「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「うつろ庵の蘇芳梅」

2010-01-31 03:00:23 | 和歌

 「うつろ庵」の「蘇芳梅」が咲いた。

 古木の曲がりくねった幹から、活きのいい枝が空に向けて精気を放っている。そのような活きのいい枝の、下側の蕾が綻んだ。やがて枝先まで咲き上ることになるが、それまでには目白が僅かばかりの花蜜を吸いに来て、早春の恵みを堪能する。目白が飛び去った後は蘇芳の花びらが撒き散らされるが、それもこの時節の自然の営みの一つとして、虚庵居士を愉しませてくれよう。
 





            濃き色の蘇芳の梅は花びらを

            寄せあい咲くかな寒を凌ぐや


            陽を受けて蘇芳の梅は誇るらし

            花びらの色輝くしべをも









            見上げれば青空に浮く蘇芳梅の

            八重の花びら透ける今朝かも


            朝空の冷気にわが身をふるわせて

            梅に聞くかな今朝のあいさつ






「うつろ庵の白梅」

2010-01-27 12:34:45 | 和歌

 新年早々に蕾が膨らんで、白梅が綻んだのは半月ほども前であったろうか。

 勝手なもので開花を待つうちは一日千秋の思いであったが、「綻び」をカメラに収めた安心感と、忙しさに紛れて、あっという間に半月ほども経ってしまった。年明け早々に忙しくなったのは、「シニアと学生の往復書簡」の取りまとめが、思いのほか手間がかかったからだ。




 「往復書簡」とは、原子力関連の勉強・研究をしている学生とシニアが、学生の選んだテーマについて質問と回答を重ね、率直な意見交換をした貴重な交流の成果を、書き物として残しておこうとの企画である。修士或いは博士課程の学生が、学業と研究の日程、或いは卒業論文の執筆に追われながらも、日頃から抱えてきた疑問や意見をシニアにぶっつけ、シニアは経験や長年に亘って蓄えてきた知見にもとづく熱い思いを、率直に披歴して半年余が経過した。ほぼ半世紀の年齢差を超えて交わされた「往復書簡」は、貴重な記録として残しておきたいものだ。学生が丹念に原稿を起こしてくれたので、シニアがこれを
レビューし、最低限のコメントを返す作業の段階にあるが、虚庵居士が「とりまとめ」を仰せつかって、取り仕切ってきた。

 北海道から沖縄までの十余の大学の学生と、参加シニアもかなりの数に及ぶが、この交流のイメージは、厳しい寒さをも厭わずに咲く白梅の姿と何所か重なるものがある。固い蕾、ふくらむ蕾、しべを放って清冽に咲く白梅、花の向きはそれぞれを主張して付和雷同せず。なおかつ高貴な香りを放ち・・・、などと「比ゆ」するのはチト買いかぶりであろうか。






            くれないと萌黄の衣を押し開き

            しべ放ち咲く梅の花かも

 
            梅が香の高貴なるかな数あまた

            黄金のつぶをしべは捧げて

               
            それぞれに花咲く向きのたがえるは

            確たる己を持つが故かな


            梅が香は寄りそう蕾に花ときを

            つげる語りか君の番だと






「瑠璃の玉」

2010-01-23 04:47:11 | 和歌
 
 「うつろ庵」の庭の片隅で明日葉を摘んでいた虚庵夫人が、書斎に駆けこんできた。
「素晴らしい物がみつかったのよ! 早くカメラに写して!」と、興奮冷めやらぬ態だ。

 急かされるままに、あたふたと階段を駆け降りて、庭に降り立った。
広くもない「うつろ庵」の庭には、何が何所にあるか位は知り尽くしているので、彼女の興奮は、珍しい小鳥の来訪かもしれぬと、足音を忍ばせて彼女の後に従った。

 彼女が指し示す先をたどったら、あっと眼を瞠った。
つつじの株と鉄格子に挟まれて、「瑠璃の玉」が房をなして輝いていた。「玉」の一粒はおよそ十ミリ程もあろうか、姿・形と言い、草木の世界ではごく稀な「瑠璃色」で、色合いも深みのある見事なものだ。虚庵居士のカメラの腕では、その色調を写し取れないのが誠に残念だ。

 「うつろ庵」の主でありながら、斯くも見事な住み人の存在に気付かず来たことが、聊か申し訳ない思いだ。「龍の髭」もこれによく似た「玉」を付けるが、玉の数は精々五粒ほどであろうか。「うつろ庵」の住み人に敬意を払って、図鑑で調べたら「熨斗蘭・のしらん」だと知れた。






            ひそやかに瑠璃の実をつけうつろ庵の

            主も気付かず幾歳おわすや


            わぎもこの耳に飾らむ瑠璃の玉を

            豊かな胸には三粒の房をも


            わぎもこのたかなるおもいはぎょくゆえか

            よわいをこえてひくてのあつきは






長崎大学WS 「原子力は未来を救えるか?」

2010-01-13 22:56:23 | 和歌
 
 「ヒロシマ・ナガサキ」の原子爆弾被災から既に65年を経たが、まだなお日本国民の多くは、「原爆の
トラウマ(心的障害)」に苛まれ、放射線に或いは原子力の平和利用に対してすら、謂れなき不安を抱いているのが現実だ。

 原爆被災地の長崎大学教育学部で、「原子力は未来を救えるか? 原子力って本当に必要なの?」
とのテーマで、第2回「エネルギー環境教育研究会ワークショップ」が昨年々末に開催された。
留学生を含めて長崎大学の学生と教職員約40名、原子力関係のシニアが約10名、合計50名ほどが参加して朝から夕刻まで、熱心な意見交換と議論を重ねた。





 午前中のワークショップ・その1は、「原子力に対するイメージの共有と功罪」をテーマとして、長崎大学病院・大津留准教授が「チェルノブイリから学ぶこと」と題する講演、引き続き虚庵居士が「皆さんと一緒に考える:エネルギーと地球温暖化・原子力への期待」との講演で、午後のワークショップ・その2への話題を提供した。

 大津留先生はチェルノブイリ原発事故の惨劇を、朝日新聞の豊富な切り抜きを巧みに編集して、生々しく紹介されたので、学生も先生方もそしてシニアの面々も暗澹たる思いにいざなわれた。虚庵居士は講演に先立って、4点を学生に訴えた; ①地球の明日と、人類の未来を考えよう! ②“子供たちに真実を伝えよう” その前に先ず正しい理解を! ③“教育の在り方”につき批判が多いが、君たちが考え、提言をしよう! ④“永井隆博士”の心を伝える伝道師たれ!(原爆被災で自らが負傷しながら、被災者の救護に当った彼は、原子爆弾救護報告書の「あとがき」に、原子力を平和目的に活して新たな文明を築くことが、多数犠牲者の霊を慰めるものだと書き残した。)

 虚庵居士の講演の詳細は省くが、お話の順序は ①地球についてチョットだけ「おさらい」して、地球に満ち溢れている放射線の存在を解説し、 ②世界と日本のエネルギー事情 ③どのように防ぐか-地球温暖化? ④皆さんへの期待、 で締めくくった。

 昼食後には、かなり本音ベースの意見交換がなされた。
昨日、予め訪れた浦上天主堂の「被曝マリア様」と永井隆博士の「如己堂」にまつわる、虚庵居士の思いは是非とも学生たちに伝えたいと念じていた。が、対話の中での彼・彼女らの反応を見ていたら、講演の中で触れたポイントを真摯に受け止めてくれていたので、殊更それを強調するのは差し控えた。
拙稿「人類の過ちと原爆のトラウマ」 と、永井隆博士の理念を紹介した「原子力の平和利用」の2編のコピーを配布したので、後日に読んで貰えるであろう。

 グループ毎の対話と意見交換のまとめとして、最後に学生が発表した中から、感動的な二つの報告事例を紹介する;
 一つ目は、虚庵居士の冒頭の訴えを真摯に受け止めて、『子供たちに真実を伝えるのは、教育学部に所属する我々の責務だ』との宣言だ。人間はどの様な自覚を抱いて行動するかで、その成果は「月とスッポン」程の差が生じる。学生が議論を尽くして、ここに到達して呉れたことに、長崎に来てよかったとの感動を覚えた。

 二つ目は、原子力平和利用の真髄を理解しなくては、この様な結論に到達し得ないと思われる発表であった。曰く『原子力平和利用に対する我々の意思表示として、放射性高レベル廃棄物処分地に、ヒロシマ・ナガサキが率先して名乗り出るのはどうだろうか!』

 この発表を聞いて身の震える思いであった。聞けば、普段の講義や授業では殆ど原子力に関する勉強はしていないという。今回のワークショップに参加して講演を聴き、シニアと膝を突き合わせて対話をして、この様なレベルにまで理解を深めて呉れようとは、想像を超えるものであった。原子爆弾の被災地で勉学しながら、思索を重ねつつ、永井博士の「如己堂」にも時には足を運んでいたことであろうかと思われる。


               みぞれ降る長崎の坂歩みつつ

               思いを重ねぬ幾星霜に

 
               長崎の学生達との対話にも

               被曝マリアの無言の聲聴く

               
               半世紀の 歳月隔てて訴える

               じじの言葉に若者耳寄せ


               ヒロシマとナガサキこそは名乗るべしと

               学生提言 廃棄処分に


               原爆の被災地に来て若者と

               こころを共にす未来を夢みて







「被曝マリア様と如己堂」

2010-01-07 01:28:42 | 和歌

昨年の年末に、「学生とシニアの対話会」を
長崎大学教育学部にて、ワークショップ形式で開催したので、これに参加した。
学生との対話の前に、是非とも訪ねておきたいところがあったので、前日に長崎入りしてミゾレの中を半日ほど歩いた。

 訪ねておきたいと念じていた一番目は、
浦上天主堂だ。 同宿のシニアをお誘いして、爆心地の公園に近いホテルから500メートルほどの、丘の上の天主堂に向かった。

 仰ぎ見る天主堂の前に、首を飛ばされた石像
                                  の聖人が苔むして我々を迎えてくれた。

 聖堂に入るとパイプオルガンが奏でられていて
クリスチャンではない虚庵居士であるが、
何時かしらず身を清められる思いであった。

 出口近くに設えられた木製の祭壇には、頬を焦がし目を失った「被曝マリア様」が祀られていた。浦上天主堂でお目にかかりたいと念じていたお姿に接し、ごく短い時間ではあったが、時空を超えた悠久のひと時を頂戴した。

 天主堂を出ると、被曝直後の天主堂と「被曝
マリア様」が印刷されたポスターが、雨にぬれていた。  (2枚ともポスターの画像より)

 帰宅した後も、「被曝マリア様」のお顔が忘れられず、彼方此方のホームページなどで探しもとめたが、意に適う写真を見いだせなかった。その中の一枚、"The madonna of Nagasaki"トップ頁の写真を拝借
させていただく。




 天主堂からの坂道を降りつつ、「原爆投下」という人類最大の過ちを犯し、神をも畏れぬ行為に、我々は何所まで真摯に対峙してきたかと、改めて想いを致した。この思いは「人類の過ちと原爆のトラウマ」 とのタイトルで、拙稿をブログでもご紹介したが、長崎と日本の誇る永井隆博士の理念「原子力の平和利用」 と併せて、学生との対話では是非とも訴えたいものだ。(太字部は当該頁とリンクしています)


 心臓を患った同行のシニアと歩調を合わせつつも、程なく永井隆博士記念館に到着した。近代建築の記念館の庭先に、二畳一間の「如己堂」が当時の佇まいで待ってくれていた。自らの放射線医療の研究で白血病に罹り、原爆で怪我を負いながらも被災者救護に当り、この狭い一間に臥せながら執筆を続け、子供たちに看守られて逝った永井博士の思いを偲んだ。

 如己堂わきの金木犀の枝に抱かれて一輪のバラが氷雨にぬれていた。


               苔のむすこうべを失ふひじり人の

               迎えをうけぬ浦上の丘に

 
               聖堂にオルガンの音の響きけるは

               厳かなるかも信者にあらねど

               
               思いきて被曝マリアを崇めみれば

               虚ろなまなこは慈悲深くして


               如己堂に遥か博士を訪ねきて

               君が思ひを氷雨に偲びぬ

               
               二畳一間 看病なされしご子息も

               いまはお側か お孫に会釈す

               
               庭に咲く冬ばら一輪とこしえの

               きみが心を伝えて已まずも 






「京都御所 その五 五節舞・ごせちのまい」

2010-01-05 04:06:27 | 和歌

 参観の順序と写真のご紹介は逆になったが、宜秋門からほど遠からぬ「新御車寄」には、二人の舞姫が厳かに舞う「五節の舞」が、参観者の目を奪っていたに違いあるまい。





 「五節の舞」は、庶民生活とはかけ離れた祭事ゆえ、参考書をもとに若干の解説を書きとめる;

 帝が新穀を「天神地祇・てんじんちぎ」に勧め、また自らもこれを食して、その年の収穫を感謝する
新嘗祭(にいなめさい・新帝即位後最初の祭は大嘗祭という)に際して、帝の御前で舞を披露する年中
行事を「五節」という。永く宮中祭事としては取りやめになっていたが、大正年間に再興されて現代に至っているという。マスメディアの目が及ばない「やんごとなき」際の祭事ゆえ、市民の預かり知らぬ世界のこととして、受け継がれているのであろう。

 「五節」行事は陰暦十一月、中の丑の日に行われる「帳台の試・ちょうだいのこころみ」に始まり、寅の日の「御前の試」、卯の日の「童女御覧」、最終日、辰の日の「豊明節会・とよのあかりのせちえ」まで、
4日間連続して催されたという。

 「五節の舞」は、天武天皇が吉野宮へ行幸し、夕暮れに琴を奏でると、雲の中から天女が降りきて、
「乙女ども乙女さびすも 唐玉を袂にまきて 乙女さびすも」と詠じ、袂を五度翻して舞った、との故事が起源とされている。

 新嘗祭の最終日となる豊明節会は、帝が豊楽院または紫宸殿に出御して、五穀の新穀の御膳を食し、群臣にも新穀、白酒(しろき)・黒酒(くろき)を賜る儀式で、一献で国栖(くず)奏、二献で御酒勅使、三献で「五節の舞」が奏された。

 舞姫は「五節」の名の由来どおり、袂を五度翻して舞う。これが五節舞の本番で、前の3日間の儀式「帳台の試・御前の試・童女御覧」は予行演習ではあるが、いずれも帝の前での舞い故に、舞姫にとっては緊張の連続であったろう。因みに五節の舞姫は、新嘗祭では4人(大嘗祭では5人)が奉仕し、通常は公卿の娘2人(大嘗祭では3人)、受領の娘2人が選ばれ、大変な名誉であったと記されている。

 「京都御所その四」でご紹介した、釆女(うねめ)が御膳などを運ぶ「西階進御膳・せいかいよりおものをすすむ」とは、豊明節会などの節会に際して、御膳を運ぶ様を示したものであろう。公式行事の装い故に釆女も、冠を付けるのは頷けるというものだ。また御膳には、醸せる濃きささの「白酒・黒酒」が添えられていたのは、虚庵居士の期待通りであった。


               公卿・受領・殿上人ゆ選ばれて

               ごせちを舞ふ姫 四人の思ひは


               帳台と御前のこころみ 童女御覧 

               乙女ら舞ふは 厳しき試練ぞ


               乙女らの心を偲びぬ五節舞ふ

               厳しき覚悟と誉れのこころを

        
               豊明の節会の帝のこころをば

               忖度するは畏れおおくも






「京都御所 その四 きざはしの・・・」

2010-01-02 00:28:42 | 和歌
 
 「源氏物語お勉強会ご一行様」が、京都御所をどの様な順序で観覧したかは定かでない。このシリーズでご紹介する写真は、虚庵居士の勝手な選択によるので、御所の配置や宮内庁ご指定の観光道順とはちぐはぐになろうかと思われるが、ご容赦願いたい。

 京都御所のなかでもっとも大きな御殿が、この「紫宸殿」だ。
帝の公式行事は専らここで執り行われていたと、ものの本で読んだ記憶が蘇ってきた。殿上人となるのは、古今東西を問わず世の人々の憧れでもあるが、虚庵居士にとっては、また別の興味がある。

 正面の扁額「紫宸殿」の書は誰によるものか知らないが、格調高い公式行事の御殿にしては誠に畏れ多い言い分だが、遊び心に満ち溢れた筆法だ。この扁額を掲げた当時の真意は、どの様なものであったか興味深いが、果たしてヒントになる書き物が現存するのだろうか。何方かご存じの向きが居られたら、ご教授願いたい。





               仰ぎみる紫宸殿の書の扁額に

               託せる思いを測りかねつも 


               瑞雲の湧き立つところかしこくも

               帝の御業を崇めてしるすや




 次の写真は、「内侍(ないし=女官)臨東檻(とうかんにのぞむ)」と言う場面で、節会(せちえ)の際、内侍が紫宸殿南東簀子上にて檜扇をかざして、大臣に昇殿の合図を送る場面だという。

 この写真では階(きざはし)に歩み寄る、大臣の長い裾(キョ)が見れないが、別の資料の写真ではとてつもなく長い裾が映っている。葵祭の近衛使や勅使代の裾を遥かに凌ぐ長さだ。勝手な想像ではあるが、「裾」の長さは、位階や帝との血縁の深さを物語る拠り所であったであろうと思われるので、或いは
光源氏の君の昇殿を模した情景かもしれない。





               檜扇をかざす内侍の心かも

               紐房ゆれるは君に焦がるや




 「紫宸殿」の「内侍臨東檻」とは反対側、西庇は「御膳宿・ごぜんやどり」とも呼ばれたと云う。釆女(うねめ・給仕などをする侍女)が、此処から御膳などを運ぶ「西階進御膳・せいかいよりおものをすすむ」の場面だ。

 源氏物語を手にしたのは略半世紀も昔のこと、おぼろな記憶では「御膳」に係わる記述を殆ど思いだせない。やんごとなき際といえども、食生活には並々ならぬ拘りがあったであろうが、世界中から食材を買い集めて贅を尽くす我々の食生活は、当時の帝の御膳を遥かに凌ぐことは、ほぼ間違いあるまい。

 しかしながら、源氏物語の時代の際だって高い宮廷文化の一端を垣間見るにつけ、この様な文明を既に築きあげていた、平安貴族の雅の世界には唯ただ嘆息するばかりだ。






               おもの捧げきざはし上るは釆女かな

               額のかんむり煌めき揺れつつ


               西の方の釆女の捧げるおものには

               醸せる濃きささ添えてあらまし

 




「明けまして おめでとうございます」

2010-01-01 00:00:01 | 和歌
   

   明けまして おめでとう ございます
   本年もどうぞよろしく お願い申しあげます



          平成庚寅 歳旦         虚庵居士







 海の向こうの孫は、嘗てこんな虚庵じじの絵を描いて、送ってくれましたが、昨年の9月にはピカピカの
1年生になりました。Skypeをすればビデオの向うでは、米国の各州の形をした切り抜きを示して、州の
名前と出身大統領の名前を言えと迫って、じじとばばを困らせております。こんな貴重な絵は、虚庵居士の大切な宝物ですが、寅年の年賀のご挨拶にかえて、ご披露させて頂きました。

 明日は、可愛い四歳の「りかちゃん」が年賀に来てくれます。
 虚庵居士は大喜びで、またまた大虎ちゃんになりそうです。
 

             孫の見る大虎のじじは斯くなるや

             目を細めつつ更に一献