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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

鼻をなくした小象物語・批判

2006-08-29 04:01:43 | その他の評論

 この土曜日から日曜日にかけて放映された、毎年夏恒例の”24時間テレビ”の批判を書こうとしたんだけど、以前、別の場所に発表したあの文章を読んでもらうほうが早いなと思い出し、下にコピペしたものであります。そのような事情を踏まえたうえでお読みいただければ幸いです。

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 「感動ドキュメント’05・鼻をなくした小象物語・命の奇跡をアフリカに追う!」批判

 怠惰に正月休みを送る者にとってテレビはこの上なき慰め。とは言うものの、正月のテレビって、これがつまらないんだよなあ。2時間特別枠とか3時間特別枠とか、やたら時間は長いが内容はダレダレのものばかりで、面白くも何ともない。そんな、長時間枠をわざわざとって放送するんだから、テレビ局も力を入れて作っているんだろうし、というか、そもそもわざわざつまらない番組を作ろうとするわけはない。面白くしようと意図して、それがことごとくズタボロってのは、まずいんではないか。いまさら、テレビの世界に過大な期待なんか、そりゃしていないが。

 とか何とか言いつつ正月4日に見た、というかテレビを付けっぱなしにしていたら偶然始まってしまった番組が、「感動ドキュメント’05・鼻をなくした小象物語・命の奇跡をアフリカに追う!」(TBS)なる代物であったのだ。

 いやまあ、私はアフリカ方面の文物には心惹かれるものがあるんで、初めは楽しんでみていたんですよ。初めのうちは。怪我によってなのか、それとも生まれつきの奇形なのか、象の象たるにもっとも特徴的な長い鼻が失われてしまっている小象の物語。水一つ飲むのにも苦戦する彼(だか彼女だか知らないが)は、はたして過酷な自然の只中で、無事に生きて行けるのであろうか?

 撮影スタッフは、偶然に発見されたその小象の成長の記録をカメラに収めるべく、たびたびアフリカの地に赴くのである。が、何度目かのアフリカ訪問で、その小象の姿を見失ってしまう。スタッフはいくつもの象の群れを追い、目撃者を求めてアフリカの地をさ迷う。今は乾季だが、むしろ雨季に来た方が捜索には効果的なのではないかとの土地の古老の助言に従い、いったん日本に引き上げ、日を置いてから再度アフリカを訪れさえする。と。このあたりに至って、なんかこりゃ変だぞと思わずにはおれなくなって来たのである、私は。

 この群れに、あの鼻のない小象はいなかった。我々は別の群れを求めて草原を走った。こちらの群れにもいない。やっと、あの鼻のない小僧の母親である、耳の一部に特徴ある怪我の痕を持つ象がいる群れを見つけた。が、その群れにも、あの小象はいなかった。一体、どこに行ってしまったのだろう?とナレーターは、弱き者を思いやる憂いの影差す口調で捜索行を伝えるのであるが、おい、ちょっと待ってくれ、その鼻のない小象さえ無事に成長出来れば、世界は万事オッケーなのか?

 この群れにも小象はいなかった、の一言で切り捨てられる象の群れだって、この世の楽園に住んでいるわけでもあるまい。アフリカの地に、彼等象を含む野生動物の影が年々薄くなって行っているとは、普通に聞かれる”憂慮される事態”なのではないか。とか言うさらに前に、彼等、”普通の象の群れ”だって、敬意を持って接すべき生命たちなのではないのか。

 結局お前らは。お前らってのは、小象を追う撮影スタッフやら、番組をそもそも企画したテレビ局を指すのだが、ヒューマニズムを気取って”感動ドキュメント”とか作っているお前らは結局、”あるべき鼻がない”という、その小象の”タレント性”に用があるだけではないか。”可哀相な象”を画面に出せば頭の悪い視聴者の同情を引けて視聴率を稼げるだろうという、それだけの都合でたびたびアフリカに出かける、その費用だって安いものではないだろう。もし本気で、生き残ること自体が、多くは人間の干渉によりますます過酷になっている草原の暮らしを憂慮するなら、その金をもう少し効果的に使う道だってあったはずではないか。

 長時間番組を批判していたくせに無駄な長文をグタグタ並べてしまった私だが、要するに言いたいことは、”善人面してんじゃねーよ、バーカ!”なのでありました。うん、そういうことなんだ。



”月刊川村ゆきえ”批判

2006-08-10 02:05:45 | その他の評論

 長い事、沈黙を続けていた川村ゆっきーのカムバック作が出る。それは良いのだけれど、よりによってピント外れの芸術趣味で評判の悪い”月刊”シリーズで、と聞いて、それはいかがなものかと首をかしげた。そして、悪い予感は的中してしまったようだ。

 先行して週刊誌に載った宣伝写真を見られた方、あれが強いて言えばこの写真集のベストショットです。あのくらいしか見るところはありません。あとはキリンの首のアップくらいでしょうか(?)なんか、ゆっきーが動物園にキリンに会いに行く設定なんですがね、可愛くもいやらしくもない、何てことない水着姿で。

 露出は低いです。特にサービスショットもありません。全体に、芸術家ぶりたい3流カメラマンが特に好む粒子の粗い写真が使われており、見る者の気持ちを思い切り萎えさせます。

 それにしても。せっかくのカムバック作が”月刊”シリーズとはなあ。誰が思いついた企画か知らないけど、ゆっきーも運の無い女だ。

 (音楽ネタでなくて失礼!いや、あんまり腹が立ったんで、つい)




書評・「演歌に生きた男たち」

2006-04-12 04:12:50 | その他の評論


 演歌に生きた男たち 今西英造・著(中公文庫)
 
 著者は演歌の源を、明治末期に辻々に立ってバイオリンを鳴らし、蛮声を張り上げていた「演歌師」たちの歌声に置き、そこから視点をずらすことなく、この、ひたすら滅びに向かって転げ落ちていった音楽の運命を語る。

 ここでは、一般の歌謡史ならかなりのページを割いて論じられるであろう大作曲家古賀政雄も、明治~大正演歌に対するカウンター・カルチャーとして台頭してきた「若手」の一人でしかない。

 物語の中央に置かれるのは、あくまでも街角で生まれ、庶民の暮らしの中をつかの間流れ、そして忘れられていった片々たるメロディーの数々である。

 そこに浮かび上がるのは、常に時代の変化におびえ、メソメソと泣き言を並べ、目先の快楽を追い求める、なんとも救われぬ「大衆」の姿。

 が、それら砂の如き大衆に寄り添い、何の役にも立たない感傷の涙を流し続けた、この「低俗なる音楽」の滅亡記に訪れるいくたびかの聖なる瞬間には、確実に胸を突かれるのだ。


書評・「江戸の音」

2006-02-01 05:20:52 | その他の評論


「江戸の音」田中優子・著(河出文庫)

 自然音とはくっきりと輪郭線を引き、カッコつきで屹立する芸術としての西洋音楽。それとはまるで逆の位相で、まるで自然の中に溶け込むように流れて行くアジアの音楽。その流れのうちに江戸期の日本音楽を捉え、論ずる姿勢が、初めて読んだとき、凄く新鮮に感じられたのを覚えている。

 日本人は古来、三味線を爪弾きながら小唄を歌うことによって、実は絶望を表現してきたのだ、とあるのが印象的だった。生きてあることの絶望を自棄になるでもなく、ただ「そんなものなのだ」と提示する、そんな音楽。始めもなければ終わりもなく、ただ流れ続けるアジア的な時間の流れ・・そのようなものの存在に気付かせてくれた書でした。

 


国辱映画「SAYURI」を粉砕せよ!

2006-01-26 03:21:45 | その他の評論


 昨日(25日)の「笑っていいとも」に女優の桃井かおりが出ていて、スピルバーグ製作のアメリカ映画、「SAYURI」に出た際の思い出話をしていた。日本ではベテラン女優ながらも、今回の映画ではオーディションを受けねばならず、撮影の間も無名の新人扱いだったエピソードなどをなにやらうれしそうに話していた。

 おいこら、桃井。何が嬉しいのだ。お前は相手が日本人だったらどれほど傲慢に振舞うのか、相当な評判を聞いているぞ。それが、外人の権威者相手では一挙に屈辱的扱いであることを、そんなにも誇らしげに語るのか。「あんなに偉いご主人様にお目をかけていただいて、ハア、嬉しいこんだよう、オラは」と?情けない話だよなあ。ブーたれて見せるべきじゃないのか、いつものように。

 そもそもなぜ日本の芸者の物語を、中国人主演で撮らねばならないのか。主演者ばかりではない、なんであんなに何人も中国人俳優が日本人役で出てくるのだ。
 改めて問うまでもない、アメリカ人製作者の「妄想の中の日本」を実現するには日本人ではなく中国人のほうが効率的だったからだ。つまり彼ら製作者側はキャスティングの段階ですでに、「これから欧米人の日本に対する偏見をベースにした映画を撮るぞ」と宣言したも同じではないか。

 そんなものに大喜びで協力したのか、お前らは。日本人俳優全員が、そんな映画に出るのは拒絶するのが筋というものではなかったのか。そもそも悔しくはなかったのか、非合理とは思わなかったのか、日本を舞台にした日本人をテーマの映画の主演者が中国人であることを。
 そんな状況を異常とも思わず、侮辱ともとらずに、映画に「使っていただいた」のを光栄と顔をほころばせていた日本の俳優連中の名前は”国の恥"として覚えておくとする。

 それにしても。わが日本人は、まだこんな事をやられ放題なのかね、西洋人に。これではいまだ、ペリーが浦賀にやってきた当時のレベルと何も変わっていないじゃないか、日本と西洋の関係。何のために長い長い年月が流れたのだ。あきれたよ、俺は。




書評・「失われた歌謡曲」

2006-01-13 05:20:59 | その他の評論


 「失われた歌謡曲」金子修介・著、小学館

 我々世代の秘密をバラしましょう。「俺たちってビートルズ世代」とか言ってるけど、ほんとにリアルタイムで聞いてたのは舟木一夫や西郷輝彦だったんだぞ。せいぜい頑張ったって、エレキギターを抱えて「夕日赤く」を歌う加山雄三だ。

 映画「ゴジラ」の監督であり、”テレビっ子第1世代”の著者が、自らの青春を彩った”歌謡曲”とその時代を、ミもフタも無しに検証しまくった書。

 ”不健全歌謡の伝統””陰気ビート”といったキイワードを駆使して著者は、日本庶民の現代史の裏側をくすぐりまくり、ついには我々の眼前に「日本は戦争に負けた、東南アジアの国なんだ」との、著者が独特の見識の元に探り当てた、素っ裸の原野が広がる。

 正視するより仕方が無い。我々の歩いてきた道の、掛け値の無い姿が、これなのだから。





「ホタル」・批判

2005-12-24 02:00:48 | その他の評論


 木曜日の夜、深夜のテレビで高倉健主演の「ホタル」って映画を見ていたわけですよ。これがまあ、いつ作られた映画か知りませんが、なんともはや・・・

 健さん、太平洋戦争当時に特攻兵だった、が、戦友は戦いに散ったが彼自身は出撃命令はついにくだらず生き残った、なんて設定ですわ。で、高倉健は当然、心の中でそれを引きずっていますな。けどそんなことはおくびにも出さず、寡黙に漁師の仕事に精を出している。昭和天皇崩御(そうか、あの頃、作られたのか)に絡めて、元特攻隊委員のコメントを取りたい新聞記者(これが「朝日新聞の記者」と再三強調されるのは、意味あるんでしょうね。ヨミウリでもサンケイでも東京スポーツでもない。アサヒシンブン)なんかがやって来ても、話すことは何もないとそっぽを向いている。まあ、そんなキャラ設定。

 演ずる高倉健にしてみても楽勝の役柄、見る側の健さんファンも見慣れたパターンで何も考えずに安心して見ていられるって感じの映画ですね。
 登場人物も物語りもことごとくその方向に見事に割り振られていまして、健さんファンに軽蔑されるために出てくるアホ役やら、いかにも絵に描いたような古典的な”けなげで可哀相な妻”などが要所要所に配されております。お定まりの役振り、定番のストーリー。観客の期待は何一つ裏切られることはない。新しいことは何もやらないようにしていますから。観客、新しい事物なんか見たいと思ってませんから。

 で、結局、すべては「健さん渋い、かっこいい!」に収束して行く仕組みになっている。なんかこれってさあ、「ウルトラマンの怪獣退治」とドラマツルギーにおいて何も変わることがないって気がするんだけど、あなた、どう思いますか?

 そしてなにやら物語の運びの次第で、高倉健は、かって特攻兵となって”大日本帝国”のために死ぬ羽目になった朝鮮人の特攻兵の遺族に会いに海峡を渡る。彼の遺言を彼の家族に伝えるためなのです、これが。気の重い任務ですが、もちろん、健さんの耐える男のかっこ良さを演出するのが狙いですな。
 そしてそこでも、「はじめは日本人が来たというので敵対的だった韓国の人たちも、健さん扮する元特攻兵の誠意ある態度に、次第に心を開いて行くのでありました」となる訳です。都合良過ぎやしないか、話が。

 人情話でごまかしつつ、結局正当化してるんですよ、大日本帝国が朝鮮半島の人たちを特攻隊に狩り出した事実を。「自分は朝鮮人民としての誇りを持って特攻に赴いたのだ」とか朝鮮人特攻兵に遺言として言わせる事によって。ひどい映画だよ、これ。人々の高倉健に寄せる安易な感傷に便乗して、特攻を賛美し、日本のかっての朝鮮半島領有も正当化するというあからさまなゴリ押し作戦であり、相当にたちが悪い。

 そして映画終了直後、テレビは近日公開の映画、「男たちの大和」の大宣伝に突入するのでありましたとさ。うん、そんなことだろうと思った。で、「大和」を見終わったバカな高校生の涙のインタビューなど挿入されて、一同めでたく舞い収める。と。
 昨今のワカモノたちは、涙にさえ持って行けば楽勝ですべて判断停止してくれるから楽でいいでしょうなあ、政治家の皆さんも・・・





書評・「エキゾティック・ヴァイオリン」

2005-11-28 04:15:41 | その他の評論


 エキゾチック・ヴァイオリン (林巧 著・光文社)

 アジア各地の人々の生み出した民俗音楽や楽器を巡りつつ、名も無き人々が歴史の裏道に刻んできた喜怒哀楽について語った書である。

 胡琴、月琴、胡蝶琴、椰胡などなど、登場する楽器たちの姿と、行間から伝わってくるその調べのなんと儚くて愛らしいことか。かって日本でも広く愛好されながら、政府の「脱亜入欧」政策の民間への浸透と共に、吹き払われるように日本人の生活から姿を消してしまった中国の民間音楽、「明清楽」の面影や、香港の街頭で細々と生き続ける大衆歌の表情の、なんと優しく彩かである事か。

 それら音楽に照らし出された庶民の生活の様相は、まるで古い幻灯機が織り成した幻影のようにカラフルでチープで、でもたまらなく懐かしい温かみのある手触りを持って、読む者の胸に染みる。

 そんな光景を巡る旅が終章において、日本の下町へと帰着する形で結ばれる著者の「国境を越える民衆論」もまた、アジアの優しい音楽の一つとして響くようだ。





書評・「45回転の夏」

2005-11-18 03:04:48 | その他の評論


 「45回転の夏」鶴岡雄二著 (インターネット図書館「青空文庫」所収)


 1960年代なかば、新規に開校された寄宿制の中学に、第一期生として入学してきた少年たちの青春の日々を、当時のロックのヒット曲漬けで描いている。
 そして定番の大人たちとのあれこれ、女の子たちとのあれこれ。ケンカと友情のあれこれ。
 まあ、お定まりといえばお定まりなのだが、なにしろ自分と同時期に、同じようにロックびたりの青春を過ごした連中の物語なので、良い気持ちで読み始めたのだ、最初のうちは。

 なんかヤバイな、と感じ始めたのは、主人公がローリングストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツのドラミングに関して批判めいた事を口走るあたりから。
 当時の中学生のレベルで、ストーンズのドラマーの、それもハイハットの開け閉め、なんて細かい部分にウンチク垂れる奴なんかいたかぁ?なんか嘘臭い設定ではないか。

 そして、そのあたりを契機に始まってしまうのだ。ロック、とりわけビートルズに関するウンチクウンチクウンチクのてんこ盛り。その、帰国子女の学生が多かったりする事なども自慢らしいが、なにやら非常にありがたいものらしい全寮制校の、一員であることの選良意識。あるいは”横浜方言を話す育ち”であったりする部分も、加えるべきかもしれない。とにかくそのあたりからあからさまになる著者の一流指向、つまりは権威指向には、なんとも不愉快な気分にならざるを得ない。

 以上が第1章、第2章。やがて物語りは終幕、第3章に至り、舞台は1960年代末から突然に90年代、中年期を迎えた主人公たちの同窓会の描写へと至るのだが、それにしても登場人物の言動、60年代末の中学時代も、90年代、オトナになってからも、何の変化もないのは異様である。
 昔の仲間は変わらないなあ、なんてレベルではなく、登場人物のというより書き手の内面の、描かれる”時の流れ”に対応することへの無自覚ゆえの”変わらなさ”なのだから、救いはない。
 ことのほか醜いのは第3章の冒頭、中年に至った主人公が若者相手に、過去においてロックが、ビートルズがなんであったのか説教を始める辺りだ。なーにを偉そうにと、同世代である私が嫌悪を覚えるのだから、若い世代においておや・・・

 「俺が若い頃にはようっ!」か。そんなものが、あんたがロックから受け取ったメッセージだったのか。
 むざむざとなすすべも無くブザマに年を重ねてしまった”ビートルズおやじ”たちの、そんな自分たちの現実にまったく無反省である事の醜悪さ。ただただネチネチと説教を垂れ、ウンチクを垂れ流し、おのれの権力志向を満たすすべをおぼえる、それがロックを愛しつつ年を重ねた後の収穫なのか。
 見方を変えれば、”ロック世代の敗北”の有様を見事に描ききった作品と評価する事も可能だろう。


 本作品は下のURLで読むことが出来ます。
  ↓
http://attic.neophilia.co.jp/aozora/htmlban/45RPMchap1.htm





さよなら、スウィング・ガールズ

2005-11-06 04:06:13 | その他の評論


 数時間前にテレビで、「スウィング・ガールズ」なる映画を見た。なんかこれ、評判になった映画なんでしょ?賞かなんかも取ったんでしょ?
 でも私は公開時、どのような運びの作品か大体の予想はついたので見にも行かなかったのだった。だってさあ・・・よし、どのような映画か、見る前の私の想像を書いてみせるぞ。

 ひょんなことからフルバンドを結成し、ジャズをやる羽目になった女子高校生たち。初めは嫌々だったのだが、いつしか音楽する面白さと、皆と力をあわせて一つのものを作り上げて行く楽しさに目覚め、次第に練習にも力が入って行くのであった。その後、さまざまな泣き笑いがあって、エンディングは感動の演奏シーン。

 さあどうだ、そういう映画だろう。

 まあ今回、テレビならタダ見であるわけだし、もしかしたら私の予想を超える見どころがあるのかもと思い、試しに見てみたのだ。が、やっぱり完全に私の予想の範囲内で終始するドラマだったな。
 形通りの一見無気力な子供たち。形通りに音楽と友情に目覚め。形通りのクライマックス。想像をある意味超えたのは、出てくる高校生たちがあまりにも”素朴な良い子”揃いだった事。物事を歪んだ方向に受け取る者は皆無、皆が皆、素直で無垢なガキばっかり。ありえなくないか、あれは?

 舞台が東北地方に設定されている理由も、それに関係するかと思われる。予想される「いまどき、そんなガキはいねえよ」という突っ込みに対する「でも、この子等はイナカのコですから」という防御のための東北弁なんでしょ、あれは。

 そして作品全体は制作者の、「世界はこんな風に素朴に良い世界であるはずなのだ。そうあるべきなのだ」という祈りというか、そう祈る彼の、自分自身への感動によって成立している。おそらくこの作品に感動できる人々は、彼のそんな自己陶酔に付き合ってあげられるお人好しなのだろう。物語の”予想を裏切らなさ”も、そんな人々にはちょうど良い湯加減なのだ。変に頭を使わずに済むから。

 クライマックスの、「さあ、ここが感動のしどころだぞ」と言わんばかりの”大演奏”も、その押し付けがましい”立派さ”に、我が心はしらけるばかりだったのだが、もしかしてそういう反応は顰蹙を買う世の趨勢となっているのかも知れないな、もうすでに。この間の選挙でも自民党が大勝利したしさあ。関係ねーか。それとも、あるのか。

 いつぞや、映画監督のイズツは「シャル・ウィ・ダンス」を評する際に、「なぜここで社交ダンスが出てこなければならんのや?」と疑問を呈したのだったが、今また私もなぜここでジャズだ?と問わねばならない。なーんか胡散臭いぞ。
 結局、ジャズもクラシックなみの、権力者側の御用音楽の座にのし上がったって事なのね。権力者側の期待する”民衆のありよう”をアナウンスするためのツールとして。しかも竹中直人に戯画化されたジャズ・マニアを演じてみさせて、そんなジャズの成り上りように対する反発を封じておこうとする周到さ。で、ちゃんとその”上位”に谷啓扮する”人格者のジャズファン”を置いて、戯画化が本格的に効力を発揮しないよう、安全弁を設けてある。うまく出来てますな。

 この間の「ラウンド・ミッドナイト」の件と言い、ジャズと映画が組むとろくな結果が残らないって趨勢となって来ている。なぜだか知りませんが。
 昔はその組み合わせで良い映画もあったのにねえ。まあ、仕方がないでしょ、世界はとうに壊れてしまった。すべては元に戻らないのだから。さあ、ワシらの明日はどっちだ。