「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「小さな農場 - アジサイの紅葉」

2009-10-31 00:26:20 | 和歌

 小さな農場主からの写真には、アジサイの紅葉も添えられていた。

 湖畔の芝生の庭での出来事を、9月初旬に孫からの特別レポート「かめの さんらん」でご紹介した。その際に芝生の庭の写真を掲載したが、中央に写っていたアジサイが「小さな農場の収穫」と競い合って、見事に紅葉していた。

 アジサイの後ろに対岸の遠景が写っているが、この辺りの林や小高い山々の紅葉は、10月半ばから
11月にかけて日を追って彩りが変化する。虚庵居士が若かりし頃、NYケネディ空港からレンタカーで、
”Garden State Parkway/NJ Turnpike”を突っ走った2・3時間は、まさに紅葉の真っ只中であった。

 NJ南部の入江の畔に別荘を借りて、秋から春先まで数か月に亘って滞在したのは、原子力発電・技術導入の研修留学のためであった。遠い昔の思い出が、まざまざと蘇えってきた。まだ二歳の娘と虚庵夫人を残しての単身赴任であったが、虚庵夫人からの手紙に「銀杏の落葉」が添えられていた。「近くの富岡八幡宮の境内で、娘がパパへ送ってと拾った落葉です」と書かれていた。

 あれから何年目の、紅葉の季節になるのだろうか・・・。
当時二歳だった娘は、大学推薦の長期留学を経て国際結婚をした。湖畔のレイクハウスに居を構え、忙しいビジネスの傍らで、庭先の「小さな農場」を夫と息子共々に楽しんでいる。虚庵居士は、「銀杏の落葉」や「孫からの手書きのプレゼント」など、身に余る沢山の宝に囲まれて、至福のこの頃だ。





             アジサイの花色へんげを愛でてなお

             秋のへんげも愉しむきみかな


             いろどりの日々移り行くこの秋に

             穫り入れ喜ぶ 君は七歳 
 

             紅葉の季節になれば思ほゆる

             銀杏の落葉の二歳のおてがみ






「小さな農場 - 大収穫とハロウィン」

2009-10-30 00:56:53 | 和歌

 小さな農場主は、追いかけて収穫の写真も送ってきてくれた。

 キューカンバ(大型の胡瓜)・エッグプラント(太い茄子)・コーン(玉蜀黍)などなど、どれも中々の出来
栄えだ。海を隔て、地球の反対側に住んでいるじじ・ばばに、せめて写真だけでも見せたいと考えたであろう孫一家の心つかいに、ホロリとしつつも拍手喝采を送った。

 孫自慢のじじ馬鹿は尽きることがないが、昨年は大きな手描きの地図がプレゼントされて、大感激で
あった。今でも虚庵居士の書斎に飾ってあるが、60x45センチ大の世界地図とアメリカ大陸の州地図だ。幼稚園の教室でこの地図を使って、ニューヨークから日本へ飛行機で飛び、じじ・ばばと横須賀でひと夏を過ごした、との大演説をしたらしい。そのような彼であれば、レイクハウスの農作物を「地球の反対側のじじ・ばばに見せる」との、時空を超えた概念が、孫の頭の中にはハッキリと描けているのであろう。





             いろどりの豊かな皮かなもろこしの

             輝くつぶつぶ 歓喜も聞くかな


             アツアツの コーンにやけどを きおつけて

             しゅうかくいわう こよいのうたげに




 収穫の季節は、子供たちにはまた別の楽しみもある。ご存じハロウィンだ。

 元来はカトリック万聖祭の前晩、10/31の伝統的な行事だったらしいが、今では世界中の子供たちの
楽しい年中行事でもある。カボチャのお化け灯篭 Jack-O’Lantern を競って飾り、凝った仮装や
お化粧も愉快なお遊びになった。

 小さな農場主も、早々とカボチャをくり抜き、ローソクを灯して門の石柱に飾った。
加えて、この Jack-O’Lantern をクレパスで描いて、10月のカレンダーに仕立てて送ってくれた。「毎日が日曜日」のじじには、掛け替えのないカレンダーだ。






             おおコワイ! カボチャのお化けのランタンの

             向こうに孫の笑顔が浮かびぬ


             彫る顔のコワさを更に化粧して

             お化けダゾーと 可愛い声きく






「小さな農場 - 小さな経営者」

2009-10-29 01:02:53 | 和歌

 しばらく前になるが、米国NY/NJ州に住む孫から、思いもかけない写真が届いた。

 湖の畔の、あちら流に云えばレイクハウスの庭に、小さな農場を開墾して、様々なお野菜を栽培している写真だ:コーン、ラディッシュ、エッグプラント、キャロット、キューカンバなどなどだ。ここまでは、万国共通の家庭菜園の写真で、驚くに値しないが・・・。

 写真を拡大して、スライドショウで愉しんでいたら、小さな農場経営者が現れた。檻ならぬネット囲いの中で、嬉々として菜園作りをしているのは、何と八歳になったばかりの孫であった。小さな経営者の指図に従って、下働きの農夫と農婦は額に汗していた。

 別荘の後背地は広大で豊かな自然林が維持されているので、時には別荘地内まで鹿などの野生動
                               物が跋扈する。家庭菜園の作物を彼らから守るに
は、柵などは役立たずで、かなり丈夫なネット囲いのお世話にならざるを得ない。

 収穫したお野菜は、キッチンでママと一緒に調理も楽しんだであろう。或いはホームパーティーで、皆さんに振舞って話題をさらったのかもしれない。
小さな農場の小さな経営者の、誇らしげな笑顔が想像される。


             ぼくとママ パパも一緒に耕すは 

             小さな菜園 幾つを作るや


             庭芝にまろび遊びぬ孫はいま           
             
             小さな農場の 小さな経営者


             鹿よけのネットの中の笑い声を

             芝生に寝ころび聞かまほしけれ
   

             ラディッシュを引き抜き高々掲げ持つ

             孫の手のドロ惚れぼれと見ぬ

                    




「紫式部」

2009-10-28 01:09:52 | 和歌

 「うつろ庵」の玄関わきに、「紫式部」のごく小さな実が色付いた。

 何時のことであったか、虚庵夫人がどこぞのお宅から一枝を頂いて、庭の片隅に挿し木をしてあったが、庭木の下でひょろひょろと枝をのばしていた。彼女は、細い枝が風に揺れる様が甚く気にいって、鉢に植え替えて玄関先の「あしらい」に置いた。

 当初のごく小さな実が緑色の頃は、気にも留めなかったが、秋が深まるにつれて実は次第に紫色に色づいて、目を瞠った。山野に自生する「紫式部」そのままの姿が、「うつろ庵」の玄関先に再現されようとは、思いもよらぬ嬉しい驚きであった。

 紫の実をつけるよく似た園芸種で、コムラサキ(小紫)或いは別名、コシキブ(小式部)という品種が最近もてはやされている。どちらかと言えば逞しい枝で、律義にも葉の付け根毎に沢山の紫の実をつける優れものだ。しかしながら、勝手な好みを言わせて貰えば、「これ見よがせ」なところがどうも頂けない。枝も葉も、それに紫の実の付き方も、どちらかと言えば疎らで、自然にくだけた姿の「紫式部」に、虚庵居士としては軍配を上げたいのだが・・・。

 傍若無人な言い草は、苦労を重ねて品種改良をされた専門家に対して、失礼極まりないところだが、あくまで個人的な感性と好みの領域のことゆえに、ご勘弁願いたい。






             しどけなく垂れ下がりたる枝先に

             紫式部の小粒はおわしぬ

             
             紫の粒つぶ何かを語らふや

             額を寄せあひ秘めく風情に


             秋雨に衣を替えむ襲はと

             女官ら秘そめき語らひやまずも

             
             秋深み紫式部の実の色に

             葉色も襲の色目をいそぐや






「エンジェルストランペット と 秋うこん」

2009-10-26 00:13:16 | 和歌
 
 今年も何回目になるのだろうか、エンジェルストランペットが大きな花を一杯に咲かせて、道行く人々の目を奪っている。

 白い大きな花びらは、風を受けて一斉に舞い踊り、まさにエンジェルの群舞を見せてくれるが、繊細な花びらは葉や枝に擦れて、花びらの縁がたちまち変色する。自然のなせる業であれば、ほとんどの人々は気にも掛けないが、せっかく美しく咲いた花が痛ましく傷つき、萎れる姿は見るに忍びない。

 高い木の枝の、萎れた花だけを摘み取るのは、脚立でも使わぬ限りほとんど不可能だ。 かと言って、
この木はごく脆いので、枝を撓めたり木によじ登るなどは論外だ。細い篠竹を使う方法はないものかと、思案投げ首であったが、ついに素晴らしい虚庵流を発明した。篠竹のきれいな切り口の先端を、敢えて半分ほど切り裂いて、これに萎れた花びらを巻きつける技を開発したのだ。咲いて間もない花の隣であっても、篠竹の先端に萎れた花びらだけを静かに巻きつけることで、痛ましく傷つき、萎れた花をた易く取り除くことができる様になった。

 それ以来、うつろ庵のエンジェルストランペットの花たちは、溌剌とした姿を魅せてくれている。





            繊細な花なればこそ傷つけば

            花咲く心をおしてや知るべし


            白妙の花傷つきて萎れるは

            見るに忍びず如何にや助けむ

   
            朝な夕なエンジェルの花見上げれば

            白き衣手 応えて舞ふかも
 



 見上げる毎日で、足元が疎かになっていたら、大葉の秋うこんが根元に白いフリルの花を咲かせていた。秋雨に濡れて、憂いをおびると言うよりは、溢れるばかりの涙をじっと堪えているかの風情であった。「エンジェルストランペットばかりを可愛がって、あたしには見向きもしないなんて・・・」と、すねているかにも見えた。





            幾重にもフリルを重ねてその中に

            うこんは咲くかな涙を湛えて


            白妙の花びらとかして湛えにし

            涙はうこんの喜びならずや






「うつろ庵のプランバーゴ」

2009-10-24 19:48:57 | 和歌
 
 「うつろ庵」の珊瑚樹の生垣を背にして、プランバーゴが白い小花を咲かせている。秋も深まると、珊瑚樹の葉は緑が濃くなって、光線の加減によれば黒味を帯びてくるが、それが却ってプランバーゴを浮き
立たせて、絶妙な取り合わせだ。

 夏の間にたっぷりと葉緑素を貯め込んだ珊瑚樹の葉は、やがて得も言われぬ見事な紅葉を見せてくれる。その様な葉が一・二枚、この中に加わればこの上ないのだが、そこまでネダルのは欲張りと云うものであろう。

 プランバーゴの別名は、「瑠璃茉莉・るりまつり」という。瑠璃色の花を咲かせるプランバーゴが多いので、この名前が付けられたのであろうか。夏の盛りから晩秋まで長期に亘って咲き続け、目を愉しませてくれるが、それにしては、花の後の花殻なども残さずに、身綺麗な姿を保つのには感心させられる。

 花も人間も、花時を過ぎた後の姿は爽やかに保ちたいものだ。虚庵居士は若い時代ですら、花ある
人生を送れたか否かは甚だ頼りないが、せめて老境に達したこれから後の人生は、身支度のみならず、
よろず身の回りを爽やかに保ちたいものだ。プランバーゴには「無言の訓」を頂く此の頃である。





            吹き出でる額の汗を手で拭い

            ”やあ ”との挨拶プランバーゴに


            何時しかに長袖シャツの腕を挙げ

            プランバーゴと目配せ交わすも


            珊瑚樹の色濃き中に浮き出でる

            プランバーゴは身綺麗にして


            歳を経てわが身のけがれを拭わむと

            小花のおしえを頂く今日かも
 





「六ヶ所村の野花 その五 犬胡麻」

2009-10-20 22:17:18 | 和歌

 六か所村の草叢には、沢山の野花が咲いていたが、背丈の高い草に埋もれるように、可憐な小花が
咲いていた。

 仄かに赤みを帯びた小さな唇形花は、一つづつでは目立たぬ存在だが、対葉の付け根に群れ咲いて、あたかも乙女らが車座になって笑転げるかに見えるのが、何とも微笑ましい。受け唇と、ほっぺを膨らませたかに見える表情も、あどけなさが漂っていて愛らしい。





            乙女ごの声をも聞かましほほ染める             
            夢をも見まほし叢に坐して 


            車座の乙女ら 笑い 転げるや

            肩抱きあふや 群れ咲く小花は
 



 それにしても草原には、沢山の種類の野花が咲き、数多の生き物がそれぞれに支え合って命をつなぎ、無言のうちに己の生を全うしていることか。やがて朽ちて土となり、大地に還っていく彼・彼女たちを思えば、我身もまた同じ道を歩みつつのだ。この先何年の人生かはしらねど、六ヶ所村の草原が、何故かすっぽりと虚庵居士を包んでくれているような、不思議な安らぎを覚える小半時であった。                     
           

            生い茂る草葉の織り成す叢に

            命を託すか 小鳥も 虫らも


            たまきはる命を育む叢を

            褥となして独りかも寝む







「六ヶ所村の野花 その四 禊萩」

2009-10-18 00:55:36 | 和歌

 林の入口を離れて叢に降り立てば、ピンクの小花が群れ咲いていた。

 膝より若干高い草丈の、節々に7・8個の小花を付けて、下から咲き登るのでかなりの期間に亘って咲き続け、草叢を彩っていることであろう。細い茎と花付きの姿は、何やら祭りの道中飾りや、仏さまの迎え花・送り花を思わせ、何処となく人間味と親しみを感じるのは、虚庵居士だけだろうか。





             七重八重群れ咲く小花の草叢は

             足踏み入れるも駘蕩として 




 帰宅して花の名前を調べたら、「禊萩・みそはぎ」、別名「精霊花・しょうりょうばな」又は「みずかけ草」だと判明した。花房に水を含ませて供物に水をかける風習が、「禊・みそぎ」を思わせるので「禊萩・みそぎはぎ」と呼んだが、次第になまって「みそはぎ」になった。或るいは「みずかけ草」と呼んだとの解説だ。

 草花にも拘わらず「萩」の名が使われることに関しては、どこにも解説が見当たらなかった。想像ではあるが、花色が萩に近いので「禊萩」と命名したものであろうか。





             菅笠に「みそはぎ」さして汗すれば

             爽やかなるらむ 野らの仕事も






「六ヶ所村の野花 その3 黄苑」

2009-10-13 12:27:06 | 和歌

 道端の野花と無言の対話をしながら林の縁まで来たら、林の日蔭の中に黄色い小花が、そこだけスポットライトを当てたように際だっていた。

 胸の高さ程の草丈の頂に、小花が群れ咲いていた。半分以上がまだ莟のままで、この花のまさに見頃であった。林が防風林の役割を果たして、ここでは強い風が遮られているが、それでも息つく秋風におおきく揺れて、カメラに中々収まってくれない。

 この時節の高原や寒冷な土地には、「秋の麒麟草」が黄色の小花を沢山咲かせて、虚庵居士を愉しませてくれるが、どうやら別の種類の野花のようだ。
野花に限らないが、花の名前を調べるのは中々の難儀だ。花の姿・形や色だけでなく、葉の特徴なども丁寧に見究めないと間違えかねない。もっぱら花図鑑のお世話になるが、収録している花数もそれぞれに限られているので、何種類かの図鑑を調べないと辿りつけないが、出会った花に応えるための作業ゆえに、難儀ではあるが楽しいヒト時でもある。

 探し求めたこの花の名は、「黄苑・きおん」またの名は「ひごろおみなえし」であった。





             薄暗き林の陰に言いしれず

             恋わずらうや小花の揺れるは







             群れて咲きあまたの備えの莟まで

             黄苑の思いをいかにや酌まなむ


             いや永く咲き続けるはたれがため

             花殻遺して思いを告げるは






「六ヶ所村の野花 その2 すすき」

2009-10-12 00:38:11 | 和歌

 すすきが秋風に吹かれて、たおやかに靡いていた。

 近くに生えているすすきも、株毎に微妙な味わいの違いがあって、目を瞠った。
穂が出て間もないすすきは、活きいきと赤みがさして、いかにも初々しい感じだ。人間にたとえれば、16・7才の若者を思わせる。花穂もまだ綻びないので、どちらかと云えばピンと張りがあって、ツッパル若者、或いは未熟な魅力をも合わせ持つ乙女の気配といえようか。

 隣のすすきは穂が出て花が咲き、綿毛を湛えているので微かな風にも敏感に反応して、まさに手弱女の風情だ。強めの風には、しなやかに身を撓ませて耐え、微かなそよ風にも花穂を靡かせ、陽光をきらめかせて応えている。芯が強いのはさらりと押し包み、感性豊かな反応を示す類まれな手弱女とは、この様な女性への賛辞かもしれない。現実の女性に代えて、六か所村の「すすき」に「手弱女」の風情を見いだそうとは、思いもかけない出会いであった。昼食会でのほろ酔いがなせる業かもしれないが・・・。





             秋風に靡くすすきの穂をみつつ

             にょしょうの姿のへんげを思ひぬ


             立つ秋をすすきに見しかな重陽の

             宴ならぬに微薫を帯びれば








             見わたせばすすきの原は波だちて

             漕ぎゆく吾を迎えてさわぐや


             嫋やかに秋の風うけ舞ひ踊る

             すすきの原の歓喜を聴かまし


             乙女らも媼も共に手を伸べて

             群れ舞ふ姿に乱れすらなく






「六ヶ所村の野花 その1 鰭玻璃草」

2009-10-10 00:36:29 | 和歌

 青森県六ケ所村を先月に続いて再び訪れたら、野に咲く「鰭玻璃草・ひれはりそう」が迎えてくれた。

 先月は原子力技術者研修の講師として招かれ、今回は築地市場で青果物を扱う企業の経営陣と幹部職員が、核燃料サイクル施設を見学するのに同行して、講演と共に参加者との意見交換をするのが目的であった。「食の安全」が人口に膾炙される昨今だが、青果物を使う幹部職員が核燃料サイクル施設を
見学して、自らが周辺青果物の安全を納得したいとの思いには、真摯な姿勢が感じられた。
地球上の全ての食品に放射性物質が含まれ、それを食べている皆さんも「放射能人間だ」との説明には、目から鱗の態であった。

 過密なタイムスケジュールが組まれた慌しい日程であったが、ごくわずかな時間とは言え、野の花との出会いをも愉しめたのは、思わぬ収穫であった。

 六ヶ所村には、田舎に似合わぬスパハウス「ロッカポッカ」があって、掛け流し温泉や泡風呂などと
共に、無料で休憩できる大広間、美味しい料理を食べさせてくれるレストランなどが、日頃の憂さと疲れを解放して呉れる。隣の「六趣」醸造所では、土地の名産・長芋から焼酎を醸造するプロセスを見学して、試飲も楽しめるとあっては「呑兵衛」の虚庵居士には、堪らぬスポットだった。

 昼食会のビールでほんのりと頬をそめて、「ロッカポッカ」の外に出たら、秋風が爽やかに吹き抜けていった。道沿いにぶらりと足を運べば、そこは将に自然が歓待してくれる世界であった。





             道端の草叢に埋もれひそと咲く

             野の花 そなたの名前をきかまし







             鰭(ひれ)は魚 玻璃は野花の花のいろ

             重ねて名付けるいにしえ人はも


             花の散るのちに残るはしべなるや

             はたまた鰭の白き小骨か


             野の花は己の名前も意にもせで

             ただひたすらに咲くぞいとしき






「蓼科の野花 その8 浜梨」

2009-10-03 02:32:06 | 和歌

 「はまなす・浜梨」の赤い実がなっていた。

 「はまなす」は東北や北海道などの海辺の灌木だが、蓼科の寒冷な風土であれば良かろうと、誰かが移植したものであろうか。かなりの年月を経た古株であった。別荘地ゆえに、天然の山野草に混じって、道端には人手を介したであろう花木が育っていて、植物の基礎知識がないと混乱させられる。

 「はまなす」の故郷・北海道では、この紅の実を料理して、ジャムを作るという。食いしんぼうの虚庵居士は、そんな話をきくと途端に食べたくなるが、花が結んだ果実を摘んでジャムを作ろうとの発想は、花を愛する者が辿り着く、究極のものかもしれない。

 この花は皇太子妃雅子さまの「お印」としても知られるが、自然の花を「お印」とする慣わしは、世界にも例をみない雅なものだ。やんごとなき際の慣わし故、詳しいことは知らないが、一人づつに「お印」が定められ、名前に代わってその方々を象徴させるのは、床しい慣わしだ。

 かつて家紋が盛んに使われた時代もあったが、「家」単位での生活、「家系」が大切にされた時代にあっては、「家紋」も同じように優雅で大切な象徴であった。個人主義的な思想や生活スタイルが敷衍して、いつの間にか「家紋」は廃れ、精々墓石や呉服の紋付程度に限られるようになったのは、寂しいことだ。





             はまなすは寂しからずや北国の

             海辺を想ふか ほほ紅に染めて

             
             潮騒の音懐かしく聴くならむ

             梢の松籟 響く夕べに


             はまなすの花のみならず結ぶ実も  

             愛おしければ口にふくまむ