからないとは… 亡命した王一族の悲哀が感じられます。
せめて墓所だけでもわかってよかったですね。
でもヴラジスラフ2世の墓所はプラハのストラホフ修道院で、二人は別々なの。
こちらはヴラジスラフ2世が設立したものです。

(参考文献 沼野充義氏『中欧』 Wikipedia英語版)

ひとことK-POPコーナー

行って来ましたよ! 東京ドームの
BIGBANG JAPAN DOME TOUR 2017 LAST DANCE
 
ファンミからの    ステージ
1日BIGBANGを楽しんで来ました。 席はアリーナの真ん中後方付近で、サブステが真上を通るとこ! 
4人を近くで見られたよ〜!! スタンドのはしからはしまで一杯の東京ドーム中が大興奮でした
でも最後は号泣… 京セラにもハワイのテソンのイベントにも行けないわたしは、本当に見納めになっちゃうの…?
去り際の「また会えるよ」という言葉がグッときました


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ボヘミア王ヴラジスラフ2世妃 ゲルトルーダ

2017-11-30 21:27:52 | ボヘミア王妃
夫に福をもたらした若妻
ヴラジスラフ2世妃 ゲルトルーダ・バーベンベルスカー


1118〜1150/在位 (公妃)1140〜1150 (王妃)せず

ご無沙汰しておりました。
家庭の事情で今月はなかなかアップできず、マルッと空いてしまいました。
ボヘミア王妃編の続きからいってみます。

お父様ヴラジスラフ1世に、後継者に指名されなかったヴラジスラフは
ボヘミア公になり、後にボヘミア王になりました。

最初の妃はオーストリア辺境伯レオポルト3世の娘ゲルトルーダです。
母はローマ皇帝ハインリヒ4世皇女アグネスで、ドイツ王コンラート3世とは義理の兄妹です。
この結婚は、ブラジスラフにとって願ったり叶ったりでした。
        
プラハ城がブルノ公コンラト2世に包囲されている時、ゲルトルーダは
義理の弟デオポルドの援護で城を守り抜きました。
その時、ブラジスラフはコンラート3世に助けを求めようとしていたらしい。

義理の弟が善い人でよかったよ。

ブラジスラフ2世は、ボヘミアなりのキリスト教を確立しようと模索中でした。
ゲルトルーダは夫を励まし、助けました。
その結果、ブラジスラフは海外から宗教を取り入れ、目指すものを作り上げたそうです。
キリスト教には詳しくないんですが、ロシア正教とかギリシャ正教とかありますよね?
それのチェコ版ということでしょうか?
           
夫を支えたゲルトルーダは、30歳ぐらいで亡くなりました。
王妃にはなっていません。

               
             Jarmily Haldovéさん作ゲルトルーダ

(参考文献 Wikipedia英語版)

ひとことお相撲コーナー
お相撲にはまったく詳しくなく興味も無いんだが、私がブログを始めた同じ頃に、日馬富士もブログを始めてて
いったいお相撲さんて何を書くんでしょう?と思ってフォローしてた事がありました。 なので、ちょっと悲しいです


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