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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

さらに奄美に戸惑いつつ

2008-09-25 05:53:11 | 奄美の音楽


 ”スマイル”by 渡哲一

 先日の奄美民謡に関する文章では、まるでもう奄美の民謡に興味を失ってしまったかと取られかねないのだが、もちろんそんな事はないのであって、かの音楽はいまだ、私にとって刺激的なものであり続けている。
 が、心のうちに、「しかし、これはこれでいいのかな?」という疑問が生まれていたのも事実で、そこにいずれ調査隊を派遣せねばと思っていたら、とうよう氏がいきなり爆弾を落としてしまったので、そしてそれがあながち誤爆とも思えないものだったので、ちと困惑気味といったところなのであって。

 この夏、奄美のお隣の沖縄の音楽をまとめて聴いたことも影響しているのだろう。
 実はそれまでいろいろ事情ありで(これに関しても、もう何度も書いてきたが)敬遠してきた沖縄の音楽だったが、積もり積もった恩讐を捨てて(?)素直な気持ちで聴きなおしてみた結果、それまで聴いていた奄美の島唄の世界と比べて何と緩くて自由なのだろうと、いまさらながらに驚かされたのだった。なんだ、なんでもありじゃないか、と。

 沖縄では生活に歌の世界が直結している感じで、続々と暮らしに根ざす唄が生み出され、人々は、まるでサンダル履きで実生活と歌の世界とを行き来している。
 かえりみるに、奄美の島唄の、なんとストイックなことだろう。剛直に”伝承の継続”という柱が中央にそびえ立ち、唄者たちは脇目も振らずにその一直線の道をひた走る。時代の流れや個人的な感傷は、ここでは問題にされてはいない。

 そいつはとうよう氏の言うとおり、”型にはまった世界”とも言えるだろうし、また、”トラディショナル・ミュージック”としては、いっそ一途で潔いという捉えようもあるように思えた。
 私が惹かれた”現代に生きる古代歌謡”の世界もつまりは、このような継承のされ方の結果として存在しているのであろうし。
 と、このあたりで、まあ途方に暮れているわけですよ、奄美島唄のファンとしては。

 さて、ここにとりい出しましたるは。
 奄美島唄のベテランであり、奄美南部の島唄形式、”東(ヒギャ)唄”の最高の歌い手として名をはせ、長いこと島唄講座の講師として後進の指導にあたっているという大物らしい渡哲一氏のアルバム、”スマイル”である。
 といっても、そのような触れ込みに興味を持ってこのアルバムを買ったのではなく、ジャケ写真の、アロハを羽織り、リラックスしきった微笑を浮かべる渡氏の姿と、”スマイル”という、その奄美島唄らしからぬアルバムタイトルに惹かれた。

 つまりは、なにかというと純度の高い感じのつくりである奄美島唄の盤とは趣が異なり、何か一味違うものが聴かれるかと期待して盤を手に取ったのである。
 この盤を購った当時は奄美島唄の聴き始めの、まだ無心にその世界を探求していたはずの私だが、その頃から、”もう少し表現の幅が欲しい。奄美島唄の別ルートからの歌声も聴いてみたい”そんな欲求は芽生えていたようだ。

 そんな私であるが、この盤から飛び出してきた音を聴いて、まずは大いに戸惑ったのを覚えている。
 それまで馴染んできた奄美の唄者たちの鋭い歌声とは趣の異なる、なんだかモコモコした感じの歌声であり、三振と共に織り成すリズムも、「え?これで合っているのか?」と途方に暮れる不思議な癖があった。
 いや、実はいまだに、これでリズムが合っているのかどうか私には分からないのだが。いやいや、合っていないわけがないのだが。

 これが”巨匠の余裕の一撃”という奴なのだろうか。いつもの研ぎ澄まされた島唄表現とは別の”引き”のパターンではある。が、沖縄の島唄に感じた”緩さ”とも、また違う。
 こいつもまた、奄美の”伝統一直線”の剛直な道筋を歩む唄には違いない。ただ、そのアプローチが”激渋”であるだけで。この持ち味、”老獪”といってしまって良いのかどうかも、いまだ分からないのだが。

 ともかく巨匠がお仲間たちと繰り広げる渋いセッションに、なにやら子供の頃、寝しなに、大人たちが別間で繰り広げていた酒宴の歌声を漏れ聞いていた、そんな記憶など呼び起こされつつ、悩み多き秋の夜は更けて行くのだった。

奄美島唄の不可能性?

2008-09-23 01:42:40 | 奄美の音楽


 ”ミュージックマガジン”誌の10月号が書店に並んだので立ち読みしていると、中村とうよう氏による奄美民謡CDのレヴューがあった。それがなかなかに強烈な問題提起なのであって。

 たとえば川畑さおりという歌手のアルバムへの評文には、こうある。”たぶんコンテストでは決まった節回しを競うのだろう。”罰則減点で縛り付け、自由な表現という歌の大原則に背を向けた、いわば奴隷の美意識ではないのか”
 また、福山哲也という歌手のアルバムに対しては、”奄美島唄が形を厳守する音楽なら、今後この欄で扱うのは無意味だから”と。

 ううむ。奄美の島唄ファンの当方であるが、とうよう氏の主張に共鳴する部分もないではないのだ、実は。

 ただ、昨年暮れあたりからかな、奄美島唄に興味を持って聴き始めた身としては、この問題について考えるのは、もう少しあとにしたかったのだが。そう、当方も奄美島唄が孕む問題点には、うすうす気がつき始めていたのだ。
 だが、それに関して自分なりの考えを述べるには、まだまだ島唄について知らないことが多過ぎるので、その問題はしばし棚上げにしておきたかったのである。おきたかったのだけれどねえ・・・

 奄美の島唄に惹かれたのは何より、”日本の古代歌謡が生きた形でそこにある”という事実に驚かされたからだった。
 本当に古代歌謡までも連なりそうな形の唄が、博物館に収まるのでもなく、また古老の思い出話の一部として埃を払って引き出されるのではなく、次から次にと登場して来る若い歌い手によって歌われる、そのありように新鮮な驚きを覚え、夢中でCDを買い集めた。

 歌詞に関しての書籍など読んでみると、今となっては意味の分からなくなってしまった歌もかなりあるらしい。もともと民俗学の本など読むのが好きだった当方としては、ますます血の騒ぎを覚えた次第。

 そんなこんなで、奄美の島唄に夢中になって行った。
 だがその一方、ちょっと気にならないでもない部分も、聴き進むにつれて出て来た。たとえば、どの歌手のCDを聴いても、収められている曲目は似たようなものじゃないか、という事実。
 お隣の沖縄のように、新作の島唄というものが続々と生み出されているという状況では、どうやらないようだ。

 あの”サーモンとガーリック”のアルバムでも、いまだに坪山豊氏が”ワイド節”を創唱した事実が”栄光の歴史”として語られているのだが、いったい何年前の話なの?その後に、歴史を変えるような新作は登場していないのだろうか?
 登場しにくいような精神風土が奄美島唄の世界にあるのだろうか?なんて疑問がそぞろアタマをもたげては来ていたのだ、私の心のうちでも。

 また、奄美の唄者たちのアルバムを聞き進むにつれて、かなりハードな様式美の世界のようだな、との手触りはかなりリアルに伝わって来てもいた。踏み外すことの許されないレールの幅は、どうやらかなり狭そうな・・・
 楽しみに聴いている奄美島唄ではあるのだが、このまま行くとクラシック音楽のファンみたいに、厳格な形式に縛られた、しかも限られたメニューの中で歌い手各々の歌の解釈の微小な差をああだこうだと語る、重箱の隅をつつくような神経質な愛好家の世界に入り込んでしまうのではないか?

 などとファンとしての将来になんとなく暗雲を感じ始めないでもない、みたいな気分になっていたところに出会ってしまった、冒頭に紹介したとうよう氏の一文である。
 うーむむむむ・・・
 まあ、分かんないです、まだ。この件に関して結論を出すのは、もう少し奄美の島唄に付き合ってからにしよう。というか、ほかにとるべき道もないよ。自分としてはまだまだ、奄美島唄という音楽の存在を新鮮なものとして楽しめているのだからね。

 それにしても、あのとうよう氏の評論に対する奄美の唄者自身の感想というもの、訊いてみたいものだなあ。

特攻花の咲く島で

2008-08-14 04:23:26 | 奄美の音楽



 ”特攻花”by 笠木透

 mixiの奄美大島愛好コミュに、作家・島尾敏雄が昭和33年から20年余りを”鹿児島県立図書館奄美分館”の館長として務めた際に住んだ住宅が道路整備のために取り壊される危機にある、なんて報告があった。
 まあ、私はその種の記念物にさほどの思い入れも持たないタチではあるのだが、島尾という作家も移り行く時の流れに押し流されて行くのだなあ、などと慨嘆などしてみたのも事実だ。

 島尾といえば当方が最近、入れ込んでいる奄美に縁の深い作家である。彼には有名な”死の棘”なんて作品の影に、”夢の中の日常”などというシュールな短編があり、太平洋戦争末期に特攻隊の指揮官として奄美の基地に赴いた際の体験に取材した「出発はついに訪れず」という重要な作品もまた、残している。
 というか。島尾は結構好きな作家で、そのどちらも学生時代に読んでいるはずなのに、何が書いてあったかほとんど覚えていないのだった、私は。情けないことに。

 せめて特攻隊の若者たちを思い、今度、後者だけでも読み返してみよう・・・などと思いつつ、8月15日が過ぎるとともに、そんな想いは忘却の彼方に押しやられてしまうのだった、毎年。
 怠惰の上に時は降りつつ。そう、こんな風に時はすべてを押し流して行く。

 60年代の終わり、あの中津川フォークジャンボリーを主催したことで知られ、以後も地味ながら日本のフォーク界に独自の地位を占めるシンガー・ソングライター、笠木透が奄美を舞台に”特攻花”なる歌を作っている。

 飛び立った特攻機が給油のために南の島に降りる。給油を終え、飛び立っていった特攻機はそのまま帰らなかったが、その機体にくっついていたらしい植物の種がその場に落ち、後に芽を噴き、あちこちに可憐な紅い花を咲かせた。南の島の人々は誰ともなくその花を”特攻花”と呼んだ。

 笠木のこの歌は、悲嘆を歌うではない、告発を行なうでもない。もとより、特攻などという戦術を賞賛するはずもないが。
 ただ、ほとんど軽やかといっていいリズムとメロディのうちに淡々と、特攻隊員の運命と、特攻花の伝説を歌う。それは、逝ってしまった特攻隊員たちの青春へのオマージュかと思いたくなるような爽やかさを持っていて、涼やかな後味を残す。

 しかしそいつは心の底にいつの間にか太く強い何かを残していって、そいつはいつまでも静かな、硬質な怒りを奏で続けるのだった。

 ☆特攻花(作詞・笠木透)

 ”風吹けば 風に揺れ 雨降れば 雨にぬれ
  小さ愛さ 紅い花だよ 小さ愛さ 赤い花だよ”

黒潮のブルースが聞こえる

2008-07-02 15:38:00 | 奄美の音楽


 ”黒潮の唄・ちょうきくじょ”by 清正芳計

 相変らず、訳がわかっているのかそうでないのかも定かならぬ状態で奄美の民謡を聴き続けているのだが、男性歌手で最も好きな人は?と問われれば、まあ、この人ではなかろうかと。
 もともとが太く低い声質のこの人が声を裏返し、奄美独特のファルセットを巧妙に駆使する歌唱法を行なう。その瞬間に立ち込める潮風の香りと、吹き抜ける海風に晒された人々の暮らしの哀感、そんなものをたまらない魅力に感じている。

 CDのタイトルに”黒潮の唄”とあり、帯の惹き句には”南海のブルースが聞こえる”とある。ジャケにも、三線を構えて磯に佇む彼の写真が使われている。
 この人の歌に海の響きと独特の哀感を聞き取ってしまうのは、どうやら私一人ではないらしい。とは言え、特別にこの人の持ち歌に”海もの”が多いわけでもなく、いったいそれがどこから生まれているのか、いまだ正体がつかめずにいる。

 そもそも、島歌の唄者たちの爪弾く三線の音がそれぞれ微妙に異なる味わいがあると知ったのも、この人の演奏を聴いてからだった。
 しっとりと濡れたような弦の響きが深い哀愁の尾を引いて風の中に消えて行く、その独特の味わいに酔い、そうか、弾き手によってこれほどまでに三線の音とは違っているのかと認識を新たにしたものだった。

 海を感じる唄とはいえ、彼の海は、加山雄三の海でも、ましてやビーチボーイズのそれとも異なる。大いに異なる。
 この人の歌声の上には、いつも灰色の厚ぼったい雲が広がっている。周囲には風が吹きつけている。磯に人影はまばらであり、その向こうに広がる海は板子一枚下は地獄の、漁師たちの過酷な職場であり、旅人たちに永の別離を強いる強大な空白である。そこに吹き抜ける、生あるものすべてが甘受せねばならぬ、生きてあることの孤独。
 それでも一筋の開放感が差し込んでいるのは、そこが凍りつく北国の海ではなく、大洋に向って開けた、黒潮の流れ来る奄美の海であるからだろうか。

 CD終盤近くに収められた”かんつめ節”の中に、恵まれぬ人生を生き、不幸な死に終わった女性に向けて「鳥も通わぬ島に行って共に暮らそう」と呼びかける一節がある。”鳥も通わぬ島”などというものは文明からの疎外の象徴みたいな表現であるのに、それが絶望の果てに仄見える一筋の光明を意味するが如くに歌われている。
 この唄は清正のオリジナルではないが、まことに彼の歌世界の色合いとでも言うものをよく顕している一節かと思う。

 清正は2000年に60代のはじめで亡くなっている。まだ若かった。このCD収録曲以外にも録音が残されているのなら、せめてもう一枚、彼のアルバムをリリースして欲しいと切に願う。

奄美の土俗ファンク!

2008-06-26 03:22:32 | 奄美の音楽


 ”ハブマンショー”by サーモン&ガーリック

 これは奄美の民謡をモトネタに、ファンクというのかヒップホップというのか、その辺の用語の使い方がよく分からないのだが、ともかくその辺の音楽のアイディアを持ち込み、かなりブラックなユーモアを味付けとして新展開させてみせたバンド、というかユニット(この辺も、何か特別な呼び名があるのやも知れず)の、今のところ唯一のCD作品。

 バンドの形としてはヴォーカルの二人がそれぞれ三線とパーカッションを担当し、それにベースとドラムが加わる、というもの。ともかく最初に聞いたときは、「あやや、奄美にここまで行っちゃっている連中がいるのか」と、すっかり嬉しくなったものだ。

 ドスドスと脈打つ低音に乗って、一見ラフなように聞こえるが実は結構計算の行き届いた三線がかき鳴らされ、ワイルドな歌声がファンキーに骨太にダンスミュージック化された奄美の民謡を唸りまくる。こいつは相当な聴きものである。もっとやれ、もっとやれと声援送りつつ握り拳を固めた次第。

 あちこちに泥絵の具を叩きつけるようにまき散らされるジョークのタグイは、強力に奄美文化の伝統臭を放っており、こいつも楽しい。
 ともかく各所で奄美のコトバが連発される、それだけでも非常に痛快な気分になるのであって、昔々、アフリカのミュージシャンがリンガラ語で会話する様子を収めたテープを聞かせてもらった事など思い出してしまった。ただ話されるだけで十分ファンキーな音楽として成立するコトバってのがあるんだよ。

 冒頭、奄美で伝統的に挨拶代わりにうたわれる”あさばな節”が取り上げられていたので「なんと律儀な連中」と可笑しくなってしまったのだが、これもまた、彼ら一流のジョークなのかも。
 ライブではかなりの人気者となっているみたいだが、当方はこのCDが初対面。しかもこのCDにしてからが奄美限定発売なのだそうで、あんまり全国展開する気がない連中なのか?もともとは知り合いの結婚式のお座興として始まったバンドということで、”地元の仲間内での演奏”にこだわりでもあるのだろうか。

 もっとも、”内地”の音楽産業に下手に手を出されて音楽を変節、劣化させられるよりは、そのような流れに抗するパワーが確立されるまで、”奄美ローカル”にこだわるのも得策といえるだろう。
 ともあれ、これは嬉しい連中がいたもので、次々にあとに続くものが出てきたらと思うと、なんかゾクゾクしてしまうのであった。

奄美恋しや

2008-05-25 02:55:26 | 奄美の音楽


 先日、他の事を調べていてついでに知ったのだが、1963年の紅白歌合戦は、何度か話題にしてきた昭和30年代の”奄美島歌ブーム”が極まった象徴のような舞台だったようで、なにしろ奄美の歌が3曲も歌われた。御大、田端義夫の「島育ち」、三沢あけみの「島のブルース」、仲宗根美樹の「奄美恋しや」と。

 この辺に関する詳細が知りたいんだよなあ。世情として奄美の歌がどのように認識され、受け入れられていたのか。民衆に、そして歌手たちに。
 生々しい感想が聞きたいのだが、なかなか資料に出会えず。微かに掴んだ情報としては、「当時、まだまだ奄美の実態は知られておらず、”沖縄より南にある秘境”などという誤ったイメージで見ている人も多かった」のだそうで。やはり、そんなものだったんだろうなあ。

 いまだ、田端義夫の”島歌アルバム”のオリジナル・ヴァージョンは手に入らないままだが、三沢あけみなども島歌のシリーズを歌っていたようだし、それらをまとめたアルバムなど出ていないだろうか。と思いつつ、調べてもいないが。だって、第一人者の田端義夫のものがあの始末なんだから、ねえ・・・結果は知れている。

 先に、三界稔についての文章中で「島育ち」について述べたが、当時、”内地”では仲宗根美樹が持ち歌としていたらしい「奄美恋しや」も、記憶に残る歌である。

 仲宗根ヴァージョンは彼女のベスト盤を手に入れれば聞くことは出来るが、さて、それ以外の歌に興味を持つことが出来るかどうかと購入には躊躇している。いかにも”南”っぽいイメージの彼女なんか、島歌アルバムを出していたっていいような気がするんだけどねえ。
 と、ないものねだりばかり書いていても仕方ないけど。

 さて、現時点で私の手元にある「奄美恋しや」は”島歌2”に収められた田端義夫ヴァージョンだけなのだが、これが昭和30年代録音のオリジナルのものかは分からない。
 イントロでのどかなドブロ(といって分からない人、まあ、電気化される以前のスチールギターとお考えください)の爪弾きが聞かれるが、田端義夫らの当時の奄美ものに顕著な特徴である、”無理やり南方演出”の一環なのだろう。同じ”南の島”なのだから、ハワイっぽい演出も有効だろう、という。

 なにしろ必殺の”ドミファソシド音階”を持つ沖縄と違って、一発で”南”を認知出来るような分かり易い音楽的特徴は持たない奄美の歌、しかも民謡ではない、”新民謡”のことである。それでもなんとかエキゾティックな南国情緒を醸し出さねばならぬと編曲者は各曲で間奏に沖縄音階を押し込んだりのさまざまな創意工夫を行なっており、相当な無理やりの展開が見られ、まあ、突っ込み所満開のありさまで、そいつに腹を立てるか面白がってしまうかは各人の趣味の問題というべきか。

 ともかく、ドブロの奏でる不思議な奄美=ハワイ情緒に導かれ、歌い出される「奄美恋しや」である。

 波に夕日を 大きく染めて
 名瀬は日暮れる かもめは帰る (作詞:藤間哲郎)

 夕暮れの名瀬の風景がしみじみと描かれ静かな物悲しさに支配された、アルバムの終わりの方にでも置くより仕方ないだろうと思われる一作である。

 2コーラス目の歌詞に”幼馴染みの面影追えば”とあるように、歌の主人公は奄美という土地と同時に過ぎ去った歳月をも遠いものとして追憶している。
 ”わしも帰ろうよ あの島へ”との一節はあるが、それが容易に実行し難い立場に主人公は置かれているようだ。奄美からも過去からも、大きく隔たった場所に、彼はいる。物理的にも社会的にも。おそらく彼にとって奄美は実質、失われた場所なのであろう。

 恋しい、懐かしいと繰り返しはするもののどのような理由からか、彼は奄美に帰ることが許されないようだ。失われた場所であるゆえにそこは凝縮された憧憬が行き溜まり、静かな悲しみの中で揺れ続ける。
 起伏の少ない、それこそ夕凪の海のようなメロディが、過ぎ去った日々の記憶をなぞるように流れ、そして消えて行く。
 歌の感傷に酔ったどさくさ紛れに当方も、まだ行ったこともない名瀬の町に”帰り”たくなる静かな夜である。

三界稔の”奄美便り”

2008-05-12 02:55:42 | 奄美の音楽


 三界稔(1901~1961)

 またも思い出したように奄美話で恐縮です。

 奄美の音楽に興味を持ち、あれこれ島歌のCDなど聴き始めると、まあそのついでと言ってはなんだが昭和30年代に田端義夫が取り上げて”奄美ブーム”を起こすに至った”奄美の島歌”なるものの正体が気になってくる。あれは奄美の民謡とも違うものだし、なんだったのだろう?
 その後、あれらの歌は現地では”新民謡”と呼ばれるジャンルの、奄美ローカルの歌謡曲であると知るわけだが。

 そもそもの奄美ブームの始まりは昭和30年代当時、田端義夫がふと立ち寄った東京は新橋の沖縄料理店で聴いた奄美の歌、”島育ち”に魅せられ、周囲の反対を押し切ってレコーディングする、という形だったようだ。
 その曲のヒットに引っ張られ、奄美や、時に沖縄のローカル・ポップスが当時、中央の歌謡曲シーンで活躍していた歌手たちに取り上げられ、”全国ネット”のヒットとなって行った。”島のブルース”やら”永良部百合の花”などなど。

 これらの音楽がどのように”内地”の人々に受け入れられていったのか、などなどいろいろ知りたい事も出てきているのではあるが、現在までのところ、有効な資料を掴むにいたってはいない。

 なかでも正体が気になってくるのは、そもそもの起爆薬となった”島育ち”の作曲者、三界稔なる人物とは何者かである。
 これまでは「子供の頃に聴いた覚えがある」程度の認識しかしていなかった”島育ち”は、あらためて聴き直してみればやはり名曲といってよく、曲の内に脈打つ、彩なす波を掻き分けて進み行くようなリズムの反復の小気味よさなど、島歌の風情を見事に演出していて憎い限りなのだ。
 また、三界の晩年に世に出た”奄美小唄”の、ほのかにエキゾチックでほのかに切ない、いかにも歌謡曲の”小唄”と言える小粋な味わいに当方、惚れてしまったという事情もある。

 最初私は、奄美以外では無名の、ローカルな活動をしていた音楽家と想像していたのだが、調べてみると第二次世界大戦中、戦時歌謡の”上海便り”の作曲をしていることが分かり、認識を改めさせられるのであった。そのジャンルには詳しくない私も、”上海便り”の”拝啓ご無沙汰しましたが♪”あたりのメロディならなんとなく記憶にある。
 あれれ、結構メジャーな作曲活動をしていた人なんじゃないかと、三界のライフストーリーを知りたく思いあれこれあたってみるのだが、こいつもまるで資料に出会えずにいる。これはこちらの捜査の要領の悪さもあるのだろうけれど。

 田端義夫が奄美の歌謡に出会った際の詳細を知りたいと言う願望はここでも頭をもたげてくる。田端が”島育ち”に魅せられてその曲をレパートリーに加える際、「おや、これは”上海便り”の作曲者の作品じゃないか」などといった驚きはあったのだろうか?
 三界にはそれ以外にも全国規模のヒット曲があるようで、その辺の事情が分からないのがなんとももどかしい。どうやら奄美出身で奄美で生涯を終えた三界であるようだが、青年期から壮年期にかけてはどのような作曲家活動を行なっていたのか?

 奄美の大衆音楽界で重要な位置を占める会社、”セントラル楽器”を創業し、多くの奄美島歌や新民謡のレコードを世に送り出した指宿良彦氏の回顧録のうちに描かれた三界の晩年の姿は、なかなか寂しい。自分の曲の版権を切り売りして戦後の混乱期を生き延びようとする悲しい様子が伝わってくる。
 そして三界の亡くなって後、曲の初出からは23年後の昭和37年、田端義夫による”島育ち”の大ヒットがやって来るのだ。

Night They Drove Old 奄美 Down

2008-03-23 02:44:58 | 奄美の音楽


 ”武下和平傑作選”

 CDがまわり音が聞こえてくるなり、「あ、これはザ・バンドじゃないか」とふと思ってしまい、その発想のムチャクチャさに我ながら笑ってしまったのだが、いや、実は結構それで当たりじゃないか、とも思っているのさ。

 ずっと前に手に入れていたのだけれど、聴くきっかけが攫めずにいたCDだった。
 なにしろこのCD、”奄美の民謡を芸術の域にまで高めた男”と言われる伝説的歌手、武下和平の若き日の傑作選なのである。今日の奄美の民謡歌手で彼の影響下にないものはいない、とも言われている大歌手である。CDの帯にだって”天才唄者”とド~ンと大きな文字で書かれているのである。

 あんまり早く聴いてしまったらもったいないじゃないか。それに、もし聴いて「これのどこが良いの?」なんて反応しか出来なかったらそいつもヤバいしねえ。

 とかなんとか、封も切っていないCDを目の前に逡巡を続けていた私だが、いつまでもそんな事をしていても仕方がない、意を決して聴いてみた感想が「ザ・バンドみたいだな」である。
 ザ・バンドといえば、70年代アメリカンロックの最高峰と評判の高いあのロックバンドであって、三線一丁による奄美民謡の弾き語りである武下和平の音楽と、表面上の共通点は何もない。

 が、例えばそのカラカラに乾いた冬の木立が北風に吹かれて鳴っているみたいな枯れ切った三線の響きは、ザ・バンドの1stアルバム、”ミュージック・フロム・ビッグピンク”で聴かれるレスリーの回転スピーカーを通した独特のシュワシュワしたギターの響きに似てはいないか。
 彼の奄美民謡独特の裏声混じりの歌声は、ザ・バンドのアルバムで聴き慣れた、あの色で言えば焦げ茶色にくぐもったディープな裏声による男たちの渋いコーラスを、どこか連想させはしないか。

 そもそもその音楽の佇まいの堂々の貫禄ぶりや、郷土の土に根ざした揺るぎのない音楽性、あまりにもディープ過ぎるゆえに、時に不気味な印象さえ与えるテンション高い感情表現などなど、奥の部分での共通点はかなりのものなのである。

 裏声交じりゆえ、一瞬中性的な歌声と思わせておいて、次の瞬間にはブルースシンガーばりのワイルドな唸り声、吠え声で聴く者を叩きのめす、その唄者としての豪腕ぶりには一発でトリコになってしまった。荒れ狂う木枯しみたいな迫力じゃないか。
 三線が打ち出す、寄せては返すリズムの妙は、海に囲まれた奄美ゆえに生まれたものと考えて良いのだろうか?奄美の民謡に、あまり”南の音楽”とか”海の音楽”とかの印象は抱かず、むしろ古代歌謡が生々しい響きを持って今日まで歌い継がれている、その事実に魅せられてきた私なのだが、武下和平の三線のリズムには、確かに大いなる海の潮の響きが感ぜられる。

 こいつは確かに凄いね。なるほど”天才唄者”の名にふさわしい歌い手と言えるだろう。と分かってしまうと、手元にある武下和平の作品は、後は比較的最近作の”立神”だけであるのがもの凄く頼りなくなってくる。
 もっと聞かせろ、武下和平を!と、これから、どれだけあるのか分からない、もしかしたらそのほとんどはもう入手困難になってしまっているのかも知れない、武下の作品を求めてジタバタしなければならなくなったのであるが、いや、こんな”厄介ごと”はもちろん大歓迎なのである。

 しかし、面白い音楽のタネは尽きまじ、だねえ。出会えてよかった奄美やら武下やら。

”奄美小唄”と歌謡曲の永遠

2008-03-06 01:33:39 | 奄美の音楽


 今年の正月、街をぶらぶら散歩しておりましたらね。なにしろ観光地の事でありますからそれなりにわが街で新年を迎えた観光客で賑わっておりまして、見慣れた街の風景が、微妙にそのニュアンスを変えていて不思議な気分だったのでした。

 いつも暇そうな、横丁の特に旨くもないラーメン屋は、いつの間にか近くに同業種のない地の利を得て”行列の出来るラーメン屋”となっていたし(いいのかよ、あれで?それは、観光客諸氏が好き好んで店先に並んでいるんだから、こちらの責任じゃないけど)我々地元民には「このクソ寒い中、おもてでコーヒーなんか飲めるもんかよ」と不評だったメインストリートの喫茶店のテラス席は家族連れの観光客で盛況だったり。

 日頃のぱっとしない姿を知っている身としては、なんだか観光客諸氏がペテンにかけられているようで、申し訳ないみたいである。
 でもまあ、街が盛況なのは何も悪いことじゃないしね。などと思いつつ通りを行くと、観光客たちのリゾート気分が地元民のこちらにも伝染して来たのか、別に良い事があったわけでもないのに、まるで幸せみたいな気分になって来たんで可笑しくなってしまった。

 おりから港では観光船の入港を知らせる汽笛が鳴り、ああ、どこからか子供の頃に嗅いだ”お正月の匂い”がするなあ、などとこいつも正体不明の感傷に襲われる。そして、つい鼻歌で出るのは、バタやんこと田端義夫氏の南島歌謡集”島唄2”で聴いて以来、すっかり愛唱歌となってしまった”奄美小唄”であったりするのです。

 この唄は前回取り上げた”奄美新民謡名曲集”にも入ってました。”名瀬の港の夕波月に 誰を慕うて千鳥よ鳴くか”って唄ですな。昭和33年度作品。

 何の事情があってか”内地”に出かけたまま便りもない恋人を待ちあぐむ島の乙女の切ない思いを描いた作品。なんてこと言ってますが、実は「どんな唄だっけ?」と歌詞カードを改めて開いたりしたくらい、まあ、ありがちな歌謡曲です。
 南の島のエキゾチックな風景をバックに、果たされない恋の悩みが銭湯の壁に描かれた富士山の絵みたいな様式化された構図で歌われている。

 歌謡曲って、これでいいんだと思います。日常の閉塞感にちょっぴり風穴を開けてくれる気の効いた情景と、簡単に共鳴可能な恋愛に関わる感傷と。そんなものから得られるひと時の慰藉、それで十分。

 昭和30年代、東京の沖縄料理店で”島育ち”を初めて聴いてピンと来たバタやん、奄美に渡って、これら奄美の”新民謡という名のご当地歌謡曲群”に出会った際には宝の山に出会った心地だったんじゃなかろうか。その当時を田端義夫本人が語ったものに接してみたいという当方の願望はいまだ満たされていないんだけど。

 なんか、当時は船で14時間もかけて奄美に渡ったんだそうですね。”島育ち”のヒットを受けて、初めて奄美で”田端義夫ショー”を行なうために奄美に赴いたバタやん一行は。そのステージでバタやんは歓迎してくれた奄美の人々に「曲のヒットを記念して奄美に碑を建てたい」といったら、”碑(ヒ)”なる音は奄美では猥褻方向で大変な意味になってしまうとかで集まった観客大笑い、なんて一幕もあったそうだけど。

 そんな事はどうでもいいのであって。

 ”奄美小唄”の歌詞に”定期船なら鹿児島通い なぜに届かぬ内地の便り”って部分がありまして、これ、バタやんの同じく南島歌謡シリーズのヒット曲、”十九の春”の歌詞、”一銭二銭の葉書さえ 千里万里と旅をする 同じコザ市に住みながら 遭えぬわが身の切なさよ”なんて部分に共鳴する感もあり、ちょっと面白く思う。
 どちらも郵便制度を肴に、寄る辺ない身の孤独に、近代というシステムの中に潜む疎外感に言及している訳ですな。

 などとヤボを言っている間にも、名瀬の港は夕波小波、乙女の嘆きのうちに今日も暮れて行くのでありました。

奄美新民謡名曲集・序説

2008-03-04 04:24:22 | 奄美の音楽


 と言うわけで。相変らずの抜けない風邪から来る鼻水ジュルジュル状態で「南の島はえ~の~。明るい日差しの下で暮らしたいよな~」などとウワゴトを呟きつつ、”奄美新民謡名曲集”なるCDを聞いておる次第です。”唄の郷土史”と副題が打たれております。

 この”新民謡”なるもの、民謡と名乗る割には奄美の民謡、島唄とは関係のない音楽でありまして、大正末期から昭和初期にかけて全日本的規模で詩人や作曲家たちによって起こされた文化運動である”新民謡運動”の産物という次第で。
 新民謡運動とは、各地のローカル文化を生かした新しい日本の郷土歌を作ろう、なんて運動だったようです。そこから生まれた作品の一つが大正10年の作品、”船頭小唄”だった。この辺から中山晋平・野口雨情の作詞作曲コンビが生まれ、数々のヒット曲を世に送る事となるわけですが。

 この運動、”本土”たる日本の全国的ブームが去った後も、奄美では独自の形で続いていたようです。そうなった理由の本当のところやら、続いたというがその規模は?なんてあたりに興味は尽きませんが。
 例えば太平洋戦争後の一時期、奄美諸島がアメリカ軍政府の支配下に入り、日本から隔絶された奄美の人々が、その想いの行き所を新民謡の創作に求めた、なんて解説にも出会っております。さらにその後、昭和37年にご存知バタやんの「島育ち」のヒットによる島唄ブーム(?)に刺激され、またまた奄美の新民謡が活性化した、など。
 そのあたりの歴史がこのCDには製作年代順に収められているというわけで。

 しょっぱなに収められている”永良部百合の花”が昭和6年作で最も古い作品。これは私も子供の頃に聴いた記憶がある歌で、当時、バタやんの喚起した島唄ブームにのって掘り起こされ、”内地”の歌手によって歌われていたのだろう。
 例の沖縄音階が使われているので沖縄の民謡かと思っていたのだが、元は奄美諸島の徳之島の俗謡との事。なるほど、沖縄音階は徳之島を北限とする、なんて説を思い出させます。

 以下、昭和初期の頃の奄美の生活のありよう。当時の政策による徳之島の繁栄。戦後の、本土から切り離された生活の厳しさや故国への望郷の思い、その後やって来た復興の活気などなどが、独特の味わいを持つ”奄美ローカルの歌謡曲”としての”新民謡”によって歌いつずられて行く。

 ざっと聴いてみると、戦前の録音は古めかしいのは当然と言うか仕方がないとして、今でも”有効”な唄もあれば、思い出の中に眠らせておくしかない唄もある。その辺はちょっと考えてみたくなりますな。
 大体、”奄美の今をこの唄に込めて”みたいな高い理想を仮託されて作り上げられた、リアルタイムでは”立派な歌”だったのだろう歌の多くは、古びてしまっているといって良いんではないでしょうか。

 逆に、たわいない、と言うと語弊があるかもしれないが、しがない歌謡曲、というともっと語弊があるか、いや要するに”単なる唄”(だから・・・良い意味でね)ほど、今日でも通用するような魅力を秘めていたりする。このあたりに秘められた”大衆音楽の真実”って奴を思うと、なかなかに血が騒ぐ想いがいたします。
 田端義夫の取り上げた「島育ち」なんて唄も、そんな”なんでもないがゆえに素敵な唄”なんだけど、これ、昭和14年の作品なんだな。バタやんに取り上げられて全国的なヒット曲になるまで、23年の歳月が過ぎていた、というのも味わい深いエピソードと思います。

 なんてダラダラ書いていてもまとまらないしきりがないな。まあ今回は新民謡の歴史をまとめたアルバムをざっと見渡して、ほんのイントロ代わりと言うことで。またいずれ、突っ込んだ話は。
 しかし、太平洋戦争と米軍による占領期を挟んで奄美の人々が生きて来た生々しい現代史を聴き下る(変な表現だが)のは、やはり万感の思いがあります。いや、そのような感想を洩らす予定ではなかったのだけれど。