「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「花水木」

2006-04-30 17:33:17 | 和歌

 花水木が咲いて、草木も初夏への準備を整えつつあるのが感じられる季節になった。

 住宅街で見かける花水木は、自由奔放に枝を伸ばせる環境に無いので、枝を剪定されて「こじんまり」と仕立てられているのが、花水木には気の毒だ。よそ様の庭木に注文を付けるのは失敬だが、一本だけ虚庵居士お望み
通りの姿のベニハナ花水木に出会った。
梢には枯れ枝も見られるが、自然の侭の姿にほっとさせられる。

 日本から桜の苗木が贈られたのは、明治四十五年だという。
米国からは国民的な花木・dogwood (ハナミズキ)が、数年後に届けられたと言う。


             
             「さくら」にぞ託す心のかへしとて

             紅白花咲く「ハナミズキ」かな


             行く春を惜しみて咲くや花水木

             さ枝の紅花まばらぞよろしき








             
             紅の花芯の辺り群れて咲く

             真の小花を君見つらむか
 






「白きクレマチス」

2006-04-29 00:07:37 | 和歌

 春の雨はやさしく降っていたが、雨が降りやんだので遅い昼食を摂りに、散歩がてら近くの蕎麦屋まで出掛けた。

 態々遠回りをして、普段は通ることもない旧い町家の間の、狭い露地道を興味津々に歩いた。それぞれのお宅が、ごく狭いスペースを工夫して、鉢植えの草花などを置いておられる。
さるお宅の玄関先に、クレマチスの白い花が一輪だけ咲いていた。薄暗い露地の玄関先は、其処だけがほんのりと明るく見えた。








             薄暗き露地の谷間に濡れそぼる

             クレマチス一輪 浮きいでて見ゆ



             白妙にひと花咲き初むクレマチスは

             やそ玉しずくを 花びら湛えて



             建ちこめる旧き町家の露地うらに 
 
             あはれひと花 クレマチス咲く  



             住み人は逝きぬ娘御偲ぶらめ 
 
             泪を湛えるクレマチスかな  






「紅白きそひて」

2006-04-28 00:52:31 | 和歌

 以前にもご紹介したが「うつろ庵」は、比較的新しい住宅街の一画にあるが、狭い敷地の周辺に「フラワーベルト」が設えてある。

 東南の角地の「うつろ庵」の東側には、「白つつじ」を植えてある。長手方向の半分ほどを駐車場にして取り壊したので、道行く人々に残念がられたが・・・。
東隣のお宅は西側に、「赤とピンクのつつじ」を植えて居られるので、道路を挟んで左右が「紅白のつつじ」の対になっていて、道行く人々の眼を愉しませている。両家とも道端に梅を植えているが、「うつろ庵」には濃い紅の「蘇芳梅」が、お隣さんには「緑顎梅」があって、この二本の梅もまた、早春の紅白である。






             花時の雪かと見まがふつつじ花の

             色あせぬ間に とく参られよ









             玉ぼこの道を挟みてみぎひだり

             つつじ咲く道君に見せまし



             しばらくは見まくほしけど魂きはる

             花の命はせむすべもなし



             道挟みあい見る花は焦がるるや

             あやに紅白きそひて咲けば






「石楠花づくし」

2006-04-27 00:57:23 | 和歌

 
 ホームコースでの昨日のゴルフでは、石楠花を堪能した。

 以前から石楠花が植えられているのを知ってはいたが、花時に恵まれないのを残念に思っていたが・・・。昨日はそれぞれのホールの石楠花とご挨拶が出来て、望外の幸せを頂戴した。

 ゴルフコースのデザイナーの気配りか、或いは植木職人の配慮であろうか、ボールの飛んで行かない安全地帯に植えられていて、花を傷める心配が無いのが、何よりうれしい。
ゴルファーの意思に反して、ボールの行き先は得てして侭ならないので、石楠花を我侭なボールから守るのは、花人の心と言うものだ。 





 大勢の石楠花美人の華やかなギャラリーに取り囲まれて、プレーの戦果はグロス83で、まずまずであった。


             あえぎつつ振りさけみれば朧なる

             冨士のお山を石楠花いだきて







             あかときの雨は何処へ去んぬるや

             あかねさす陽に石楠花咲くも







             石楠花の花咲く苑を忘れめや

             あしびきの冨士あい見つるかも






「箱根を越えつつ」

2006-04-26 01:58:28 | 和歌

 昨日までは晴天の天気予報であったのが、今朝になると不安定な天気で、雨と雷と所によっては雹も降る一日だという。「月いちゴルファー」の虚庵居士にとっては久しぶりのゴルフだというのに、神は何と無慈悲なことか!

横須賀を早朝に出て、江ノ島を車で通過する頃には、ポツリぽつりと雨が降り出し、小田原では篠突く雨となった。濡れるのが嫌いな虚庵居士は、余ほど引き返そうかと思案しつつ車を走らせた。箱根の峠に差し掛かると、急に小雨になって、山肌に掛かる薄雲と山桜が、一幅の墨絵を観るようで、思わず車を止め、シャッターを切った。







             山肌を這い登る雲の明けぬれば 

             山桜見ゆ箱根を越えつつ 



             石畳踏み行く昔もあしびきの
 
             旅人観つらむこの山桜花



 峠を越えると、相模湾には薄日が射し、ホームコースのゴルフ場には、石楠花が咲き乱れて、「よくぞ諦めずにお越しくださいました」と歓待の風情であった。








             高照らす陽ざしと石楠花みだれ咲くに

             かねて知りせば悩まぬものを






「豌豆」

2006-04-25 21:23:56 | 和歌

 雨の合い間に、傘をステッキ代わりにして散歩した。狭い菜園に、豌豆の棚が設えてあって、紅白二種類の豌豆が花を付けていた。







 重なり合った蔓葉を透かしてみると、既に若い「サヤエンドウ」があちこちに吊るさがっていた。程なくして菜園の主の翁がやって来て、若い「サヤエンドウ」を摘むという。翁が「サヤエンドウ」に腕を伸ばすと、蔓葉にたっぷりと湛えられている雫が、一斉に降りかかって、翁の袖はびしょ濡れだが、丹精こめて育てた「サヤエンドウ」を摘み取る翁は、濡れた袖など全く気にならぬ風情であった。



             豌豆の蔓葉に湛ふ玉しずく

             薄陽さし来てキラメキ満ちたり



             百枝なす蔓葉に埋もれる若さやを

             翁と探しぬ雫に濡れつつ



             若さやを摘み取る翁の衣手は

             しとど濡れにし雫落ち来て








             豌豆の紅の花守るらし

             白き花びら雫を湛えて







「いとしき親友」

2006-04-24 00:24:14 | 和歌

 春蘭が気品に満ちた花をつけた。かつて仙台の夜店で買った春蘭である。






             ひさぎ女は自ら山にて採りたるを

             あはれ「春蘭」 筵に並べり
 


             永らえて共にありせばいとしけれ

             旅の夜店に購い来たりて



             みちのくの山の故郷恋ふるらむ

             三十(みそ)の年月すでに経ぬれば



 在職当時、仙台には足しげく出張していたが、ある日、繁華街の道端に筵を広げて、春蘭や海老根を商う老女が、夜店を出していた。背中を丸め、聞き取り難い方言で、自ら山に入って採って来たものだと言う。見れば根を生のミズゴケで丁寧に包み、大切に扱っていることからも、花をいたわる心が偲ばれた。 筵に並べられた春蘭や海老根は、売られてゆく定めを知ってか、どこかその姿に「あはれ」が滲んで見えた。そう見えたのは、虚庵居士の心のなせる業であったかもしれないが・・・。

 それ以来、春蘭は「うつろ庵」の庭の片隅で、素焼の蘭鉢に納まっている。
その時一緒に購った海老根は、永い年月のうちに何時しか絶えてしまったが、春蘭は既に三十年を超えて、共に永らえて来たいとしき「親友」である。





「牡丹」

2006-04-23 01:05:20 | 和歌
 
 牡丹は、様々なことを思わせる華のようだ。

 信州の生家には、屋敷の入り口から門に到るアプローチに沿って、十メートルほど牡丹が植えられていた。ゆったりと枝を広げ、深紅の大きな花が咲いた。黄金色の花芯と花びらがお互いに響きあって、見事な調和を保っていた。 子供ながら、牡丹の花の持つ不思議な魅力を感じていたのだろうか、何十年を経た今でも、あの牡丹の花が想い出される。







 白居易の七言絶句には、牡丹を詠み込んだ悲しい詩がある。
友人の元稹(元九)が、妻の逝去を悼んで詠んだ詩を見て、白居易はこの詩を寄せたという。
白居易は、夜の庭に咲く牡丹の花に、今は亡き夫人の面影を重ねて、涙ながらに友の辛い思いを偲んだ。友を慰める言葉に代えて、病を治す薬も無く、ただ楞伽(りょうが)四卷經のみが有ると結んでいる。


       見元九悼亡詩因以此寄  白居易 詩

       夜涙闇銷明月幌
       春腸遙斷牡丹庭
       人間此病治無藥
       唯有楞伽四卷經



             かのひとを悼める君の詩をよめば
  
             牡丹にこぼれる涙やまずも



             月影に揺るる牡丹の花みれば

             千々に乱れる憶を偲びぬ  








「山吹の・・・」

2006-04-22 01:08:57 | 和歌

 太田道灌と田舎家の娘の、山吹と蓑にまつわる物語は、「七重八重 花は咲けども山吹の・・・」の古歌と共に、小学校の授業で教えられたのであろうか。それ以来、山吹には実がならないものと信じきって、疑いすら抱かずにきた。






 白い山吹の花に出会って、念のために調べたら、山吹にも実がなるということを知り、愕然となった。鵜呑みにしてきた己を、恥じ入った次第である。実を付けるのは八重咲きの山吹ではなく、一重の山吹らしい。太田道灌に差し出した山吹が、八重咲きであったか否かは、今にしては確かめようもないが、醍醐天皇の皇子・兼明親王の古歌は、自然科学にてらしても間違いの無い観察をしていて、改めて訓えられた。







 それに付けても、教育、或いは報道の「正確さ・的確さ」を、改めて噛みしめたい。それに引きかえ、昨今のNHKの偏った報道は如何なものであろう。古歌ですら、正しい情報を伝えているが、情報伝達の在り方次第では、とんでもない誤解を植えつける怖ろしさを、思い知らされた。







             山吹の古歌をうのみに実は無きと

             確かめもせぬ我が身ぞ恥かし




             七重八重山吹咲くも白妙に

             楚々と咲けるもうつそみに似て






「三葉つつじ」

2006-04-21 00:10:50 | 和歌

 既に半月ほど日にちを経たが、虚庵夫人と散歩していて、見事に咲き誇った「三葉つつじ」に出会った。




 三葉つつじは一般のつつじが咲く前に、しかも一枚の葉も付けずに艶やかな花を咲かせるので、溺愛する数寄者も多いようだ。木の丈もかなりの大きさに育つので、咲き誇った姿は誠に見事なものだ。 花びらは下二枚が独特な形で、山折れになって己を主張しているかのようだ。

 小枝に溢れて咲く様は、燃える想いを全身で訴えているように見える。







             手をとりてたまぼこの道妹と来れば

             花燃ゆるかも 三葉つつじは



             若くして斯く花燃ゆるを相見なば

             こころの炎をいかが消しけむ






「オリンピアの冠」

2006-04-20 01:01:28 | 和歌
 
「うつろ庵」の近くで、これまで見たこともない花に出遭った。

 一緒に散歩していた虚庵夫人は、料理に使うローリエの葉とよく似ていると言う。虚庵氏は料理を食べるばかりで、もとより食材に何を使っているかとんと知識も無いので、その時の会話はそこで途絶えた。帰宅して調べたら、虚庵夫人の目は節穴ではなかった。正に料理に使うローリエ・月桂樹そのものであった。
(ローレルと書いたが、虚庵夫人によれば料理ではローリエと言うようだ。)

 オリンピア競技の表彰に使われる「月桂樹の冠」には、花が咲いていたか否か? 
これまでその様な視点で、写真を見たこともない虚庵居士ゆえ、正解は知る由も無いが、改めて見れば、なかなか味わい深い花ではある。


 






             花の咲く月桂樹編み授けしや

             かのオリンピアの栄えある冠




             月桂樹の花咲くさ枝の冠を

             我も受けばや ! 何を成せるや ?







「ぐみ」の小花

2006-04-19 00:36:07 | 和歌

 「うつろ庵」の「ぐみ」が、ひっそりと咲いた。






 目立たない花ゆえに、道行く人は殆ど気にも掛けないが、近寄って見れば、小さいながらも己の花に誇りを持って、気品を保って咲いているのに心うたれる。虚庵居士は、華やかな花も好きだが、「これ見よがし」なのはどうも魅力を感じない。どちらかと言えば、控えめに咲く花に、心惹かれるものがある。

 「ぐみ」の花には華がないが、それなりに気品を湛えて咲く姿、自然の偉大さに訓えられる。








             行く人も気づかぬ「ぐみ」の小花かな

             ただひたすらに咲くぞいとしき



             白妙の「ぐみ」の小花ぞ ちはやぶる

             神も見てしか気品を備えて



             梅雨時の赤き「ぐみ」の実わすれめや

             口に含めば甘くも渋きを







「匂ふけしきの」

2006-04-18 00:31:00 | 和歌






             石楠花の 莟はキリリと 控えるに

             匂ふけしきの 色合いなるかな




             ふくよかにさきにおひたつしゃくなげは
 
             ほのかなけわいにはじらひのこして







「赤い万作」

2006-04-17 01:54:13 | 和歌

 「うつろ庵」の近くのお宅の庭に、「赤い万作」の花が咲いた。





 「紅花常盤万作・ベニバナトキワマンサク」というのが、正しい名前だそうだ。
ごく稀に見かけることもあって、「ケッタイナ花やな」とは思っていたが、よもやこの花が「万作」のお仲間だとは知らなかった。近くで見れば、花の姿・形は将に万作そのものだが、花付は全く異なるようだ。










黄色の万作は、枝の所々に固まって咲き、「無骨」であり「素朴」だ。「紅花常盤万作」は「見て、観て!」という感じだ。それにしても、華やかなものだ。写真の色合いに若干の差があるが、光線の加減か ? 
イヤイヤ、虚庵居士の撮影技量の拙さのなせる業に違いあるまい。







             万作は無骨男の花なるに 
 
             斯く華やぐも兄妹なるとは 



             万作のはらからなるとか華やぎて

             いまを盛りと咲き誇るかも



             花びらのひとひら毎の表情を
 
             何にたとえむ 恥じらいとどめて 






「どうだんつつじ」

2006-04-16 00:04:54 | 和歌

 可憐な「どうだんつつじ」が咲いた。

 この花は、古来、様々にものを思はせる花のようだ。当て字であろうが、「灯台」や「満天星」の漢字が使われていることからも、古人の思いが偲ばれる。虚庵居士には、小さな鈴にも思えるが、鈴の音の聞けぬのは、聴く耳が無い故か。心眼に相当する「心耳」という言葉があるが、もしそのような耳があれば、妙なる鈴の音を愉しめるであろうに。








             誰ならめ満天星の字をあてて

             夜空を想ふやいにしえ人は



             白妙のどうだんつつじは百千々の

             吊灯台か宵に観まほし



             宵闇に浮かぶいとけき「どうだん」の

             吊灯台の明かりを思ひき



             百千々にものこそ思ほゆなき人を

             いとけき灯台の風に揺れれば