50歳で始めた海外ひとり旅 と 自費出版

50歳にして「海外ひとり旅」の楽しさを知る。最近は野菜づくり、本づくりにも挑戦。

WashingtonD.C 第1日目

2005年02月28日 00時59分22秒 | ワシントンD.Cへ
窓の外を見ると、夜明け前で、アラスカを南下しているのか、もう既に五大湖あたりなのか、川と思われる流れが黒い大地に映えてまるで墨絵のように見える。暫くうとうとしていると
いよいよダレス空港も近いらしい。覚えていないが、たぶん朝食が機内で出たと思う。
初めての関税申告書も書いて、いよいよ着陸だ。10時くらいだっただろうか。ダレス空港は
だだっ広い感じだった。とにかく周りに建物とか、山が見えないので平面的だ。
日本の空港に比べると土っぽい。殺風景でもある。そしていよいよ入国審査だ。
日本人の乗客は、殆どが学生で、それも女子学生だ。キャーキャーと騒がしい。卒業旅行なのだろう。審査は、型どおりで、「Sight seeing」「I'll Stay at my daughter's apartment」みたいなことを言った。すんなりパス。意外に客は少なく。出口へ向かうと、99年の夏以来に
見る娘が一人で立っていた。周りがアメリカ人の中で見ると、日本人というより東洋人に会ったという感じだ。外へ出ると、マイクロバスみたいなのが、何台か待機している。
娘が一台に近づいて運転手(ではなかったらしい)と交渉しているみたいだ。
直接、娘の住んでるアパート近くまで行くことにしたと言う。乗り合いのバスと言った感じで車内には他の客も数人居た。
運転手は黒人の女性で、映画で見るような、恰幅の良さだ。60cmくらいもあるステアリングを
操る。車は高速道路を走る。車窓から見る風景が日本とは、なぜかわからないが、違う。
途中、ORACLEのビルが見えたりして、アメリカへ来たんだなという気がした。
どれくらいかかったのだろう? たぶん40分くらいだろうか。彼女が住むRosslynの駅前に
着いた。きれいなビルが建っていて小奇麗な街だ。駅から10分ほどで、アパートに到着。
結構でかい。日本でいうと、団地みたいでもあり、マンションに近い。
入り口を入ると1階には、ロビーというかラウンジみたいなのがあり、受付の人(黒人女性)が居る。住人は「Hello!」と言ってエレベータへと向かう。中は、1ルームマンションといった感じだ。実際、1ルームだ。娘いわく、時差ボケしないよう、眠くても寝ない方がいいとのこと。「アーリントン国立墓地とか、歩いていける距離だし、WhiteHouseも地下鉄で行けば
すぐだから適当に見てきたらどう?」「私は大学へ行くから。大丈夫でしょう?」ということになった。着いたのは、木曜日だったのかな。
ということで、一人で、出かけることにする。ガイド本を見ると、確かに近くに硫黄島記念碑
があるようだ。その先が国立墓地だ。外へ出ると意外に暖かい。2月だから寒いだろうと思い
ダウン入りのコートを持って来ていたが、ダウンを取り外しても大丈夫だった。
10分くらいの距離に硫黄島記念碑があった。すごいデカイ。妙な気分だ。日本人から見ると
硫黄島は、日本が敗戦することになる第一歩というか、玉砕などと言われてきた場所だ。
でも、米国から見ると、日本軍を壊滅させ勝利につながる橋頭堡の意味があるのだろう。
若い兵士の像が力強く建っている。最初の歴史上のカルチャーショックだ。日本の軍隊は仮に
(ありえないことではあるが)、どこかの国との戦争に勝ったとしても、こういうように、兵士を主題にした記念碑を作ることはありえないだろうと思う。甘いかも知れないが、民主主義の一端を見た気がする。でも、これは、アメリカという他民族の国をまとめていくための為政者の方法かも知れないな。戦争で、死んでいった人を大切にすることがとても大事なことなのだろうと思う。
 硫黄島記念碑を過ぎると、お墓が並んでいるところへ出た。どうやら国立墓地に来たらしい。ということは、かのケネディの墓もあるはずということで、どんどん進んで行くと、威厳のある建物が見えてきた。少し小高いところにそれはあった。意外に普通な墓というか、石のプレートがあるだけのシンプルな墓だった。ま、大げさな日本の神社みたいなのよりも身近でいいかな。それから、引き返して、Rosslyn駅へ向かう。思ったより以上に進んだ駅だ。
驚いたのは、東京駅みたいに、すごい長いエスカレータが地下へと向かっている。そして
日本だけと思っていたが、エスカレータは右側を空けて乗っている。空いた右側を急ぐ乗客が
降りていくのだ。まるで日本ではないか。エスカレータは長くて、地下2階相当まで下る。
そこから2駅ほど乗り、出てると、なんとなく霞ヶ関みたいな雰囲気だ。
 なんとなく歩いて行くと、WhiteHouseが近いらしい。あっけなくWhiteHouseを見つけた。
周りは公園というか、Open Mindを感じさせる。Federal**** みたいな建物が多い。
 帰り道を間違えないようにと気をつけながら。地下鉄でRosslyn駅へと戻った。

   ( 続く )

初めてのアメリカ行き(追想)

2005年02月18日 23時59分15秒 | ワシントンD.Cへ
旅の記録の最初は、初めてのアメリカ行きを、当時(5年前)のメモ(日記風)から
転載します。いま読んで見ると、旅慣れた人にとっては、わかり切ったことばかりです。
間抜けなこともしてます。が、ま、私のに取っては記録のまとめということもありますので、転記しながら加筆、修正するということで。

2000年2月24日 04A.M (?これは、飛行機の中で書いたのかな)

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 やっぱりアメリカは遠いのだなあと思う。費用の面では身近になったとはいえ、物理的な距離は変わってないのだから。
熊本を出てからの感じ方も、たまの東京への出張とはかなり違う。成田という地が東京から1時間もかかり20時くらいが最終便らしいので、生活圏内と呼べる場所ではないように思う。
成田へ行くということ自体が既に海外へ行くことなのだ。
 今回の一人旅では、とまどうというか、いつもの東京での行動をしていると時間の面で
失敗につながることを知った。
 羽田に着いたのが15時頃で、まづは荷物をコインロッカーに入れて身軽になり、八重洲のブックセンターに向かう。司馬遼太郎の「街道をゆく」のシリーズの中の朝鮮をあつかったものを買うことと東京のJAZZ Spotのスケジュールを調べて興味のあるミュージシャンが出ていれば聴きに行こうかと思ったから。
でも、駅のガイドによれば成田行きは20時が最終なので、無理とわかり、日本に帰ってきてから行くことにする。
となると行くところは、自ずと秋葉原か、御茶ノ水になるが、MDプレーヤがあるといいなあと思い、安ければ買うつもりで秋葉原へ行った。
 が、いくら秋葉原といってもMDプレーヤはまだ高くてSONYだと35,000円くらいVictorあたりで2万円ちょいだ。知人からもらったJazzの入ったDiskは何枚か持ってきたものの、今回の旅行のためにだけかうのも無駄なので止めた。
 パーツ屋へ行き、熊本ではなかなか実物を見て確かめることができない小物を眺めた。
荷物にならない程度の小物を少し買った。
成田へは最終便の一つ前ので行くことにして東京駅へ戻ったが、総武線の乗り場は遠くて
食事してからというのは無理と判断し、ビールとつまみだけ買って列車に飛び乗った。
ぎりぎりだった。
乗ってみたら全席指定らしく(そんなこともわからなかった)、特急券も買わずに乗ったので、座れないかと思ったが車内は20-30%くらいしか埋まってなくて簡単に席を確保できた。
 この列車の中で一つミスをしそうになった。(仕事の関係で佐倉に住んでいる)上の娘からは空港まで行くこと、と言われていた。それで特急券を買うとき「終点の空港まで」と言ったらなぜか妙な顔をされたので気になっていた。実は、一つ手前に第2ターミナルという駅があるのだが、空港駅まで行くとそこに第2ターミナルという場所があるのか、それとも第2ターミナル駅で降りるのかが、わからなかった。でも、しばらくして周りの客が殆ど第2ターミナル駅で降りたので、それに従った。

降りてみると出口のところにやたらとPOLICEがいるので、さすがは成田だと感心した。
改札口でパスポートの提示を求められたので予想外でとまどった(こんなことも知らなかった)。娘からホテル行きのバス乗り場について聞いてはいたが、沢山あってうろちょろしてしまった。なんとかNo.27を探し出したら出発直前で、すぐに運転手が荷物を積んでくれた。いやに親切だなと思ったらシャトルバス(リムジンバス?かな)だった。当然、無料。これも初めての経験だった。
空港からホテルまでは20分ほどで、途中大きなホテルがいくつか見えた。今夜泊まるViewHOTELもそこそこの大きさだ。
着くとベルボーイが部屋まで荷物を運んでくれた。「食事はまだか」「レストラン、Barは1Fにある」と案内してくれる。なんだか外国並みにチップを払わなければならないような気がしたが日本のホテルはそういう習慣はないはずなので、止めた。
部屋は意外に広い。都内のビジネスホテルに比べるとベッドも倍くらいある。クローゼットに枕が二つあったので、ダブルとして作られた部屋かもしれない。
食事は1Fで軽くすませて、部屋で本を読みながらビールを飲む。実は出張などで、一人で部屋でビールを飲みながら本を読むというのは、好きだ。
風呂には朝入ることにして寝る。
この時期のホテルの暖房は苦手だ。切ると寒いし、入れたままだと室内が乾燥して喉をやられる。夜中に眼が覚めて、暖房を止めた。
翌日はいい天気だった。少し起きるのが遅れた。朝食を慌てて取って、シャワーを浴びたら予定していたバスが出てしまっていた。15分後にもあるので、心配はいらないのだが、他の客は殆ど出発したらしくて、旅慣れた感じの年配の人と二人だけの乗客だった。
道路は空いていて10分ほどで空港に着いた。空港の入り口でバスが止まり、これまたPOLICEが乗り込んできてパスポートの提示を求める。こんなところでも検査があるとは知らなかったので慌てた。ここでも成田が国際空港であることを実感。
空港ロビーは人で溢れかえっていた。出国手続きは無事おわった。その間、約1時間半。
出発の時間まで殆ど時間は残ってない。何か機内グッズでもと考えていたが、その余裕もなく
乗り込む。飛行機は約20分遅れで離陸した。
娘から、たぶんこの時期は空いているから、離陸したら空いている席を見つけて移動すると良い、と聞いていたので、3人分のシートを確保することができた。搭乗率は60%くらいだろうか。
欧米系の人はどうも、ビジネスクラスを利用するようで、エコノミークラスは、アジア系の人が多い。若い女性群は多分、日本の学生のようだ。
映画を観て、少し横になり、時計を現地時間に合わせる。午前2時だ。窓の外は真っ暗闇だ。
 (続く)

とりあえず作ってみました。

2005年02月16日 00時22分28秒 | Practice English
タイトルには、50歳から始めた英会話と書きましたが、たぶん正確には、49歳だったと思います。50歳の誕生日の2ケ月ほど前に、初めてアメリカへ一人で行きました。いや、一人だったということを強調しているのではなくて、アメリカに行ったのが初めてでした。ただし、現地には次女が居て、ちゃんと(?)案内してくれました。
 初めて成田へ行ったのも初めてだったので、今でも印象に残っていることもあります。
夜明け前に飛行機の窓から見た、地上の景色が素晴らしかったこと。あれはアンカレッジを
過ぎて どのあたりだったのかわかりませんが、墨絵みたいに黒と白のコントラスが地上に
見えました。たぶん大地と川の織り成す模様だったのだろうと思っています。
 と、とりあえずは、WashingtonD.Cへ行ったときのことから思い出話し風に書き連ねてみたいと思います。