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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

On a Foggy Night

2007-08-18 23:01:28 | ものがたり


 灼熱地獄の昼間にまさか日課のウォーキングは出来ないので、このところ日が暮れて少しは涼しくなってから歩き始めているのだが、今日も今日とて遅めの夕食を終えて海岸に出てみたら、街は霧に包まれていた。

 まだ昼間の熱気が地面から立ち込める街は、上からは霧に蓋をされ、ひどく蒸れた風呂場の脱衣場みたいなうっとうしさで、いずれにせよウォーキングなんか出来る日ではないのだと思い知ったのだが、もうこちらの体が一日歩かないと気持ちが悪いと感ずるようになってしまっているので、そのまま海岸遊歩道を行くよりしかたない。
 それでも夜の砂浜では蒸すような熱気の中、ビーチバレーに興ずる若者たちなどもいて、若さと言うものの持つ果てしなく無駄で猥雑なエネルギーに呆れさせられてしまうのだった。

 そして夏の夜の海岸における定番のお楽しみ、自主・花火大会。
 観光客がコンビニで仕入れてきた大型の打ち上げ花火を、砂浜のあちこちに陣取り盛大に打ち上げているのだ。夜の砂浜付近がそのせいでひどく火薬臭いのも、もう夏の風物詩として我々浜辺の住人は認知しかけている。
 ちなみに、砂浜での花火は禁止なのだが、というかそもそも夕刻を過ぎての海水浴場への立ち入り自体も本来は禁止なのだが、もはや誰もそんな事は気にかけていない。

 ライトアップされた砂浜は、際限なく打ち上げられる花火が上げる硝煙と、上空を漂う濃い霧とが入り混じり、白いもやの塊があちこちで渦を巻くような状態にあった。その中で三々五々打ち上げられる大小の花火は、妙に音が伸びず、ポンと気の抜けたような炸裂音を響かせる。

 ”ザ・フォッグ”と言う映画は、仰ぎ見るような出来ではなかったが、結構気に入ってはいた。今蘇る百年以上前の恩讐と、海からの怪異の襲来。それらが、孤独な人々が日を送る物寂しい海辺の小村を覆った霧の神秘に絡めて語られる様子が、良い雰囲気を出していた。
 私が見たのは90年代に作られた初代作だったのだが、その後に作られたリメイクの出来はどうだったのだろう。

 先日、交通事故死したばかりの、知り合いのA氏の事が妙に心に引っかかっている。長いこと、私の車の面倒を見てくれていたのだし、それが突然の訃報が入り、その時点でもう葬儀が終わってしまっていたので死に顔も見ていない。会葬者も駆けつける間もないうちに早々と葬儀を終えたのは、奥さんたちの看病で親族たちが大変だろうとの配慮のようだが、なるほどそりゃそうだと、今となっては納得出来る。

 それはそうなのだが、どうにもA氏が亡くなったという実感がわかないのだ。そのうちひょっこり、いつものようにその辺に顔を見せるのではないかという気がして仕方がないし、そうしたら一言、言ってやりたいこともある。

 「何やってんの?あんな場所で無茶なスピード出して、曲がり切れるわけないじゃない。あんたらしくもないなあ。奥さんも娘さんもいまだに助かるかどうか分からない状態なんだよ。ひどいこと、やっちまったなあ」
 「ウチの女房と娘が「ですか?なにかありましたか?」
 「何をとぼけた事をいってるんだよ。あんたが事故を起こして大怪我させちゃったんじゃないか。わすれちゃったのかい」
 「えーと・・・そうですかねえ・・・あ、あのバイクですけど、マフラーに問題がありまして。部品が入ったらすぐに直して、そちらに持って行きますよ」
 「いや、それはいいけどさあ、あんた、その」
 「・・・部品が・・・あればすぐに・・・直せたんですがねえ・・・入ったらすぐに・・・」

 A氏の姿はゆっくりと崩れ落ち、あたりに立ち込める霧の中に同化して、見えなくなってしまう。後には、今夜は妙にオレンジ色が強く感じられる街路灯の光の下に放置された私のバイクと、ただ立ちすくむ私自身、それだけが残されている。あとは立ち込める霧、霧、霧・・・

 海岸からは、相変らず花火が打ち上げられる音が遠く近く響いている。ずっと遠くの県道を、救急車のサイレンが行くのが聞こえた。
 街のホテルや飲み屋の発する明かりは、淀む大気の中で混じりあい、不思議に郷愁を誘う黄色く曖昧なひとかたまりの輝きと化している。
 街を覆った厚い霧は、その黄色い光を内に飲んだまま、まるで葛で作った和菓子のような、つるりとした半透明の固形物の感触をいつの間にか感じさせつつ、中空に淀み、動こうとしない。いや、ほんとうに霧は、固形物と化し、街を覆い始めているのかも知れない。

 固形物と化した霧に街もろとも飲まれ閉じ込められてしまう前に、一刻も早くこの街を出るのが得策のような気もするのだが、私のバイクの調子が悪く、動けない。そして、バイクの面倒を見てくれていたA氏が死んでしまった今となっては、どうすることも出来ないのだった。

 霧は立ち込め、夜は更けて行く。

夜半の一点鐘

2007-01-11 02:47:47 | ものがたり


 我が青春時代からチューネンにかけての時期といったら、ひたすら酒の海に溺れつつ、これではいかん、これではまったく無駄に限られた生の時間を浪費しているだけではないか、そもそも体が持たない、などと焦燥にかられつつも抗うすべなくまた飲んでしまうといった立派なアルコール依存症の日々を送っていたものだ。まあ、今だって我慢するすべを覚えただけで飲みたい内実はまったく変っていないのだが。

 そんな日々でも、時に休肝日とかいうものを設けなければいかんのではないかと、酒のない夜を過ごすことがあった。そもそもが生来の不眠傾向を脱したいがために夜毎の飲酒が始まったといえなくもない私なのであって、当然、そんな夜に眠りは訪れず、思い切り覚醒したまま虚しく朝を迎えてしまうこととなる。
 ベッドからカーテンの隙間越しに見えるそんな日の朝の空は、どんよりと曇った灰色の上に中途半端な朝焼けのオレンジ色が混じった、実に嫌な色をして明けていった。
 
 無為にそんな空を眺めている冬の朝など、時に遠くあるいは近く、カーンと鐘の音が響くのを聞く事が何度かあった。何かの映画の1シーンで聞いた教会の鐘の音に似ていたが、私の家の近くにそのようなものはない。鐘は常に一つ打ち鳴らされるのみで、連打される事はない。凍りつく朝の空気を震わせて一音だけ響き、消えて行く。かなりの時間を置いて最初に聞いた時とは微妙に方向違いとも思える辺りから、二つ目の鐘が鳴るのを聞く時も稀にあった。

 初めは気にもとめなかった私だが、幾度か眠れぬ休肝日の夜を過ごすうち、鐘の音の正体がだんだん気になって来た。あの鐘はなんなのだ。どこで、どのような者が、何のために鳴らしているのだ。酒なしの冬の夜の、孤独に過ぎて行く時間の手触りに、その鐘の音は妙に似つかわしくも思えて、べッドに横になり眠れぬまま、今聞えた鐘の音の正体についてあれこれ想像をめぐらすのは、ある種、マゾヒスティックな快感もあった。

 そのうち私のうちに妙な幻想が沸いた。すべてのものが寝静まった夜の街を、鐘打ち台を乗せた古びた木製の荷車を曳きながら、辻を曲がるごとにそれを一つ打ち鳴らしつつ、ゆっくりと巡って行く、奇妙な者たちの姿が。

 彼等はことごとく、頭を覆う深々とした頭巾付きの漆黒の長衣を身に纏っているので、その正体を知ることは出来ない。十人ほどのその集団を統べるのは、ただ一人鐘と共に荷車に乗った老人だけである。彼だけが長衣の頭巾を撥ね上げているので顔立ちを窺うのが可能なのだが、乱れた銀色の長髪の下のその顔は、あの懐かしい死神博士、俳優の故・天本英世氏そっくりである。かれは町の辻の決められた場所に荷車が差し掛かると、しわがれた声で「時を知れ!」「見つめよ!」などと、意味の取れない警句のようなものを叫びつつ、一つだけ鐘を打ち鳴らす。他の者たちはただ黙々と頭を垂れたまま荷車を曳いて行く。

 もし夜の街を歩いていてそのような荷車の一行を見てしまったら、彼等に悟られぬうちに逃げ出すべきである。その、荷車の男たちにとっての、おそらくは聖なる行為を目撃した者に慈悲は用意されていない。黒衣の者たちはあなたの姿を認めるが早いか、腰に挿した山刀を躊躇なく抜き放ち、あなたを捕らえ、その首を撥ねるであろう。

 酒びたりのいくつもの夜が、時たま、本当に時たまの眠れぬ休肝日を挟みながら過ぎていった。鐘の正体は分からぬままである。そのうち鐘のことも気にならなくなり、というよりまともに休肝日を設ける事もいつしか諦めてしまい、休みなきアルコールの海遊泳によって夜を浪費するようになった私は、例の鐘を聞く機会もなく、その存在も忘れてしまったのだった。

 そんなある日。深夜、良い具合に酔っ払った私は、吹き付ける木枯らしにコートの襟を合わせつつ家路をたどっていた。あと1ブロックで我が家にたどり着く、といったあたりで私は、あの鐘の音を聞いたのである。それはほんの一つ辻向こうでいつものようにカーンと一つだけ響いた。そして鐘の音の余韻が、私の歩いている道のほうにグイと方向を変える気配、そんなものを感知可能であるかどうか知らぬが、ともかく私はその時、それを感じた。

 あの荷車が辻の向こうから、今、そこの曲がり角を曲がってやって来る。道の片側で行われていた道路工事の現場を示すほの紅い警告灯の灯りが立ち並ぶその通りで、私は立ちすくんでいた。と、巨大な赤色に塗られた物体が、ゆっくりと曲がり角の向こうから姿を現した。それはどうやら消防自動車に見えた。

 私はすべてを悟った。あの鐘の音は、この消防自動車の後尾に下げられた鐘が鳴っていたのだと。おそらく、”火の用心”などを冬の夜の眠りをむさぼる市民たちに呼びかけるためにそれは、遠慮がちに鳴らされていたのだろう。私は道の隅に身を寄せ、消防車を見送った。道端の紅い警告灯の灯りに下から照らされ、消防車の運転席の乗員の顔が、まるでフェリーニの映画の登場人物のように幻想味を伴って暗闇に浮かび上がった。


星へのきざはし

2006-12-31 02:19:25 | ものがたり


 星へ通ずる小道はいつも、変哲もない裏通りのさらに横道、そんな場所にひっそりと存在している。
 私の町で言えば、市街地を抜けた国道が大きく曲がって海沿いの崖の上に向かって伸びて行くあのあたり、もう使われていない倉庫や、住む者もなく朽ち果てるにまかされた家々が立ち並ぶ淋しい通りの裏にあるのだが、知る人はもちろん少ない。

 まるで近所の銭湯にでも出かけるようなサンダル穿きでその通りを歩いてみれば、ほんの一筋裏に入っただけなのに、国道の喧騒は気配も伝わらず、いつもシンと静まり、人影もない。小道は働き者のオヤジがいつまでも元気な、あの布団屋の自宅である、大きな庭のある日本家屋と、東京の大会社の社長の別宅であるとか聞く、生垣に囲まれた古い洋館との間に、緩やかな傾斜を持って裏山に続いている。
 小道に踏み込み緩やかな坂を登って行けば、道の片側に、ゲームセンターで使われるタイプの大振りなゲーム機が何台も何台も放棄されているのが見える。どれもかなり古い形式のものである。どのような事情でそんな場所に捨てられたのかは分からない。

 バブル期に建てられた、入居者がいるのやらどうやら、いつみても閑散とした感じのマンションが曲がり角の先に唐突に巨大な姿を現したり、まるで中世の古城のような奇矯なデザインの一戸建てを見つけて怪しんで表札を検めれば、高名な建築家の別荘であることに驚かされたりする。そんな風に道は続いている。
 道は、ゆるゆると曲がりくねりながら裏山を縫って登って行く。次第に道の両側に家屋も少なくなり、雑木林がその層を厚くして行くばかりである。木々の間からときおり町の姿が、意外なほど下の方に広がっているのが見える。

 喉の渇きに、道端の自販機に寄って清涼飲料を求めようとするが、収められている缶入り飲料はどれもその表面に記された文字が見たこともない、もちろん判読の仕様のないものばかりであり、困惑させられる羽目になる。何とか見当をつけて購入してみると、不思議な文字が記された缶にふさわしい、奇妙な飲み心地のものである。それでも良く冷えた水分を取ったことで、それなりに生気を取り戻すことは叶い、再び道を登って行く事となる。

 どれほど歩いたろう、気がつけば足は地面を踏んでいない。何もない空間を、中空をただ歩き続けている自分である。裏山は、いつのまにか足下遠くに広がる箱庭の如くであり、そのさらに遠くに、もはやジオラマと化した町の風景がある。広がっていた青空はすっかり漆黒へと変化し、星々の輝きはすぐ傍、まるで手を伸ばせば届くかと思われるほど近くに感じられる。やがて地球は、暗い中空に浮かぶ一個の球体に過ぎなくなる。

 歩き続ける。あるいは星々の生成を見、あるいは凍りついた永遠の時を見る。歩き続けて、やがて一つの惑星に下る小道を辿る事となる。
 その日、星は祭りだ。輝く青空の下で紅い幟、青い幟が風にはためき、ときおり花火が打ち上げられる音が響く。星の人々は、こちらが外界からの客であろうと気にする気配もなく魚の言葉で話しかけ、笑いかけて来る。風は涼やかで、すべてが幸運に包まれていることを示す感触が空気を充たしている。

 時はいつか過ぎ、ふと、あの星への小道の登り口に立っている自分に気がつくこととなる。星で過ごした時と、自分が帰り着いた時との矛盾は、いつものことである。星へ旅立ってから、数年後に小道に帰る場合もあれば、星への旅に立つ数日前に帰り着いてしまった例もある。この場合は、まだ旅立つ前の自分自身と間の悪い邂逅をしてしまう事となる。
 いずれにせよ、星々への旅に出るなら徒歩に限る。ただ、あなたが星へ向かう小道を見つけることが出来ればの話ではあるのだが。



少年の朝

2006-12-29 02:45:16 | ものがたり

 あ、僕の配達受け持ち地区ですか?河出町から山鳴町までです。はい、自転車で配達するにはずいぶん広いですが、お給料をたくさんいただくためにはね!
 はい、父は交通事故で亡くなりました。母もその前から病いがちで寝たきりです。父が亡くなった後、お金がなくて、僕等一家はすぐに家賃を払うのにも困りました。困っている僕たちを見かねた、近所の親切なおじさんが紹介してくれたのが、このエロ乳配達のお仕事なんです。
 ええ、エロ乳を配った後は学校がありますし、すごく眠いですけど、病気の母をお医者様に診せる費用も必要ですし、弟と妹も小学校にやらなければなりません。中学生の僕が頑張らなくちゃ、そう思うとモリモリ力が湧いて来ますよ。
 それに、毎朝玄関の前にご夫婦揃って全裸で立って、僕がエロ乳を配るのを待っていてくれる、たくさんのお得意様たちを見ると、疲れも眠気もふっ飛びますよ!
 あの通りの向こうのヤマガキさん、僕がエロ乳のビンを差し出すと、その場で一息に飲み干してくれるんですよ。すると、それまでうなだれていたヤマガキさんのチンコが、一瞬にしてピーン!と勃起するんです。朝の澄み切った空気の中で湯気をあげて大きくなるヤマガキさんのチンコ、見せてあげたいなあ。
 この仕事をやっていて一番嬉しいのは、そんな風に皆に喜んでもらえた時ですね!弱音なんて吐いてはいられませんよ。
 さあ、僕はもうひとっ走りエロ乳配達をしなければならないんで、これで失礼します。

@テーマソング

僕のあだ名を知ってるかい? エロ乳太郎というんだぜ
エロ乳配って もう三月 雨や嵐にゃ慣れたけど
やっぱり朝には チンコ立つ~~~♪

すまんm(__)m



冬の昏睡

2006-01-10 14:29:57 | ものがたり


  ごたぶんに漏れず、いわゆるダイニング・キッチンで食事をしている訳だが、年々、畳の上に置かれたチャブ台の上の食事が恋しくなってくるのはトシのせいだろうか?

 夕食を終え、当然、酒も入っている訳だから、その場にゴロ、と寝ころがれたらずいぶん心地よいのではないか。食べ終えたその場に、即、ゴロ寝。に意義がある。二つ折りにした座布団を枕になどして。
 この失われた、だらしない食後の昏睡のいとおしさよ。

 と言っていても仕方ないので、その代理行為として、ダイニング・キッチンの床にマットを敷き、食後、そのまま寝てしまっている。
 たぶん他人には異様な光景だろうから、あまり見られたくはないが、まあ、わざわざ見にやって来る人もいないから、特に気にしていない。

 その状態で、やって来るまどろみの中で夢想するのは、山深くにある合掌作りの古い日本家屋のなかでこれが出来たらなあ、といった事だ。
 畳の部屋の中央にあるのは、この場合は当然、囲炉裏だろう。自在鉤でその上に吊るされた鍋の中には、食った事はないが、狸汁などが湯気を立てている。
 その地方の芳醇な地酒でその暖かい物をたらふく腹に収め、満足してその場に寝ころがり、やって来る眠気にすべてをまかせる。

 家の外には、激しい吹雪が音を立てて吹き荒れているだろう。窓の外に大量の白い雪が舞うが、囲炉裏の火は、その寒さを寄せつけない。
 長い長い時代を刻んだ合掌作りの日本家屋は、しん、と静まり返っている。家具の一つ一つが、古く、使い込まれた色をしている。

 窓の外に見えるもの・・・遠くから近ずいて来るのは、氷の息で旅人を凍らせて命を奪うという、伝説の雪女だろうか。そうに違いあるまい。吹雪吹き荒れる外界は、あのように薄物をまとっただけの女が歩ける状態にはないのだ。

 女はやがて、私の合掌作りの家にたどり着き、青白い顔と恨めしそうな目で、窓ごしに、惰眠をむさぼる私を覗き込む。が、何らかの結界が張りめぐらされているのであろう、雪女は、それ以上の家への干渉は不可能のようだ。いつの間にか雪女は姿を消し、私の眠りは妨げられる事はない。

 ふと気がつくと、囲炉裏の部屋の隅に和服を着た男がひっそりと佇んでいる。顔は、なぜか影になっていてよく分からない。おそらくは、この歴史のありそうな家の過去において、何らかの不幸な事情で不遇な死を迎えた人物の怨霊なのであろう、と察せられる。
 だが彼もまた、私の周囲に張りめぐらされた、玄妙な結界に邪魔されたのであろう、私にその不幸な人生の詳細を物語りも出来ぬまま、やがて姿を消す。

 私の惰眠は続く。雪は降り続いている。合掌作りの山間の家々は、分厚く白いものに覆われた。時は流れを止め、もうとうに夜明けの時間は来ているはずなのに、空が白みはじめる気配さえ、無い・・・