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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

マリアンヌ・フェイスフル、なんとかなりませんか?

2010-12-21 04:15:26 | フリーフォーク女子部
 今、マリアンヌ・フェイスフルのデビュー当時のアルバムが欲しくてね。でも、内外ともに絶版状態みたいで手に入らず、くさっているのである。なんだこれは。

 デビュー当時のフェイスフルって、結構可憐なフォーク調のものを歌ういい感じの歌手だったんだね。ロリ系のさ。こっちは彼女をリアルタイムで知ってはいたけど、ストーンズのメンバーとのあれこれとかそんなものばかり興味を持ってしまい、彼女がどんな音楽をやっていたか、興味を持つ機会もなかった。でも今調べてみると、なかなか面白い内容のアルバムを出しているんだよ。
 特に、「ノース・カントリー・メイド」っていうアルバム、これが欲しくて。なかなか泣かせる選曲でね。あ、そう来たか、みたいな曲が並んでいる。
 まあ、詳しくはそちらで勝手に調べて欲しいんだが。うん、きっとあなたも欲しくなるに違いないって。

 で、さあ、このアルバムなんて、通販サイトになんというか”売り切れ”の表示さえないんだ。「この盤があったんだけど売り切れです」じゃなくて、その存在の痕跡さえ残っていない。そんなに売りたくないか、通販サイトもさ。
 とか言ってるけど、ますます悔しいのは、何年か前に”デッカ・イヤーズ”って彼女のボックスものが出ていて、実は”フォーク期”のフェイスフルは、これを買っておけば一網打尽だったんだよな。全部手に入っていた。まったくねえ・・・よくある話でさ。その価値に気が付いた時には、もう思いっきり絶版なんだよな。

 ねえ、なんとかならんか、レコード会社よ?



囁きの森から

2010-12-19 02:41:26 | フリーフォーク女子部
 ”My Room In The Trees”by Innocence Mission

 なぜそんなに惹かれるのか言葉に出来るような理由はないのだけれど妙に気になって仕方がない音楽、というのが今年は二つあり、ついには我慢できなくなって追いかけ始めてしまったのだが。
 その一つがテクノやエレクトロニカと呼ばれているらしい音楽であり、もう一つがこのアルバムのような、女性の低血圧系囁きボーカルがメインのフォークっぽい音楽である。
 これら物憂げな女性たちの歌声がたびたび部屋に流れるようになり、まあ本来が怠け者の私の生活はますますレイジーボーンなものとなって行ったのだが。

 ポツリポツリとシンプルに音を置いて行くギターやピアノのプレイ。そして素朴過ぎるほどに飾り気もなく無防備に歌いだされる歌。ベビーベッドで眠りこけている赤ちゃんの姿などがふと脳裏に浮かんだりする。繰り出されるメロディもまさに、子守をしながらふと口ずさむのが似合いみたいな、なにげない暖かさ柔らかさに満ちている。
 歌っている女性とバックでギターを弾いている男性とは夫婦であるとのこと。アメリカのペンシルヴァニア州ランカスター出身で、カトリック・スクールの舞台劇のためのバンドとして一緒に演奏したのがすべての始まりとのこと。

 持ち歌はすべて女性の自作、あるいは夫婦の合作という形のものがほとんどのようだ。このさりげない安らぎは、自宅で夕食を終えた二人がふと楽器を手に取り歌いだした、そんな間合いから生まれてくるのだろうか。
 とはいえ、この騒がしい世の中で生まれて育って、このような静けさに満ちた音楽をやると言うのは、それなりにひねくれた行為であり、ある種の異議申し立てなのであろう、意識的であれ、無意識ではあれ。なんて話をするのもヤボと言うものだろうが。

 たびたび引用して申し訳ないが作家の故・鈴木いずみの言葉に、「皆は1969年がすべての始まりと信じているだろうが、実は世界の終わりだったのだ」というのがある。
 どういう気分だろうね。生まれてみたらもう世界は終わっていて、その事に気が付いてしまう、というのは。歩きはじめてはみたが、吹き過ぎる夕暮れの風は冷たく、足元の道は歩を進めるごとにボロボロと頼りなく崩れて行く。
 だからこの夫婦は夕食後のキッチンで楽器を取り出し、優しくて柔らかで懐かしいメロディを手繰り寄せて歌いだしてみた・・・

 このアルバムの中ほどに収められている”all the weather”は、マヨネーズのコマーシャルのBGMに使われ、茶の間にも流れた。放浪者を気取った福山雅治が開け放たれた貨車に座り込み、サンドウィッチのタグイを頬張る。外を流れて行く緑豊かな自然は、カナダかそのあたりのように見える。吹き抜けて行く風には、太古と変わらぬ生まれたばかりの森の匂いがしたのだろう。



曇り空とタマシイ

2010-12-15 02:58:31 | フリーフォーク女子部
 ”Heart And Crime”by Julie Doiron

 しばらく前から、ときどきこんな音楽を聴くようになっている。ほぼギターの弾き語り。独り言を呟くような歌い口。劇的なメロディの起伏といったものはない。時に、遠くのほうからピアノやトランペットが聴こえたりする。
 メジャーセブンスっぽい、モヤっとした和音が雰囲気を支配して、時の止まった世界からのメモを受け取るようだ。ただポツポツと自分自身に語りかけるような内向きの歌声が続く。じっと聴いていると、擦りガラスの向こうの風景を眺めているような気分。雨も降っているのかもしれない。
 カナダのシンガーソングライターなんだそうだ。いかにもそんな、空気の冷たく澄んだ大地が似合いそうな歌声。頭上に広がる、薄ら寒い曇り空。

 歌詞カードが付いていないんで何を歌っているのか正確には分からないが、「すべての壊れた心」とか「私はダンスが好き」とかいうタイトルを見る限り、そんなに気にすることもなさそうだ。きっと音楽そのものと同じように、日常の時間の経過の中でふと頭に浮ぶ想いの断片みたいなものを並べただけではないか。
 劇的展開などと言うものはない。起承転結もあるのかどうか分からない。ただモヤッとした灰色の不定形な感傷が指の間をすり抜けて行く。
 そう、そいつは多分、感傷なんだろう。私の心の内におそらく、共鳴する同じ形の灰色のものがある。
 憂鬱な曇り空にこそ覆われて守られるタマシイのことなど考えてみる。




ペギーHの探求

2010-10-30 02:13:34 | フリーフォーク女子部
 ”Sing Sung Saing”by Peggy Honeywell

 近付いているという台風のせいだろうか、海沿いの国道は風が出ていて、ときおり霧雨が降りかかる。ヨットハーバーからは波に揺れる各艇の装具が触れ合ってカチカチと鳴る音が聴こえている。そして自分は海沿いのコンビニに買いものに来ているのだった。もはや気候は冬と変わらず、毎週のように花火大会が行われ観光客でごった返した海岸通りはその面影もない。ただうら寂しい街路灯の光の下で、シンと静まり返っているのだった。

 さっきテレビの番組にエイベックスの社長と言う人物が出ていた。彼は言っていた、CDなどという時代遅れの商品に、今日を生きる企業はいちいちかまっていられないのだ、との持説を。
 そうじゃないだろ、話が逆だろ、と思う。CDをプレスし、それを収めるプラケースを成型し、それを包むジャケを製作する。商品製作にそんな手間をかけるより、”ダウンロード”するシステムを置いておけば消費者は勝手にそこで自ら商品を製作し、代金をおいて行く。企業にとってそっちの方が断然、商売はおいしいものな。
 だから君ら企業は消費者に、「ダウンロードの方がナウくてカッコいい」とする価値観を吹き込み、そして、とうの昔にいいなりになるのにすっかり慣れきっている消費者は、「それもそうかと思うげな(by添田唖蝉坊)」と言うわけで、「ダウンロード以外、考えられないね。なに、いまだにCDとか買っている人がいるの?信じられない」と大喜びで言うようになる、という作業工程だ。

 買い物から帰ってぼんやりテレビを見ていた。「世界の車窓から」とかいう、数分の帯番組。映像のバックに女性の歌うフォークっぽい音楽が流れていて、それに妙に耳に引っかかる。
 ほぼギター弾き語りみたいなシンプルなサウンドに乗せて、シロウトくさいか細い声で、彼女は歌っていた。ある意味素朴な、ある意味シュールな、みたいな、シンプルなくせしてどこか一癖ある独特のメロディが、歩き方を覚えたばかりの赤ん坊みたいなペースでユラユラと空間を渡って行く。
 なぜか子供の頃見た冬の朝の光景が浮んだ。小学校の登校風景。差し入る朝日に皆の息が白く、水溜りに張った薄い氷を踏み破り、嬌声を挙げていた。

 あれ、この歌、なんだか良くないか?と半身を起こすのに時間はかからなかった。さっそく歌手名を調べ、資料を探してみる。アメリカのシンガー・ソングライターのようだ。
 Peggy Honeywellという名で歌手活動をしているが、別の名で画家稼業も行なっているそうな。そちらが本職なのかも知れない。CDのジャケも自分で描いている。なんだか北国版のアンリ・ルソーみたいな素朴画で、これもよい感じだ。これだけでもファンになる価値がある気がする。
 が、残念なことに現在、彼女のアルバムはすべて絶版のようで、どこの通販サイトをあたっても購入不能である。新譜というのもないようで、もう歌手活動はしていないのだろうか?これは、いずれ再評価の時(あるはずである。その価値はある)を待つしかないのかも知れないが、くそう、じれったいなあ。欲しいよう、Peggy Honeywellのアルバムが。

 まあ、もう少し、どこかで売れ残っていないか探してみようと思ってるんだけどね、どうしても”盤”が欲しい私としては。ねえ、どこぞの社長さんよ。




龍の喪失

2010-10-28 03:11:14 | フリーフォーク女子部
 ”ゲド戦記歌集”by 手嶌葵

 昨日、ウチに不在連絡表を置いていった宅急便の配達員に呆れるほどの怠慢行為あり、さっそく翌朝早く、そいつの携帯にかけて思い切り説教、ついでに宅急便の会社にも電話し、くわ~しく苦情を述べ立て、のち、そいつの代わりに荷物を持ってきた奴の同僚も怒鳴りつけてやる。
 ざまあみやがれ正義は必ず勝つ!と握りこぶしを固めたのだが、そういう自分がうっとうしくてたまらない気分なのだった。
 振り返れば腐秋。見回せば周りは、どいつもこいつも身勝手な欲望からくっだらねえ策略をめぐらし、ゴミみたいな日を送っている。
 こんなくだらないゴタゴタに身をすり減らして。俺はいつか。などと駆られる焦燥。

 こんなとき、ふと思い出すのがカナダのシンガー・ソングライター、ブルース・コバーンの曲、”If I had a Rocket Launcher”なのだった。とはいえかの曲は、コバーンがアメリカ合衆国の暴虐の嵐に晒された南米のゲリラへシンパシーを込めて歌った政治の歌である。
 私の方は、そんな立派な志があるじゃなし、使い古したトカレフでもなんでもいい。この日々をふと振り返り、鋼鉄の塊を打ちまくれるなにものかがあれば良いのだ。そうして、私がこれまでの生活の中で愛したものも憎んだものもひとまとめに。

 凛として己の世界を構築して現実なんか大嫌いな古風な文学少女、そんな少女が歌う歌が聴きたい、なんて想いがある。極初期のジョニ・ミッチェルなんかがそんな感じか。もっといそうな気もするが、今は思いつけない。”時の流れを誰が知る”を作った時のサンディ・デニーなんかもイメージだな。
 そんな子が同級生たちの明るいおしゃべりに背を向けて机にかがみこみ、キリリと尖らせたエンピツで書き上げたなにかの結晶みたいな歌を聴きたいと思っていたりする。どうしても聴きたいから盤を探し回る、なんて感じじゃないが、ふとそんなものを聴きたい渇望を感じる。

 このアルバムは、例のスタジオ・ジブリの。なんていったってアニメそのものに何の関心もない私にとってはなにやら分からず、もちろん作品も見たことはないのだが、ともかくこれは、あのアーシュラ・K・ルグィンの原作になるファンタジィ、「ゲド戦記」のジブリによるアニメ化作品のイメージソング集とでもいうのだろうか。
 収められている10曲のうち、映画で使われたのは2曲だけだそうだ。2曲のうち、”テルーの歌”は、このアルバムの主人公、手嶌葵がテレビで歌っているのを何度か見たことがある。
 その他の曲も”ゲド戦記”の中のエピソードに準拠して書かれたもののようだが、使われる予定が初めからなかったのか、その辺はわからず。が、映画のサントラのようでいて実はこのアルバムの中にしか存在しない歌、という密室感?が、逆にその世界をふさわしい独特の虚構性を高めていると感じた。これはこれでいいのだろう。

 彼女の歌はほとんど呟きであり、他人に聞かせるというよりは自分の心に歌い聴かせる感がある。歌われるのは、龍が跳梁する異世界の日常である。異世界の石畳の道に彼女の長い影が落ちる。歌を呟きながら彼女は歩を進める。他に人影はない。ただ廃墟と化した都市と島々を渡る孤独と生命の木と見上げる空と。
 ギターだけとかピアノだけとか、たまに聴こえるアコーディオンとか、伴奏はきわめてシンプル。いや、いくつかの楽器が重なり合う瞬間はあっても、その響きはアルバム全体を包み込む静けさの内にあり、分厚い印象は残らない。

 ゲド戦記。SFに夢中の少年だった頃、SF雑誌の情報ページでル・グィンの書いたと言うその小説の紹介を読み、熱烈に読んでみたいとおもったものだった。が、いくら待ってもそれは訳出されず。まだあんまりSFにファンもいなかった頃の話である。
 時は流れ、私がオトナとなり現実のあれこれに追い回されてSFを手に取る機会も無くなった頃、”ゲド戦記”はいつの間にかいわゆるカルト的支持を集めつつ刊行されていた。懐かしさから、そのシリーズを一気に買い込み読もうとしたが、哀しいかな、なにが面白いやらさっぱり分からない。私にはもう、この種の異世界ファンタジーを楽しめる心は失われていたのだった。
 私はシリーズを途中まで読み、諦めてすべてを古書店に売り払ったものだ。今回のこの”戦記歌集”を音楽として楽しめる事実に感謝せねばなるまい。



懐かしき寝汗の記憶

2010-10-10 02:51:42 | フリーフォーク女子部
 ”萬花鏡”by 佐井好子

 なぜかプログレ・ファンの一部からひそかに注目を集めていたりする女性シンガーソングライターの70年代作品。何となく興味を惹かれて聴いてみたんだけど、いやともかく1975年なんて時点で、こんな濃厚な異世界フォーク(?)がひっそりと作り歌われていたなんて、非常に不思議な気がする。
 エキゾティック&エロティック&ファンタジックな少女漫画調の、歌手本人の手になるイラストが飾られたジャケに包まれた歌世界は、夜の精がうろつき、地下道の壁にクレヨンで描かれた空に風が渡り、逢魔ヶ時に紅の花が血を流し、サーカス団の酔いどれ芝居に降って来るのは血まみれの緑色なのである。

 そんな懐かしい悪夢とでも呼びたい時の止まったような幻想世界が、オールドジャズっぽいブルーズィでレイジーな、そして時おり、幼い日の記憶の中から聴こえてくるような子供の遊び歌調にもなる物憂いメロディによって歌い上げられて行く。
 展開されているのはかなり奇矯な世界であるのだが、歌手の歌に向う姿勢はじっくりと腰を落とした冷静なもので、エキセントリックな叫びになることない。子供の頃に病床で熱に浮かされて見た幻を静かに振り返る、そんな語り口である。

 資料によれば歌手は大学に入ったばかりの頃、重い病で療養生活を余儀なくされ、その際に心の慰めとなった夢野久作、小栗虫太郎、久米十蘭などの小説の影響下に書き下ろしたのが、このアルバムで聴かれる諸作品なのだそうな。
 療養生活という自分の生体反応とじかに向き合うような日々において、癒しとして幻想小説の世界に心を預ける事。そのような特殊な環境が、このような不思議な地に足の付き方をした虚構の世界の成立を可能としたのか。などと想像してみるのだが。

 唯一無二な懐かしき悪夢の余韻と、その記述。目覚めてホッと溜息をつき寝汗を拭えば、遠くの山際に忍び寄る、仄かな朝焼けの気配。




太陽の黄金の林檎

2010-08-29 03:15:40 | フリーフォーク女子部
 ”Golden Apples of The Sun”by Caroline Herring

 何しろこのCD、タイトルが「太陽の黄金の林檎」なのだから、子供時代を熱狂的SFファンとして過ごした者としては、内容なんかどうでもいい、買わずに置く訳には行かないだろう。まあ、ブラッドベリの有名な短編を、どこまで意識したタイトルか知らないが。
 アメリカの女性シンガー・ソングライター(というより、”フォークシンガー”という古い呼び名のほうが彼女には似合う気がする)であるCaroline Herringの本年度作品。もちろん、上のような事情でタイトル買いをしたくらいで、私にとってははじめて聴く人だ。

 簡単な伴奏が入っている曲もあるが、基本的に自身のギター弾き語りをメインに聴かせる人のようだ。シンプルなコード弾きに乗せて、知性的な女性の落ち着いた、血から強い歌声が、ゆったりと渡って行く。
 ”サボテンの花”のカバーが入っているのを見ても明らかだが、最初期のジョニ・ミッチェルあたりの影響下で歌い始めた人のようだ。歌い方や曲作りの個性など、随所にその影響を見て取ることが出来る。

 が、この人のミュージシャンとしての個性にはジョニほどヒステリックというかテンション高いところは無く、かわりに独特のメランコリィを秘めた歌声で、彼女の日常を通り過ぎて行く現実と幻想を激することなくそっと捉まえ、静かに見つめ直すようなところがある。 女性に対して変なたとえだが、”上手く行かないことはあるが、へこたれない男の子”みんたいなイメージのある人だ。
 そして彼女は歌う、この、いつかどこかでボタンの掛け違ってしまった世界と、そこに降り注ぐ昔と変わらぬ陽光と、人々の物語を。

 「失われたものは失われてしまった、過ぎた時間は還って来ない。だから我々はこの土を一歩一歩踏みしめて歩き出すより仕方ないではないか」そんな覚悟が、彼女の歌声に、天からの日差しの暖かさを孕ませているのではないか、などと思ったりもした。



犀と夜汽車の荒野から

2010-04-25 03:55:20 | フリーフォーク女子部
 ”Before and After”by Carrie Newcomer

 これもジャケ買いの一種なんだけど、別にアイドル歌手が写っているわけじゃない。そんな写真じゃないんだけど、一目見たら何だか心に残って、買ってしまわずにはいられなかったのであって。アメリカの、もうベテランの女性シンガー・ソングライターである Carrie Newcomerの出たばかりのアルバムらしい。
 ジャケ写真の中央ではもう十分オトナの女性が一人、電車の四人掛けの席に座り、何ごとかメモをとっている。あるいは誰かに手紙でも書いているのだろうか。車窓の外はもう暮れかけていて、夕焼けの空を鳥の群れが行く。あまり現実感のない光景で、これは彼女が見ている夢の中の出来事ではないか、なんて気もする。

 ジャケを開くと、人影もない朽ちかけたような田舎の駅に降り立った彼女の姿。そして曇り空の下、地平線目指して伸びる線路の脇に一匹のサイが佇んでいる。アメリカの平原にサイが放し飼いになっているはずはないのであって。
 CDを廻してみると、非常に落ち着いた印象の、いかにもインテリらしい女性の歌声が流れてくる。フォークっぽいカントリー・ミュージックの作りである。彼女の歌にはスチールギターやピアノやコーラスなどが静かに寄り添うのだが、ほとんどはあまりにさりげないので、彼女のギター弾き語りの印象ばかりが残る。

 とにかく激さない、感情に流されない、静かに物事を見据えて歌う性格の女性らしく、彼女の書くメロディも、その歌唱法も、自らの内面に語りかけるような思索的なものとなっている。メロディラインはフォークっぽいシンプルなもので、歌い方もごくスムーズなものだが、周囲に広がって行くというよりは、彼女が心中に抱えた幻想にこちらが引き込まれて行くような感触がある。
 曲はどれもシンプルで親しみ易い構造をしており、リフレインの部分などは2~3度聴けば覚えてしまっていっしょに歌えそうな気がする。ただ、彼女の歌手としての個性が内省的であるゆえ、安易にコーラスの輪を広げる気分でもなく、こちらに出来るのはジャケにある電車の席の彼女の向かい側に腰掛けて、彼女のメモをしたためる様子をただ見守るだけである。

 そうするうちにCDは2回転目に入っており、収録曲の中でもひときわ印象的な”Gost Train”がまた始まっている。霧に覆われた草原を行く伝説の幽霊列車は、時を越え、何を伝えるために現われるのか。
 そいつは子供の頃、寝床の中でふと目覚めた深夜、遠く聴いた夜汽車の汽笛の凍りつくような孤独な調べの記憶に連なり、灰色の霧の中に消えて行く。
 意識の底への列車の旅は続く。



今夜ともす灯りについて

2009-12-24 03:46:33 | フリーフォーク女子部

 ”Come Darkness, Come Light: Twelve Songs of Christmas”
  by Mary Chapin Carpenter

 深夜、なんとはなしにテレビのチャンネルをあれこれ変えていたら、第2次大戦に関するドキュメンタリー番組をやっていた。大戦末期の記録が流されていた。

 ベルリン陥落と、リンチを受けるナチス協力者たち。占領軍たるアメリカ軍は、アウシュビッツのユダヤ人強制収容所にドイツ市民を強制的に刈り出し、そこで何が行なわれていたかを彼らの目に焼き付けようとしていた。「お前たちの国がやった事をよく見るんだ」列車から降ろされたドイツの老婦人たちは互いによろめくやせ細った体を支え合いながら、その恐怖と悲しみの館に歩を進めていた。

 そして沖縄の集団自決の顛末。自爆する兵士の、そして市民の顔立ちが、フィルムからははっきりと見て取れた。
 クリスマスのお祭り騒ぎの中、偶然に見てしまったそれらの映像は不思議に深々とこちらの気持ちに染み入り、おかげでアイドルグループ、”AKB48”によるおちゃらけ番組を私は見逃してしまったのだった。

 雪の夜、灯りをともし続けるクリスマスツリーの姿がひときわ印象的なこれは、アメリカ・カントリー音楽界のベテラン・シンガーソングライター、メリー・チェイピン・カーペンターが、その20年に及ぶキャリアの中ではじめて作ったというクリスマス・アルバムだ。2008年作。
 彼女自身の作品とカバー曲と何曲かの民謡とによって構成された、非常にシンプルなサウンドによる、静けさと祈りに満ちた作品集。

 それは聖夜を楽しく過ごさせるための作品集であるばかりでは無い。彼女の歌うクリスマスのベルはマリアとその幼子のためというよりは、この世界に溢れる終わりなき戦いと餓えの中にいる子供たちのために鳴らされている。
 むしろ、クリスマスというレンズを通して改めて我々の生きる社会の真実を見つめ直そうとの意図が込められているようだ。

 静かに語りかけてくるマリー・チェイピンの歌声は、ただ夢見てしまうことなくハードな現実を見据え、凍りつく冬の道を何ごとかを求め、奥歯を噛み締めて寒さに耐えながら行く人の心の声に聴こえる。
 かって雪の上に足音を刻んで歩き去っていった人々すべての苦悩と孤独を噛み締め、そして人々の明日に祝福と希望を与えようとする、そんな祈りに満たされている。
 空を舞う雪とビートルズの唄を初めて聴いた少女時代の思い出を静かに語る、彼女の作ったもう一つの”クリスマスキャロル”が心に残る。すべての子供たちがベッドサイドに吊るした靴下の中に息付いている、希望に関する唄が。

”Because peace will shine in me and you
From Bethlehem to Timbuktu
Even if the forecast is for rain”

by Mary Chapin Carpenter