「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「月下美人」

2010-10-31 01:42:41 | 和歌

 「うつろ庵」の月下美人が咲いた。

 今年の最初の開花は一箇月余の渡米中で、残念ながら観損なって、月下美人には申し訳ないことをした。二度目は、二つの莟が次第に大きく成長して、どちらが先に咲くのだろうかと気を揉ませていたが、何と二つが同時に咲いて虚庵夫妻を愕かせてくれた。

 下向きに垂れていた莟が、数日前から首を持ち上げて開花の態勢を整え始めていたので、花も住み人も心の準備は出来ていた。夕刻から莟は一気に膨らみ始めて、陽が暮れると忽ち口を開け、三十分ほどで満開となった。

 月下美人は日暮れを何所で感じ取るのであろうか、夕闇の訪れが花時と心得て咲くのが、何とも不思議だ。これ程の花が暗闇に隠れて咲くのは、物語を秘めているようにも思われる。「月下美人」と優雅な花の名前を与えた古人の想いも、頷けるというものだ。








 「うつろ庵」の月下美人は、夏を過ぎてから門被り松の下に鉢を移して、謂わば来年までの休息態勢に置かれていた。暫らくしてから、小さな莟が付いているのに気付いた虚庵夫人は、鉢を移動させて莟に傷つけたり、或いは欠いてしまうことを恐れて、そのままそっと見守って来た。大分経ってから、虚庵居士が莟の存在を知り、鉢を移動させようかと試みたが、鉢の排水穴から根を下していて、移動することを諦めた経緯があった。そのような事情で、虚庵夫妻は松の枝の下に屈みこんで、月下美人の華との対面をするはめになった。

 お隣の奥方もお誘いして、松の根方で月下美人の花観のひと時を楽しんだ。馥郁とした香りを堪能し、一夜だけの華に見惚れ、それぞれの想いを月下美人から頂いた。





              この夏はあるじの留守に咲きたるか

              花柄あわれ月下美人は


              今宵こそ月下美人は咲くらむと

              妹子と二人息をひそめつ


              夕闇の迫ればやがて華の口を

              開き初めにし香りを放ちて


              背をこごめ松の根方の華観かな

              月下美人と物語りせむ


              かくばかり華やぎ咲くにひと夜のみの

              儚む命に己を重ねつ







「下野のなみだ」

2010-10-28 13:39:36 | 和歌

 雨上がりの別荘を出て暫らく歩いたら、「下野・しもつけ」が林の縁に出迎えてくれた。

 前にご紹介した「越路下野」とは、花の色合はよく似ているが花の一つづつ、或いは群花の気配はだいぶ趣を異にする。越路下野は朧に咲くが、下野の小花には、その一つづつに夫々の思いが込められて いるかの様にも見えるのだが・・・。

 越路下野や下野草は草花で背丈は高々一メートル程度だが、この下野は灌木ゆえに、虚庵居士の背丈ほどには成長する。林の縁で、丁度目の高さで物静かに咲いていたが、淋しげな気配が感じられたのは何故であろうか。





              背の高き林の道を歩み来れば

              うす暗がりに下野咲くかな


              華あるにこうべを傾げ下野は

              涕の雫をその葉に湛へて


              下野の華を見せばや佳き人に

              待ち焦がれるや涕を湛えて







「一枝の甘柿」

2010-10-25 13:51:18 | 和歌

 近くにお住まいの友人が、一枝の甘柿をお持ち下さった。

 彼のお宅の玄関先には毎年たわわに柿が実って、秋の訪れを見事に飾っている。ところが、「ほど良く色付く頃には鳥達が目ざとく見つけて、美味しそうな柿を選んで啄んでしまうんですよ」とこぼしていた。

 そんな矢先、留守中に「丁度見ごろです」と友人から電話があった。明日の名古屋での講演に備えて、切符を買いに出掛けて遅くなって帰宅したら、「一枝の甘柿」が届いていた。お礼の電話を入れたら、
「鳥たちに啄まれる予感がしたので、先にお届けしました」とのご返事であった。

 鳥に先駆けて、「色付いた柿」をお届け下さった友人の「風雅」にしびれた。虚庵夫人は心映えの一枝を夜雨にかざして後に、花器に投げ入れた。甘柿の頬には、歓喜の涙があふれていた。





              鳥たちの

              啄む前に見せばやと

              今が見ごろと伝え来ぬ

              鳥の先駆け懸念して

              自ら手折りし甘柿の

              一枝を携えわが友は

                柴の戸叩く 風雅の人かな


              吾妹子(わぎもこ)は己に代わり甘柿を

              雨にかざして涙をそそぎぬ







「越路下野草・こしじしもつけそう」

2010-10-23 00:14:03 | 和歌
 
 記憶が定かではないが、確かこの花は虚庵居士の住いの近くの、「そば処」で初対面した。

 お店の外に置かれていて、店の者に訊ねたらわざわざ女将が出て来て、花の名前を教えて下さった。あれから何年を経たであろうか。

 別荘のテラスから、ふらりとサンダル履きで林の中に足を踏み入れたら、大樹の根元に「越路下野草・
こしじしもつけそう」が咲いていた。薄暗い林の中では、花の色がひときわ華やいでいた。思いもかけぬ
野に咲くこの花との出会は、図らずも旧友に出遭ったような思いであった。





 少し離れた位置でカメラに収め、再び近くに寄ってカメラを構えたら、ツヤのある小さな昆虫が小花の
一つひとつに挨拶をしていた。林の中で、独りひっそりと咲いているのだろうと勝手に考えていたが、ここにも確かな自然の交流と営みがなされていることに、胸をうたれた。何も語らぬ彼らではあるが、暫らく
眺めていたら、いつの間にか友達になった気分で、言葉は無くとも心が通じ合える様な思いであった。






              おばろ咲く越路下野わぎ妹子(もこ)の

              衣に染めて琴を聴かまし


              近く見ればいと華やげるおみな児ら

              しべ広げるに歓喜を見るかな


              この子らの歓喜の歌は聴こえずも

              胸に聴くかも花咲く悦び







「岡虎の尾・おかとらのお」

2010-10-20 00:24:06 | 和歌

 深く切り込んだ川の縁に、「岡虎の尾・おかとらのお」が咲いていた。

 川面を覗き込むかのような風情で、白い虎の尾は薄暗いなかにくっきりと浮き出で、印象的だった。
川の縁には、蓬や羊歯などが折り重なって川面は殆ど見えなかったが、川のせせらぎの音は、高原の
静かさと相まって妙なる調べを聴く心地がした。





 自宅周辺での散歩では、車の騒音や子供たちが遊ぶ声などが重なって、よく云えば人間味はあるが、考えてみればそれらを無視して、ひたすら歩くことのみに捉われていなかったろうか。 それに引き換え高原の散歩では、草叢を踏み川のせせらぎの音に心を洗われながら、在るがままの自然の中に何時かしらとっぷりと浸っていた。細葉の麒麟草や岡虎の尾と心を通わせられたのは、まさに至福の一時であった。

 たかが野の花ではあるが、彼女らには様々なことを気付かされ、訓えられる「野の花」たちではある。 


 



              しろたえの小花の群花せせらぎと

              なに語らふや頷く仕草で


              お仲間の蓬も羊歯も肩寄せて

              尽きるともなし野に語らふは


              気が付けば野の花たちに訓えられ

              至福を賜ひぬ野花の朋より








「細葉の麒麟草・ほそばのきりんそう」

2010-10-17 15:54:09 | 和歌

 湖畔の草叢を歩いていたら、黄色の小花が身を寄せ合って咲いていた。

 草丈二・三十センチの頂部に、五弁の小花が沢山集っているので、遠目にも存在感がある。うろ覚えの「麒麟草」とよく似ているが、麒麟草のような多肉質の葉でもなければ、葉の形も遥かにスマートだ。
自然の世界の草花は、姿を色々に変化させて目を愉しませてくれるが、その様な見方は花を愉しむ人間の勝手であって、それぞれの草花にはそれぞれの事情があるに違いあるまい。

 後日、「山野草」の図鑑のお世話になって調べたら、「細葉の麒麟草・ほそばのきりんそう」だと知れた。
麒麟草は薬草、山菜としても重宝がられている野草であるが、多肉質な草ゆえに頷けるところだ。
「細葉の麒麟草」は多肉質とは言い難いが、どこか逞しさが感じられるのは何故であろうか。

 高原や寒冷地に自生するには、多肉質では自然の厳しさに耐えられないのであろう。
自然の環境に合わせて自らの身をそれなりに変化させ、厳しい種の保存の原則を体現する逞しさには、目を瞠る思いだ。

 

 


              小柄なれど私はここよと身を寄せて

              会図を送るや黄色の小花は


              幾重にも小花を重ねて託すらし

              あつき思いを君に届けむ


              高原の厳しさに耐え己が身を

              そぎてなお咲く小花ぞいとおし








「蛍袋・ほたるぶくろ」

2010-10-15 00:17:42 | 和歌

 朝露を踏んで林の中を歩いたら、「蛍袋・ほたるぶくろ」がひっそりと咲いていた。

 



 陽射しの下の蛍袋は、成長も聊か逞しすぎるのが気になっていたが、林のなかの蛍袋はほど良い繊細さが備わって、この様な気配がこの花には相応しいと思われるのだが、如何なものであろう。


 どんな花にも人間にも共通することであるが、それぞれには、それぞれの相応しい環境のもとで会いたいものだ。その様な環境を人間が勝手に替えることなどは許されないが、その様な理想的な環境で巡り合い会話が出来るのは、千載一遇のチャンスと云うべきであろう。林の中で、朝露の小さな水滴をのせた蛍袋に出会えたのは、この花が虚庵居士を誘って呉れたのに違いあるまい。

 人の世でも、若い男女がそのような出会いに恵まれれば、二人の人生は幸せなスタートが切れるに違いあるまいが、類まれな
ホタルブクロとの出会いに、心がふるえる虚庵居士であった。
 


              朝露にしとど濡れつつ歩みくれば

              蛍袋は待ちにけらしも


              花の頬 葉の表にも水滴の

              仄かなきらめき いとど細かく


              はからずも蛍袋は誘ふや

              林のなかに君と逢ふとは






「百合と揚羽蝶」

2010-10-12 00:13:03 | 和歌

 蓼科高原の早朝は空気が爽やかで、胸いっぱいに深呼吸をした。

 小さな湖の畔まで散歩したら、既に釣り人達が糸を垂らしていた。 そんな釣り人を遠目に見ながら、草叢にそってゆったりと足を運んだ。草叢は芒と蓬などが絡み合ってかなりの背丈であったが、そんな向うに一株の「小鬼百合・こおにゆり」が、待って呉れているかに見えた。





 近くに来て愕いた。まだ朝日も高く昇る前であったが、揚羽蝶が小鬼百合の花に取りついて、花蜜を
いっしんに吸っていた。虚庵居士がかなり近くに佇んでも、老木のお仲間位にしか認めないのであろうか、おじける気配も見せずに朝の花蜜を吸い続けていた。包容力の豊かな自然の中では、草叢も小鬼百合も揚羽蝶も、そしてまた虚庵居士もそれぞれがあるが侭に受け容れられて、何の変化もなく呼吸している静かなひと時であった。



 


           草叢にただ独り咲く小鬼百合を

           先に訪なう揚羽蝶かな


           傍ちかく佇む吾は朋なるや

           古木ならむか木偶(でく)ならめやも


           花も蝶も草叢ですら華あるに

           翁の華は何を見せばや







「サマーチェリー」

2010-10-09 02:12:49 | 和歌
 
 蓼科高原でのゴルフで訪れたホテルのフロントに、「サマーチェリー」が飾られていた。

 残念だったのは、生花ではなくドライフラワーであったことだ。
この様な見事な花は、多分一株のサマーチェリーではなくて、華人がアレンジしたものであろうが、望むらくは生花にお目にかかりたいものだ。小花のサマーチェリーを、大きなボール状にふくらませてアレンジしたものであろうが、桜の古木の満開を思わせる見事なものであった。






               
         いや高き窓の暁光ふりそそぎ

      蘇るらし小花の命は


      誰ならむ小花を束ね 膨らせて

      春爛漫の桜を咲かすは


      願わくばサマーチェリーの咲く園に

      その香に包まれ何時か かも寝む





「湖面に映る」

2010-10-06 00:29:45 | 和歌

 青森県三沢市のホテルに宿泊した際の朝の散歩については、「山薄荷・やまはっか」 に書いたが、朝の湖面に映った景色が心に残ったので、ここにご紹介する。

 「みちのく」の話の後で「信州・蓼科高原」の「秋の麒麟草」等などをご紹介し、再び「みちのく」に話題が戻るのは皆さんを混乱させて申し訳ないが、虚庵居士の頭の中では時空を自由に超えるので、お付き合い願いたい。今後もこの手の飛躍はままあろうかと思われるが、ご勘弁願いたい。

 湖が見え隠れする小道を経て、鬱蒼と茂る林の中をゆったりと歩を運んだ。巨木が両側から覆いかぶさる道路の脇は、大きな川石を積み上げた立派な石垣が続いていた。石垣に沿って進んだら、その先の暗闇がポッカリと開けて、橋が見えた。





 湖に架かる橋からは、両岸の鬱蒼と茂った樹の枝が開けて、遠く近代的なホテルと御殿風の茅葺の建物が湖面に映って、異次元の世界を醸していた。

 絵葉書風な景気ではあるが、このホテルのオーナーは何を考えてこの様な設えをしたのであろうかと気になった。公園を遥かに超えるような規模の広大な敷地と湖。湖の最奥部には御殿風の茅葺の建物と浮舞台を設えて、スケールの大きなイベントを催す心算だったのだろうか。それにしては観客席のスペースが見当たらないが・・・。

 ごく限られたセレブを対象にして、例えば結婚式など、この景観と設えを独り占めさせようと考えたのかしらん。あるいは、有り余る資金の使い方に窮して、歴史文化を代表する建築物等を移築して、一大レジャーランドを造ろうとしたのだろうか・・・。

 湖面に映った景色を眺めていたら、溢れる自然の中の古今の建造物の姿が、なぜかうら寂しく見えて来た。栄華を誇った嘗ての歴史上の人物とその遺構も、歴史に支えられるもの以外は、全てが消えゆく運命をたどった。オーナの思惑を超えて、やがてこれらの建造物も朽ち果てるのが定めであろう。

 湖の水面は、息をひそめてあらゆる物をあるがままに写しているが、それも一たび風が吹いて波立てば、水面の映像はたちまち崩れるのが必定だ。向うに見える建造物も、それを映す水面も共に、その時々のあるが侭がこの世の定めというものであろう。
 


            鬱蒼と茂れる林を抜け出でて

            次元の異なる世界が開きぬ


            湖の水面は息をひそめるや
            
            自然と古今のたてもの映すは


            思ふらくやがてこれらも朽ち果てむか

            うら寂しくも歴史の定めは


            明鏡もやがてそよ吹く風あらば

            乱るる影もあるが侭にて






「山鳥兜・やまとりかぶと」

2010-10-03 00:52:59 | 和歌

 「山鳥兜・やまとりかぶと」が、どこか優雅な雰囲気を漂わせて林の中に咲いていた。

 鳥兜の名前は、舞楽で被る鳥兜に似ているからと言われるが、鳳凰(ほうおう)の頭をかたどった鳥兜はどちらかと云えばもっと華やかだ。頂部が殊に長いところはむしろ烏帽子に似ているが、形はともあれ黒一色の烏帽子は地味過ぎて、この花の名前には不釣り合いかもしれない。物の本によれば、イギリスではヘルメット・フラワー(兜花)と呼ぶらしい。兜を連想するところは洋の東西を違わないようだ。人間の感性には、民族を超えた共通のものがあるのだろうか。

 それにしても「花に毒あり、美人に毒あり」ともいうが・・・。この様な優雅な花に毒があるとは、何やら人間世界を象徴しているようにも思われる。男が美人と二人きりになると、たった5分程度で男にはストレスホルモンが分泌され、このホルモンが心臓病に悪影響をもたらすというから、美人は恐ろしい。というより、男とは愚かな存在かもしれない。

 美しい優雅な「山鳥兜・やまとりかぶと」も、猛毒の持ち主であることは周知の事実だが、念のため調べたら、1本の根で50人もの命を奪うと云うから驚きだ。毒の強さは植物成分としては最強で、天然物ではフグ毒に次ぐらしい。その昔、アイヌや古代人が鏃に鳥兜の毒を塗って、狩に使ったと伝えられるのは健全な利用方法だが、現代では保険金目当てのトリカブト殺人などの報道を見るにつけ、トリカブト以上に恐ろしいのは人間の心かもしれない。

 「毒を持って毒を制す」との諺があるが、専門家に云わせれば、トリカブトの毒を制する毒は存在しないのだと云う。やはり「山鳥兜・やまとりかぶと」は、花の美しさを愛でるだけにしたいものだ。






              暗闇の林の中に一株の

              山鳥兜を木漏れ日さすかな


              優雅なる花の姿と色あいを

              観れば悲しも毒ある花とは


              花を観て哀しと云うは愚かなれ

              悲しかりけり花毒使うは






「現の証拠」 と 「百合子先生」

2010-10-01 00:25:58 | 和歌

 昨年の丁度いま時分に、「蓼科の野花」シリーズで 「現の証拠」 について書いた。
偶々それを目にした旧友が、短いエッセーの中で触れた「百合子先生」の現住所を連絡下さった。
「現の証拠」の短編とその他に数編をコピーして、先生にお届けした。夙に90歳を超えるご高齢の先生がお読み頂けるように、大きな文字フォントに置き換えて、再編集してコピーをした。

 友人の連絡では、ご高齢で足腰が弱ってはいるものの、認知症もなく、介護付きの老人ホームに入居され、元気にお過ごしだと伝えて来た。お送りしたものの、お読み頂いたか否かは定かならざるまま、半月ほどが経った或る日、ご長女から返礼のお手紙を頂いた。

 お手紙には、拙文のコピーを枕元に置いて、繰り返しくり返しお読みになっていると、認めてあった。
ご長女が、昔の遠足で摘んだ「現の証拠」と虚庵居士のことを聴いたら、頷いて「覚えているわよ」と、
しみじみとした表情でした、とも書かれていた。

 頂いたお手紙はご長女がワープロで印刷したものであったが、末尾には先生の署名が添えられていた。少しばかり痩せ型の丁寧な署名は、紛れもなく見覚えのある「百合子先生」の自筆であった。
半世紀以上の歳月を経て手にした先生の自筆は、忽ちおぼろに霞んで、その向こうに先生の笑顔が
揺れていた。






            何故ならむ去年(こぞ)と今年も草叢に

            現の証拠の小花に逢ふとは


            柔かな朝の陽をうけ草叢の
            
            現の証拠と言葉を交わしぬ


            この花は時をとどめて今もなお

            幼きあの日のボクに戻しぬ