「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「黄昏の凌霄花」

2013-08-31 10:55:09 | 和歌

 空き家になったお宅の庭から、「凌霄花・のうぜんかずら」の蔓が柵を越えて垂れ下がり、この一株だけが、家主に代って空き家と庭を懸命に守っているかに見えた。

 黄昏に、「のうぜんかずら」の花が雑草に紛れて咲く姿には「もののあわれ」が感じられるが、街ゆく人々は凌霄花には目も遣らず、厳しい残暑に汗を拭いつつ、疲れた足取りで通り過ぎて行った。

 海岸の椰子並木のプロムナードが虚庵夫妻の散歩コースだが、時には隣町の建売住宅街にも足を延ばすこともある。昨今はそんな住宅街にも、空き家が目立つようになった。働き盛りの世代に無理して購入した建売住宅も、リタイヤした老夫妻や、更には伴侶を無くした独居老人には、重荷になって手放す向きも多く見られるようだ。

 住宅も庭園も、手入れが途絶えたお住まいは瞬く間に荒れて、うら寂しい情景を晒すことになる。ご近所との濃密なお付き合いを重ねたお宅では、隣人が手を貸して雑草を引抜いてあげた等の、奇特なお話も耳にしたこともあるが、昨今ではそんなご近所付き合いは絶えつつあるようだ。

 夕闇迫る帰路は、凌霄花を長歌に詠もうかしらむ、反歌も添えようか等とあれこれ思いを巡らせつつ、凌霄花に思ひを寄せる虚庵居士であった。

 



           黄昏に

           のうぜんかずらは朧かな

           空き家の庭の柵越えに

           垂れにし蔓に君みるや

             姿に滲む もののあわれを 


           暮れゆくに

           草ぐさ庭木も供なれど

           頼りにならぬと覚ゆるか

           ただ一株は柑子色に

             のうぜんかずらは 揺れて咲くかな


           夕闇に

           主に代わる心なれや

           空き家と庭を目にしつつ

           守るこころを誰ぞ知る

             のうぜんかずらは ゆれてやまずも


           住み人の去りにし庭はうら哀し

           凌霄花は独り咲くかも






「玄関の楓」

2013-08-29 00:29:19 | 和歌

 玄関の出窓に朝日が差し込んで、楓は戯れている風情だった。

 この楓は、信州・蓼科高原に遊んだ折に、ロッジの管理人さんから頂戴したものだ。軽石にごく小さな凹みを穿ち、楓の新芽をそっと植えて、水苔で覆っただけの手作り盆栽だ。頂いた時には、十センチ程の背丈であったが、あれから何年を経たであろうか、三倍余の背丈に成長して、無言ではあるが朝晩のご挨拶をしてくれる律儀者だ。

 清涼な高原の気候と、横須賀の住宅地では環境が余りにも異なるので、気候の変化に耐えられるか否かが心配であった。ロッジの管理人の手ほどきでは、根元の水気に気を配るだけで十分だ。できれば水盆に水を張り、その中に軽石ごと据えれば、水気の心配はご無用、とのことであった。「うつろ庵」には水盆などという粋な器は無いので、古陶器の大鉢を楓専用に充てた。

 朝陽が差し込むだけで、日中の陽ざしは遮られる玄関の出窓が、蓼科の環境に最も近いのではとの気配りであったが、どうやら楓もお気に召して頂けたようだ。気が付けば、十年にもなろうかという歳月もあっと云う間であった。朝日に透ける楓の葉が、様々なことを語りかけている様に思われた ・ ・ ・。


 


           玄関の出窓にさしこむ朝の陽に

           もみじ葉透けて戯れ遊ぶや

 

           蓼科の木漏れ日偲ぶやカーテンを

           透かす朝日にもみじ葉かざして

 

           水苔と共に永らふ幾とせぞ

           水を湛えた大鉢に坐して

 

           朝日さす楓の鉢に寄り添えば

           透けるもみじ葉多くを語りぬ

 

 


「マンデヴィラ」

2013-08-27 00:08:53 | 和歌

 ご近所の門前に、何時も咲き続ける蔓花だ。

 白・真紅・ピンクなど次々に咲き続けている、云わば周年開花の優れものだ。
草花の様に、花が散った後に萎れたり枯れたり等、淋しい思いをさせぬ処も中々だ。
このお宅の、手入れの良さもあるのだろうが ・ ・ ・。

 

 家人に花の名前を伺ったら「マンデヴィラ」、別名を「ディプラデニア」と即答された。原産地はブラジルなど、南米産だと云う。門前の鉢に飾って居られるだけあって、流石であった。よそ様の門前或いは庭園の花は、出来る限りカメラに収めないように努めているが、ご近所の誼でお許し頂き、暫しの立ち話をも楽しませて頂いた。

 


           おさな児が手足をひろげ活発に

           遊ぶ姿を花に観るかな


           ご近所のおさな児の声 朝な夕な

           園児の送迎 幼稚園バスに


           毎朝の ”はいご一緒に”の ご挨拶は

           ”みなさんおはよう ございま~~す”


           子供らを迎えた後の門前に

           今日も咲くかな マンデヴィラの花は






「黄色のゴーヤ」

2013-08-25 00:57:10 | 和歌

 生垣の根元に置いた「プランターのゴーヤ」は、めざましい成長を続けていたが、数日の間に鮮やかな黄色に変色した。

 

 昨年は、図らずも大苦瓜を収穫したので、その種を蒔いた事情などを「プランターのゴーヤ」にご紹介した。あれからひと月も経たないが、毎朝・毎夕の水遣りに応えて、苦瓜の成長には目を瞠った。

 ところが、昨年の苦瓜のおよそ半分ほどの大きさに育ったところで、緑の苦瓜に変化が現れた。イボイボの苦瓜の緑が、何やら急に黄緑色に変色し、それが写真にてご覧頂けるような鮮やかな黄色に変わったのだ。

 緑の苦瓜の変身ぶりは、虚庵夫妻にとっては愕きであった。
ゴーヤに詳しい方にご相談する前に、インターネットのお世話になった。最初の情報は、「水のやり過ぎ」は苦瓜の完熟を招くとあった。完熟苦瓜は鮮やかな黄色に変色して、苦みが若干少なくなるが、独特の旨味が増すので「捨てずに食べよ」との解説だった。

 念のため更に調べたら、肥料不足や土壌の通気性なども関連するようだ。 「プランターのゴーヤ」は、何れの条件も当てはまるのかもしれない。


           朝夕の水遣りに応えてめざましい

           日々の成長 苦瓜いとしき


           図らずも緑の苦瓜黄緑に

           色変え初めにし何を語るや


           鮮やかな黄色に色変えじじばばは

           愕くばかりぞ蔓のゴーヤは


           緑なす生垣の葉に鮮やかな

           黄色の苦瓜の こころを偲びぬ


           朝夕の水遣りに応えて熟すらし

           身の丈まだしも 心いじらし


           ごく細き蔓に堪えにし苦瓜と

           あまたの語らひ交わす今日かも







「アメリカ犬ほうずき」

2013-08-23 00:02:16 | 和歌

 ご近所にお住いだった老夫妻がお亡くなりになって、数年があっという間に過ぎた。後継者のご子息は同居していなかったので、お住まいは横須賀基地の士官向けに賃貸契約をして来られたが、新築して再び同様の契約を継続することにしたようだ。より良い契約条件を目指して、日本家屋を米国人好みの仕様に切り替え、お盆休も無しで急ピッチの建築が進行中だ。

 

 どの様な新築家屋になるものなのか興味津々だが、そんな虚庵居士の思いをせせら笑うかのように、建築現場の空きスペースには何時の間にか「アメリカ犬ほうずき」が大きくなっていた。花の大きさは五ミリ程度の、ごく小さな白花を咲かせて、よく見れば、既に緑色の液果をも付けていた。

 「アメリカ犬ほうずき」の花は、目を凝らして見れば「悪茄子」の花によく似ているが、花びらは若干細く、悪茄子の液果のヘタには剛毛が生えていたとの記憶だ。
「アメリカ犬ほうずき」の液果は真ん丸で、蔕には剛毛など見当たらない。 液果はやがて濃い紫色を帯びて、その後は黒色に変色する筈だ。

 自然の世界は洋の東西を問わず、様々な草花が思いもかけない伝搬をしているが、ここでは、新築工事の施主の思いを察知して、何処からか「アメリカ犬ほうずき」が一歩先に腰を下ろしたようだ。

 かつて「うつろ庵」のお隣にも、若い士官のご夫妻が住んで、細やかなプレゼントの交換や笑顔のご挨拶が印象的であった。
新築の家屋には、どの様な米軍士官の家族が住むことになるのであろうか? 
ご近所とのお付き合いも、気さくな交流を重ねて欲しいものだ。













           同世代のご夫妻つとに身罷られ

           住まいの賃貸いくたび替わるや


           基地近くば米人好みの住宅に

           衣替えとか新築工事は


           ほど近きお宅の事情は分からぬも

           新築貸家に違和感おぼえぬ


           願わくば国籍・世代の枠を超え

           人と人とのふれ合い望みぬ


           住み人の露払いなれ野の花の

           犬ほうずきの ご挨拶かな






「黄花黒花」

2013-08-21 00:02:25 | 和歌

 散歩の途上で奇怪な花壇に出合った。「黄花黒花」を組み合わせた花壇だ。
マリーゴールドの黄花と、ペチュニアの「真黒」な花がコンビになって咲いていた。

 遠くから見たらマリーゴールドの黄花だけが目だって、隣には花を付けていない株が交差して見えた。近づくにつれて、花を付けていない株には、意外にも真黒な花が咲いている様だ。「アレレ???」と訝りつつ、更に近づいてよく見れば、ペチュニアの株には「真黒」な花が咲いているではないか!!

 真黒な花は、紛れもないペチュニアの花の姿だ。葉の特徴もペチュニアそのものだが、普段見かける彩り豊かな花に代って、真黒な花は光線によっては、ビロードの様な光沢を湛えて咲いていた。それらの幾つかは、隣のマリーゴールドの花から貰ったのだろうか、黄色の筋が三本だけ入った花も、数輪見かけた。

 それに付けても、人間は変わったことを試みるものだ。
赤やピンクなどの彩り豊かなペチュニアに、真黒な花を咲かせるとは ・ ・ ・。
チューリップやクリスマスローズ等にも、真黒な花の品種もあるようだ。交配や新品種の開発に熱心なご仁には、黒花の創生は堪らない挑戦であろうが、花を楽しみ、花を愛でる立場の虚庵居士としては、黒花に代えて心躍る花の開発に、情熱を燃やして欲しいものだ。新品種の開発に情念を燃やすご仁に、発想の転換を望むのは、無理と云うものだろうが ・ ・ ・。

  


           花無きと見えにし株には何とまあ

           近くで見れば黒き花咲く


           お隣の黄花と黒花対をなして

           意表をつかれぬここの花壇に


           ペチュニアの真黒な花はビロードか

           光りの綾なす花弁に見惚れぬ


           鮮やかな彩りの花に異をとなえ

           真黒な花を咲かせるこころは


           黒花に代えて新たな開発を !

           花観る者の悦びを糧に







「門扉の風船蔓」

2013-08-19 00:13:05 | 和歌

 この頃の気温の上昇は、常軌を逸しているようだ。
最高気温は気象庁の観測が始まって以来の、41度にも達したとの報道だ。
横須賀は海風に恵まれるのでかなり凌ぎやすいが、それでも「うつろ庵」の原始的な寒暖計では、これまでに経験したことのない、最高気温34度であった。

 暑さに負けぬためにも、毎日の散歩を極力続ける虚庵夫妻であるが、昨今の暑さでは日中の散歩等は及びもつかない。
夕涼みを兼ねて、ミニ散歩で我慢するこの頃だが、それでも帰宅すれば全身汗まみれだ。

 ミニ散歩の途上で、門扉に絡みついた「風船蔓」に出合った。昨今の建売住宅などではお目に掛れぬ、コンクリート門柱に鋼鉄の門扉の、時代がかった大層な門であったが、それに比べれば「風船蔓」は如何にも頼りなげに見えた。

 しかしながら、この家の主は「風船蔓」に門扉を占領させて、ご家族の出入りは勝手口風の枝折戸で我慢している気配であった。嘗て、「朝顔に釣瓶とられて貰い水」との句が人口に膾炙したが、このお宅の情景は将にそれを地で行くかに見えた。

 


           朝顔のひそみに倣うや鋼鉄の

           門扉に絡む風船蔓は


           大層な門柱・門扉に絡ませて

           風船蔓を愉しむ君かな


           鋼鉄の門扉の脇のプランターに

           住み人の思いを垣間見るかも


           絡みつく風船蔓に託す思ひの

           せめての風情を門扉に観るかな


           近寄れば風船蔓は風に揺れて

           話しかけるや道行く爺にも






「うつろ庵の血赤珊瑚」

2013-08-17 00:15:13 | 和歌

 「うつろ庵」の珊瑚樹の実が真夏の炎熱を享けて、「血赤珊瑚」の実房に変身した。

 「うつろ庵」は何の変哲もない寓居で、雅号の「虚庵」を捩って「うつろ庵」と称してはいるが、生垣の「血赤珊瑚」の実房だけが自慢なのだ。

 ご存知の向きも多いと思われるが、珊瑚樹は元来が樹勢の旺盛な庭木ゆえ、生垣には不向きなのだ。手入れを怠れば、忽ち樹高も枝も好き放題に徒長するので、殊に、春から初夏にかけてはかなり頻繁な剪定作業が必要だ。

 加えて、珊瑚樹の分厚い葉は虫たちの大好物で、彼等にとっては恰好の食糧補給基地だ。従って、害虫予防の消毒も欠かせない。見るも無残に害虫に食い荒らされた珊瑚樹をよく見かけるが、自然界ではそれが当たり前の持ちつ持たれつの関係に違いあるまい。しかしながら住宅地の生垣としては、そんな無残な姿は許されまい。そんなこんなで、珊瑚樹の生垣を当り前の姿に保つのは、並大抵ではないのだ。

 春には珊瑚花が咲くが、不思議なことに剪定の行き届いた生垣では、剪定されずに残った細い枝先にのみ、花房をつける。と云うことは、生垣の枝々の中ほどに籠って花が咲くことになる。そこで、細い枝を撓ませて、花房を陽当りの良い環境に移動してやる気配りが求められるのだ。

 珊瑚樹とのそんな遣り取りの結果を、
「うつろ庵の珊瑚花」にご紹介した。それから二ヶ月を経て、虚庵居士自慢の「血赤珊瑚」の実房をお披露目する次第だ。本物の血赤珊瑚であれば、一房百万両は下るまい。この時期だけは、虚庵夫妻は大金持ちの気分でご満悦だ。

 


           何も無き庵を囲む生垣を

           血赤珊瑚の実房飾りぬ


           四十度 炎熱の地をおもんぱかり

           暑中見舞いに珊瑚樹写しぬ


           生垣の緑葉透かす涼風は

           真夏の恵みぞ海風なるらむ


           緑葉に血赤珊瑚の実房かな

           炎暑の真夏に彩り清しき




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「姫女苑・ひめじょおん」

2013-08-15 06:41:20 | 和歌

 道端でよく見かける、「姫女苑・ひめじょおん」をご紹介したい。
「赤詰草・あかつめぐさ」や「犬麦・いぬむぎ」と絡み合って、草叢に咲いていた。 

 5月の末に、
「春女苑・はるじょおん」をご紹介した際に、よく似た「姫女苑」にも「何れご登場願いたい」と、半ば予告してあったが、やっとお約束を果たすことになった。

 「春女苑」も「姫女苑」も野の花で、草丈も花のイメージもごく似ているので、よーく比較しないと区別がつき難い。

 二つの花を見比べれば、違いがかなり明白になる。細い花弁が糸状に重なり、数も多いのが「春女苑」、「姫女苑」は細い花弁を綺麗に並べたイメージだ。また「春女苑」の莟は項垂れるが、「姫女苑」の莟は頭を上げたまま開花する。

 春に咲くのが「春女苑」、遅く咲き始めて秋口まで咲き続けるのが「姫女苑」だ。従って、真夏に野原で咲いているのはまず「姫女苑」だと思ってよかろう。 何れにせよ、野に群れて咲くので「女苑」の名は、彼女らに相応しいネーミングだ。
たかが野草の名前ではあるが、先人たちのセンスには感服だ。

 夕涼みの散歩ながらに、草叢の「姫女苑」と共に涼風を楽しみたいものだ。

 


           野に来ればあまたの草ぐさ絡み合い

           凭れて語るや姫女苑の花と


           犬麦は穂先を隣の姫女苑に

           凭れかかりて貴女が頼りよと


           草叢に乙女ら語るや群立ちて

           華やぐ声を聞く心地する


           乙女らを仰ぎ見るらし詰草は

           仲間になりたや つま先立ちして


           姫女苑の花咲く野辺の夕暮れは

           白花おぼろに名残の揺れかな







「うつろ庵の瑠璃柳」

2013-08-13 00:19:19 | 和歌

 「うつろ庵」の玄関先の鉢に、珍しい花が咲いた。

 門被り松の下には、蘇鉄の大鉢をはじめ二・三の鉢が気侭に置かれているが、その内の一つに植えた記憶が無い草花が、一メートル程も背丈を伸ばして、夏の到来に合わせて花を付けた。

 

 玄関先の姫榊の植え込みを背にして、可憐な薄瑠璃色の花を付けて、虚庵夫妻は感激であった。蕊の色も姿も、どこか茄子を思わせるが、背丈も花の風情も何となく外国風だ。花が咲いてから、様々な花図鑑のお世話になって調べ、諦めようかと云う時になって、「瑠璃柳」又の名を「琉球柳」と判明した。

 原産地はブラジル、我が国に初めて根付いたのは琉球だったようだ。薄い瑠璃色の花、柳の葉に似た風情などから、和名が付けられたようだ。

 それにしても、ブラジル原産の花が琉球に初めて根を下ろし、「うつろ庵」の鉢に納るまでに、どの様な経路と物語があったのだろうか? 興味津々だ。


 


           何時からか見慣れぬ草花根をおろし

           気品を湛えて背丈を伸ばしぬ


           八月の声聞く頃には稚けなき

           つぼみと期待がふくらむ日々かな


           微かにも朝風うけて綻びぬ

           うす瑠璃色の花との出会いは


           乙女ごは海の彼方ゆ遥けくも

           琉球を経て我が家に嫁ぎぬ


           ゆたにあれそなたの旅路はこの庵に

           寛ぎなされ心ゆくまで







「向日葵づくし」

2013-08-11 00:33:15 | 和歌

 ご近所のお宅のフラワーベルトは、今まさに「向日葵づくし」だ。

 昨日の夕暮れ時に散歩に出掛けた直後、「向日葵づくし」に出合って感激した。
向日葵にもこれほど多様な花があるとは、全く認識していなかった。

 

 このお宅の「おばあちゃま」は、夙に傘寿を超えておられるだろうが大変お元気で、草花の手入れは専ら老女のお楽しみだ。水遣り中の「おばあちゃま」にお会いしたので、気軽にご挨拶した。 「ご精が出ますね! 明日にでも向日葵の写真を撮らせて頂きます」 と。

 

 TVニュースでは、全国的な猛暑の報道が繰り返された。
驚いたことに、四十度を超えた地方があると云う。 海岸に沿った横須賀はほどよい海風に恵まれて、真夏でも熱暑にならぬ地形だが、今日の猛暑には驚いた。
昼前に、何と三十四度にもなった。

 

 昨日お願いした写真を撮りに、半袖・短パン・麦わら帽・サンダルという軽装で出かけた。わざわざ「おばあちゃま」に声を掛けるのは、却ってご迷惑だろうと勝手に判断して、ためつ眇めつしながら夢中で写していたら、背後から声が掛った。

 「真夏のひまわりは、いいわね! ご丹精したお花だから ・ ・ ・ 」
日傘をさした見知らぬ老夫人が、にこやかにほほ笑んでいた。

 

 真夏の太陽と「ひまわり」。
画家ゴッホの作品が瞼に浮かんだ。世界中の様々な環境の中で、それぞれの皆さんが「ヒマワリ」を楽しんでいるに違いない。様々な「向日葵」の花と向き合い、カメラに写しつつ、ここのお宅の「おばあちゃま」の思いは、ゴッホの思いに繋がるのかもと、独り頷く虚庵居士であった。




           「ひまわり」は黄色の花ぞと思ふれど

           斯くも豊かな「向日葵づくし」は


           「おばあちゃま」にご挨拶して許し乞う

           「向日葵づくし」を撮らせてたもれと


           ごく稀な熱暑を浴びつつ「ひまわり」を

           如何にや写さむ 悩むじじかな


           額から流れる汗を拭いつつ

           向日葵の花と語らう爺かな


           背後から「いいわね!」との声がして

           振り向け見れば日傘の夫人ぞ


           ヒマワリとゴッホを偲びぬ 向日葵を

           写さんとしてババの思ひも







「白花さるすべり」

2013-08-09 00:34:03 | 和歌

 ご近所の玄関先の「白花さるすべり」が、満開だ。

 「さるすべり」は真夏を代表する花木で、天真爛漫に咲くので観る者の心まで解き放ち、明るくしてくれる。鬱々とした悩みを抱えた方には、お勧めの夏花だ。

 

 漢字で書けば「百日紅」で、名前の通り「紅花」が圧倒的に多いようだ。稀にはこの「白花」や、紫がかった花も時には見かけることもある。夏から秋にかけて、何処でも見かける花木だが、咲き初めてから次々に咲き続けることから、「百日」の名前を授かったようだ。実際には、一度咲いた花が散っても、枝先から再度芽が出て花をつけるため、結果的に咲き続けているように見えるのだ。

 真夏の酷暑の時節に、天真爛漫に咲き続けるその勢力には、脱帽だ。植物学者に伺えば、どの様にしてそのエネルギーを生み出しているのか、解説して頂けるであろうが、暑さに辟易の老生としては、その秘訣を「百日紅」に伝授して貰いたいものだ。

 沢山の花が団子状に群れて咲いているが、一輪づつの花を見ると、花びらの縁はごく繊細なフリルになっていて、蕊と合わせて表情も極めて豊かだ。青空に枝を伸ばして「白花さるすべり」が咲いていたが、近くに寄り添って花と語れば、また別な側面も見せて呉れる「百日紅」の花だ。

 「百日紅」の蕊は、受粉すれば身を屈め、小さく寄り集まって萼に身を寄せ、「さく果」の中に結実する。真夏の思ひを、実に託すのだ。

 


           満開の白花かかげてさるすべりは

           天に届けと枝を伸ばしぬ


           真夏日に小花は群れて歓声と

           笑みふりまくや天真爛漫に


           さるすべりの小花小花はほほを寄せ

           押し合い圧し合う祭りの夏かな


           炎熱の猛暑にも萎えず百日も

           咲き続けるかも「さるすべりの花は」


           近く観ればフリルの花びら乙女らの

           こころを写すや妙なる姿は


           それぞれの小花はおのれの思ひをば

           蕊に託しぬフリルに包みて


           枯葉散る秋の小枝に残るらむ

           真夏の思ひを「さく果」にとどめて







「野に咲く 水引」

2013-08-07 00:54:47 | 和歌

 「水引」 が、いつもの散歩道の脇に咲いていた。

 「水引」 は、林の縁など半日陰に群生する、極めて控えめの野草だ。
葉はかなり大きめだが、ごく細い花茎と小さな花の花序は、極めて控えめで、ともすれば見逃しかねない。

 その控えめの姿が多くの茶人の好みと合うのであろう、隠れたお茶花としても愛されている様だ。ごく細い花茎と、花序の配列を上から見れば赤花がつながり、下からは白花がつながる様に見えるところから、紅白の水引に擬えて花名が付けられたと言い伝えられている。

 現代社会の日常生活からは、熨斗袋と水引は殆んど見かけなくなって、不祝儀や結婚祝い等ですら、印刷した熨斗袋が当たり前になりつつある。 そんな昨今では、「水引って何?」 との問いすら聞こえそうだ。

 


           稚けなき花のつながり何と云わむ

           いにしえびとは 水引に擬ふ


           野に咲ける小花はくれない 白花? に

           目線を替えれば麗しきかな


           いと細き紅白の水引に この花を

           託して愛ずる心をしのびぬ


           ただ一枝を摘みて帰りぬわが庵に

           小瓶に挿せば多くを語りぬ







「うつろ庵の枝垂れ連翹」

2013-08-05 00:39:19 | 和歌

 「うつろ庵」の台湾連翹が咲いた。

 生垣の内側に植えてあるのだが、珊瑚樹の生垣をかい潜って枝を伸ばして、何と道路まで枝垂れて咲いた。

 

 ごく細い枝とは言え、通行の邪魔にならぬよう、大枝はバッサ・バッサと剪定した。
しかし、道行く人々に台湾連翹の花を楽しんで頂けるよう、花を付けた小枝だけは道路への枝垂れを、暫らくの間ご勘弁願っている次第だ。

 
 

 幸いにも、住宅街の広い道路は交通量もごく少ないので、通行への支障も無く、道行く人々の感嘆の声が時々聞かれるこの頃だ。花が散り次第、早々に枝垂れた小枝も剪定する積もりだ。

 台湾連翹の花穂は枝のつけ根から咲き始めて、花穂の先に向けて咲き続けるが、日を経た花は潔く散るので、花穂は何時も新鮮な状態が維持される優れものだ。

 「散り敷いた花は、掃かずにとどめよ」と、唐の詩人・王維は「田園楽」に詠っているが、毎日かなりの量の花が散るので、箒で掃くのが虚庵居士の日課の一つだ。
だが、朝陽に萎えるまでのひと時は、散り敷いた花の風情を道行く人々にも愛でて頂きたいものと、台湾連翹の下の掃除は昼近くまで遅らせているこの頃だ。

 
 


           珊瑚樹の枝の間を潜り抜け

           台湾連翹 道路に枝垂れぬ


           嫋やかな小枝の先に咲き初めぬ

           台湾連翹 そよ風に揺れて


           枝々の先に花穂が咲けばなお

           枝垂れる風情を君に見せまし


           花びらの白き縁取りいと細く 

           雅に咲くかな小枝の花穂は


           散る花を掃かずにとどめむいましばし

           せめて朝陽に凋まぬうちは







「プランターのゴーヤ」

2013-08-02 00:34:00 | 和歌

 ゴーヤの種をプランターに撒き、芽生えた苗を花壇の片隅にも植えた。時期外れの植え付けだったので、些か心配だったが、期待に応えて蔓を延ばして呉れた。

 昨年は近所のご夫人から頂戴したゴーヤの苗に、図らずも立派な苦瓜が生って、ご馳走になった。その経緯は
「台風とゴーヤ」とのタイトルでこのブログに掲載したので、ご記憶の方が居られるかもしれない。

 ゴーヤの苗から「苦瓜」が育ったことに感激した虚庵夫妻は、料理した際に、類い稀な形をした種を大切に乾燥保存してあった。机の引き出しからその種を発見したのは、既に初夏になってからだ。
ダメ元でプランターに種を蒔き、祈る思いで毎朝の水やりを続けたら、見事に芽生えて応えて呉れた。

 夏の日除けに活用されるゴーヤだが、これ程にか細く、繊細な蔓植物だとは思いもよらぬことであった。花壇のゴーヤは、周りの紫蘭や花虎の尾の葉陰になって、発育が遅いようだ。それに引き替え、道路端のプランターのゴーヤは、陽を遮るものが無いので、フラワーベルトの
躑躅を忽ち超え、珊瑚樹の生垣に辿り着いた。

 黄色の花は疎らにかなり咲くのだが、ゴーヤの花は圧倒的に雄花が多いのを、毎朝の水やりの際には、恨めしく眺め続けて来た。

 そんな或る日、莟のつけ根にごく小さな塊を見つけて、覗き込んだ。紛れもなく苦瓜に成長する莟だ。

 苦瓜の赤ちゃんが、日を追って成長するのが虚庵夫妻にとっては愉しみだ。まだ幼稚園に入園する前だろうか、身丈は5センチ程に成長した。

 いずれ苦瓜は、逞しく成長するであろう。ズシリとした重さ、ボコボコの身肌。生のまま口に含めば仄かな苦みと歯触りが、何とも言えぬ苦瓜に育ってくれることだろう。

 
 


           取り置きし苦瓜の種は律儀にも

           芽生えてなおも蔓を伸しぬ


           ゴーヤとは斯くもか細く嫋やかな

           蔓をのばすや水やりに応えて


           いと細き蔓は支えを求むるや

           微かな風にも揺れるその手は


           か細くも莟の茎の膨らみに

           やがて実をなす思ひを見しかも


           黄花咲き 花つけたまま膨らみは

           微かに太りぬ明日を夢みて


           紛れ無き苦瓜なるらしイボイボの

           身肌を見届け爺は誇りぬ