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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ワイルドマン・フロム・ボルネオ

2007-11-28 23:44:57 | その他の評論


 ネットの世界にはいろいろふざけたサイトがあるもので、たとえば”世界の三面記事”なんてブログは、なかなか秀逸と言いますかしょうもないといいますか、いやまいったね、と言いましょうか。そのムチャクチャさに徹した姿勢、まことに端倪すべからざるものがあります。

 要するに”東スポ”ですな。世界のあちこちから到底信じられないようなニュースを探してきてはブログにアップしている。

 集まった記事のタイトルだけを記しても、”スピード違反のトレーラーを止めてみたら、荷台から20個以上の人間の生首が ”とか、”病院の霊安室で92才老女の遺体と屍姦した24才検査技師 ”とか、”ジェルキング -- ペニスの長さ・外周を3 - 8cm 大きくする体操”とか、まったくこんなアホな話を良く思いつくものだ、そして良く集めたものだと呆れるばかり。

 最近の”ヒット作”は、”ボルネオ島でオランウータンが人間相手の売春を強要されている”ってのなんですが。
 まあ、いうまでもなくオランウータンと性交したがる男なんて、そうはいない訳で、こんな話をまともに信じる方がおかしいんですが。しかも”オランウータン売春”が好評で客が引きもきらず、なんて内容なんだから、ますます疑わしい。

 ところがこれ、なんと某ソーシャルネットワーキングサービス内の某コミュニティで、この話をメンバー全員、本気に取ってしまったんですな。

 話が本物かどうかなんて検証も省いてメンバー各氏、このアホ・ストーリーをいきなり全面的に信じてしまい、感傷モードやら義憤モードに入って、「胸が痛いです」「ボニー、ごめんね」とかクソ甘いコメントを次々に書き連ねている。あ、ボニーってのは問題のオランウータンの名です。

 世の中には疑う事を知らない人っているんですねえ。あそこのサイトに載ってる他のニュースも全部本気で読んでるんでしょうか、あのヒトビトは。 信じてるんでしょうねえ、オランウータンの話をあれだけ簡単に信じ込んでしまったくらいですから。
 大丈夫か、訳の分からないインチキ宗教とかサギとかにそのうち引っかからないようにしろよ・・・

 PS.
 以上が昨日までの話。
 今夜、そのコミュを覗いてみたら、オランウータンに関するトピは削除されてました。理由説明は無し。
 メンバーが現実を見る理性を獲得し、そのトピを恥じたがゆえの処置であれば少しは救われるけど・・・どうなんでしょうねえ。


 下に、”ブログ・世界の三面記事”掲載の問題の記事を全文引用します。

 ~~~~~

○売春宿で客を取る裸のオランウータン

<インドネシア発> 「ボルネオ・オランウータン・サバイバル・ファウンデーション」*に保護されているポニーは、数奇な運命を辿ってきたオランウータンである。実は、彼女はここに連れて来られる前まで、売春宿で人間を相手に体を売っていたのだ。

(*1999年に発足した同基金は、ペットとして捕獲されたり、山火事等で親をなくしたオランウータンを森に戻す活動をしている。)

ポニーが発見されたのは、ボルネオ島にある小さな村(元記事によると、どうやら売春に特化した村であるようだ)の売春宿で、彼女はくさりで壁につながれ、マットレスの上に横たわっていたという。

オランウータンは、赤茶けた少し長めの毛に覆われた動物であるが、ポニーは、体中の毛を剃られ丸裸だった。

男性が近づくと、彼女はくるりと背を向け、お尻を突き出したかと思うと、ぐるぐる回し始め、セックスを誘うような素振りをしたという。保護された時、彼女は6、7才であったと推定されるが、それまで長期にわたり売春宿の女性経営者(マダム)の元にいたようだ。

基金側はポニーを助け出そうとしたのだが、マダムは、ポニーは皆に可愛がられ、稼ぎもいいからと引き渡しを頑に拒否。ポニーは宝くじの当選番号を引いたりしたこともあり、幸運をもたらす存在として見られていたというのも、断る理由の一つだったようだ。

売春宿には、もちろん女性たちも働いていたが、オランウータンとセックスするという物珍しさから、そこを訪れる客の多くはポニーを指名したという。

当時、ポニーは毛を一日おきに剃られていたため、皮膚はただれ、吹き出物だらけだった。あらわになった地肌を蚊は容赦なく刺し、痒くてたまらない彼女は蚊の刺し傷を掻き続け、そこからばい菌に感染した。その上、指輪やネックレスまで身に付けさせられていた。ポニーは見るに耐えない状態だったという。

ポニーをそこから救い出そうと、基金のワーカーたちは森林警備官と地元の役人たちを引き連れ、一年にわたり何度も売春宿に足を運んだが、その度村人たちに妨害された。彼らは銃と毒が塗られたナイフをちらつかせ、ワーカーたちを脅したそうだ。

最終的にAK-47(自動小銃)で武装した35人の警官が出動し、やっとオランウータンを救出することができた。ポニーがつながれていたくさりをワーカーたちがはずそうとした時、マダムは、「私のベビーを連れて行かないで!」と、泣き叫んだという。

インドネシアにはこのケースのような動物虐待を裁く法的処罰がなく、ポニーを囲っていたマダムらは何のおとがめも受けていない。

http://omoroid.blog103.fc2.com/blog-entry-151.html

弟のいる情景

2007-11-27 01:28:44 | その他の評論


 昨今、何がなんだか訳の分からないものを挙げて行けばきりはないのだが、とりあえず今目に付いたものを一つ。
 テレビで吉永小百合がやっているコマーシャルで”シャープの液晶アクオス”とかいうのがあるのだが、それにこんなセリフが読み上げられるヴァージョンがある。

 「炎の画家と言われたゴッホには、彼の生活を応援し続けた弟テオがいました。炎を生涯にわたって支え続けた弟でした」

 ゴッホの絵、「ひまわり」かなんかが画面に映し出され、そんな”紹介文”がしみじみと語られるのだが、それで終わりなのである。まあ、確かにゴッホにはそのような弟がいた。しかし、「だからどうした?」と言えばどうもしないのであって、”そのような弟がいた”だけで話は終わり。

 そんな弟は偉いですね、でもなければ兄弟の結びつきは美しいですね、でもない、生活費は弟にたかるばかり、そんな兄貴がいたら迷惑ですね、でもない。ただ、”そんな弟がいました”しか言おうとしないのだ、吉永小百合は。
 もちろん、その話がコマーシャルの本題である”シャープの家電を売り込む”と何の関係があるのか、まったく分からない。

 「そうか、ゴッホには生活の面倒を見てくれていた弟がいたのか。それじゃ、シャープのテレビでも買いに行こうか」なんて発想を消費者がする事を想定しているのか、このコマーシャル製作者は。謎だ。

 シャープのコマーシャルというのはこれまでのものを見ても、妙に”当社は良心的企業です”みたいな自己満足の臭気に満ちていて、それが鼻につき不愉快だったのだが、こいつは鼻につく以前に何がなんだか訳が分からん。
 CMが流れるたびに首をかしげているのだが、まあ、たいていの人は気にもせずに見流しているんだろうなあ。

映画「ホワイト・ファング」批判

2007-11-20 22:08:23 | その他の評論
 月曜日、深夜のテレビで「ホワイトファング」とかいう映画を見たんだが、ありゃなんですか?駄作を通り越した異常作品。公開当時、どんな評判になったのかしら?

 ”開拓時代のアメリカ、ゴールドラッシュに沸く山奥の鉱山町における少年とオオカイとの友情話”というのが物語の要約なんだけど、ともかく脚本がご都合主義のカタマリみたいな代物。

 なにしろ登場人物がすべて、イヌ(そして、その延長線上におけるオオカミ)のことが毎日気になって仕方がないという設定ですわ。どんな世界なんだよ、犬マニアで埋め尽くされた世界なんて。賭け事は犬同士の戦いが対象であるし、街の住人の喧嘩も犬が原因。そんなに年がら年中、犬のことばかり気にしている人間集団ってシュール過ぎる。

 主人公たるオオカミも凄いぞ。巨大なヒグマに追われた少年を守るために牙を剥いて恫喝すれば、何倍もの大きさのヒグマが尻尾を巻いて逃げ、採掘場を襲った完全武装の強盗団はオオカミが咬みかかっただけでヒイヒイ悲鳴をあげて逃げ出す。

 坑道の落盤で人が土砂に埋められても、オオカミが飛んでいって前足でちょっとサクサクやれば簡単に救出されてしまうし、ついでにオオカミのその前足には金色の粉が付着していて、なんとそれがきっかけで金の鉱脈が発見されてしまい、主人公たちは一瞬にして大金持ち。

 ついて行けませんわ。なんだよこの調子良いだけのストーリー進行は。まあこういうのでなけりゃ、頭の軽いアメリカ大衆には理解不能なのかもな~。

 そして極めつけ。そこにアメリカ大陸先住民、いわゆるアメリカインディアンが登場するのだけど、その”いかにも容貌魁偉な異民族”臭を漂わせた男は、「犬に友情を感ずるなんてとんでもない。人間は犬より優れた存在だ」なんてことを”神聖な祖先からの教え”みたいな思い入れで語る。

 見えてきましたね。「心優しい人間性の豊かな白人たちは動物であるイヌやオオカミにも友情を感じたりすることが出来るが、野蛮で愚鈍な未開民族たるアメリカインディアンたちは、そのような高度な感性は持ち合わせていない」って言いたいわけですな、つまり。
 もちろん、そんな決め付けをして良い根拠って、何もないのに。

 で、「だからそんな連中を皆殺しにして、彼らの土地にアメリカ合衆国を建てたヨーロッパからの移民たちの行為は正しかったのだ」という結論に帰着するのでありましょう。ひどい話だぜ。
 まあこの辺の理屈を押し立てて、現代史ならベトナム~イラクなどでアメリカはあれこれやってきたし、我々としては”広島長崎に対する核攻撃の正当化”というもので親しい。

 「ほんとにアメリカ人って、臆面もなく底抜けに悪質だよな」と呆れた、夜更けの映画鑑賞結果でありました。

洋行帰り2007

2007-11-13 06:20:38 | その他の評論


 外国の映画賞の授与式なんかにギンギンに頑張った衣装で出席している様子など、見ているこちらの方が疲れてくる感じでね。この女、弱ったもんだと思っていましたが、やっぱりね。そりゃそうだろう。

 ”ゲンダイネット”で、「映画”バベル”の演技で外国で評判になり、最近、”シャネル”の広告モデルにも抜擢されたにもかかわらず、かんじんの我が日本では今ひとつ人気が出ない菊池凛子」なんて報じられていて、それを読んでなんだか納得が行った私なのである。

 まあ、この件に関するほかの人の日記では、「あのヒト、顔が怖いもの」「そもそも、彼女の出世作の”バベル”って面白くないのが問題」なんてのが私としては共感できたのだけれど。そうだよ、彼女の顔は怖いよ。

 まあ、「外国で評価されたから一流」って考えがそもそもおかしいんであってさ。だって、ビートたけしのゴミみたいな映画、外国でいくつ賞を取ったのさ?外人の目の節穴ぶり、よく分かるじゃない。まあ、そんなものでね。

 これが、日本人の手放しの”洋行帰り”崇拝が無効になった証明、となったら痛快なんだが、そんなんでもないんだろうなあ・・・


 ○菊地凛子 芸能マスコミがソッポ向くワケ
  (ゲンダイネット - 11月11日 10:00)
 米映画「バベル」でスポットを浴びた菊地凛子(26)が仏高級ブランド「シャネル」の広告モデルに抜擢され、今月から世界展開が始まった。日本人初の起用で、米アカデミー賞助演女優賞ノミネートに次ぐ快挙だ。にもかかわらず、あまり騒がれない。“勲章”好きの芸能マスコミが飛びつかないのは珍しい。ワイドショー関係者はこう言う。
 「バベル騒動でわかったのですが、菊地は視聴率を稼げない。アクが強い割には沢尻エリカのような味がないせいなのか、主婦層に人気がないのが痛い。それで、積極的に扱わないのが暗黙の了解になっているのです」
 紙媒体の“評価”も似たり寄ったり。「女優としての実力はあっても、ファン層がイマイチわからないので取り上げづらい」(芸能記者)とのこと。

映画「三丁目の夕日」批判

2007-11-03 01:38:10 | その他の評論


 先ほどテレビで、「三丁目の夕日」とか言う映画が放映された。なんでも昭和30年代が舞台、と言うかテーマの映画だそうで。
 それなら、その時代をガキながらも生き、それなりに思いいれもある当方、とりあえずなにごとか心動かされるものがあるかと思いチャンネルをあわせてみたのだが、結果はただむかっ腹がたっただけであった。

 まず言っておこう。自分は”30年代の日本”のリアルタイマーだが、あそこで描かれていたような時代にいた記憶はない。当時の日本は断じてあのような世界ではなかった。

 ともかく、感傷でベタベタの、自己陶酔の優しさごっこで埋め尽くされたフィルムであり、たとえノスタルジィが過去を美しいセピア色に染め上げるものとしても、あれはひどい。現実の昭和30年代とは、まるで無関係の内容なのだから。
 力道山をテレビで見るシーンを流しておけば、それで昭和30年代が出来上がりだなんて、そんな安易な。

 そもそも登場人物に時代のリアリティがない。あの時代、我が国はまだまだ貧乏だったんだが、国民一人一人には、何もなくなってしまった焼け跡から立ち上がった明日に向うエネルギーというものが、まだリアルに燃えていたんだ。
 少なくともあの頃の日本人は、映画の登場人物みたいにウダウダ泣き言や言い訳ばかりしていなかったよ。

 映画制作者の、”私は、心優しかった過去を懐かしむ心優しい私です”に酔っているだけの大公開オナニー映画というのが最終評価だろうね。
 描かれるエピソード一つ一つにしても、今風のせせこましい、重箱の隅をつつくようなお涙頂戴物語ばかりなのだから、どこが昭和30年代だ?であって、お話にならない。
 
 頻繁に流れた映画のテーマ曲らしきものが、メキシコ民謡、”ラ・ゴロンドリーナ”に極似していたのも興ざめ。”ラ・ゴロンドリーナ”はメキシコの有名な別れの曲だからね。パクってバレないレベルの曲じゃないよ。分かってるのか、作曲担当者?
 あのメロディが流れるたびに、もの凄く場違いな気色の悪い思いをしたのさ、ワールドミュージック・ファンとしては。

 あの頃、街に流れていたのは美空ひばりだ、小林旭だ、フランク永井だ、子どもらのヒーローは植木等だ。
 あのパワフルで、でもどこかに空っ風の吹きぬける30年代歌謡の気配が画面にまったく感じられない。映し出されるのは出演者たちの垂れ流しの泣きっ面ばかり。
 もう一度言うが、あんなに毎日メソメソしちゃいなかったんだよ、昭和30年代の人間は。そんな風で生き抜けるもんか、あの時代を。

 ともかく、あんな映画はこの世界に必要はない。昭和30年代を懐かしむには、あの頃の日活の無国籍アクション映画があれば十分。あの心意気が昭和30年代だ。無意味な映画作りによる資源の無駄遣いはやめようや。

書評・歌声喫茶「灯」の青春

2007-05-17 03:09:59 | その他の評論

 ”歌声喫茶「灯」の青春”丸山明日果・著 集英社
 
 もちろん私は、それに青春を燃焼させたなんて世代ではないのだが、その現場での盛り上がりを伝えるニュースくらいなら子供の頃に見たことはある。
 店に集まった若者たちが声を合わせ、アコーディオンなど持ったりした”歌唱リーダー”に導かれるままに、ロシア民謡やら、その時々の流行り歌など熱に浮かされたように歌い上げていた。いわゆる歌声喫茶。

 昭和30年代に人々の間で熱に浮かされたように支持され、隆盛を誇った不思議な音楽運動、とでも呼びたい現象。あれは何だったのでしょうね?
 ふと不思議になることがあり、また、どうやらそこで歌われていたメニューの中心に位置したのが、毎度すみません、私の偏愛するロシア民謡であったりすることもあって興味を惹かれてもいたのだった。

 そんな私なのだけれど、その内幕を描いた好都合なノンフィクションを読むことが出来た。
 これは、ひょんな事から自分の母が”歌声喫茶”の創立メンバーであったのを知った著者が、そんな母の青春の軌跡に興味を惹かれ、その足跡を追い、ルポをものにしようと試みる物語。

 まず提示される、自らの進むべき道を探しあぐねる、若き日の懊悩の内にある著者の姿。
 読み進むうち、著者自身とその母、どちらもが”わたし”なる一人称で描かれ、二人は時に区別が付かなくなったりする。これには若干の混乱を味あわされる。
 が、著者は、若き母親の日々の情熱に自分を重ね合わせるようにして取材対象に迫っているので、これはこれで一つの表現と受け取るべきだろうし、実際、不思議な描き方ながらも、そこに奇妙なリアリティを創出してもいる。

 そして、関係者を訪ね歩くうちに浮き彫りになって行く、高度成長期に向かって走り出した日本において、”うたごえ喫茶”なる不思議な場で燃え盛った青春の群像。いや、当時、その実際がどのようなものであったのか、これを読むだけですべて把握できるものではないけれど。

 それはおそらく、戦争の暗雲が去り、やって来た”戦後”の自由な空気の中で、不器用ながらも人々が抑圧されていた人間性を回復して行くために行なった一つの通過儀礼だったのではないか。
 それにはまた、そのような人々の素朴な人間性なるものが、やって来る高度成長の時代に飲み込まれ、次なる日本構築へ向けての国家揚げての作業に再編成され吸収されて行く予兆を感じ取っての、不安の叫びも含まれていた、とするのは穿ち過ぎだろうか。

 時空を超えて様々な情熱が絡み合い、疾走する様を見るような、不思議なまぶしさに満ちた本だった。

30年目の幻滅

2007-03-17 04:49:07 | その他の評論

 文庫本を買っておいたものの、なんとなく読みそこなっていた矢作俊彦の「ららら科学の子」を、やっと読破。つまらなかった。

 30年前、中国へ密航したままだった学生運動の闘士が、”蛇頭”の船で今日の日本に帰ってくる。主人公の目に映る、変わり果てた日本の姿。さて、何が起こるのか・・・なんて物語。きっと面白いと期待していたので、読後、思い切り拍子抜けしてしまった。

 矢作は手持ちの駒、つまり60年代末期の学生運動の挿話やら文化大革命当時の中国の無残話やら、小説の話や映画の話やらを次々に絢爛たる絵巻物として繰り出すのだが、なんだか「ああ、またか」みたいな既視感ばかりが生じてしまうのだ。おお、この退屈さは何だ。意味ありげなケレンばかりが目に付いて、でもその向こうに新しい発見って何も見えてこないんだ。

 ”変わり果てた日本”と”行き過ぎる時代”を前にしてかっこ悪く傍観者の姿勢を取る主人公のかっこよさもまた、すでに見飽きた予定調和の世界としかこちらの心に響いてこない。主人公は見物人に終始するばかりで、それに積極的にかかわるわけでもなし、エンディングも、なんだかとってつけたような”ちょっといい話”で、こんなのつまらん。

 帰国した主人公の目に映る、30年の間に変わってしまった日本の様相などを並べ立てての時代への違和感の表現など、まるでありきたりの文明批判と言う感じで、なんだか気恥ずかしくなってしまう。
 60年代末、漫画家ダディ・グースとして颯爽と登場した矢作のかっこよさに私たちは、何の疑いも無しに最上級の喝采を送ったものだった。だったのだが。

 ”小説家”となって再び人口に膾炙するようになった彼に、まさに30年ぶりに再会した私もまた、変わり果てた日本と、そのむこうに屹立してくる真実を見てしまったこの小説の主人公と相似形の体験をしたと言えるのかもしれない。
 その結果、分かってしまったもの。それは、”矢作、というかダディ・グースって、かっこつけてただけじゃないの、要するに?”である。

 うん、そう思うよ。かっこいい表現者を演ずる才に長けている、それだけの人。当方、そのように結論つけました。以上。うん、無茶な結論かも知れないけど、こう考えたら、なんか青春時代から抱えてきた憑き物が落ちたみたいでね。だからまあ、むちゃくちゃでもかまわないや、と。

”みうなノート”がカワイソス

2007-01-29 01:39:37 | その他の評論

 ”みうなノート” by みうな(講談社)

 ネット書店内をうろついていたら、「みうなノート」なんて本に出会い、複雑な気分になってしまった。みうなというのは、まあ、マニアなアイドル好きしか知らないだろうけど、モーニング娘なんかの所属するハロープロダクションの、やはりアイドルグループ、”カントリー娘”のメンバーだった子です。

 カントリー娘ってのは、北海道で牧場を営む軽いタレント、田中義剛がモーニング娘人気に便乗して、”牧場で働きつつアイドルをやるグループ”なんてものを思いつき、デビューさせてしまったグループでした。モーニング娘のメンバーが助っ人に入ったりもしましたが、けどまあ当然の如く人気グループにはなりえず、はっきり言ってハロープロダクション内にあって、お荷物的存在だったグループでしたな。

 で、今回、話題にするみうなって子も、これはモーニング娘のメンバーのテストに落ちてカントリー娘に廻されたんだっけ?詳しい経緯は知らないが、まあそんなような挫折を抱きつつ、グループのメンバーに加わったはずです。だってあなた、モーニングとカントリー、どちらの”娘”のメンバーになりたいと思いますか?

 でも、マイナーなアイドル好みの連中からはなかなか強い支持を受けている子でもありました。「モーニング娘のメンバーに”昇格”させてやれば良いのに」なんて声が、発表されたモー娘の新メンバーがパッとしなかった時などにファンの間から上がったりしてましたな。

 そんな彼女は、ハロプロ内で結成されたフットサルのチームでも、なかなかの活躍を見せていました・・・というけどねえ。

 この話は以前もしましたけど、なんでハロープロダクションとか巨乳が売りのイエローキャブって、妙に所属タレントにフットサルをやらせるのに熱心なの?どちらの事務所にも、芸能活動では何をやっているのか知らないが、大張り切りでフットサルをやってる姿だけはテレビで見た事がある、なんてタレントが何人もいるでしょ?

 彼女らもねえ、そんなものやりたくて芸能界に入ってきたわけじゃないんだろうに。こちらファンの側だって、そんな汗臭い姿じゃなくて綺麗に着飾って歌を歌ってる姿や海辺に水着で寝転んだエッチなポーズを見たいんだよ、本来は。
 なんかねえ、裏でなにやらフットサルに絡む、うさんくさい金の流れがあるらしいですけどね、私は詳しいことは知りませんが。(裏事情、ご存知の方はどうかご教示ください)

 つまりは、彼女らも我々も、どこかの誰かの汚い夢の犠牲者だ。もう一回言うが、フットサルなんか見たかねえってんだよ。彼女らだって、そんなものはやりたくないと思うよ、命令でやらされてるが、本心ではね。

 で、話はみうなに戻ります。そんな彼女はこの春、カントリー娘をやめます。その後のことはまだはっきり分からないんだけど、おそらく芸能界を去ることになるんじゃないか。私も彼女には好感を持っていた者のひとりなんでこんな言い方は忍びないが、夢破れて去って行くのですなあ。

 それにしても、そんな彼女が芸能界に残して行く唯一つの彼女名義の作品、”みうなノート”がシングル盤のCDとかじゃなくて、フットサル体験記であるってのが、やりきれないよ、たまらねえよと私は大声で言いたいのであります。

 そんなものを書く事を目的に芸能界を目指す奴なんて、絶対にいないんだよ。そりゃそうだろう?なんとかしてやれよ、関係者。ひどい話もあったものだぜ、まったく。

書評・「銀河鉄道の夜・探検ブック」

2006-11-28 03:54:26 | その他の評論

 今、NHKで再放送された「銀河鉄道への旅・我が心の賢治」を見終えたところだ。

 あの宮沢賢治が、最愛の妹の死の直後、「妹とは死んだのではなく、どこか遠くの町で生きているのかもしれない」との観念に取り付かれ彷徨ったという南カラフトを、番組ホストの作家・畑山博氏が、自らの母親への追慕も兼ねて賢治の足跡を辿る、という企画の番組。そして、再放送にはもちろん、先日亡くなった畑山氏自身に対する追悼の意味がある。

 氏の著書で忘れられないのが、「銀河鉄道の夜・探検ブック」だ。
 あの有名すぎる童話を畑山氏なりに検証し、銀河を旅したあの不思議な鉄道の詳細を、氏なりの視点で辿り直したもの。
 実に心優しいイマジネーションの飛翔が切なくもあり心楽しくもあり、心の隙間にふと風が吹きぬけるような夜には手に取ってみたくなる本だ。

 番組の中で畑山氏は、カラフトの凍てつく空を見上げ「向こうに確かに存在する世界がある。そこは確かに存在しているのだけれど、決して行くことが出来ない」といった呟きをもらす。

 死んでしまった妹は、実はどこかの町で生きているのではないか。そんな想いは非現実的であり、賢治のその旅は、実際には何の意味もないものだった。
 だが、そんな賢治の想いは、生の時間を重ね、生きてゆく事は愛していたものを一つ一つ失って行く過程であるとの、苦い気持ちを噛み締めることを憶えてしまった者には、馴染めない感覚ではないだろう。

 画面の中の畑山氏は、雪に覆われた道を辿りながら、昔、同じ場所に歩を進めたのかも知れない、今は「あるけれども行けない」場所の住人である賢治に語りかける。自らの想いを賢治の足跡に重ね合わせるように。
 それは我々人類が開闢以来、歩き続けた道だ。手の届かない遠くへ遠くへと行ってしまった者への思慕を握り締めて。あてもなく。

 グッバイ、畑山さん。銀河鉄道の乗り心地はどうでしたか。「行けないけれども確かに存在する」場所の住み心地は、いかがですか?

(2001年9月5日・記)



村上龍と”まっすぐな世界”

2006-11-10 03:05:20 | その他の評論

 世の中には、キチンとした世界が好きな、というか世界がキチンとしているべきだと考えている作家がいる。いや、世界はキチンとするのが可能と考えている、というべきか。村上龍の話をしようとしているわけだが。

 彼は、坂本龍一との対談で、キュ-バ音楽を称賛しつつ、こう言った。「キュ-バのミュ-ジシャンの素晴らしいのは、気まぐれに、ほんのちょっとしたセッションを仲間うちでする際にも、キチンとアレンジを譜面に書き、それに則して演奏する所だ」と。
 大学でクラシック音楽を学んだ者である坂本もそれに同意し、対談はひとしきり、簡単な打合せだけでダラダラと始められてしまう、いい加減な音楽への罵倒で埋められた。
 簡単な打合せだけで、気合一発、始めてしまう音楽を聞くのも演奏するのも好きな私としては、まことに居心地の悪い思いをしたものだったが。

 彼は、そのようにキチンと統制のとれた世界への渇望を、たびたび公表している。
 たとえば、もうずっと以前の事であるが「あなたに子供が生まれたら、どのような音楽を聞かせたいか?」の問いに、「キチンとした古典音楽」と回答しているし、また、たとえば「テニスボ-イの憂鬱」なる作品では、愛好するテニスのようにキチンとしたル-ルに、現実世界が則って動いていない事を不満に思う主人公を設定している。

 逆の性向を持つ私には、その辺の実感がよく理解できないのだが、彼はどうやら、世界がキチンとしていないと不快に、あるいは不安になる人物のようだ。
 まあ、別にそれが正しいの正しくないの、などと述べるつもりもない。そんな事は、世界が「正しい」と「間違っている」に明確に二分できて、キチンと整理が可能と信じている人のやる事だから。

 ところで、彼が最近行っている経済関係者との論議なのだが、あれも結局は「経済」のものさしを借りて、世界をキチンと読み解き、キチンと理解の可能な形で(彼自身の意識のうちに)並べ変えようという、無意識の試みなのではあるまいか。経済は数字であり、冷厳な現実であるから、それを正確に読み解く事が出来れば、混乱した世界は自分好みのキチンとした形に収拾される筈だと、おそらく彼は信じている。

 無益な試みだと思うけど。だって世界はこれまで、一度だってキチンなどしていた事はなかったし、これからだってそうなのだから。本来、歪んだ世界に、いくら真っ直ぐなモノサシをあてたって、その計測は不可能だろう。
 だけどなあ、あの性分のヒトは、「計測がうまく行かないのは、モノサシの精度が足りないせいだ」とか言って、もっと真っ直ぐなモノサシを持ってきちゃうのよな・・・