拝啓・大島豊様
2002年暮れに行いました最初の質問以来、再々質問差し上げましたが回答がいただけないままなので、改めて公開質問させていただきます。
ラテン音楽誌、「ラティーナ」の2002年11月号における、「アルタン」のメンバーへのインタビューを読ませていただきました。その際の大島さんの発言の一部に納得できないものを感じました。広島への原爆投下を「我々にとっての9・11なのです」などと”説明”しておられる部分です。我々日本人の被爆体験を、そこまで矮小化して語ってしまって良いものか。
「ある意味で」なる注釈は付いていたものの、その理不尽さへのフォローにはとてもなっていないと感じました。さっそく、それに関する疑問文を、ラティーナ誌の読者投稿スペースである”オピニオン”のページに送りました。そして後日発売された12月号。同ページにそれに対する回答とおぼしきものが掲載されましたが、編集部の不手際が原因であるとの、なんとも因果関係の釈然としない内容でした。そこで、まことにぶしつけなお願いで恐縮ですが、大島さんご自身から、この件に関する説明をいただけたらと思い、ここに公開質問させていただく次第です。よろしくお願いいたします。
皆さまへ・下が、ラティーナ誌に送付したメールの全文です。文中、”インタビュアーのかた”とあるのは、大島氏を指します。念の為。
# # #
ラティーナ11月号の、「アルタンまつり2002とマレード・ニ・ウィニー・インタビュー」においてインタビュアーのかたが、広島への原爆投下を「8月6日はある意味でわれわれにとっての9・11なのです」などと表現しておられるのには唖然としました。
「世界のあちこちにおいて”テロ”を繰り返してきた”テロ国家”であるアメリカが、もう一つのテロ勢力によって攻撃を受けた」すべての民族、国家を公平に考えればそのようにしか要約できない、あの”9・11”の事件と、人類史上初めて行われた、同じ人類に対する核爆弾の投下という重すぎる出来事が、果たしてイコールで結べるものなのでしょうか。(「ある意味で」の一言は、それに対する補足には、まったくなっていないでしょう)
インタビュアーの方の、あまりにも欧米に対して隷属的過ぎる価値観には、唖然とするよりありません。まるで、「崇高な欧米の皆さんの世界の出来事に比べたら、卑しい我々の世界に起こった事など、持ち出すことさえはばかられる小さな出来事なのですが」とでも言わんばかり。
平和記念館を訪れ、広島への原爆投下について学ぶべきは、アルタンのメンバーよりもまず、あのインタビュアーのかたではないでしょうか。