「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「青き目の アガパンサス」

2010-07-25 12:48:45 | 和歌

 今年もまた「うつろ庵」の庭に「アガパンサス」が、花茎を長く伸ばして沢山咲いた。

 アガパンサスの花穂が揺れる様を見ていると、額の汗も忘れさせて呉れる。夕暮れ時には、テラスの
椅子に腰を下してビールを飲むのが愉しみの一つになったが、椅子からの目線ではアガパンサスを仰ぎ見るので、青い目の女子学生に囲まれた気分だ。






 市民大学の講座、山形大学での学生との対話会、蓼科での懇親ゴルフ会、東大での学生とのフリー
トーク等々が重なって、ブログの更新が侭ならない間に、アガパンサスは花時を終えて実を結んだ。
東京の高層マンションに住む孫のりかちゃんが来たら、アガパンサスを一緒に見たいと願っていたが、
今年はお預けとなった。代わってブルーベリーの実が熟しているので、小さな手で摘み取ってお口に入れたら、何と言うだろうか。 ばば様のお愉しみの一つだ。 






            背の高き花茎すらりと立ちあがり

            笑いさざめくアガパンサスかな


            夕暮れのテラスの椅子に腰下し

            涼めば花穂のささやき聞くかも

            
            テラスからアガパンサスを仰ぎ見れば

            酔ひにけらしも 目青き 乙女ら 






「レインリリー」

2010-07-19 16:56:38 | 和歌

 「うつろ庵」のツツジの根元に、「レインリリー」が首をもたげて、優雅な花をつけた。

 種を蒔いたのでもなく、株を植えたのでもないが、何時の間にやら芽を出し、水仙に似た花芽をニ・三日の間にのばして、あっと言う間に花を咲かせた。予想だにしないところに見事花が咲いて、虚庵居士夫妻は愕きつつも大喜びであった。





 「レインリリー」の花の命は短いが、花の後にはかなり大きな実を結ぶ。やがて莢が割れると、中には
黒光した種が顔をのぞかせ、小鳥たちにとっては又とないご馳走となる。こうして、小鳥たちの置き土産が、思いもかけない「レインリリー」の花のプレゼントに変身する。

 「うつろ庵」にはこのツツジの根元の他、何年か前から二つの平鉢にも根を下して、毎年花を愉しませてくれている。植え替えもしてないが、球根はかなり逞しく育っているに違いあるまい。無精者には打って
付けの「庵の同居人」として、ご滞在願っている。毎年の、梅雨時のご挨拶が愉しみだ。

 この花は花色も咲き方も、或いは花の大小も色々あるようだ。加えてその名も学名の「ゼフィランサス」のほか、「サフランモドキ」「玉すだれ」などとも呼ばれ、それだけ多くの皆さんに可愛がられていると云う
ことであろう。

 虚庵居士は自分で名乗った雅号であるが、本名のほか数えてみたらかなりの数の呼名が想い出された;中学生頃までには「ヒロちゃん」「ひろくん」「博士」「チョロ」など四つを数え、仕事に就いてから頂戴したのは「Hydrauric」「H君」「涓涓」などなどだ。愛称のみならず、敬称も蔑称も代名詞もある。それぞれにまつわるオモロイ話も尽きないが、ご紹介は別の機会に譲る。 






            突然の優雅な花の挨拶に

            愕きやがて笑顔の妻かな


            うす色の縁どり床しき花なれば

            短きいのちの今日を尽くすや


            黄金なる蕊の花粉の乱れ散るは

            蜂が結びし命の名残か


            実を結び小鳥を介して何処にか

            やがてこの子の芽吹きを祈らむ






「ベゴニア と 活性化スイッチ」

2010-07-14 17:11:57 | 和歌

 「ベゴニア」の花は近くで見れば、時により光線の加減で瑞々しい肌が煌めき、その表情には言葉を
失うこともある。多肉植物ゆえの花の表情であろうか?

 花も葉も傷つき易いのもこの花の特徴の一つだが、今年はカメラに収めるタイミングがよかったので、
花も葉も殆ど無傷の姿を写すことが出来た。室内の鉢植えは別として、屋外の路地植えのベゴニアは、隣の草花の葉と擦れあうなど、路地の環境ではごく当たり前のことであっても、敏感なベゴニアには擦り傷などが残って、いつもながら気の毒な思いであった。ベゴニアの置かれた「環境」に関連して、若干横道にそれるが、若者の環境についてチョットだけ考えてみたい。

 昨今の若者の挙動を見るに、何やら「ひ弱になった」のではないかとの批判もまま聞こえてくる。隣の
草花の葉が触れただけで、ベゴニアの花が傷つくほど、若者は鋭敏でもひ弱な存在でもないと信じているが、「草食系」人間などという表現も「肉食系」との対比から、ある意味ではもっと逞しい若者への期待を
こめたものであろう。「学生とシニアの対話会」などを通じて、沢山の学生とも交流してきた実感として、両者の差はごく僅かな刺激の与え方、環境設定によってはかなりの変質が可能だと思われる。

 学生に限らず一般人でも共通だと思われるが、「予備知識の有無」で反応は「月とスッポン」の差が生じる。対話会でも、事前準備を入念にこなした学生の発言や応答には目を瞠るが、そのチョットした努力をサボった学生の反応は生彩を欠き、「草食系」との批判がそのまま当てはまる。学生は自分の置かれた立場、環境を理解して僅かでも事前準備をなし、「心つもり」を胸に秘めることで、対話会でもシニアの発言から多くのものを掴み取り、それを短時間のうちに自分の中で消化している様だ。
 
 一方、事前の準備をサボった学生は、まず彼らの意識が前向きでないことから、挙動は受け身であり、シニアの発言から何かを掴み取ろうとする積極的な姿勢が希薄だ。従って対話会での収穫は、シニアの発言の表面的な部分にとどまり、プラスαが殆ど見られない。

 学業も研究も、或いは日常生活でも、多分同じことが云えるのではなかろうか。
ほんのチョットした「心がけ」の差が、結果的には大きな成果の差につながるのであろう。
人間は自らの意思で、自分の置かれた環境を替えることも、更には成果を評価してフィードバックする知恵も持ち合わせている。はたまた感性自体も、自ら切磋琢磨することで感度を磨き、多くの情報を手に入れることも可能だ。

 人間は活性化のスイッチを自ら”ON”に入れるか、そのスイッチの存在に気付かずに所謂「草食系」の侭でいるかは、基本的には本人の問題であるが、指導者がいるのであれば、「活性化スイッチ」の存在に気付かせるところまでは、若者を導いてやりたいものだ。

 ベゴニアの環境から話が横道にそれたが、ベゴニアの環境への気配りはベゴニアを楽しむ人間の務めであろう。たまたま今年は傷のないベゴニアの写真がとれたことから、思わぬ話題になったが、「シニアと学生の対話会」ではより多くの学生に、「活性化スイッチ」の存在をそれとなく伝えられればと念じている。






            花も葉も傷つき易きベゴニアの

            無傷のすがたを如何にや守らむ


            陽を受けて煌めく花びら白妙の

            素肌に穢れの無きぞ貴し


            ベゴニアの瑞々しくも咲けるかな

            滴るみどり葉 無垢の白花


            観る人の少なき哀しもわが庭に

            ベゴニア無垢に咲けるを告げなむ






「庭石菖・にわせきしょう」

2010-07-12 00:06:45 | 和歌
 
 散歩の途次、「庭石菖」が可憐に咲いていた。

 このブログに草稿を書きこんだまま、聊か日時を経たので、花は夙に小さな種を結んでいるに違いあるまい。或いは小鳥たちの格好な餌になって、彼らの胃袋に収まったかもしれないが・・・。

 草丈は高々10センチ程度で、花の大きさは1円玉の半分程だ。
野にでて遊ぶ子供たちは、何のためらいもなく踏みつけてキャッキャと飛び回るが、そんなのは「当たり前」といった風情で、平然と咲き続けている。

 気が付いてみれば、花の色は白・ピンク・紫などと変化に富んでいるが、それぞれ花の名前まで区別しているのでもないようだ。園芸種として扱えば、凝った名前をつけて商売にするのであろうが、野花としては立派な名前の「庭石菖」で十分だと、世の皆さんは暗黙の了解をしているのであろう。

 野花にしては整った小花ゆえ、ちょっと調べてみたら、明治時代に観賞用として北米から輸入したもの
らしい。 生来の逞しさから野生化したのであろうが、自然の中に置かれてこそ本来の美しさがあって、
踏まれても踏まれても咲き続ける彼女らに、拍手喝さいを送りたいものだ。






            子供らの野を駆け遊ぶ足元に

            群れて咲くかな庭石菖は


            子供らに庭石菖は踏まれるも

            笑み咲く声は「当たり前なの」


            夕暮れの風に吹かれて小刻みに

            揺れて子供へ「さよなら」云うらし






「虫食い? ゼラニウム」

2010-07-10 00:57:51 | 和歌

 「うつろ庵」の庭には、ゼラニウムが一株だけあるが、今年も「虫食い」状の花をつけた。

 五弁の白花は一見、「虫に食われたか?」と見えるが、歴とした替わり咲きの一種だ。
ゼラニウムは品種の数もかなり多いが、この替わり咲きは花屋などでも余り見かけない種類のようだ。
小鉢から路地に下して後は殆ど手も掛けていないが、毎年律儀に花を付けてご挨拶してくれる。

 一般的に鉢植えの草花を路地に植えると、たちまち繁茂して困ることが多いが、このゼラニウムが独り孤高を保っているのは、「うつろ庵」の地味が痩せているからなのであろうか? 紫蘭の繁茂振りからすれば、どうやら地味の問題ではなく、種の特性によるもののようだ。

 一株だけで、花びらを虫に食われたかのような態で咲くのは、「俗世界のことには吾関せず」といった
雰囲気を醸して、何やら孤高を保つ気配を感じさせる。人間社会にも、時にはこの様なご仁を見かける
こともあるので、思わず興味をもった。

 質素な身なりではあるが野暮天にあらず。インテリジェンスを具えていて時流の動向などを把握して
いるのだが、進んで雑談などには加わらない。口数は少ないがピシッと的を得た発言をして、目立つ存在ではないのだが、一目おかれる存在。何やらそんなご仁と相通じるものを、このぜラニウムは感じさせる。
聊か、うがち過ぎの印象論かもしれないが・・・。






            白妙の小花は虫に食われたか

            細き花びら裂けて咲けるは


            仄かにも色ずく蕊はこの花の

            命のいとなみ無言に示しぬ


            華やかに咲き誇るにはあらねども

            どこか気を惹く 気配は何ゆえ






「ヴェルニー公園のバラ苑」 その七

2010-07-08 22:02:22 | 和歌

 横須賀市と鎌倉市のそれぞれで、生涯学習センターでの市民(大学)講座を開設して、今年で何年目になるのだろうか。2004年が最初の開講だったと記憶しているので、指折り数えれば既に七年目を迎えたことになる。

 横須賀から鎌倉へは、これまでは三浦半島を車で横断して往復したが、今年から電車に切り替えた。乗り換えの道すがら「ヴェルニー公園のバラ苑」の存在を知ったのは、誠に僥倖であった。七年目のささやかなご褒美かもしれない。
 
 最終回の鎌倉講座への乗換時間に追われて、バラ達との会話はたった三十分程の短い時間であったが、七回シリーズでご紹介した以上に中味の濃いものであった。急かされる思いの「バラ苑」の訪問で
あったのが、悔やまれるところだ。次回には、時間に追われることなく、ゆったりと訪ねたいものだ。



  右: ブラックティー(日) 
  左: 未確認


 
 「ブラックティー」は名前からも窺えるが、花びらの色に黒味がさした特徴的な薔薇であった。名札に
よれば日本種だという。駆け足でバラ達と挨拶を交わしたが、日本種はこれ一つだったかと思われる。

 海辺のベンチ近くには、スタンド仕立ての「イングリッド・ウェイブル」が満開であった。梅雨空の煙るような遠景を背にして、シャキッとたつ妙齢のご婦人を思わせるバラであった。

 それにしても、海辺の公園でこれ程のバラを堪能させて貰えるとは感激であった。短い時間ではあったが、バラの名前を頼りに歴史を遡り、あるいは人種を越え、薔薇の花からバイオリンの超絶技巧の調べ
まで聴かせて貰えようとは、思いもよらぬ出会いであった。

 旅をすれば新たな発見と愕きと、見知らぬ国の人々との交流などがあって、愉しみは尽きぬものだが、虚庵居士の住む街の「ヴェルニー公園のバラ苑」でも、それと同じ様な出会いを体験できたのは、将に
神様のご褒美というものであろう。




  左: イングリッド・ウェイブル
  右: 未確認



            数多なるバラはそれぞれ語るかな

            その名にとどめる深き想いを

            
            膝を折りバラと視線を交えれば

            香りは吐息か 乙女の薔薇はも


            口つぐむ花にしあれば殊更に

            花の気配は多くを語りぬ


            花びらの色も姿も馥郁と

            薫るも薔薇の籠めにし思いか






「ヴェルニー公園のバラ苑」 その六

2010-07-06 16:33:43 | 和歌

 淡い黄色の「ソリドール」が、ひと際鮮やかであった。

 花数は深紅のバラが圧倒的に多い中で、梅雨のどんよりした空模様の公園のここだけが、光り輝く
かのような存在であった。



  左: ソリドール
  右: スイート・ドリーム(英) 


 殆どのフランス種のバラの中で、数少ない英国種のスイート・ドリームが、石垣に沿って蔓を伸ばし、
小ぶりの花を沢山咲かせていた。

 このバラの花は、縮小写真では定かに判別し難いが、花形に特徴がある。周辺の花びらの形は通常の姿だが、中心ほど複雑に入り組んで、何やら人の心を覗き込むかのように思われる。人は折に触れ事に触れ、様々な事柄を胸に呑みこんで、思慮も判断も、ましてやその感情をも勘案すれば、一筋縄ではない筈だ。そんな心の内を覗いて絵に描けば、このバラの花の姿のようになるのではあるまいか。


            一輪の薔薇は小さな太陽を

            花芯に持つらし輝く姿は


            花びらの小さな剣を手にとりて
            
            胸の想いを何に刻まむ


            蔓薔薇の花の姿にあれやこれ

            こころの内を晒す心地す





  左: マーガレット・メリル


 何時もは中々お目に掛れないヘリコプター空母「ひゅうが」が、こちら側の岸壁に係留されていた。
「ひゅうが」に最も近い「ヴェルニー公園」のベンチには、青年が読書に耽り、公園の隅には白薔薇の
「マーガレット・メリル」が、馥郁とした香りを漂わせていた。

 さる筋の情報では、わが国の「ひゅうが」の存在を中国としては神経を尖らせて注視しているという。
太平洋への海軍の覇権拡張を狙っている彼らにしたら、原子力空母「ジョージワシントン」と共に、軍事力の格差こそあれ、気になる存在には違いあるい。大げさに「戦争と平和」と騒ぎ立てる心算はないが、それぞれがごく当たり前のように存在しているのが、横須賀の、そしてまた日本の現実だ。


            岸壁に繋がれたるにヘリ空母は

            圧しかかかるかな薔薇観るわれに

            
            公園のベンチに書を読む青年の

            目に入らぬらし薔薇も空母も


            在るがまま あるが侭なれ物事は

            立場を超えれば如何にや視るらむ






「ヴェルニー公園のバラ苑」 その五

2010-07-04 18:48:16 | 和歌
 
 横須賀は、原子力空母「ジョージ・ワシントン」の母港であるが、多くの意見と議論は「日米安全保障条約」に集約されるのではなかろうか。

 しかしながら殆どの皆さんは、条約本文に接する機会もなかろうと思われるので、この際チョットだけ
目を通すことをお勧めしたい。(カーソルを太字部分に合わせ、CTRLキーを押しながら左クリックすれば
外務省ホームページ「日米安全保障条約」にリンクされています。)



 上: 原子力空母「ジョージ・ワシントン」
    米海軍公式写真

 左: ゴールドバニー 

 先の鳩山総理は、一国の総理としてこの「日米
安全保障条約」を聊か軽く見過ぎていたのではないかと、多くの国民が懸念し、条約相手国の米国の信頼も損ねた。願わくば後を引き継いだ菅政権は、わが国の安全保障の根源を再確認し、わが国と東アジア、および国際社会の平和実現に向けて、より
現実的な政策を確立して貰いたいものだ。

 「ヴェルニー公園」は湾を挟んで横須賀基地を望む位置にあるが、ここからは残念ながら原子力空母
「ジョージ・ワシントン」は見えない。だが、この公園の近くから「横須賀軍港めぐり」のクルージングツアーが催行され、原子力空母のみならず自衛隊のヘリコプター空母「ひゅうが」なども、かなり近くから観覧できるので、観光スポットにもなっているようだ。




    ジョージ・ワシントン                  フィリップ・ノワレ
    横須賀軍港めぐりにて撮影


            薔薇を観てバラを愛ずるに非ずとは

            変わり者かな虚庵居士とは


            さに非ずゴールドバニーもフィリップも

            基地を語らふ愛しき朋かな

      
            軍港の向かいにあれば殊更に

            バラ咲く苑にものこそ思ほゆ






「ヴェルニー公園のバラ苑」 その四

2010-07-02 15:27:25 | 和歌
 
 「ニコロ・パガニーニ」に捧げられた深紅の薔薇が、「ヴェルニー公園のバラ苑」のなかでもかなり広い芝生を縁取って、植えられていた。



 「ニコロ・パガニーニ」はご存知、イタリア生れの天才ヴァイオリン奏者で、数多くの作曲も残している。虚庵居士は熱狂的な音楽ファンではないが、人間業とも思えぬ超絶技巧の演奏に、素人ながら何遍となく聞き入っては、愕きの世界を彷徨った若い頃のことが想いだされる。

 何時の事であったか、彼のエピソードを読んだことが想いだされた。天使肌の彼は、演奏中に独自の
演奏技法をしばしば編み出し、即興の曲想を得ると何時ものように譜面化して、大切に保管したという。譜面の出版を勧めてもガンとして応じなかったのは、彼独自の演奏を大切にしたがためか、或いは更なる推敲を加えたかったためだったか? 

パガニーニに捧げられた薔薇の存在をしり、彼の演奏を耳に聴きながらカメラに収めたが、ばかちょん
カメラで写したピンボケの薔薇の花では、パガニーニの曲を台無しにしそうな想いに駆られ、敢えて遠景写真にとどめた。朝露のキラメク薔薇、風に揺れて雫がはらりと落ちる瞬間など、パガニーニの演奏や曲に反応する写真が撮れればよいのだが・・・。


            世紀半歳月隔ててバラの名に
            
            その名を残すは ニコロ・パガニーニ


            紅の薔薇写さんと構えれば

            耳鳴りならずパガニーニきく


            編みだした業と調べの尊くば

            秘かに譜面をかき抱くとは















    左右共に ピエール・ド・ロンサール

 蔓バラではあるが、かなりシッカリした蔓を幹にして、ピンクの花びらがズシリと重量感を漂わせて
咲いていた。



            まだ固く閉じたる莟は咲きそめて 

            くれない仄かに色づくバラはも


            うす色のばらの花びら七重八重

            重なる奥に滾る色見ゆ