まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『なんでもない一日』ローリー大活躍

2018-06-22 22:15:52 | アメリカの作家
THE SMOKING ROOM AND OTHER STORIES:A COLLECTION 
シャーリィ・ジャクスン

まだ長篇を読む勇気は出ないんだが『くじ』が面白かったので手を出してみました。

なんでもシャーリィ・ジャクスン没後に、息子さんと娘さんが納屋で見つけた
未発表原稿や、単行本未収載など54篇をおさめてアメリカで出版された
短篇集『Just on Ordinary Day』から、30篇を選び出したものらしいです。

未発表ということは本人が気に入っていなかったということかしら?
それとも、若くして亡くなっているので短篇集を編纂する時間がなかったのかしら?
いすれにしても『くじ』と比較しても遜色を感じませんでした。

30篇のお話しは、ものすごーくざっくり3パターンにわけることができると思います。
ちょっと背筋が寒い感じの恐ろしさを孕んだストーリー。
日常的な人々の会話や行動が、読み進むにつれてもやもやもや…としてくるストーリー。
(ブラックめな)ユーモアを描いたストーリー。

印象的だったお話しをいくつかご紹介しますね。

『悪の可能性(The Possibility of Evil)/1966年』
祖父の代から町で暮らしているストレンジワース家の、71歳になるミス・アデラは
町の人々に目を配り、人々からも一目おかれている。
その日も買物に出かけ人々と会話を交わし、帰宅するといつものように手紙を書き始めた。

ミス・アデラ… すごく立派な婦人なんですよ、見習いたいです、と言いたいところですが
善行がいきすぎて困った人になってしまってます。
こういう人はわりといそうな気がするけどね…

『レディとの旅(Journey with a Lady)/1952年』
心配性の母を振り切り、ひとりで列車に乗っておじいちゃんの家に向かう9歳のジョセフ。
せっかくの旅が、隣に座った若い女性のせいで台無し… と思っていたら
列車に警官が乗り込んで来た。

内容はありがちですぐ展開が見えてくるんですけど、面白かったなぁ。
ジョセフと女性の会話がね、 “ どっかで読んだ感 ” を補ってあまりある、って感じかしら。
そして爽快な読後感… 褒められた話しじゃないんですけれどもね。

『車のせいかも(Maybe It was the Car)』
いろいろな事が原因かもしれないが、夫の生徒が言った一言も気にかかり
車に乗ると40マイルほど走り、コロニアル風のホテルに泊まった。
翌日ホテルを出ると、町外れで売りに出されている田舎家に目をとめた。

結局奥さんは一泊して家に帰るんですけど、どうやら家族は慣れっこみたいです。
主人公は作家ということで、もしかしたら本人たちがモデルになってたりするのかな?

他にいくつか印象に残っているお話しがあるのですが、どう説明してよいのやら…
とにかく “ 延々と ” というイメージのストーリーで、例えばね
『メルヴィル夫人の買い物(Mrs.Melville Makes Purchase)』というのは
クレーマーっぽい夫人が百貨店でずーっとイライラさせられて文句タラタラ、ていうのを
『S・B・フェアチャイルドの思い出(My Recollection of S.B.Fairchild)』は
買い物した商品が不良品で、代金払わん! 代金払え!! というのを
なんのひねりもなく書き続けているんですよ、最後はオチるけどね。

つまらなそうでしょ? それが面白いんですよね。
リアルバラエティで誰かを追っかけてる感じかなぁ? 
でも映像にしたらつまらない気もしますけど… 不思議なんだけど読むと面白い。

それから最後の方は、ローリーという少年が大活躍です、あまり良くない感じで。
ローリーというのは、作者の息子さん(ローレンス)と同じ名前なのよね。
思春期の息子を抱えたママの不安と不満を見事に表しているんだろうか?

いろいろな意味で読み応えがある一冊でした。

私が勝手に描いてたシャーリー・ジャクスンのイメージをぶち壊す!
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね




ひとことテレビコーナー
『孤独のグルメ 韓国出張編』おいしそうだったですね〜 あぁぁ…行って食べたい! 小皿ワールドに埋もれたい!! 
ソン・シギョンさんの人柄の好さが炸裂! 今ちょうどKstyle LIVEで見えるラジオやってらっしゃいますね


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スコットランド王ジェイムズ4世愛妾 ジャネット

2018-06-20 21:34:45 | 王の寵姫・愛妾
とても長いおつきあいだった
アンガス伯アーチボルト・ダグラス夫人 ジャネット・ケネディ


1480〜1545/愛妾 1497〜

スコットランド王ジェイムズ4世は結婚前も結婚後も、たくさんの恋人がいたそうです。

イングランドのヘンリー8世は数多くの愛人を手近なところで選んでいたような印象が
ありますが、同年代のジェイムズ4世も近場で見つけていたみたいです。

まずはジャネット・ケネディです。
上のポートレートは本の表紙ですね? スコットランドでは有名なのでしょうか?

ケネディ家というのはスコットランド由来だと聞いたことがありましたが
ジャネットは名家ケネディ卿ジョンの娘さんでした。
何代か遡るとロバート3世に繋がっています。
       
母のエリザベスは、初代ハントリー伯アレグザンダー・ゴードンの娘です。

なんだかこの当時、スコットランドはこのゴードン家系と
アンガス伯とかダグラス伯のダグラス家系がワラワラいる印象を受けています。

で、ジャネットは、17歳ぐらいでアンガス伯アーチボルト・ダグラスの愛妾になります。
(13歳ぐらいで結婚した説があります。 相手はゴードン家系の方らしい)
それで宮廷でジェイムズ4世の目にとまり、愛妾になったってことなんですが…

アンガス伯の愛妾になって、けっこうすぐにジェイムズ4世にのりかえているのよね。
いくら家臣とはいえ、自分の可愛い人をもってかれちゃうというのはどうなの?
アンガス伯は数年前にジェイムズ4世に謀反をおこそうとしたことがあります。
いくら許してもらえて忠誠を誓ったからってねぇ…

ジェイムズ4世の数ある愛妾の中で。ジャネットが一番長く続いた相手で
マーガレット・チューダーとの結婚後も続いていたと言われています。
お子様も三人生まれていて、そのうちのひとりが初代マリー伯になりました。

ジャネットは、ジェイムズ4世の愛妾をしながら他にも二人の男性と付き合っていて
そのうちのひとり、初代ボスウェル卿ジョン・ラムゼイと1505年に結婚しました。
夫は1513年にフロドゥンの戦いで亡くなるのですが、ジェイムズ4世も
もう一人の恋人もフロドゥンの戦いで亡くなっています。
しかも同じ年にアーチボルト・ダグラスも亡くなりました。

後ろ盾が一気に… その後の詳しいことはわかりませんが
認知してもらった子供もいたし、まだ35歳前後だから再婚したかもね。

       
家系図が楽しかったので…
モートン伯ジェイムズ・ダグラス夫人 マリオン・ボイド


生没年不詳/愛妾 1490〜

マリオン・ボイドはなにもエピソードがないのですが、家系図が楽しかったので…
アンガス伯アーチボルト・ダグラスの二人目の奥さんの姪にあたります。

ジェイムズ4世との間には二人子供がいて、長男アレグザンダーは
セント・アンドルーズ大司教になり、フロドゥンの戦いで亡くなりました。
         

(参考文献 森譲氏『スコットランド王国史話』 Wikipedia英語版)

ひとことワールドカップコーナー
勝つとはね〜! お仕事が休みだったのでオンタイムで観てまして大興奮でしたよぉ!!
今回はフェルナンド・トーレスが出てないので日本一筋でいこうと思ってますけど
ステキな選手を見つけたらそちらも応援しちゃうかも…  ところでトーレスが鳥栖に来るって本当ですの??


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スペイン王フェリペ4世愛妾 マリア

2018-06-04 20:55:42 | 王の寵姫・愛妾
熱しやすく冷めやすい…にふりまわされた一生
マリア・イネス・カルデロン


1611〜1646/愛妾 1627〜1629

ボヘミア王妃編が終って、後のことをなんにも考えてませんでした… というわけで
寵姫・愛妾シリーズいってみます。

どこの国にも恋多き王様はいるものですね。
情熱的な印象を受けるスペインの王室ではフェリペ4世が有名です。

とにかく好きになったらまっしぐら、手に入るものは拒まずという感じで
情事を繰り返していたらしいのですが、一番有名なのがマリア・カルデロンです。
ラ・カルデローナという名前で女優をしていました。

なぜ彼女が有名かというと、お子様はたくさんできたんだけど、なぜか王子が生まれない
あるいは長生きしなくて後継ぎが定まらないスペイン王家に
ファン・ホセという立派な男子をもたらしたからということでしょうか?
それが後々混乱を呼ぶのですが…

スペイン語がわかればたぶん書いてあるのでしょうけど、両親のことはわかりません。
16歳の時には女優として舞台に立っていたということです。

二人の出会いには諸説ありますが、コラル・デ・ラ・クルスという劇場での
デビュー公演でフェリペが見初めたという説と、旧王宮に招いた劇団にいたマリアに
フェリペが言いよった、という説が有力みたいです。

二人はすぐに恋に落ちたということなのですが、実はマリアにはすでに夫がいまして
その上、妻を亡くしたメディナ公ラミロ・ペレス・ゴンザレスと愛し合っていました。
     
すったもんだの末、フェリペはメディナ公を追放し、マリアに女優をやめさせ
とうとうマドリード宮殿で暮らすことを承諾させました。
(メディナ公は当時のスペインの有力者の娘婿でした。
 追放にはもしかしたら政治的な理由もあったかもしれませんね)

ここからはしょうるけど…
決闘まがいの事件や恋敵の追放までして、なかば強制的にマリアを手に入れたフェリペは
1629年にマリアが男の子を生むと、宮殿から追い出すことにしました。
息子のファン・ホセは、どうやらメディナ公の子供だというウワサもたっていたようです。
マリアはいやがったようですが、結局二人の関係は終わりました。

マリアはその後も女優を続けていましたが、夫とはどうなったのか
メディナ公とはどうなったのか、詳しいことはわかりません。

1642年、マリアは修道院行きを強制されました。(本人が熱望してという説もあります)
この年になにがあったかしら?

王妃イサベル・デ・ボルボーンが亡くなるのも
マリアナ・デ・アウストリアとの再婚もまだ先だし…
息子ファン・ホセの台頭はもっともっと後だし…

いずれにしてもマリアはサン・ファン・バウティスタの修道院で尼僧になり
翌年に修道院長になりました。

たった2年のお付き合いで王と別れて13年、もうほっといてあげたらどうか?
権力者に気に入られるというのも、ただただラッキーというわけではなさそうですね。

(参考文献 佐竹謙一氏『浮気な国王フェリペ四世の宮廷生活』 Wikipedia英語版)

だからって浮気のことばかりではない真面目な一冊です
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね





ひとことK-POPコーナー



잘 돌아왔어요 SHINee 앞으로도 사랑해요 SHINee


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ボヘミア王イジー妃 クンフタ

2018-05-23 20:44:03 | ボヘミア王妃
お若いのにしっかり者だったらしい
イジー妃 クンフタ・ゼ・シュテンベルカ


1425〜1449/在位せず

ラジスラフの後は「ハプスブルク家の王なんて許せるか!」ってなわけで
オーストリア軍を敗ったボヘミア貴族の中から王になったポジェブラト家のイジーです。
       
即位前に結婚したのが、ボヘミア貴族のスミル・シュテンベルクの娘クンフタでした。
結婚から3年後の1444年に、19歳にしてポジェブラティに病院を設立。
20世紀初頭までクンフタの名がついていいました。
若者の教育や学校建設、囚人の社会復帰などに尽力し、システムを確立したらしい。

ものすごく立派なお妃様にみえますが、エピソードが少ないですね。
どこかの王家の王女じゃないからでしょうか?

1449年、24歳の誕生日の翌日、双子の出産の後亡くなりました。
お子様は6人で、次女カテリーナはハンガリー王マーチャーシュの妃になりました。



              
いよいよ最終回
イジー妃 ヨハナ・ズ・ロジェミタール


1430〜1475/在位 1458〜1471

クンフタを亡くしたイジーは翌年、ヨハナと再婚しました。
       
20歳のヨハナは、イジーをものすごくサポートし、国事にも打ち込みました。
けれども子供が生まれてからは母親の役割を優先したようです。

1470年、義理の娘カテリーナの嫁ぎ先だったハンガリーのマーチャーシュが攻めてきました。
ヨハナはチェコ軍を率いたそうですよ!
たぶんイジーも戦いに明け暮れていたと思うので、夫が不在の時はわたくしが!と
奮闘していたのでしょうね。

1971年、イジーが死去しました。
ヨハナは、ボヘミア王の未亡人が代々隠遁してきたムニェルニークに移り
1475年に亡くなりました。

死後は、庶民の教会に葬ってほしい、あるいは、聖ヴィトゥス教会のイジーの隣がいい…と
希望していたそうですが、どこに埋葬されたんでしょうね?

ヨハナの葬儀の喪主は息子のザクセン公ヴィルヘルム3世ではなくて
次の王になるハンガリー王ウラースロー2世でした。
一応イジー支持派から選ばれて王になったようなのですが、他所者なので点数稼がねばね!

             
            Jarmily Haldovéさん作ヨハナ

この後ボヘミア王位はヤゲロン家、そしていよいよハプスブルク家へ…
続きはそちらからどうぞ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ボヘミア王ヴァーツラフ4世妃 ゾフィエ

2018-05-15 20:14:11 | ボヘミア王妃
未亡人になってからEnjoy?
ヴァーツラフ4世妃 ゾフィエ・ヴァボルスカー


1376〜1428/在位 1389〜1419

前妃ヨハナを飼い犬に殺されちゃった(らしい)ヴァーツラフ4世は
ヨハナの従妹にあたるゾフィエと再婚しました。
従姉にフランス王シャルル6世妃イザボー・ド・バヴィエールがいます。
        
ヨハナの死から2年後、育ての親バイエルン公フリードリヒ1世に連れられて
プラハに向かい、翌年結婚しました。

ゾフィエは狩猟が大好きで、夫婦共通の趣味があったせいか仲は良かったそうです。
ヴァーツラフ4世は愚王として名高かったそうなのですが
一方ゾフィエは経済方面で有能だったらしいです。
もしかしたら影で夫を操っていたかもしれませんね。

1419年、ヴァーツラフ4世が亡くなりました。
相変わらず継承者をねらう人が多数いる中、お子様がいなかったゾフィエは摂政をしながら
義弟ジグムントを支持することでボヘミアからの保護を得ることにしました。

ゾフィエも43歳、故国に返されてもねぇ…
それとも他にボヘミアに残りたい理由でもあったのでしょうか?

めでたく王になったジグムントとゾフィエは契約を交わしました。
ゾフィエは権力は手放しましたが、なぜかジグムントと二人で領地を仕切っていました。
二人はお付き合いしている… というもっぱらのうわさでした。
ジグムントは「ゾフィエはポーランド王ヴワディスワフ2世と再婚する予定だから!」と
言い訳していたようですが、再婚することなく1428年に亡くなりました。
    
旦那さんが亡くなってから、次の王様、例えば弟とか義理の息子なんかと
ウワサになる王妃って多いような気がする… すぐには思い出せないけど。

まぁ、未亡人といってもお若いですからね…

               
              Jarmily Haldovéさん作ゾフィエ

で、噂のお相手ジグムント妃はマリア・ウヘルスカバルボラ・チェリスカでした。       
               
              Jarmily Haldovéさん作バルボラ

その後はハプスブルク家のアルブレヒト、王妃はアルジェビェタ・ルクセンブルスカ
ラジスラフ(未婚)と続いていきます。

ボヘミア王妃編、もうすぐ最終回です。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ボヘミア王ヴァーツラフ4世妃 ヨハナ

2018-05-09 21:38:10 | ボヘミア王妃
死因はなんだって
ヴァーツラフ4世妃 ヨハナ・バヴォルスカー


1362〜1386/在位 1378〜1386

カレル1世の次男で後を継いだヴァーツラフ4世の妃は
下バイエルン公アルブレヒト1世の公女です。
母マルガレータはヴァーツラフ2世王女マルガリェタを祖母にもちます。
父方の祖父は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ6世です。
       
8歳の時、結婚のためにハーグからプラハに旅立ちました。
ヴァーツラフは9歳でした。

ルクセンブルクとバイエルンの繋がりを強くするための結婚でしたが
ヴァーツラフの最初のお妃候補は、ホーエンツォレルン家の
エリーザベト・ニュルンベルクでした。
しかし、エリーザベトがプファルツ家のルパートと結婚したので
ヨハナと結婚することに。

ちなみに、ドイツ王というのは神聖ローマ皇帝候補みたいなもので
ヴァーツラフもドイツ王になります。
この時代、各名家が陣取り表みたいなものを広げて縁談を考えてたとしか思えないですよね。

二人の結婚生活は16年に及びましたがお子様はいませんでした。
一説によるとヴァーツラフはアルコール依存症気味で、不能だったらしいです。

ヨハナは23〜24歳で亡くなるのですが、言い伝えによると…
ヴァーツラフの猟犬に攻撃されたってことです。

でもさ、独りでフラフラと犬舎っていうの? 猟犬がウロウロしてるところに行くわけないし
なんか臭いません? 猟犬放たれちゃったとかさ…

ヴァーツラフはジェブラーク城内で、それはそれは壮大な葬儀を行いました。
これは本当に悲しんでのことなのか隠蔽孝作か… 最近疑りぶかくなっちゃっていかんね。
葬儀後プラハ城に埋葬されました。
ヴァーツラフはその後、ヨハナの従姉妹のゾフィエと再婚します。

ヴァーツラフは、1400年にドイツ王を廃位されてプファルツ家のルパートにもってかれます。
お嫁さんも王位もとられちゃってね…

                
                Jarmily Haldovéさん作ヨハナ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ボヘミア王ヤン妃 ベアトリクス

2018-05-04 18:55:54 | ボヘミア王妃
国民に無視された王妃
ヤン妃 ベアトリクス・ブルボンスカー


1320〜1383/在位1334〜1346

1330年、ヤンの王妃エリシュカが結核で亡くなりました。
ヤンは、それはそれは悲しんだそうです、真偽はともかく。
自分はよそ者で亡くなったのはボヘミアの王女だから、まわりの目も気にしないとね。

ポーズだかどうだか、エリシュカの死後4年間再婚しなかったヤンですが
フランス王フィリプ6世が親交を深めようと再婚をおススメしてきました。
相手はブルボン公ルイ11世の末娘ベアトリクスです。

おススメはいいけど、ベアトリクスはすでに、ターラント公フィリッポと婚約してて
そちらは破棄されてしまいました。
       
16歳で結婚したベアトリクスは、年上の継子カレルの妃ブランカ
お世話してもらうことになりました。
出身が同じフランスだから心強いですね。 でもヴァロア家とブルボン家だけど…

ベアトリクスは、ブランカとやけに比べられちゃってつらかったみたいです。
ブランカ、エピソードがあまりないけど、できた人だったのでしょうか?

ベアトリクスはというと、冷たそうで傲慢で、チェコ語を嫌悪していたということで
国民には不人気でした。
ブランカはその逆だったのかしら?
たしかに、ボヘミア王女だった王妃の後妻というのは、キツい立場かもね。

それにしても肖像画、なんとかならなかったのでしょうか?
不人気でもしかたない雰囲気が充満していますね。
もう少し明るそうなお顔で描いてもらえばよかったものを…

1337年、王子ヴァーツラフが誕生し、その3ヶ月後豪華な戴冠式が行われましたが
市民たちに無視されたらしい…
そのせいか、ベアトリクスは息子を残してプラハを発ち
その後はめったにボヘミアにやって来ることはありませんでした。

1346年にヤンがクレシーの戦いで戦死しました。
ほとんど国にいなかった王妃でしたが、継子カレル1世はベアトリクスに年金を与えました。

ヤンの死後1年ぐらいしてグランシー卿ユーダス2世と再婚しました。
1383年、息子のヴァーツラフより15日長生きして亡くなりました。
パリのジャコバン派の修道院に葬られましたが、今は残っていません。
胸像がパリのサン=ドニ大聖堂にあるそうです。

                
               Jarmily Haldovéさん作ベアトリクス

ヤンの後は長男カレル1世で、後に神聖ローマ皇帝カール4世にもなります。
王妃は、ブランカ・ヴァロア、アンナ・フラツカー、アンナ・スヴィドニカ
エリシュカ・ポメランスカーの四人です。

    
Jarmily Haldovéさん作 左から、ブランカ・アンナ・アンナ・エリシュカ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ボヘミア王ヤン妃 エリシュカ

2018-04-30 18:59:00 | ボヘミア王妃
陰謀好きだったらしい
ヤン妃 エリシュカ・プシェミスロヴナ


1292〜1330/在位 1310〜1330

エリシュカは、ジンドリフ妃アンナ同様、ヴァーツラフ2世とグータの王女でした。
両親を早く亡くし、13歳の時には兄ヴァーツラフ3世も暗殺されて、残ったのは四姉妹だけ。

母を亡くしたエリシュカは、父方の伯母にあたるクンフタからすごく影響を受けていて
彼女とともにプラハ城近郊の女史修道院で過ごしました。
アンナ、義母エリシュカ・レシュカ、義理の姉ヴィオラも一緒でした。
       
で、アンナの時にも書いたんだけど、ヴァーツラフ3世が暗殺された時
未婚だったのはエリシュカだけで、ボヘミア王位を狙う各国から熱い視線が注がれました。

ジンドリフとアンナは、自分たちに有利になる縁談をいくつか持ちかけましたが
エリシュカは、1310年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世皇子ヨハン(ヤン)と結婚しました。
ヤンはボヘミアを制圧したばかりで、姉夫婦たちの痛いところをついたわけです。
18歳の若さで、姉夫婦のウラをかくとは…

王女は生まれましたが、王子が生まれずつらい思いもしたようですが
6年後、後の神聖ローマ皇帝カルロス(4世)も生まれて任務も果たしました。
慈善などに勤しみ大人しくすごしていれば、穏やかな人生が送れたと思うんだけど…

エリシュカは政治好きだったみたいなのね。
それで、ヤンとだんだん意見が食い違っていくようになります。
「わたくしのおかげで王になれたんじゃぁなくて?」なんて思ったのかしら?

1319年、ヤンを退位させてカルロスを即位させようという陰謀が噂されました。
ヤンは首謀者とされる人物を罰しましたが、エリシュカのことも疑っていたのか
子供たちの教育からエリシュカを遠ざけることにしました。

エリシュカはムニェルニーク城に移され、カルロスは投獄された後フランスへ送られました。
母子は二度と会うことはありませんでした。

ボヘミアの王女なのに政治からは遠ざけられ、味方も失ったエリシュカは
バイエルンに渡りました。
なぜバイエルンかしら? 長女マルケータがバイエルン公妃になりますけど、もっと後だし…
1323年に双子の女の子が生まれてるのよね! これは誰の子? ヤンの子?

ボヘミアを出たエリシュカを、ヤンは一切支援しませんでした。
エリシュカはヤンとボヘミア貴族たちへの恨みつらみを隠しませんでした。
もし、当時ネットがあったら、ブログとかTwitterで動画バンバンアップしたりして…
そして呆れられたりして…

1325年、エリシュカは結核にかかりボヘミアに戻りました。
5年間生き延び、1330年に亡くなりました。
離婚はしていなかったので、亡くなるまで王妃のタイトルは持っていました。

三男四女のお子様がいました。
次女ジェトカは、フランス王ジャン2世の妃になっています。

               
              Jarmily Haldovéさん作エリシュカ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ボヘミア王ジンドリフ妃 アンナ

2018-04-15 19:06:26 | ボヘミア王妃
                Jarmily Haldovéさん作

思い通りにならない妹にイラつく
ジンドリフ妃 アンナ・プシェミスロヴナ


1290〜1313/在位 1307〜1310

ヴァーツラフ3世は若くして亡くなり、王妃ヴィオラとの間に嫡子はいませんでした。

そこでボヘミア王には、ヴァーツラフ2世王女アンナの夫ジンドリフが
選挙で選ばれました。
ジンドリフは、ケンテルン公でオーストリア名はハインリヒです。
1306年にアンナと結婚していました。

もちろん、父王や祖父同様ポーランドの王座もほしいところですよね?
しかし、ポーランドはピアスト家のヴワディスワフ1世が王座を奪い返しました。

そればかりか、ボヘミアの実質的な権力も、ヴァーツラフ2世王妃エリシュカ・レシュカ
再婚した、ハプスブルク家のルドルフにもっていかれてしまいます。
        
この、ハプスブルク家が囲い込んじゃってる感、すごいよね!!

アンナとジンドリフは、ひとまずケンテルンに逃れてチャンスをうかがいます。
ルドルフはボヘミア王になるんですが、1年足らずで亡くなり
ジンドリフは再びボヘミア王になりました。

でも安泰じゃないですよね、なんとかせねば!
そこで二人が目をつけたのは、未婚の妹エリシュカです。
彼女の婚姻で味方を作ろう、というわけでいくつか縁談をもちかけました。

ところが、エリシュカったら言うことを聞きやしない!!
それどころか、名家ルクセンブルク家のヤン(ヨハン)と結婚しました。
ヤンは1310年にボヘミアを占拠し、ボヘミア王になりました。
ジンドリフとアンナはまたまたケンテルンに逃げ帰り、姉妹は訣別しました。
アンナはもともと美しいエリシュカに嫉妬していたみたです。

妹の仕打ちにうちひしがれたのか、アンナは23歳の若さで亡くなりました。
ジンドリフはその後、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家のアデレードと再婚、
サヴォイ家のヴェトリーチェと再々婚しました。

ちなみに短命だったルドルフ1世ですが、エリシュカ・レシュカと結婚する前に
フランス王フィリプ3世王女ブランカと結婚していました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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ボヘミア王オタカル2世妃 クンフタ

2018-04-07 19:22:05 | ボヘミア王妃
再婚のミステリー
オタカル2世妃 クンフタ・ウヘルスカー


1245〜1285/在位 1261〜1278

1260年に、マルケータとの結婚を無効にしたオタカル2世は
翌年の1261年にとっとと再婚しました。
お相手は、マチョー公ロスチスラフの公女クンフタです。
マルケータより41歳若い花嫁でした。
        
クンフタのお母様は、ハンガリー王ベーラ4世王女アンナで、父方の祖父は
最後のキエフ大公ミハイル2世でした。

ミハイル2世の死後ハンガリーに移りました。
1261年、祖父ベーラ4世とオタカル2世が同盟を結び嫁ぐことになりました。

けれども、この同盟は10年後に破られて、クンフタの叔父イシュトヴァーン(5世)に
攻め込まれました。

オタカル2世は1278年にマルヒフェルトの戦いでドイツ王ルドルフ1世に敗れ亡くなります。
これは、前妃マルケータとの結婚で手に入れた公領をめぐる争いですかね?
その上、ボヘミア王の支配下にあったモラヴィア公領は、ルドルフ1世に制圧されました。

幼王ヴァーツラフ2世の摂政になったクンフタでしたが、コントロールできるのは
プラハ近郊ぐらい… 行く末が不安ですね。

でも大丈夫!
ヴァーツラフは、ルドルフ1世の王女グータとの結婚が決まりましたよ〜
迫りくるハプスブルク家の影…

クンフタは、ヴァーツラフの結婚で肩の荷が降りたのか
同年、ボヘミアの大物政治家ファルケンシュティン卿ザーヴィシュと再婚しました。
ところがですよ、クンフタは数週間後に急死してしまいます。

ザーヴィシュは3年後にハンガリー王イシュトヴァーン5世王女エルジェーベトと
再婚するんだけど… なにか勘ぐりたくなりますよね。

                
               Jarmily Haldovéさん作クンフタ

危なげに見えたヴァーツラフ2世の治世でしたが、ボヘミア王国を維持したばかりか
選挙でポーランド王になり、さらに祖母の系統からハンガリー王にもなりました。

ヴァーツラフ2世は、グータの死後、ポーランド王プシェミスゥ2世王女
エリシュカ・レシュカと再婚しました。

           
       Jarmily Haldovéさん作グータ  Jarmily Haldovéさん作エリシュカ

その後を継いだのは、ヴァーツラフ2世王子ヴァーツラフ3世で、王妃はヴィオラです。

                 
                Jarmily Haldovéさん作ヴィオラ

(参考文献 Wikipedia英語版)
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