「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「生垣の雪柳」

2015-03-29 15:26:47 | 和歌

 この時節の「雪柳」は、枝垂れて咲く姿も、小さな花びらが舞い散る様も、それぞれに風情が豊かで詩情が漂う。



 雪柳は本来であれば、嫋やかな細枝を自由奔放に伸ばさせてやりたいものだが、小枝をカットした雪柳を時々見かける。それでも彼女らは、躰を覆う程に白い小花を咲かせるが、そんな姿は何とも気の毒だ。

 住宅街の生垣の一部として植えてある「うつろ庵」では、道行く人々のお邪魔にならぬ程度に留めざるを得ぬのが実情だ。細枝の伸びやかさを極力損なわぬ様に気遣いした結果、ご覧の様に、精一杯咲いて愉しませて呉れた。珊瑚樹の生垣の高さが二メートル余、雪柳は更にそれを超えるので、かなりの見応えも備わった。

 雪柳の別名は、コゴメヤナギ(小米柳)とも呼ぶらしい。
花の姿が小米を思わせることから付けられた名前であろう。小枝に雪が積もった風情を思わせるところから、「雪柳」と呼ばれるが、何れを選ぶかはそれぞれの好みにお任せしたい。


           そよ吹けば嫋やかに揺れる雪柳

           「おいで おいで」の手招きならずや


           枝えだに枝垂れ咲くかも白妙の

           小花は雪かと見紛うばかりに


           道を行く人々のお邪魔せぬ様に

           嫋やかなるかな雪柳の小枝は


           白妙の雪柳の花 舞い散るに

           幽かに流れて そよ風観るかも






「喇叭水仙」

2015-03-28 14:01:24 | 和歌

 歳の瀬に咲く水仙は、たとえ花数が少なくとも、正月を迎える清新な雰囲気を湛えて、目を瞠る。以来、様々な水仙が咲きつづけるが、お彼岸すぎの春の陽をうけて競って咲く「喇叭水仙」は、これまた見応えがある。



 水仙はごくポピュラーで代わり映えしないが、狭い「うつろ庵」の庭では、七つ八つの開花が、待ち遠しく感じられるから不思議だ。

 「うつろ庵」の花壇は、もっぱら虚庵夫人にお任せだが、彼女は様々な草花を混植してあるので、日の経つにつれて、それぞれの花がバトンタッチして咲き続けるから、誠に愉快な花壇だ。

 草丈の短いムスカリとヒヤシンスに次いで、現在は喇叭水仙が主役だ。

 花壇の彼方此方には、紫蘭の莟がにょきにょきと立ち上がり、既に色付いているので、彼女らの出番も間もないことだろう。

 

           群れて咲くラッパ水仙 南向き

           笑いさざめく声を聞かばや


           そよ風に笑みつつ顔を寄せ合うは

           乙女らならずや語らふしぐさは


           わぎもこと日毎に語りぬ水仙の

           莟の膨らみ 待つとは愉しも


           七八輪の喇叭水仙 そなた達が

           庵の主役ぞ 狭き花壇の






「ムスカリとヒヤシンス」

2015-03-26 16:34:07 | 和歌

 テラスの足元に、ムスカリとヒヤシンスが咲いた。草丈の低いムスカリとヒヤシンスが咲き終わると、次には水仙と紫蘭が待ち受けている、「うつろ庵」の花壇だ。



 ご近所の飼い猫たちが花壇を掘って困るので、篠竹を疎らに敷いて猫予防にした。
お見苦しいがご勘弁願いたい。

 ムスカリの花が咲いて間もなくは、細葉はまだ短く本数も少なくて控えめだが、花茎の足元の花房が次第に咲いて、花の房数が増える頃になると、細葉の数も長さも忽ちに繁茂して、篠竹が見えなくなる。そんな頃のムスカリの細葉は、しどけない姿に変貌するが、群れ咲く房花との対比が、何とも微笑ましい。年毎にムスカリの株数が増えるのは、この花壇がお気に召したということであろうか。 

 ムスカリの花房の隣で、ヒヤシンスが殆ど同じ時期に咲き初めて、かなり長い日数にわたって咲き続け、愉しませてくれる。花の寿命を長く保てるのは、葉も花も肉厚なのがその秘密かなと想像するのだが・・・。
花の寿命とエネルギー保存の法則は、関係ないのだろうか?


           ムスカリの壺花の房かかげるは

           春の祭りの花灯篭か


           咲き初めし頃のムスカリ控えめな

           細葉の長さもその数もまた


           房花の数増す頃のしどけなき

           細葉の様は「尽す」姿か


           何時しかにムスカリの数いや増すは

           この花園をお気に召すかも


           些かに草丈高く共に咲く

           ヒヤシンスかな兄貴の気分か 






「クリスマスローズ」

2015-03-22 14:10:25 | 和歌

 クリスマスローズは読んで名前の通り、年末のクリスマスの頃に咲き初めて、入学式の頃まで咲き続けるので、皆さんに人気の草花だ。「うつろ庵」にも虚庵夫人が鉢植えにしてあるので、たっぷりと愉しませて貰っている。



 この花は、折角長いこと咲き続けるにも拘わらず、どうしたことか俯いて咲くので、路地植えでは花の表情を観るのに難儀するのだ。そこで虚庵夫人は鉢植えにして、
時には鉢ごとスタンドに持ち上げて、クリスマスローズの花とお話できるよう工夫した。

 花の位置が40~50センチほど高くなって、蕊と花びらの表情も見えるようになると、不思議なことに親近感も生まれて、思わず花の傍に寄り添ってあれこれと観察し、無言の会話が交わされることになる。

 老夫妻にとっては、庭先のごく些細なことに、尽きぬ歓びを頂く毎日である。


           何故ならむ俯いて咲くこの花は

           恥じらふ素振りの クリスマスローズよ


           木漏れ日のスポットライトに頬染めて

           私が主役? 乙女の君はも


           どの鉢の花も同じと思ひしに

           しべの姿も 数も違うに


           庭に咲くクリスマスローズは家族だと

           受け入れつつも なに知らぬとは


           改めてクリスマスローズの花達と

           言葉を交わし詫びるじじかな


           ささやかな庭にはあれどもあまたなる

           歓び頂くじじとばばかな






「珊瑚樹の若芽」

2015-03-20 21:06:48 | 和歌

 「うつろ庵」の敷地は、精力旺盛な「珊瑚樹」の生垣に三方が囲まれていることは度々ご紹介したが、春の到来を迎えて、夥しい数の若芽が芽吹いた。
 


 若芽が3・4センチほど伸びてから、小鳥に啄ばまれた先端の痕跡が露わになった。 青葉が全くない早春には、
珊瑚樹の新芽が小鳥たちの貴重な食材だったことが判明した。寒さが厳しく、食糧の乏しい早春には、ごく小さな新芽とは云え、小鳥達の命を支えたに違いあるまい。

 若芽の先端が欠けているのは、珊瑚樹と小鳥たちの支え合いの見事な痕跡だ。
珊瑚樹の新芽が小鳥達の命を支えた、誇るべき勲章だ。 

 枝の先々に若芽が萌え立つ様は、春の到来を告げる貴重な景色だ。
それにしてもこの若芽が更に半月から一ヶ月程もすれば、小葉の若芽は、隣に写っている十センチ程の大葉に成長するのをご想像あれ。
しかも一つの若芽から、十数枚もの大きな緑葉が生い茂れば、「うつろ庵」は鬱蒼とした森に変身することになる。

 かつてはそんな枝葉を夏になって剪定して、何十束もの生ごみを生産した。何年かの苦い経験を踏まえて、昨今では虚庵居士流の解決策を編み出した。それは、緑の枝葉に成長する前の「若芽欠き」だ。写真の若芽であれば、素手でも容易に芽欠きが出来るので、半日ほどの安易な作業で生垣の手入れは完了する。 数週間後の、虫予防の消毒は欠かせないが ・ ・ ・。


           生垣の珊瑚樹若芽の 芽生えかな 

           春到来をこの目で確かめ  


           珊瑚樹の新芽は日毎に伸び立ちて

           小枝の先々活気付くかな


           伸び立ちし若芽の先の疵痕は

           ひもじき小鳥ら啄ばむ名残りか


           小鳥らが啄ばみ命を繋ぎしは

           無言で支えた珊瑚樹なるかな


           小鳥らの命を繋ぎし珊瑚樹の

           若芽を欠きつつ ゴメンねと詫びぬ






「公園の赤オキザリス」

2015-03-16 23:37:00 | 和歌

 近くの公園の片隅に、「赤オキザリス」の花が可憐に咲いていた。
樹の下やツツジの植え込み近くまで、子供達は足を踏み入れて遊んでいるが、片隅の「赤オキザリス」の花は踏まれずに、無疵で咲いていた。



 住宅街の中ほどのかなり広い公園だが、子供達は元気溌剌と飛び回り、或いは「かくれんぼ」などで思いもよらぬ処まで足を踏み入れるので、公園の片隅で、無疵の野草の花との出会いは信じられぬことだった。

 しかしながら目ざとい子供達ゆえ、「赤オキザリス」の花の存在には、以前から気付いていたに違いない。公園の片隅とは云え、そっと大切にして来たであろう子供達の気配りに思ひがおよび、痺れる思ひであった。


           子供らの姿を目で追い声聞けば

           じじも一緒に遊ぶ心地す


           公園の広場も植木の陰までも

           総てが子らの遊びの場なり 


           公園の片隅に咲くオキザリスの

           紅小花が無疵のままとは


           子供らの目敏い性を察するに

           紅小花を愛しむ心か


           片隅に紅に咲くオキザリスを 

           傷つけまいとの 子供ごころか 






「お隣の白木蓮」

2015-03-12 14:34:31 | 和歌

 お隣の白木蓮が、将に満開を迎えようとしている。
梢の丁度真上辺りを太い電話線が横切って、風情を邪魔しているようにも思えるが、住宅街の花木にとってはごく当たり前の環境で、何の屈託も無い姿に救われる。



 下から見上げると、どの蕾も精一杯に膨らんで、将に満開に備えているかのようだ。面白いことに、蕾の南側のお腹を膨らませて、頭を北側に反らせる姿は、号令を掛けたかとも思えるように揃っているではないか。南側からの陽光が、蕾の南側の発育を促し、日陰になる北側の発育が遅れる結果であろうか。

 白木蓮の花は、開花するとかなり大きな花びらを拡げる。この時節は、春何番かの風が吹き荒れるので、純白の花弁に疵が付き、忽ち薄茶色に変色するのが気の毒だ。開花直後の純白の姿が、彼女らにとっては最も晴れやかの数日なのだ。

 白木蓮の花咲く季節には、春の嵐には控えて貰いたいものだが、その様な気候が好みで咲き乱れる白木蓮ゆえに、虚庵居士はそんな無理な願いは捨てて、花弁の散り敷く様をも愉しませて貰うことにしている。


           見上げれば白木蓮咲く春日かな 

           葉の一つだに無くて咲くとは


           蕾らは頬寄せ合いてささやくや

           開花の時を相談するなれ


           誰からの号令ならむや蕾らの

           ふんぞり返る姿勢に微笑む


           純白の白木蓮の花びらを

           な疵つけそ 春の嵐よ


           白妙の木蓮の花見上げつつ

           春日に華やぐ君と語りぬ






「ご近所の河津さくら」

2015-03-10 14:22:50 | 和歌

 ご近所の河津さくらが満開だ。
まだ大木には程遠いが、根元に立ち梢を見上げてカメラに収めた。
 


 住宅街のことゆえ、普通のアングルで写そうとすれば、ベランダの洗濯物などが視野に入って、些か河津桜にはお気の毒だ。ファインダーを覗いてあれこれ思案したが、生活臭のない梢の姿が最も清純だった。

 ここの桜とほぼ同じ時期に、「うつろ庵」にも河津さくらを植樹した。
数年の後には珊瑚樹の生垣を乗り越えて、四つ角に見事な花を咲かせて、道行く皆さんにもお褒め頂いた。当時の記事「満開の河津桜」をご紹介する。

 だが残念ながら、根元の樹皮に害虫のコスカシバが孔をあけ、半年足らずの後に枯れてしまった。幹の根元に樹液が流れ出していたが、よもや河津さくらを枯らす程の被害になろうとは思いも及ばず、初期の段階で害虫駆除をしなかったことが、まことに悔やまれる。


           ご近所の河津さくらにカメラ向け 

           覗けばひらひら洗濯物かな


           清純な河津さくらを写さむと

           梢の姿に思ひを託しぬ


           あれやこれ河津さくらと語りつつ

           枯れにし我が家の桜を偲びぬ


           「うつろ庵」の河津さくらは いとおしき

           樹液は涙か こころ知らずも


           如月に綻ぶ一輪 満開の

           弥生のさくらも 瞼に残りぬ






「ヒマラヤ雪の下」

2015-03-08 21:22:58 | 和歌

  「うつろ庵」の花壇の片隅で、「ヒマラヤ雪の下」の花が目を惹く存在だ。
 


 この花は名前が告げるように、ヒマラヤ山脈(アフガニスタン、パキスタン~ネパール~チベット)周辺に広く分布する花のようだ。 どの様な経路を経て、「うつろ庵」に嫁いできたのだろうか? 我が娘がニューヨークに嫁いでいることと思いが重なり、「ヒマラヤ雪の下」がひと際いとしく思われる存在だ。

 「雪の下」の名前にみられるように、この花はどちらかと云えば半日陰の環境が好みらしい。 近くの遊歩道の石垣にも所々で見かけるが、陽当りの良い株よりは半日陰の株の方が、開花も花付も優れている様だ。 生まれ育った故郷の自然環境が、身についているのであろうか。

 陽当りの良い「うつろ庵」の花壇は、本来ならば彼女の好みの環境ではないのだろうが、これ程に精一杯に咲く彼女のけな気な姿には、熱いものが感じられる。


           いや遠きヒマラヤ山が 故郷か 

           そなたを育む自然を偲びぬ


           山深き故郷偲びてヒマラヤの

           雪の下の花 我が家に咲くとは


           どの様な経路を辿るやヒマラヤの

           村里離れてここに嫁ぐは


           庭に咲くヒマラヤ雪の下 眺めつつ

           遠くに嫁ぎし娘を思ひぬ


           精一杯 見事な花を咲かせれば

           胸熱きかな ヒマラヤ雪の下は






「庭先の福寿草」

2015-03-04 21:19:54 | 和歌

 庭先の福寿草が、半月ほど前にむっくりと頭をもたげた。開花はまだまだ先だろうと油断していたが、暖かな日和で一気に開花して、目を瞠った。

 

 春の到来を告げる福寿草だ。例年であれば開花が待ちきれずに、蕾が綻びかければ早速カメラを構えて写したものだった。 だが、今年は年末年始もその後も、多くの 
お仲間とのメール交換や会議などに追われ、気が付けば庭先の福寿草はいつの間にか満開を迎えていた。

 福寿草の開花は、緑と茶色が入り混じった萼が開き、中から透き通るような黄色の花弁が見える、あの胸のときめきを味わえなかったのは残念だ。

 だが、開ききらない福寿草の初々しい姿も、また花びらを一杯に開いて初春の陽光を浴びる福寿草も、それぞれに春の悦びを精一杯に語りかけているではないか。 福寿草に寄り添って、腰を下ろしたまま暫し言葉を交わす虚庵居士であった。


           むっくりと頭をもたげた福寿草の

           開花は未だよと 油断を惜しみぬ


           何時もなら春到来を福寿草と

           語るに今年は メールに追われぬ


           気が付けば春陽を浴びて満開の

           福寿草の花 「待っていたのよ!」


           腰おろし 福寿草の花に寄り添いて

           花それぞれと 語らひ重ねつ


           それぞれの福寿草の花は 姿替え

           初春の悦び 語りて已まずも






「散歩道の木瓜」

2015-03-02 20:55:26 | 和歌

  散歩道でふと余所見をしたら、「木瓜・ぼけ」の花が目にとまった。

 

 木瓜の花は、師走を迎える頃から咲き初め、春先までの長い期間に亘って咲き続け、ときには果実まで付けて愉しませてくれる優れものだ。

 木瓜の花は、色調に微妙な彩り変化が観られるので、それぞれが全くの別種かと疑うばかりだ。一株の木瓜でありながら、場合によっては白花・淡い桃色・紅花などが入り混じって咲く風情には、目を瞠るばかりだ。

 散歩の途上で、虚庵夫人は住み人にお願いして、花を付けたままの木瓜の一枝を頂戴して持ち帰り、庭先に挿し木した。
以来、挿し木の「木瓜の一枝」を、朝夕いとしく見守る虚庵夫妻だ。

 虚庵居士の郷里、信州・諏訪の山野には、野木瓜の小さな果実が夏から秋口にかけて実った。ゴルフボール程の大きさの果実だが、土地の皆さんは「地梨」と呼び、酸味の強い地梨を塩漬けにして楽しむ食文化があった。

 昨今の住宅街に観る木瓜の果実は、握り拳ほどの大きさだが、果肉は余りに固く、渋みと酸味が厳しいので、殆どが放置されたまま朽ち果てるのが現実だ。
花梨の果実も同様な扱いだが、調理の工夫次第で木瓜も花梨の果実も、素晴らしい味覚に生まれ変わるのをご存知ないのは、木瓜や花梨に申し訳ない限りだ。

 木瓜の花に見惚れながら、やがて実を結ぶかもしれぬ初夏に、思ひを馳せる虚庵居士であった。


           歩み来てふと余所見すれば木瓜の花の

           ふくよかに咲く 初春なるかな


           立ち止まり木瓜に寄り添い語らへば

           彩り豊かな花に魅入りぬ


           ことによれば木瓜の果実も実らむか

           夏の初めに また訪ね来む


           故郷の野木瓜の地梨が偲ばるる

           そのままカジッタ あの酸っぱさを


           故郷の人々地梨を塩で漬けて

           酸味を味わう知恵を偲びぬ