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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

某通販サイトの呑気な稼業に関して

2008-12-11 01:57:08 | いわゆる日記


 先月、こんな話を書きましたね。

 ”ある通販サイトにCDを注文したのだけれど、届いたものを見てみたらCCCDだった。サイトを見直しても、そのような商品説明はない。「CCCDであるのなら注文はしなかったのに」とクレームを出した”なんて話。

 これです。
 ↓
  ●CCCDの亡霊

 その後日談なのですが。その通販サイトからは不備に関する謝罪と共に、

 >弊社より着払い伝票を郵送いたしております。
 >お手元に届きましたら、お手数をおかけいたしますが、
 >不備のございます商品のご返送をお願いいたします。 

 と返事がありました。
 まあ、その”事故”が起こったのが11月末の連休の前で、すぐにその伝票なるものを送って来たならまだしも、あちらから発送されたのが、連休が終わった25日過ぎというのどかさで。やる気あるんかいなと呆れたんですが、まあ、ここは我慢しておきました。

 で、私は伝票が届いて即、商品を返品しました。そいつは先月の29日に先方に届いているようなのですが。
 あちらからの返信には、以下のような説明も書かれていました。

 >ご返金のお時間として、弊社にて返送商品確認後、
 >7営業日ほど頂戴いたしております。
 >大変お待たせしてしまい誠に恐縮でございますが

 こいつものどかな話だなあ、アマゾンなんかは事故発生と知ったその日に代替品を発送してくるぜ、とまたも呆れつつも待ちましたよ、私は。
 時は流れて。本日。もう月も替わって12月の中旬だ。返品後、”7営業日”も、どう数えても過ぎている。

 が、こちらの口座に、返金はありません。なんだこれはと説明を求める文章を送ったのですが、あちらからの返信メールは来ない。どう思われますか?
 そろそろ戦闘開始かな、と覚悟を決めつつある私なのであります。あの、この相手の通販サイトというのは、誰でもその名を知ってるような大手ですよ。それがねえ・・・

 さて、今後もこんな状態が続くようなら、次回からその通販サイトの実名を出して行きます。

ヤースガース・ファームを後にして

2008-11-30 05:04:14 | いわゆる日記


 これはまあ、わざわざ書くような話でもないのかも知れないんだけど。

 古内東子とか言う歌い手の昔の歌が今、コマーシャルで使われているでしょう。
 ”大事なものが どんどん 増えて行く 一つ一つ守ってく~♪”などと始まり、”そんな自分でいたい~♪”とか、そんな具合に締めるんですが、なんかあの歌が流れてくるたびに妙な気分になってねえ。

 ”守らなければならない大事なものがどんどん増えて行く”ってのは、そんなに幸せなことだろうか?憧れる価値があるだろうか?
 私はむしろねえ、そんな諸々のこだわりから解き放たれ、価値もないものに振り回されることから自由になり、余計なものをどんどん捨てていけたらと憧れるんですが。

 ただ風に吹かれるままに生きている。何も必要としない。”そんな自分でいたい~♪”と思うんですがね。いわゆる解脱ってやつですか。そりゃまあ、なかなかそんな境地になれるもんじゃないが。
 いや、こんなことは各々の哲学に関わることで、どう考えるべきだとか言ってみても仕方ないのであるんですがね。

 ただ、テレビからあの歌が流れてくるたびに、強欲そうな女が部屋一杯ブランドものを積み上げている光景とか浮んで、なんか気が重くなってしまうんでね。こんな事を書いてみたわけですわ。

 なんて事を考えてしまうのは、若き日、影響を受けたヒッピーの考え方とか、そんなものの名残りが心の中に燃え残っているのかなと、オーバー・ウエイト気味の己の身を嘆きつつ、ふと思う。
 昔の仲間は、どうしているだろうなあ。長い歳月のうちに、便りも途絶えたままだけれど、元気でやっているのか。
 今年ももう、12月かあ。早いねえ。

海の気配

2008-10-02 02:29:36 | いわゆる日記


 こちらに来襲するはずだった台風も、どうやら九州の沖で単なる低気圧と成り果ててしまったそうで。この数日、降ったり止んだりの雨に阻まれて中断していたウォーキングを再開することにした。

 暦が秋に変わっても、夜の海岸にはお調子者の若者たちが車を連ねてやって来ては、全裸で泳ぐ奴はいるは花火を上げるはカップルは語らうはビーチバレーに興ずるお調子者はいるは野球をやる馬鹿はいるは、といった騒ぎは続いていたのだが、さすがにこう気温が下がってきては、もう砂浜に人影はない。波打ち際に静かに波が打ち寄せるばかりである。

 海を挟んで一つだけ湾の先に浮ぶ小島の集落で燈されている灯がポツンと見えている。漁をしているのだろうか、沖合いに小さな船の明かりがいくつか揺れていた。それらの下で展開されている、見知らぬ人々の日々を思う。互いに関わりあう事もなく行き、死んで行く彼らと私。

 この気候ではいつものTシャツ&短パンでは寒いかもと思ったのだが、気合を入れて早足で歩いて行くうちに汗ばんできて、むしろちょうど良い感じである。
 季節も変わったことだし、これまでとは違うコースを歩いてみようと、そのまま海岸沿いに国道を歩いて行くことにした。道沿いの家々は早いとこ眠りについているが、意外に車の通行量は多く、深夜便のトラックとすれ違う瞬間は結構なスリルを感ずる。

 車ではそれこそ数え切れない回数、通っているこの道だが、こうして歩いてみるのは考えてみれば初めてであって、不思議な気分だ。
 同じ市内とはいっても、深夜まで酔っ払いの姿が絶えることない我が町内と、宵の口から明かりも落とし、道行く人も見かけないこのあたり。

 歩いているうち、妙に甘酸っぱい気分が湧いて来て、なんだこりゃと思ったのだが、いや、その気分がどこから湧いて来るのか実は分かっている。もしそのまま歩き続けることができれば、中学から高校にかけて、ずっと想いを寄せていた×子の家のあたりに到達するのである。
 正確な場所を知っているわけではないが、大体そのあたりらしい。いずれにせよずっと先で、普通に徒歩では行ける距離でなく、中途で引き返すしかないのだが。
 そして、彼女自身はとっくの昔に遠くの町にヨメに行き、その場所にはいないのであるが。

 彼女とは中学高校と6年間、同じ学校に通ったのだが縁がないというべきか一度も同じクラスになった事がなかった。共通の知り合いもなく、結局何の接触もないままに終わった。考えてみれば私は彼女がどんな声をしているのかさえ知らないのだった。

 道の片側に広がっているのは、墨を流したような暗く静かな夜の海である。街のネオンの輝きを反射して一晩中眠らずにいるような私の棲息地帯の海とはずいぶん趣が違い、そうか、幼少期から×子はこのような海を眺めて育って来たのかなどと思い、ふとセンチメンタルな気分になり、そうなった自分に呆れる。いったい彼女に恋していた頃から、どれほどの歳月が流れているというのだ。

 街の景色は、あの頃とはすっかり変わってしまっている。そして同窓生のうち、気の利いた連中は皆、このジリ貧の街を捨てて出て行ってしまっている。思い出のよすがとなるものなど何もありはしない。私にしてからが、事情あってこうして戻ってきてはいるが、一度は捨てた、この町なのだ。もちろん、×子が今、どのような暮らしをしているかなんて、まったく知らない。

 暗い海を見ているうちに、その気分にピッタリの歌を思い出した。といっても、歌詞も
メロディも完璧に忘れている。ただ、それを聴いたときの気分だけが記憶に残り、ああ、
ここであの唄が聴きたいなあと呟いている。実に中途半端な感傷である。

 その曲は”江ノ島エレジー”という古い演歌で、私はオリジナルの菅原都々子のものは知らず、もうずいぶん前に北島三郎がテレビで、ギター一本だけをバックに歌うのを聴いた事があるだけだ。
 過ぎ去った日々の向こうの、海沿いの街の昔の記憶、暗い海と夜闇に漂う潮の香りに関する唄である。
 いずれにせよ、青春時代に好きになった女を思い出す場面に流れて来るには、あんまり似つかわしくない代物であり、この辺のオノレの感性、どうなっているのやら。

 ああ、あの唄が思い出せればな、などと思いつつ私は、そのあたりで180度旋回し、家路を辿った。本当にこのまま歩き続けたら、×子の実家あたりまで歩いてしまうことになる。

 ともかく久しぶりに、しかもいつもより余計に歩いたのだからそのゴホウビにと、今夜は予定の日ではなかったのだが、就寝前に軽く飲んで良いことにする。
 せっかくのウォーキング、これでは体のためになっているのやら分からないが、飲みでもしなければやりきれない、なんだかさしたる理由もないままそんな整理のつかない気分になってきてしまったのだ。

 教訓。夜の散歩のコースはよく考えろ。うっかり余計な思い出に向って歩いてしまわないように。

”加護営業”のうさんくささ

2008-09-17 04:24:30 | いわゆる日記


 リストカットといい未成年者喫煙といい、ともかく心の病関係者がちょっとでも隙を見せれば強引に顔を突っ込み、その道の権威者ズラして高所からものを言うという”加護営業”は順調に稼動しているようですな。
 それにしても加護はなぜ、あんなにも偉そうに出来るんだろう?”自殺未遂か?"と疑われた某少年俳優に対するコメントなんかには呆れるしかなかったんだけれど。

 で、加護のバックにいる事務所関係者というもの、どういう神経でいるのか。どのくらいの商売が成り立っているのか知らないが、その結果として明らかに、一人の単にバカな女を大勘違い人間へと変身させているわけだが。この”勘違い”だって”心の病”だよ、もちろん。

 加護とかかわりを持って喜んでいる社会運動関係者ってのも分からない。話題になって人を呼べればそれで良いのか?そんな事をすれば自分がそれまで築きあげてきた実績、いや、その社会運動自体までもがすべてうさんくさく見えてしまうって、分かっているのかな?

 そして、加護が何かやるたびに、下のように全面的支持の内容の記事を掲げるマスコミって何?何らかのビジネス上のつながりがあるわけ?
 とにかくうさんくさいよなあ、あれに関わるすべてのものが。

 ○加護ちゃん 自殺未遂者に生きるエールを送る!
 (日刊サイゾー - 09月16日 09:10)
 9月13日(土)、新宿ロフトプラスワンで、自殺防止を呼びかけるイベント「ストップ自殺!~あなたは1人ぼっちじゃない~」が行われ、特別ゲストとして、元モーニング娘。の加護亜依(20)が登場した。
 今イベントは、自殺未遂体験者の話を聞くとともに、どうやって「生きづらさ」を乗り越えたかについてゲストを交えて話し合い、死を考える人々へ生きるメッセージを投げかけようという趣旨。
 前半では、対人恐怖症やパニック障害などで自殺未遂を経験した5人が、絶望の淵から生きる気力を取り戻すまでの体験談を語り、詩の朗読やライブなどのパフォーマンスを行った。自らの孤独とやりきれなさを切々とつづった詩の朗読には、客席のあちらこちらからはすすり泣きが聞こえるほど。
 そして後半では、作家の中山美里さんと、加護ちゃんことタレントの加護亜依を招いて、「生きづらさ」をテーマにトークライブを実施。加護が登場すると、前半の神妙な雰囲気とは一変、会場は異様な盛り上がりを見せる展開に。
 自らも自殺未遂経験者である同イベントの主催者・月乃光司氏に「僕たちの仲間です!」と紹介された加護。司会者から「今まで生きている中で、一番辛かったことは?」と聞かれると、「未成年の時に喫煙をして事務所を謹慎、解雇になった時。でも、母親が叱ってくれたり、周りの人間が頑張っている姿を見ていたら、『もう一回頑張ろう』って、段々と前向きになれて。私は1人だと悲劇のヒロインみたいになっちゃうので、色んな場所に行って色んな人と話すことで、ストレス発散になって考え方も変えることができました」と、自虐ネタも織り交ぜつつ語り、観客の笑いを誘った。
 さらに、「落ち込んだ時の対処法は?」という質問には、「プールに行って、人魚姫になった気持ちで泳ぐ。苦しくなるまで泳ぐと、最後に負けないぞ、という気分になってやる気が出るんです」と明るく回答。また、作家の中山さんから「私は16、17歳のころは辛い時期を過ごしてきたのですが、加護さんの思春期はどんな辛さがありましたか?」と聞かれると、「当時はモー娘。にいた時ですが、基本的に辛いと思ったことはありません。17歳のころは、最高の青春でしたね!!」と、笑顔を見せた。
 最後には「落ちこんだ時は色んな人と話すことが大切。『加護亜依LIVE~未成年白書~』の中で私はいろんな人と対談したのですが、とても勇気をもらった。だから、この本を読んで私みたいに前向きになってくれる人がいたら嬉しいです!」と、8月25日に発売した著書の宣伝も卒なくこなした。

霧の夜に

2008-07-10 04:04:16 | いわゆる日記


 先の週末、街はひどい霧に包まれていた。日課の夜のウォーキングで出かけ、高台から見下ろす街は、なんだかゼラチンの覆いか葛きり細工でもすっぽりと上空に被せられたみたいで、白く煙る霧の中にうずくまり、さっぱり広がって行かないネオンサインをあちこちでまたたかせていた。

 最近のウォーキングのコースとしている、街外れの丘の上で解体中のNホテルを廻るコース。ウォーキング仲間である近所の喫茶店主に薦められたコースなのだが、さすがに歩きでがあり、グルっと一周してホテルの跡地を見上げるK駅の駅前広場に出ると、見事に一汗かいている。

 もうほとんど解体作業の終わったNホテルの跡地沿いの道を歩いていると後ろから。あれをなんと説明したらいいのだろう。泣き喚く何人かの赤ん坊の声のようなものを非常にプアーな再生装置で鳴らしている、そんな感じの音が背後から追いかけてきた。

 怪訝に思って振り返ると、夜霧の中から現われた大型のスクーターが、その鳴き声のようなものを大音量で鳴らしながら道を下ってくるところ。私を追い越してしまってもその音は鳴り続けていたから警笛のタグイでもないのだろう。

 あれはいったいなんだったんだ?走り去ったスクーターを呆然と見送ったのだが、いまだに分からずにいる。

 kホテル跡地と、私の歩いていた夜には人影も途絶えるうら寂しい道を挟んだ向こう側には隣り合う形で墓地があるので、それらしい怪談でも浮かんで来そうな雰囲気もある。
 しかし分からない。あの鳴き声はいったいなんだ?大型スクーターに装備するカーステレオの一種があるのは知っているが、そのようなものか。としても、音楽ではなくあんな妙な騒音をわざわざ聞く必要があるのか?

 おぎゃあおぎゃあと。夜霧を突いて音を響かせ。走り抜けて行くスクーター。

 街中に入ると、物欲しげな顔をして夜の街を歩く観光客に「お兄さん、良いコいるよ」などと声をかけるのを稼業としている、まあ、顔見知りといっていい婆さんが、声をかけてきた。

 「あらまあ、こんばんは。せいが出るねえ、こんな日まで。あれ・・・あんた、さっきここを通ったよねえ?顔を見たもの」
 通っていないのだが。とうとう、私のドッペルゲンガーまでうろつくようになったのか、こんな霧の夜は。

 家に帰りつくと夜霧はますます濃密となっており、私の町では珍しい若者の集団が近所のコンビニの駐車場にたむろしているのが幻のように虚ろに覗え、そいつもまたなにかの映画のオープニングのように非現実的な影を帯びているのだった。

 そういや、トム・ウエイツに”On a Foggy Night ”って歌がありましたっけね、こんな状況を歌っているんじゃなかったっけ?というだけの話で申し訳ないです。


座右の曲

2008-06-02 02:27:12 | いわゆる日記


 う~ん・・・つまらない日常の、けど解決せねばならない諸問題が重なり、なんか”心身ともに疲れた”って状態になっちゃいました。思い出すのも疲れるから詳細は書かないけどね、まあ、だから日常のつまらない諸問題ですよ。

 けど、その諸問題の一つの解決にかかわり、もう3年ほど前に認知症でしかるべき施設に入って余生を送っているある人に質問して、どうしても思い出して欲しいことが出来てしまった。何しろその人しか知らないであろうことなんだから、というのはちょっと来るでしょう?
 つーか、どうすりゃいいんだよ、俺は。さっきからその人の娘さんの電話番号を睨みながら頭を抱えてるんだけどね。何をどう頼めばいいのか、そもそも頼んでいいものかどうかも、見当がつかない。

 下のニュースを話題にするのはもう時期遅れだろうか。まだ2日遅れただけなんだけどな。インターネットがない頃だったらニュース自体がまだ私の手に届いていないかも。

 ”人生の座右の曲”なるテーマでオリコンがアンケートをとったそうで。けど、知らない、というかピンと来ない曲が並んでいて変だなあと思っていたら、中高生から大学生にかけてと社会人の20代、30代、40代の男女を対象に、ということで私はそもそも対象外の世代でありましたとさ。
 いつも”80歳まで入れる保険”とかいうコマーシャルを見るたび、「それじゃ80歳過ぎた人間はどうすりゃいいんじゃい」と心中突っ込んでいたんだが、その場合の80過ぎの人の気分が判ったような気がした。そうか、俺はもうデータとしても必要なくなったのか。

 データ外の存在であるせいだろうか、話題にさっぱり共鳴できない。そもそも1位のミスチルなる連中が何者なのか分かっていないし。そんな中でレッド・ツェッペリンの曲が8位って作りっぽくないか?出来過ぎの”興味深い結果”で、怪しいなあ。

 しかし、人生座右の曲。自分の場合はなんなのか、さっぱり浮かんでこない。このニュースに呼応して書かれた人々の日記を読んで行くと、どうやら他の人々は人生の局面ごとに脳裏を、しかるべき音楽がまるでドラマのBGMの如く流れて行くのを体験しているようなのだ。ここぞというべき感動的な場面には感動的な曲が。人の心は、そんなに上手い具合に出来ているのかなあ?

 私は、たとえば今日という日を、基本が嫌がらせで出来上がっているような人生の瞬間瞬間にこずき倒され、「この野郎っ」と凶悪な目つきとなりつつ過ごしたのだが、脳内でずっと聞こえていたのは、なぜか”懐かしの歌謡曲”の「湯島の白梅」であったのだ。

 あの「ゆ~しま~とおれええば~おもおい~だ~す~♪」・・・と言ってみて通じる人も、もうあんまりいないだろうが。そう、そんな時代がこの日本にあったことさえ想像し難いくらいの~んびりした曲。
 私にしたって”俺が子供の頃、年寄りが聴いてた曲だな”ってイメージしかないよ。なんだってそんな大昔の間延びした歌を、あの緊急時になぜ思い出さなければならんのかと口惜しくてならなかったよ。

 なんかねえ、私の頭の中に住んでいるもう一人の自分が、ピリピリ神経を逆立てて深刻がっている私をあざ笑うために、そんなマヌケな(その時の私には、そうとしか感じられない)歌を繰り返し歌っているみたいに感じた。そして、腹立たしいんだが、この歌が脳裏を去らないのさ。
 この、嫌がらせにマヌケ歌を大声で歌い続ける悪魔、実はこいつが人生の真実に至る鍵を握っているのではないか、なんて具合に話を締めくくろうとしたのだが。まあ、そいつも無理があるなあ。


 ○座右の銘ならぬ“座右の曲”、1位はミスチルの「終わりなき旅」
 (ORICON STYLE - 05月30日 11:22)
 人生の壁にぶつかったとき、音楽に助けてもらったという人も多いのでは? 今回オリコンでは、座右の銘ならぬ『座右の曲』について、中・高校生から40代の男女を対象にアンケート調査を実施。その結果、1位に輝いたのは、Mr.Childrenの【終わりなき旅】。「歌詞が身近で共感できる」、「歌詞に励まされる」という声が多く、【終わりなき旅】は人生の応援歌ともいえる存在のようだ。
 性別、そして世代別でもほとんどの部門で1位を獲得した【終わりなき旅】。「自分の存在価値に悩んでいたとき、この曲の歌詞が励まし、強くしてくれたから」(埼玉県/専門・大学生/女性)、「生き方を迷ったときに聴くと、答えをこの曲が導き出してくれる気がするから」(千葉県/30代/女性)など、人生の岐路に立ったときこの曲に助けられたという熱いコメントが多数。彼らの曲は「名もなき詩」、「Tomorrow never knows」など、ほかにも数曲ランクインしており、Mr.Childrenが与えている影響力の大きさが伺えた。
 続く2位は、ZARDの【負けないで】。「はじめて心の琴線に触れた曲なので」(東京都/30代/女性)、「タイトル通り負けないで、懸命に生きていきたいと思えるから」(神奈川県/中・高校生/男性)のように、この曲から元気や気力をもらっているという意見が目立った。また、中には「この歌詞のように生きていきたいと思う」(岐阜県/中・高校生/女性)と答えた人も。
 3位には、浜崎あゆみの【A Song for ××】がランクイン。「歌詞がとても共感できるから」(滋賀県/専門・大学生/女性)など、歌詞にまつわるコメントが多く、上位2曲を含めて見ると、“共感できる歌詞”が人気を集めていることがわかる。
 そのほか、4位には「前向きになれるから」(三重県/30代/女性)との声を集め、SMAPの【世界に一つだけの花】が。また、国内の曲だけでなく、8位にはイギリスのロックバンド、レッド・ツェッペリンの【天国への階段】も登場。国境を越え多くの人の心を轟かせているようだ。
 今回の調査結果を振り返ってみると、ランキングされた曲以外にも実に多くの回答が届いており、それだけ多くの人が人生に影響を与えた1曲というのを心の中に持ち続けているということがわかった。そんな“座右の1曲”に、人々はどれだけ救われているのだろうか? 今や音楽は人生に欠かせない存在となっている。さて、あなたにとっての座右の曲は?
 (4月25日~4月28日、自社アンケート・パネル【オリコン・モニターリサーチ】会員の中・高校生、専門・大学生、20代社会人、30代、40代の男女、各100人、合計1,000人にインターネット調査したもの)



明けない夜を求めて

2008-04-21 05:01:19 | いわゆる日記


 この文章を書き終わる頃にはもう朝がやってきて、文章の趣旨の対象時間じゃなくなってしまう公算大なのだが。

 何度かここにも書き込んだけれど、この日曜日の夜更けなんてものは実に憂鬱なものでね。明けて、また一週間が始まるのかぁ・・・とか。いやもう時間はとうに月曜日になってしまているんだけれど。ともかく、日曜の夜は哀しい。

 で、なんとも憂鬱な気分で一人、深夜のNHKテレビなどを呆然と見つつ、過ぎ去る時に耐えているわけです。こうしていれば永遠に日曜日の夜中のままで、クソやかましい人々の生活がまた始まるまぶしいばかりの朝などやって来ないのではないかと。まあ、そんなことがあるはずはないんだけれど、祈りつつ。

 これは夜中にいきなりテレビショッピングとか始める素っ頓狂な民放じゃダメでね。NHK深夜独特の、時の止まったような静謐に満ちた画面と音楽が一番、孤独な深夜の気分にはふさわしい。

 先ほどまでは、あれは”クラシックの歌曲”というくくりでいいのかな、声楽を流してました。ヨーロッパの雪山の情景などのバックにね。それからロシアのクラシック音楽と名跡めぐり、みたいなメニューが。こういうのはありがたいです。静かなクラシックを地味に地味に聴かせてくれるのがよろしい。

 基本的にクラシックを聞く趣味というのはないんだけれど、レコードもろくに持ってやしないんだけれど、この時間帯だけは大のクラシック支持派となる私なのである。今日はまた、凍りつくような孤独を孕んだ曲ばかり並べてくれて、ありがたいなあ。

 考えてみれば私がこうして聴きたいと渇望している音楽のこの感触、子供の頃に布団の中で深夜、ふと目覚めて聴いた遠くの夜汽車の汽笛の音なんかに通ずるものがあるのかも知れない。

 あの頃、遠くの夜汽車が運んでいる深い深い凍りつくような孤独を思って、布団の中で恐怖に近い気分に襲われたものだったけど、今は一人、迫り来る月曜日の足音に絶望的な気分になりながら、あの深い孤独の再現を、テレビから流れてくる音楽に求めている。

 そんな感じもあるのだ、オノレの気分を分析的に覗いてみると。
 これも一種の破滅願望なんだろうか。うとましい月曜日の朝なんかが来る前に、この冷え冷えとした夜の孤独の中で凍りつきたい、と。

 などと言っているうちに、ほら、テレビの画面に日の丸が翻り、テレビの時間帯が深夜から早朝に切り替わった。もうすぐアナウンサーが画面に出て来て朝の挨拶をし、ニュース番組が始まり、そしてまた一週間が始まる。助けてくれ。

ケルトの押し付けを排す

2008-03-22 05:59:38 | いわゆる日記


 (ラーメンの丼の模様とケルトの遺跡の文様と似てないか?)

 まずは先日の続き。Yの葬儀にはやっぱり覚悟を決めて(?)行ってきた。行ってみたら、これもYの人柄なんだろうか、えらく参列者の多い葬儀で、とにかく車を停める場所がない。会場の整理係ももはやヤケを起こしていて、「その辺に停めて置いてください」と、寺とは何の関係もない近所の駐車場を指さす有様。

 まあ、しょうがないからね、私もそこに車を停めて、文句が出ないうちにと、大急ぎで彼の家族に挨拶をし、焼香だけして帰って来たのだが。これは感傷的になっている暇がなくて、逆に良かったのかもしれない。
 実は、葬儀会場へ行く途中、車のハンドルを握る腕が妙なこわばり方をしていて、「やだなあ」と感じていたのだ。何を俺はテンパっているのだ、と。けどねえ。

 友人の死を体験するのは、それは、これが初めてではない。けれどYは、ほんの小さな頃からの遊び仲間なのだ。オトナになってからだって、すぐ近所にある奴の店に飲みに行っていたんだ。そいつが今日から、もうこの世にいないのだから。

 そして帰り道。暗くなった国道を車を走らせつつ、自分がなぜYの葬儀に出るのに乗り気になれなかったのか、本当のところがやっと分かった。
 私は、菊の花なんかに飾られた祭壇の上にYの写真なんか見つけたら、自分は泣いてしまうんではないかと恐れていたのだった。
 実際行ってみれば、車を置いた場所が問題だったので気もそぞろのままに焼香を済ませ、祭壇の写真なんか見る余裕もなかったのであるが。

 現実と言うのはいつもこんな具合に索漠たるものである。

 で、本日のお話。これも先日と似たような話になってしまうんだけど。

 さきほど、長嶋一茂が主演らしき、”ポストマン”なる映画の宣伝番組がテレビから流れていた。どうやら映画では大々的にアイルランド風のトラッドというか、いわゆる”ケルトっぽい”音楽が頻繁に流れる仕組みのようだった。
 一茂やら北乃きいやらの演技のバックに、いわゆるケルトっぽいフィドルやティン・ホイッスルの嫋々たる演奏が被る。

 まあ、私もヨーロッパの古い民謡は好きで、いわゆるトラッド・ファンのはしくれだから、聴き始めは良い気持ちで聞いていたのだった。不思議な切なさと懐かしさに溢れた、遠い昔に失われたヨーロッパ先住民の残したメロディ。
 が、しばらくすると、その演奏が鼻についてくるのだ。なんだか、その音楽がそこにあることの不自然さが、非常に居心地の悪いものと感ぜられてくる。

 一茂たちが出ているのは、どう見ても”ケルティック”とは関係のない、日本の日常を舞台の映画なのである。そこに”ケルトな”音楽が割り込まねばならない理由は、基本的にはないのである。それは、そのような立場の音楽をあえて使うファイクの面白さ狙いという手法もあるが、それを成立させるための配慮のタグイは、どう見てもなされていない作品である。

 聴いて行くうち、無理やり木に竹を接いだわざとらしさの先に、「こんな音楽を持ってくる私ってセンスが良いでしょ?音楽ファンだったら分かるよね?」といった観衆への甘えたもたれかかりも感じられはじめ、ますます不愉快となっていった私だった。

 昨年あたりからかなあ、テレビのコマーシャルとかのBGMに、”いわゆるケルティック”なメロディが頻繁に使われるようになった。”サリー・ガーデン”あり”シェナンドー”あり、ともかくくどいくらいに日々、”ケルトなメロディ”を聞く羽目となった。。
 その真っ只中、”ケルティック・ウーマン”なるアイルランドのコーラスグループの唄の、まったく押し付けと言いたくなる過多オンエアに、すっかり食傷してしまい、何の恨みもないそのグループを、あるアンケートの”嫌悪するミュージシャン”の一位に挙げてしまったりしたものだった。

 なにか我が国の”業界”にケルト贔屓の仕掛け人のタグイがいるのだろうか?などと勘ぐりたくなってくるのだが。
 あれらの音楽をCM界に持ち込んだ者、どのような立場か知らないが、もしいるとして。
 ご当人としては「自分は我が国における”ケルティック”な音楽の普及に貢献した」なんて浮かれた自己評価に淫しているんではないかと思う。

 だがそれは、残念ながら見当はずれの認識だ。
 音楽には、その性質に応じた流れるべき場、というものがあるだろう。今風に言えば”読むべき空気”というものが。
 日常的に垂れ流すのに向いた音楽もあれば、プライベートな時間に密室の秘儀として聴くべき音楽と言うものもあるはずだ。
 そして”ケルトな音楽”は、ここ日本においてはまだまだ、秘儀の範疇に収められるべき音楽であろう。

 アイルランドでは、そのような音楽が日常的に奏でられているのかも知れないが、ここ日本と、かの国とは文化も風土も異なるのだ。デリケートな配慮がなされてしかるべきなのは当たり前である。
 ただ単にあちこちで垂れ流し、無理やり聴かせれば聞き馴染んでファンになるに違いない、なんて考えは、音楽ファンをブロイラーかなんかと間違えているぞ。その行為、むしろ我が国における”ケルト”のイメージに悪い手垢を付けてしまう結果しか生まないのではないかと、私などは危惧しているのだ。

 なんて書いてみても分からないんだろうなあ。困ったもんだよ、無神経な奴って。


”十番街の殺人”は、もう聴けない

2008-03-20 14:38:09 | いわゆる日記


 2月18日の日記に、”同級生のYが良くないヤマイに罹り、重篤な状態にある”と書いたが、今朝、Yが亡くなったとの知らせがあった。これはきついなあ。

 先にも書いた通り、柔道の猛者で道場を開いて子供たちの指導に当たっていたYだが、私にとっては”中学時代のエレキギター友達”とでも呼ぶべき存在だった。
 中学生だったある日、幼馴染みの彼が、意外にも達者にエレキギターを弾きこなすのを見て、私は自分でもギターを弾いてみようなどと言う気を起こした、と言っても過言ではない。

 病気の話を初めて聞いた時も、あの屈強なYのことだ、きっとそんなものケロリと克服してしまうさ、なんて思ったのだが、こればかりはそうは行かなかったようだ。

 その後もずっとベンチャーズ探求の道を歩いた彼と、ワールドミュージックというか世界中の裏町歌謡を漁る方向に進んだ私とではあまり接点はなく、その後は一緒に演奏する機会もなかったのだが、こうなってみると、一回ぐらいは遊びでバンドでも組んでみるべきだったのではないか、なんて思えてくる。まあ、いまさら言ってみても仕方がないのだが。

 あと何時間後かにはYの通夜がK寺である。そいつに出席するかどうか、いまだに決められずにいる。そんなものに出てYの死を確認してしまいたくない、なんて想いがある。そんなものに出ずにいればある日、通りの向こうから健康を取り戻したYが「やあ、心配かけたけど、もうすっかり治ったんだよ」と、いつもの笑顔で現われるのではないか、なんて気がする。 

 もちろん、私の理性は「そんな事はありえない」と告げているのだが。もしそんなことが本当に起こったとすればその時は、Yは私の肩を叩き、「さあ、一緒に行こうよ。久しぶりにお前のギターを聴かせてくれよ」とか言いつつ、あっちの世界に私まで連れて行ってしまうだろう。そいつはしばし、願い下げにしたい。

 それにしても、Yが経営していた店に飾られていたモズライトのエレキギターのコレクションは、どうなるのかなあ。余計なお世話だけれども。
 今日は天気の具合が悪く寒の戻りがあり、冷たい雨が朝から降っている。この世の旅の真っ只中で思う。この人生にどう対処すべきか、たぶん一生分からないままだろうなと。

果てしなきイントロ地獄

2008-02-22 07:38:22 | いわゆる日記


 腹立て呆れ、ついには笑ってしまったんだけど。

 ネットの通販サイトで、商品のCDを試聴できる仕組みになっているところは多いですが、あれ、マイナーなアイテムの場合、結構アバウトに作ってあるんですね。

 たとえば奄美島歌出身の歌手、RIKKIのデビューアルバム”むちゃ加那”などをクリックしてみると、「なんじゃこりゃ?」と言うことになる。
 このアルバムはRIKKIのデビューアルバムで、奄美の民謡ばかりが納められている訳です。
 で、ものが民謡なんで、まず一くさり三線のソロがあり、その後、おもむろに歌が始まるパターンがほとんどです。

 ところが。ネットの通販サイトの試聴システムでは、どの曲も「イントロから初めて何秒」とかをただ機械的に収めてあるだけのようで、ことごとく唄の始まる寸前でフェイドアウトがされてしまう訳です。
 結局、そこの試聴システムでは彼女の歌を聴けず、ただ三線のソロだけが響くのみ。
 事情を知らない人が聞いたら、彼女の事を歌手ではなく三線弾きの専門家かと思うぞ。

 その他の島唄唄者で試してみたが、ことごとくそんな扱いになってますね。まだ全部調べてみた訳じゃないが、それ以外の音楽のジャンルでも、そんな不都合ってあるんじゃないかな?
 そしておそらく、もっとメジャーな音楽や大スターの音楽に関しては、きっとずっと丁寧に作ってあるだろう。すくなくとも、歌手のアルバムだけどイントロのギターソロしか聴けない、なんて事はないでしょ、確実に。

 なんか、そういうソフトでもあるんですかね?一枚のCDに収められた曲目の、おのおの冒頭30秒だけを機械的に拾って次々に試聴システムに組み込んで行く作業をする、そんなものが?
 少なくとも、人間が手動でやったら、あんな具合にはなるはずない。あれじゃ試聴システムの役を成さないわけだから。

 まあ、「人手も足りないし、いちいち丁寧に作っていられないよ」ってなものなんでしょうけど、「なんか変だな?このままでいいのかな?」と考えるところが出て来たっていいと思うんだけど。