「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「麦藁菊・むぎわらぎく」

2006-08-16 22:02:34 | 和歌


 子供の頃には良く見かけた麦藁菊だが、人々の好みも変ったのであろうか、久方ぶりにお目にかかった。

 「麦藁菊」の名前に触発されて、麦藁に関連した様々なことが思い出された。最近は、「麦藁」自体が殆ど忘れ去られ、「麦藁細工」などすっかりお目に掛かれなくなって、この言葉すら殆ど死語になってしまったようだ。
その昔は、麦藁を材料に、手細工或いは半ば機械加工した生活必需品の数々が売られていたが、それ等もすっかり見かけなくなった。夏には欠かせなかった「麦藁帽」も、懐かしい。鋏とナイフで起用に細工して色付けされた花は、名人の手に掛かれば、乾燥した麦藁菊と区別が付かない程だったのが、今でも忘れられない。

 普段は「花びら」に触ることなど慎んでいる虚庵居士だが、この花に久しぶりに出会った嬉しさで、そっと花びらに触り感触を味わった。紛う方なき「麦藁細工」の感触そのものであった。






             懐かしき麦藁菊かもつつしみを
   
             忘れてそっと 花びらにふれ
   


             紛う方なき感触の花なりき
   
             麦藁細工の花を想ほゆ
   


             久方に麦藁菊と逢いしかな
   
             人の好みも移ろいぬるらし 
   





「風蝶草・クレオメ」

2006-08-15 22:19:30 | 和歌

 風蝶草は夕暮れに見たいものだ。





 花の美しさは、花それぞれの最も美しい「時」に見てこそ、真価があるのではなかろうか。
一般的には、朝陽の上がるころの花の美しさは、何ものにも例え難いが、花によってはそれぞれの流儀があるようだ。例えば「月下美人」は日がとっぷりと暮れて、暗黒の中にこそ己の美しさを表現できる「時」があると、心得ているらしい。このクレオメも、夕暮れ近くに莟が開いて、彼女の初々しい風情は、夕暮れの中に仄かに浮かび上がる瞬間の逢瀬でなければ、感じ取れまい。次の朝には、彼女の最も気配りする「薄くれない」の色合いは、殆ど消え失せつつあるのだから。

 原子力工学を学ぶ学生諸君を励まそう、彼らに夢を与えようとの思いから始めたボランティア活動を、国の「原子力立国計画」に沿って全国展開するために、ここ数週間は、我が国の政策決定に携わって居られる人々に、我々の思いを伝える面談に費やしてきた。

 彼らとの対話を通じて痛切に感じたことは、「タイムリーな対話」の大切さだ。
国の政策は大きな転換点を迎えているが、彼らが求めているタイミングでの対話でなければ、我々の思いは空転する。花時の大切さを、花々に教えられた日々であった。






             訪れた事務次官室に「専心」の 
 
             二文字の書額は 無言なれども



             花時を弁えおるや世の人の 

             聞く耳ありなし「時」を違えな



             おぼろげに浮かぶ夕暮れ花囲む 
 
             か細き蕊にしずく光ぬ





「紅葉葵・もみじあおい」

2006-08-14 19:17:28 | 和歌
  
 背高ノッポの「紅葉葵」が、空に向かってパッと紅の花を咲かせていた。

 花芯をツンと突き出した咲き方は、ハイビスカスとよく似ているが、それもその筈、お仲間同士だという。お仲間同士とは言うものの、花のイメージがこれほど違うのは、何故だろう。
ハイビスカスの花には艶やかさがある。「紅葉葵」は情熱的だが、どちらかと言えばドライで理知的だ。背筋をピンと伸ばして、顔をシャキッと上げて咲く姿は、女性に例えれば「鉄の女」、英国の元首相・サッチャー女史を思わせる。





 様々な花を紹介して来たが、それぞれの花を女性に置き換えればどうなるだろうか。潤いのある女、理知的で強い女性、手弱女の風情を湛えながらも芯のある女性、アッケラカンと明るく情熱的な女・・・。

 逆に、世の女性達は、何に例えて「雨夜の品定め」に花を咲かせるのであろうか。
「なに言ってるのよ、男の値打ちはね・・・」と、「強い女」から一喝されそうだ。



             青空を突き上げて咲く紅の 
  
             もみじ葵は 微動だにせず   



             人びとはあまたの思いを抱きつつ 
  
             おのおの託すや 花それぞれに



             青空にただひとつ咲く紅蜀葵に

             もの思ふかな汗ぬぐいつつ     





「アシダンセラ」

2006-08-13 19:24:28 | 和歌

 遠くから見たら白い蝶が舞っているかのように、シャレた花が風にゆれて咲いていた。

 たまたまそのお宅のご婦人がいたので、名前を尋ねたら「横文字の名前でしたが・・・」と、思い出して貰えなかった。横文字ではイメージが湧かないためであろうか、年齢には関係なく、誰もがなかなか覚えられないようだ。

 薄紫の首を曲げて俯き加減に咲く姿は、乙女の恥らう風情を思わせるが、下から覗き込むと、白い花びらのつけ根部分だけが紫紺で個性的だ。カメラを構えたら、後ろから手が伸びて、ご婦人は萎れた花をそっと摘み取ってくださった。一瞬、花がゆれて仄かな芳香が漂った。





 帰宅して調べたら名前は「アシダンセラ」、グラジオラスによく似た球根と知れた。
エチオピア原産とある。東京オリンピック・マラソンで金メダルの栄誉に輝いたアベベ選手の、あの哲学者を思わせる彫りの深い顔と、愁いを帯びた眼が思い出された。



             俯いた顔を覗くなんて 失礼ね!
   
             乙女のデリカシ わかんないの!
   


             同郷の誇りの先輩アベベさんを

             尊敬してるなら 許してあげるワ!
   


             エチオピアの乙女の花の呟きは
   
             耳に届きぬ写真を見れば
   




「大紅蓼・おおべにたで」

2006-08-12 23:01:17 | 和歌


 大きな「蓼」が見事な花房を垂らしていた。

 単にうろ覚えの「蓼」であったが、念のため調べたら、蓼の中で最も大きな「大紅蓼・おおべにたで」、別名「大毛蓼・おおけたで」と判明した。
最も小さな「アカマンマ」は「犬蓼・いぬたで」、房がもう少し大きいのが「大犬蓼・おおいぬたで」との区別もあるらしい。

 その昔は「アカマンマ」の花をしごいて、子供達は「オママゴト」の赤飯に見立ててよく遊んだ。
最近は、子供達の「オママゴト」遊びをついぞ見かけなくなって久しい。あの「アカマンマ」は、花粒も花房もはるかに小さくて垂れないが、この「蓼」は草丈も、花房の大きさも、そして花の色も見事だ。

 子供の頃に一緒に遊んだ、あの子達は今頃どうしているだろうか・・・。






             夕陽さす大紅蓼の花粒に
   
             「ままごと」想ほゆ幼き頃を



             アカマンマは ごちそうだったあの頃は 
  
             ぼくはとうちゃん かあちゃんは お前だ   



             ともだちの たけちゃん ひろし なみえちゃん   
             ヨシコに みよこ タカジさ 元気か    





「むくげ」

2006-08-11 23:07:29 | 和歌


 暑さの夏には、槿が良く似合う。

 照りつける太陽のもとで、或いは木漏れ日に咲き、通り雨に濡れた槿など等、「むくげ」は様々な表情を見せてくれる。

 「むくげ」は、「木槿」の音読み「もくきん」が 変化したとも、或いは韓国名の「無窮花(ムグンファ)又は(訓読のムキュウゲ)」が変化したともいわれる。早朝に開花しても夕方にはしぼむ「一日花」ゆえ、「槿花一朝の夢」等と「人の世のはかなさ」に例えられるが、次々に花が咲くので、韓国では繁栄を意味する花として国花になっているそうだ。白花の蕾を乾したものが生薬の木槿花(もくきんか)。茎や根の皮を乾燥した木槿皮(もくきんぴ)は水虫の生薬として有名だが、虚庵居士は試してないので、効能のほどは知らない。

 人間様の思いを知ってか知らずか、「むくげ」は今日も爽やかに咲き続けている。






             蝉しぐれを涼やかに聞くむくげかな
   
             白妙の花 風にひらめき
   


             儚くもむくげの花は散りぬるに
   
             もののあはれは乱れぬ姿ぞ
   


             花も身も人に尽くすは槿かも
   
             すがしきなれの想ひを聴かまし  
   





「ひまわり」

2006-08-10 19:03:32 | 和歌


 「ひまわり」が逞しく咲いていた。

 「ひまわり」は、狭い庭にちまちま植えるのでは似合わない。
出来ることなら広々とした処で、照りつける太陽と青空のもとで
 「やあ、元気だね!」
と、男の挨拶をしたいものである。

 昨今の住宅事情では、広々とした庭など望むべくもないが、何時もの散歩道に堂々と咲いていた。




幸いにも照りつける太陽と、青空は揃った。大地にしっかりと根を下ろし、屹立する「ひまわり」をためつ眇めつして、なんとかカメラに収めた。彼が育つ環境はごく狭い土地だったので、せめて写真では、彼に相応しい
のびのびとした雰囲気で、写したいものだと念じたが、如何なものであろうか。

 カメラを構える後ろを、自転車に乗った
小学生が通り抜けた。
「あ、ひまわりだ!」



             逞しき幹にはひげを濃く生やし
   
             ひまわり青年 すくっと立つかな   



             肩を寄せ語らふらしき風情かな
   
             ひまわりの声 野太く聞こゆる   



             青空に屹立するかも太陽は 
  
             俺の友だと 踏ん張るひまわり    





「レイクハウスのキャメロン君」

2006-08-09 12:02:46 | 和歌

 キャメロン君四才の誕生パーティーを、娘のレイクハウスで賑やかにやったと、写真がメールで届いた。





             海越えて嫁ぎし娘はキャメロンの
   
             バースデーパーティに 四才祝ふ
   


 写真を見ると、娘は料理や子供達のケーキ作りを楽しみ、パパのジェフリーは、集まった子供達を泳がせたりボートに乗せるサービスなど、それぞれに大活躍だった様子がしのばれる。





             自らの誕生祝いを描きつつ
   
             ナイフもつかなキャメロン四才







 ジジ・ババは、今回は参加出来なかったが、ささやかなお祝いの気持ちを、日本のお菓子に託して送った。楽しんで呉れたであろう。




  
             夜更けて国際電話の母娘かな
   
             児らのパーティー賑わい伝えて
   





「茗荷」

2006-08-08 12:42:45 | 和歌

 「うつろ庵」の裏庭の隅には茗荷を植えてあるが、虚庵夫人は朝方、片手に余る茗荷の花芽を摘んできた。

 既に薄く透ける花を付けているものもあって、「ふっくら」とふくよかな形が何とも言えない。
絵心があれば、早速に写生して一首を添えたいところだが、取敢えずカメラに収めた。

 立派な茗荷に触発されて、「素麺」が食卓に供された。朝取りの茗荷を薬味に、その香りが食欲をそそり、清涼な昼食であった。茗荷を食べると「忘れっぽくなる」と俗に言われるが、虚庵夫妻は元々「忘れっぽいタチ」ゆえ、茗荷の影響の有無は定かでない。

 この茗荷は、現在の住まい「うつろ庵」に引っ越して来た際に、お仲人の労をお執り下さったN様から、新居祝いに一株頂戴したものだ。思えばあれから既に三十余年、毎年の真夏の猛暑を凌げたのも、茗荷の恵によるところ大であった。深く感謝している。






             幼児をふところ深くにかき抱く
   
             母の姿を 茗荷に観しかな   



             乳呑み児は母のふところかき分けて
   
             顔のぞかせぬ夏の朝に   

 

             蝉しぐれ素麺すするこの夏も
  
             茗荷の薬味に猛暑を凌がむ      





                           


「高砂百合」  

2006-08-07 10:27:22 | 和歌

 草丈を精一杯伸ばして、高砂百合が咲いた。






 高砂百合は、鉄砲百合とよく似ているが、葉が細いので細葉鉄砲百合とも呼ばれている。
原産地・台湾の別名「高砂」を名に頂くこの百合は、花が終わった後に最大の特徴がある。
百合は一般に、鱗茎が宿根となって数を増やすが、高砂百合もそれは同じである。が、子孫繁栄の秘術を別に持ち合わせているのだ。花が散ったあとに、太くて逞しい実鞘が育つ。やがて秋になればそれが枯れて、割れ目が出来る。内包されていた無数の種子がばら撒かれて、次の年には大地に根をはることになる。高砂百合は、自生し野草化し易いので、時には高速道路の法面などに咲き乱れることもあるが、こんな美しい花の野生化は大いに結構だ。

 人間社会では、この様な秘策が中々見つからないのが残念である。次世代へバトンタッチする為には、地道な人材育成の努力の積み重ねが必要だ。

 現役を離れて久しくなるが、次世代の人材育成に向けて、また市民の皆様のエネルギー問題・環境問題に関するご理解のお手伝に、同じ思いのお仲間と助け合って、及ばずながらボランティア活動に励んでいる毎日ではある。






             撒きこぼすあまたの種子に夢託し
 
             高砂百合は咲きわたるかも



             退きて隠居する身にあらなくに
 
             「思ひ」を伝えむ次の世代に

 

             身を清くただひたすらに咲きわたる
 
             高砂百合に訓えを受けつつ






「百日紅・さるすべり」 

2006-08-06 21:31:12 | 和歌


 梅雨が明けて蝉が鳴き出すと、百日紅が房花を咲かせる時節を迎える。

 遠くから百日紅を写すのは、作品の良し悪しは別として、さほど難しくもないが、花を大写しにしようとすると、これが意外と難しい。百日紅は細い枝先に花を付けるので、ネライを定めていると風がふいて、ふわーっと枝が揺れてファインダーから逃げ出してしまう。やっとの思いでシャッターを押しても、ぶれてピンボケになったり、ど素人のカメラマンは甚振られて、散々であった。

 子供の頃のこと、「この木はな、木肌がつるつるで滑り易い。木登り上手なお猿さんも、滑って落っこちるので『サルスベリ』と呼ばれているそうじゃ」と、親父様の話を聞いた記憶がある。

 屋敷に植わっていたリンゴや柿の木などは、木登り遊びの格好な対象であったが、虚庵居士の生家に百日紅の木は無かった筈だ。よそ様の庭木にも登りかねない「腕白息子」に、『サルスベリ』を見ながら「登るでないぞ」と諭してくれたのかも知れない。






             久方に「父ちゃん」の声を聞きしかな
 
             いがくり頭を撫でる手大きく
 


             チリチリノ花びら寄り添い咲く花の
 
             枝の向こうに夏蝉ぞなく
 


             遠慮がちに鳴く蝉の声途切れつつ
 
             百日紅の枝揺れにけり 
 





「浜木綿・はまゆう」 

2006-08-05 23:00:10 | 和歌

 浜木綿の自生北限は三浦半島だという。虚庵居士の住む三浦半島の横須賀では、自生ではないが彼方此方で何時も見かける「市の花」だ。

 浜木綿はかなりの期間にわたって咲き続けるので、細い花びらが枯れて纏わり付き、大抵の浜木綿は見苦しい姿を晒すのが常だ。時期的には遅い筈なのに今日出会った浜木綿は、珍しく新鮮なままの姿で、思わずカメラに収めた。






             浜木綿の白妙初しき花びらの 

             細きが絡みてぼんぼりなすとは 



 「はまゆう」といえば、宮城道雄の最後の作品が、歌曲「浜木綿」であった。図らずも今年は、彼が事故でお亡くなりになって、ちょうど五十年になる。虚庵夫人が琴を嗜み、お稽古を続けているので殊更に身近に思われ、彼の感性の鋭さには何時も痺れさせられる。

 浜木綿は花を咲かせ、人々にひと時の感動を与えて、やがて枯れて散る。今週の初めに若くして亡くなった友人も、爽やかな笑顔を残して旅立った。
宮城道雄に、そして友人にも浜木綿を手向けて、しずかにご冥福を祈りたい。






             はまゆうに琴の調べの聞こえ来て 

             宮城道雄を偲びぬるかも 



             か細くも紅そむる雄しべかな

             白き花びらゆかしく守るは 





「花虎の尾」

2006-08-04 19:34:21 | 和歌


 「うつろ庵」の庭の「花虎の尾(別名・角虎の尾)」が咲き始めた。

 縦長の花序の、下から順に咲き登るが、一つ一つの花は、魚の「ふぐ」を思わせるユーモラスな表情で、カメラを構えつつ思わず笑ってしまった。

 「花虎の尾」の一本には、山芋の蔓が絡んで、これまた風情が捨てがたい。何時のことであったか、近くの山へ散歩に出掛けた折、自然薯の蔓に零余子(むかご)がなっているのを見つけて、摘み取って来た。
食べる程の量でもなかったので庭にばら撒いたら、それ以来律儀にも、毎年蔓を伸ばして庭木や草花に絡みつくようになった。

 「虎の尾」は斑入りの観葉植物、白い小花が咲く「丘虎の尾」もある。






             何とまあひょうきん者かな「ふぐ」に似て

             花虎の尾は「腹」ふくらせて咲く
    


             ばら撒ける「むかご」は律儀に蔓伸ばし
   
             花虎の尾に風情添えるか
   


             自然薯の蔓葉と語るか咲きのぼり
   
             花虎の尾は寂しからずや
       


                              


「アメリカンブルー」 

2006-08-03 22:00:26 | 和歌

 近くの遊歩道を歩いていたら、歩道にはみ出してブルーの小花が咲いていた。

 地に這う株の根元には、「アメリカンブルー」と印刷した写真付きの名札が刺さっていた。
写真に比べて実物は、花数が大分少ないようだ。

 花を見ながら考えた。花の名前にしては潤いも面白みも乏しい命名だ。ブルーの花色は確かに鮮やかだが、何故アメリカンなのだろう? 星条旗に使われているブルーだろうか? 或いは米国で交配され、開発された花かも知れない。

 ブルーの花は、どちらかと言えば「控え目」で印象は「冷静」だ。まして草丈は低く地に這い、花は小さく数も少ない地味な花だ。だが、ブルーの色合いといい、白く細い花芯とのコンビネーションのハイセンスには、目を瞠る。
花の名前は、「アメリカの誇るブルー」という意味かもしれない。






             地に這ひてひそと咲けども誇るらし
   
             深きブルーと白き花芯を
   


             地に這えば跳ね土身に付け咲けるかな
   
             花清しくもアメリカンブルーは
   


             梅雨明けの高き大空飲み込みて
   
             メリケンブルーに小花は咲きたり
    


                              
                             

「擬宝珠・ギボウシ」

2006-08-02 09:09:56 | 和歌

 ご近所の塀の上に置かれた鉢で、ギボウシがにょきにょき伸びて、花を咲かせている。

 写真に撮って油断していたら、かれこれ十日ほども経ただろうか、そろそろ花時の終わりを迎えるので、その前に敬意を表して、ギボウシにご登場願った。
「うつろ庵」の擬宝珠は夙に咲き終えたが・・・。






             凛と立つ隣の茎に寄りそふは
  
             遅咲きぎぼうし背の君恋ふるや  



 「擬宝珠」が、と高を括っていたがあにはからんや、中には「擬宝珠」に凝りに凝って只ひたすら「擬宝珠」を集め、慈しんでいる人々もいる。彼らは「協会」まで設立して花を極め、研鑽を重ね、そのための国際的なネットワークをも構築して居られるという。

 擬宝珠のほか、石楠花・皐・菊など等、それぞれの「協会」があるらしい。花には人を虜にして止まない、不思議な魅力があるようだ。虚庵居士のバカチョンカメラで撮った写真を掲載するのは、彼らに申し訳ない思いでいることを、付け加えておきたい。






             擬宝珠を極めむとする人々の
  
             おもひの丈を知るやギボウシ  



             背を伸ばし首を伸ばして次つぎと
  
             ただひたすらに擬宝珠咲くかも