「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「福寿草の笑み」

2010-02-27 00:28:39 | 和歌

 「うつろ庵」の藪椿の根方には、郷里の信州・諏訪から移植した福寿草が、毎年律儀に花を咲かせて愉しませてくれる。

 この場所は、かつて拳大の泥岩を放置してあったので、いまでも小さな欠片が残っていて、福寿草には気の毒な土地だ。その内に「黒土と入れ替えて」などと考えていたが、忙しさに紛れてまだそれも果たしてないが、福寿草はそんな虚庵居士の思いなど意に介さぬ態で、この時節には「むっくり」と花芽を持ち上げて、早春のご挨拶をしてくれる。

 福寿草の可憐な莟を観るにつけ、「ああ、昨年も黒土の入れ替えが出来ずに申し訳なかった。花が散った後には、約束を果たしてやらねば・・・」と思うのだが、福寿草の花後はかなりの草丈に育つので、「秋になって茎や葉が枯れてからにしようか」と思案したり、福寿草の後からは芍薬が葉を茂らせて、主役がバトンタッチされるので、福寿草は地味豊かな黒土の恵みを受けぬままに、気の毒にも何年か放置されてきた。それにも拘らず、福寿草は今年もまた明るい頬笑みを見せてくれた。





 昨年の福寿草は、飢えた小鳥が芽を出したばかりの莟の先を啄んでしまったが、今年は寒さを凌ぐ襟巻のような若葉に守られて、莟が綻んだ。ごく小さな福寿草ではあるが、木漏れ日が丁度スポットライトのように莟を浮き立たせて、にこやかな笑みが限りなく大きく見えた。






            砕け散る岩のかけらも土くれも

            笑みて気にせぬ福寿草かな


            ふっくらと頬ふくらせる笑みなれど

            雨水の朝は未だ寒きに


            木漏れ日は頬寄せ母待つ稚児たちを

            無言で抱くや安らぎ与えて


            暖かな春の陽ざしに凍てつける

            故郷遥か思ふやこの子ら






「うつろ庵の河津さくら」

2010-02-21 03:45:01 | 和歌
 
 2月上旬に掲載した河津さくらの「早春の莟」は、その後、二日ほどして開花した。

 「早春の莟」に引き続いて、今回の開花写真をご紹介するつもりであったのだが・・・。この時節は日ごとに自然の変化も目覚ましいので、「河津さくら」の開花の写真を撮ったまま、あれこれと浮気をしている間に日時が経ってしまった。





            一輪の河津さくらの綻びに

            羨やましげな仲間の莟は




 桜は「河津さくら」も「染井吉野」も、開花直後のみずみずしい花を愛でたいものだ。
となりの未だ固い莟との対比にも夢を抱かせるし、花びらの色合いといい、張りのある蕊の姿も格別だ。早春の朝日に透ける花びら、陽を受けて誇らしげの表情も、身震いする程の美しさだ。乙女の輝くかんばせは仄かに香り立つが、自然の清らかさは「さくら」も「おとめ」も、相通じるものらしい。

 チェストに飾ってあった古い家族写真などは、日頃気にもかけないで過ごしてきたが、夕食後に虚庵夫人が手にとって、しげしげと見入るのにつられて、一緒に覗きこんで驚いた。写真の中の若々しい茶羽織のハンサムボーイは誰だ? 並び立つ和服の虚庵夫人も、楚々とした美女に見えるではないか。「さくら」や「乙女」と同列に比較するのは誠におこがましいが、鏡に映る老顔や目の前の虚庵夫人に比べれば、若かった頃の二人とも輝いて別人に見えるではないか。 

 「うつろ庵」の住み人も、ずいぶんと歳月を重ねたものだ。一緒に写っている高校生の息子も、既に四十路のオヤジに変身しているのだから・・・。

 開花間もない「河津さくら」に「華」があるのは至極当然だが、人間も老いてなお「華」ある存在でいたいものだ。老醜を晒す虚庵夫妻であるが、こののち萎れるばかりの人生では終わりたくないものだ。せめて何か、ささやかな「華」を身につけたいのだが・・・。






            仄かにも薫りたつかなさくら花の

            春の誇りを香りに聞かなむ


            さくら咲く春はきにけり生垣の

            小さな陽だまり吾子を抱くや


            かんばせを誇る桜の香りかな

            春陽にかざす思いをきかまし


            幾歳か過ぎにしものかわぎもこの

            楚々たる姿にときめく爺かな






「八戸えんぶり」

2010-02-19 00:29:25 | 和歌

 八戸工業大学で開催した「学生とシニアの対話in八戸」に参加し、請われて基調講演をさせて頂いた。青森県は東北電力の東通原発、Jパワーの大間原発、六ヶ所村の原燃サイクル施設、むつ市の使用済核燃中間貯蔵施設、更には東電の東通原発計画などが目白押しだ。この様な一大原子力拠点のニーズに応えて、八戸工業大学は「チャレンジ原子力体感プログラム」を実践してきたが、今年度もプログラムの一環としてシニアとの対話会を開催したものだ。

 2月17日は、「八戸えんぶり」の開幕日で賑わっていたが、この祭と重ねて「対話会」を開催した意義を、基調講演の冒頭で学生諸君と共に考えてみた。

 約800年の歴史を誇る国指定の重要無形民族文化財「八戸えんぶり」であるが、「伝統の技と心」の
伝承と、市民が一丸になって盛りあがる「祭」は、考えようによっては「原子力の技術伝承」と相通じるものがある。「知の創造と蓄積」或いは「高度の技術」は、いかに優秀な技術者であっても一人では成し得ない。原子力の高度な総合技術は先人の知恵と技術を如何に伝承するか、更には先輩達の心血を注いだ「こころ」を如何にバトンタッチするかが、極めて重要な課題だ。「八戸えんぶり」の伝統も、この様な伝承がシカと受け継がれて来たことに思いを致して、「対話会」の意義を改めて確認した。

 熱のこもった対話を重ねた後は、ささやかな懇親会で打ち解け、くだけた交流のひと時を楽しんだ。





 懇親会がはねて、八戸市々庁前広場で催されていた「かがり火えんぶり」を観覧した。
幸いにも舞台最前列に一人分のスペースが残っていて、そこに座を占めた。 お隣には土地の老医が、既に御酒を愉しみつつ「えんぶり」を待っていたので、彼に倣って「熱燗」を手に入れて「地摺」をまった。
シニアの呑助同志はたちまち意気投合して、話がはずんだ。初めて観覧する「えんぶり」は、謡の言葉も地摺の動作も全てが奇異に感じられたが、老医が丁寧に解説して下さってので、おお助かりであった。





 太夫が手にもつ「ジャンギ」の音、「手平鐘・てびらがね」の独特な音色と拍子、横笛や小太鼓などの
お囃子もほど良く酔いが回った体に心地よく響き、「招福舞」や「えびす舞」などの祝福芸も笑いを誘って、親密感が溢れる「えんぶり」であった。4歳か5歳ほどの子供も祭の衣装を着飾って楽しそうに踊る姿には、じじ・ばばも目を細めて手を打つに違いあるまい。

 根雪がとけない北国に春を呼び寄せ、五穀豊穣を願う「えんぶり」は、この土地ならではの冬の祭として、永く受け継がれてきた。土地の皆さんのその思いが、胸にじわーっと伝わってきた。






            目を瞠り耳を澄ませて講演を

            聴き入る姿に思いを託しぬ


            「えんぶり」と原子力との相関を

            共に語りぬ伝えるこころを


            「えんぶり」を熱燗酌みつつ語らえば

            たちまちにして爺も朋かな


            化粧して祭の衣装に身を包み

            踊る子供に託す夢かな






「蘇芳梅と緑萼」

2010-02-15 17:32:21 | 和歌

 「うつろ庵」の蘇芳梅と、お隣の白梅「緑萼」が道路を挟んで相対して咲いている。

 深紅の蘇芳梅が若干速めに開花して、後から咲く白梅を待つのが例年のことであるが、この時節は東風(こち)が吹いた後など、紅白の花びらが舞い散って、あたりは殊のほか風情にあふれる。庭掃除では落ち葉だけを掃いて、紅白の花びらは風の吹くままに任せ、余韻に酔いしれる虚庵居士である。


 


 お隣の白梅が植えられるまでは、「うつろ庵」の八重咲きの紅梅だけが早春の彩であったが、今では紅白が対になって咲くので、格別の趣が醸しだされている。お隣さんからご相談があったわけではないが、場所的にも紅白が対峙する位置を選んで植えて下さった。「蘇芳梅」は若枝までもが深紅の皮で覆われるが、お隣の白梅は萼も若枝もが緑色の「緑萼」だ。八重咲きの深紅の梅花に相対するには、緑が白い花びらを際だたせる「緑萼」を選んだものと思われるが、お隣さんと植木屋の感性に感謝している。





 梅の季節が過ぎてやがて暖かな春を迎えれば、「うつろ庵」の周辺はつつじの咲き乱れる住宅街に変貌するが、その際もお隣さんとは道路を挟んで向う側がピンクのつつじ、こちら側は白つつじのフラワーベルトの対になって、見応えがある。
このつつじの対比は同時期に宅地造成した業者の、「遊び心」の遺産だ。

 普段は言葉を交わす機会も少ないお隣さんであるが、競い合うのではなく、花同志がお互いに惹きたて、盛りたて合ってくれるお隣さんである。






            七重八重 あつきこころを蘇芳梅は
            
            咲きてほてりを寒気にさらすや


            老いたれば漂う梅が香の聞き分けも

            侭ならぬ身のかなしかりけり


            緑萼と緑枝に咲くかな白妙の

            梅が香りをきかまほしけれ


            仰ぎ見れば無限の蒼穹うめ尽す

            梅が花木の虜か翁は






「シンビジウム」

2010-02-13 18:36:28 | 和歌

 久方ぶりに早春の陽ざしが、シンビジウムの黄花を浮き立たせた。

 このところ北日本・関東平野も雪雲が覆い、横須賀も雪は降らなかったが、垂れこめる雲が重たくのしかかる日が続いた。そのような空模様のなかで春を思わせる陽がさして、玄関先に置いたシンビジウムの花が、俄かに輝いた。





 立春も過ぎて「雨水」も間もなくという時節の平均気温は、或いは年間を通じて最も寒い時期かもしれない。そんな厳しい寒さのなかで、シンビジウムの黄花が咲くのは、寒がり屋の虚庵居士には信じがたい、自然の営みだ。年老いて殊更に寒さが身にしむこの頃は、シンビジウムも寒かろうと心配になって、暖かな部屋の中に取りこもうかとも考えたが、急激な気温変化はかえってシンビジウムには気の毒かもしれないと思いとどまって、敢えて玄関先に置いたまま過ごしてきた。垂れこめた雲に覆われて、寒くて陰鬱な毎日であったが、シンビジウムはよく耐えて、花びらは凛としたものを漂わせている。

 それに引き換え、総理や民主党幹事長の政治資金問題が、検察や野党の厳しい追求を受けて、彼らはしたたかな対応を続けているが、内心は厳しい追求に打ち震えているに違いあるまい。最も清廉潔白であるべき国の指導者が、政治資金問題で追求を受けること自体が甚だ恥ずかしい事態であり、国民の視線では理解を超えるものだ。自らの政治資金を管理させる組織、或いは秘書がしでかした不始末に、政治家本人が厚顔無恥にも「知らぬ・存ぜぬ」を繰り返す姿には、憤りを超えて哀れにすら見えてくる。
指導者とは本来、胸を張って己の信ずるところを凛然と訴え、その言動を以って国民をリードするべきものだが、彼らの言動も怯えた表情も見るに堪えないのは、国民の一人として悲しいことだ。

 国会中継では、「母が、ははが」と発言する総理を捉えて「ママのスカートに隠れるのはお止めなさい」と窘める一幕もみられた。また不動産を買い漁る幹事長を、「政治家か不動産屋か」と揶揄する発言が浴びせられるなど、国の指導者としては誠に恥ずかしい事態だ。

 寒気の中で凛と咲くシンビジウムを、見習って欲しいものだ。
一片の花びらを送って、「煎じて飲め」と訴えようかしらむ・・・。






            垂れこめる重き雲かな如月の

            凍てつく寒気に耐える花かも


            雲間より射しくる春の陽ざしうけて

            歓喜を聞くかなシンビジウムに


            早春の寒気に耐えよと花びらを

            あつく咲かすは神のこころか


            早春の陽射しにきらめく花びらの

            誇りを見ませ穢れしひとびと






「鴨と遊ぶ」

2010-02-10 00:16:12 | 和歌

 東京湾の海岸には、自然の砂浜が殆ど無くなったという。
三浦半島も横浜から久里浜にかけて、汀線はかなりの長さではあるが、虚庵居士の住いの近くの
”走水海岸”の他は、砂浜はごく僅かになった。

 久しぶりに砂浜に降り立って虚庵夫人と散歩したら、鴨の群れも幾つかのグループが波打ち際で
くつろいでいた。





 天気が良いとは云うものの、立春の寒気はまだ厳しいものがある。首をすくめて佇むのは、年長の鴨であろうか。波に揺られながら泳ぎ回る鴨、中には小さな波乗りを楽しむ鴨もいる。彼らはまだ若者の鴨かもしれない。

 冬の池や湖では鴨も珍しくないが、海辺の鴨は珍しいのかと思ったが、波の静かな海であれば羽根
やすめには海であっても関係ないのかもしれない。一般的に池や湖、或いは田んぼ等は水深が浅いので、彼等にとっては羽根やすめと共に餌の確保には打って付けに違いあるまい。それに引き換え、コンクリート岸壁の海では水深も深く、潜って餌を捕るのは至難の業であろう。砂浜の海が少なくなったのは、人間様から潤いを奪ったばかりでなく、鴨にとっても気の毒なことに、過ごしずらい環境に違いあるまい。

 鴨と遊び、言葉を交わす術を持たない虚庵居士ではあるが、この世に生を享けた同世代の「生きもの
同士」として、何やら心のつながりが感じられた砂浜の散歩であった。






            立春は名のみの寒さか首すくめ

            身震いするらし渚の鴨さえ


            鴛鴦の契りの固き二羽ならめ

            渚に遊ぶもいたわる風情は


            波に乗り砕ける波をも楽しむは

            サーフィン気取る若き鴨かな
              

            砂浜に鴨と遊べば立つ春に

            朋となるかもひと時なれども






「早春の莟」

2010-02-08 13:18:37 | 和歌

      「うつろ庵」の河津桜の莟が、大寒を過ぎた頃から膨らみ始めた。





            身を寄せて寒さを凌ぐやほの赤く

            頬染め待つらし河津の莟は




 何年前になるであろうか、虚庵夫人と連れだって伊豆の河津に桜の花観に出掛けた。防寒着に身支度を整え、温かな飲み物を携えて河津の駅頭に降り立ったら、満開の河津桜が目に飛び込んできた。
桜並木に導かれて、多くの花見客と共に河津川の堤防をそぞろ歩きしたのが、つい昨日のことのように想いだされる。

 住宅地には珍しいの檜の巨木が枯れて、伐りとった後の空間は何とも虚しかった。何年か前の感激を想いだして、その空間に河津桜を咲かせようと思い立って、若木を植えた。幸いにも河津桜の若木の生長は、眼を瞠るばかりの速さで、既に「うつろ庵」の庭にその座を占めつつある。

 殊のほか寒さが厳しかった今年は、開花が若干遅いように感じられるのは、未だかまだかと待ち焦がれる気のせいかもしれない。「うつろ庵」の早春の宴も、間もなくだ。






            ふくらめる萌黄の衣ゆまろびいずる

            うす紅の桜のつぼみは 

            
            早春の陽ざしを受けて首もたげ

            開花の朝に備える君かも






「うつろ庵の椿・吉備」

2010-02-06 12:15:37 | 和歌

 「うつろ庵」の窓先の「侘助・吉備」が、年末から咲き続けている。

 日除け代わりに窓際に植えたこの椿は、かなり長い期間にわたって花を楽しませてくれるが、目白が
目聡く見つけて花蜜を吸うので、花びらはたちまち傷ついて気の毒だ。しかしながら、目白が身を逆しまにして蜜を吸う様を、部屋に居ながら窓越しに観るのも、又とない愉しみだ。「吉備」の傷つかぬ花を愛でるには、開花直後に小枝を切り取って飾るのだが、目白と先を競って摘み取る「お遊び」も、他愛もない
お愉しみというものだ。

 日差しが強くなる時節には、窓を覆う木陰のお陰で、ギラギラした直射日光が遮られ、木漏れ日が差し込む風情には格別な趣がある。この侘助椿からは、さまざまな至福を頂戴しているので、「吉備」様さまと云ったところだ。






            一輪の侘助の花飾らむと

            めじろと競うや翁の遊びは


            吉備の花たかきに咲けば脚立もて

            手をのべ見れば目白の傷かな


            侘助は夜中に落ちて今朝もなお

            容姿をとどめぬ涙の蜜はも






「木の葉の恋文」

2010-02-03 13:25:11 | 和歌

 毎朝の庭掃除が虚庵居士の日課の一つだが、今朝は素敵な「木の葉の恋文」を頂戴した。

 珊瑚樹の色付いた葉が一枚、虚庵居士を待ち受けていたのだ。
柔かな新芽から月日を経て、逞しく分厚い緑葉に成長し、やがて早春の芽吹きに備えて自ら散りゆく姿は、何か「己の生涯を弁えている哲人」を偲ばせるものがある。

 手に取った「木の葉」は、元々の緑の色を残しつつも、落ち葉に相応しい黄葉に衣を代え、残された燃ゆる想いを紅に染めた最後の「木の葉の恋文」かと思えば、胸にジンと迫るものがある。

 「うつろ庵」はごく狭い敷地の侘び住いであるが、東・南側が公道で西側は四米幅の私道に囲まれている。その三方を珊瑚樹の生垣で囲っているので、春から夏にかけての生育の旺盛な時節は、剪定もなかなか大儀である。

 「木の葉の恋文」とは聊か大仰な表現だが、一枚の落ち葉は、汗して手入れを続けて来た庵の主と
珊瑚樹とのほんのチョットした、「心の交流の証」かもしれない。






            散りゆくに胸のつかえを色に代え

            想いを託すや落ち葉の文はも


            一枚の木の葉のにほふは何ゆえか

            千々の想いを色に読みてむ