「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「どうだんつつじの赤芽」

2013-01-31 00:30:22 | 和歌

 「うつろ庵」近くの遊歩道には、「どうだんつつじ・満天星躑躅」が数多く植えられているが、昨今の厳しい寒さにも拘らず、早くも赤芽が夕陽に輝いていた。

 
 「どうだんつつじ」は小枝が立て込み、春になれば新緑が芽吹き、満天星の白い小花が咲く様は、譬えようもない美しさであるが、厳寒にも拘らず春の芽吹きに備えて、小枝の先々にはごく小さな赤芽が膨らみ、春への期待を感じさせた。

 そんな中にあって、真紅の小葉が対で凛と立っていた。どうしたことであろう、晩秋の落葉の時節を違えて、真紅に葉を染めたまま厳寒を迎えたのであろうか。厳しい寒気に堪え、小葉を紅に染めて凛と立つ姿には、「どうだんつつじ」の健気さが感じられた。

 やがて時節を迎えれば、鈴らんに似た小花を吊り下げて咲き誇るであろうが、厳寒の時節にあっても、己の存在を見事に主張する「どうだんつつじ」に、目を瞠った。

 


           葉は総て秋に散りけり毬栗の

           丸坊主かなどうだんツツジは


           夕陽さす どうだんツツジの小枝には

           大寒なるにも 赤芽ぞふくらむ


           芽吹きには未だ間もあるに小枝には

           赤き新芽の息吹きをきくかな


           丸坊主のどうだんツツジの枝先に

           真紅の小葉は凛と立つかな






「虚庵居士のお遊び 閲覧200万に到達」

2013-01-29 03:29:16 | 和歌

 昨日、このブログの閲覧総数(トータル閲覧PV)が2,000,000頁を超えました。掲載する記事は毎回、A4換算で一・二頁ですから、凡そ300頁の単行本の一万冊に相当することになります。

 ブログのタイトルでも宣言して居ります虚庵居士のお遊びですが、折々の花とそれに纏わる和歌などを詠じ、お遊びを続けて参りました。斯くも多くの閲覧を頂き、虚庵居士のお遊びにお付き合い下さった読者の皆様と、心を通わせられたことが何よりも虚庵居士のお宝です。
どうぞこの後も親しくお付き合い下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。

 なお、これまでのブログを私家歌集CD版に収録し、9巻になりました。ご希望の方は、メール:kyoan2@mail.goo.ne.jp 宛にご連絡下さい。送料込み一巻500円です。 

   「落葉」        「薔薇を娶らむ」    「折々の花と歌」
   「庵の夕べ」     「更に一献」       「芽吹きのドラマ」
   「夕映えの銀杏」   「明日あるを・・・」   「虫たちの力作」

 

 ブログの閲覧総数が2,000,000頁に達するには、凡そ160,000人程の皆様がブログ「虚庵居士のお遊び」にご来訪下さった結果ですが、散歩の途上で出会ったエリカ・グラキリスの一株には、一体どれ程の小花が咲いているのだろうか。
自然の草花の持つ偉大な能力には、感服だ。

 


           柴の戸を人々あまた訪ね来て

           お読み下さる 数二百万とは


           斯くばかりわが作お読み下さるは

           訪ね來し客 十六万にも


           ふと見れば小花小花が重なりて

           如何ほど咲くらむ エリカ・グラキリスは


           さりげなく庭先に咲く小花なれど           

           一株の持つ 威力に痺れぬ






「水仙の日時計」

2013-01-27 00:05:37 | 和歌

 全国的に寒さが厳しい今年は、早春と云うには未だ間がある感覚だが、自然の世界では日一日と時の移ろいが見られる。

 三浦半島でも久しぶりに吹雪に見舞われたが、そんな気候でも水仙が咲いた。
「うつろ庵」からの散歩の範囲は知れてるが、水仙の開花は随分とバラツキ、例年に比べてほぼ半月程度は、開花が遅いようだ。寒風の吹きすさぶ場所、風が遮られて陽だまりになる場所など、様々な条件の差があるので、開花の時期は一様ではないが、おしなべて今年はだいぶ遅いようだ。

 水仙の日時計はこんな寒波の中でも働いているから、感服の限りだ。気温の変化を感じるのであれば、寒さが厳しい昨今の開花指令は、「待てまて」であろう。水仙の日時計には、カレンダーなど存在する筈もない。残りの可能性は、日照時間の変化を感じ取っているのかもしれない。小さな球根と細長い緑葉の水仙には、高度な観測装置やIC回路が備わっている訳ではないのに、どこでどの様に日照時間の変化を感じ取り、気温の変化とどの様に調和を取っているのだろうか。

 水仙をはじめ、諸々の生物のもつ計り知れない超能力の素晴らしさを、改めて思い知らされた虚庵居士である。

 


           吹雪舞う寒波もものかわ水仙の

           初花咲きぬ 春も間近か


           水仙の二輪の花は語るらし

           清楚な姉妹か寄り添ふ姿は


           水仙の何処に秘めるや日時計を

           球根稚けく緑の直ぐ葉に


           凍てつける大寒なれども笑み湛え

           会釈するらし散歩の爺にも






「遊園地の菜の花」

2013-01-25 00:08:30 | 和歌

 何時もの散歩道の途上に、子供たちがよく集まる遊園地がある。
遊園地へのエントランスの両側に、菜の花が咲き乱れていた。この遊園地のご近所の皆さんが、季節に応じた花々を育てて、子供たちに素晴らしい環境を造っている、虚庵居士注目の遊園地だ。

 

 住宅地の中には、それぞれかなりの面積を遊園地に割いているが、ほとんどの遊園地には子供たちの遊ぶ姿が見られないのが、昨今の現実だ。子供達には、遊ぶ魅力があるか否かが肝心なのだ。子供の感性に応えた遊べるスペースでなくば、 遊園地は無用の長物だ。ここの遊園地は子供達が走り回り、好き勝手な遊びに応えられる広さも程々であるが、ご近所の皆さんの心配りが素晴らしい。

 お花に誘われ、遊園地に導かれるような設えと、常日頃の手入れが行き届いているのが見事だ。

 

 子供たちの遊ぶ姿を見ていると、住民が手入れしたお花には、殆ど目もくれない素振りだが、走り回る子供らもボール遊びに夢中の子供も、おままごとで遊ぶ幼児らも、お花を傷めるようなところは一切見られない。老人が花を愛でるのと異なり、子供たちの視線の中には、遊びながらもお花の姿を目にして、意識せずも大切にしているのであろう。

 菜の花の向こうに、キャッキャと声をだして遊ぶ子供たちの姿は、何物にも代えがたい社会の資産ではなかろうか。ここの住民の皆さんは、その貴重な宝物の値打ちをご存知だから、お花の手入れに余念がないのであろう。敬服の限りだ。

 


           菜の花を透かして見ゆる子供らの

           遊ぶ姿に安らぎ覚えゆ


           子供らは菜の花愛ずるにあらねども

           お花とともに遊ぶ日々かな


           菜の花は「おしくらまんじゅう」の莟かな

           ぼくらのあそぶすがたをまねるや


           子供らは無邪気に遊ぶ今日もかも

           その声聞けば去り難きかな






「万両の紅白」

2013-01-22 00:30:41 | 和歌

 万両は赤実が一般的だが、愛好家は白実万両も珍重している様だ。

 出会った白実万両は、葉付きもなかなか重厚で、葉の縁の白線もしっかりしていた。葉の反りがかなりキツイので、葉裏が縁から覗いて、踊っているようにも見えるから愉快だ。

 

 白実の付き具合は、実房が幾段にもうち重なって、逞しくすら見えるではないか。 
この万両は、過日の猛吹雪でも被害を受けなかったのは、後ろの生垣が防風林の役目を果したのであろうか。

 「うつろ庵の万両」を二週間ほど前にご紹介した。正月二日には烈風に吹き飛ばされて、鉢を割られた際の写真だが、半月後には猛吹雪で赤い実が殆ど吹き飛ばされてしまった。気の毒にも、悲惨な目に二度も遭遇した万両だが、こうして紅白を並べて観ると、赤実の万両が可憐に見えるのは、身贔屓というものだろうか。


           烈風も 猛吹雪にも耐えるかも

           白実万両実房を湛えて


           対峙する白実万両様々に

           物語りして爺を放さず


           幾重にも実房を重ねて逞しく

           見得を切るかな白実の万両は


           葉を捩り振りかざす様 自来也が

           見得を切るかも 「バッタリ」聞かずや






「丸葉シャリンバイと磯菊」

2013-01-19 21:19:50 | 和歌

 東京湾に浮かぶ唯一の天然の島・猿島に、手が届きそうな至近距離の横須賀・馬堀海岸の遊歩道については、昨年の8月に
「馬堀海岸の夕焼け」でご紹介した。
高潮・越波対策の護岸に沿って、カナリー椰子とワシントン椰子の並木が続く、散歩には恰好のプロムナードだ。

 椰子の根方には、数日前にご紹介した磯菊が、寒風に吹きすさばれてもなお、健気に黄色の小花を咲かせて、散歩する市民の皆さんの目を愉しませてくれているが、「丸葉シャリンバイ」の植え込みも控えめだがガンバッテいる。厳寒のこの時期には、夏から秋にかけては紫色だった実が、黒紫に熟してギッシリなっているのだが、道行く人々は殆ど気にも留めない様だ。

 実の姿形はブルーベリーによく似てはいるが、皆さんの関心が集まらないのは、食用にならないからであろうか。現金なものだ。

 

 そんな不満を呟きつつ、椰子並木の下をを歩んでいたら、ハッと目を瞠った。

 丸葉シャリンバイの実と磯菊が、あたかも相思相愛のような姿で、寄り添っていた。シャリンバイの小さな丸葉は、頭に手をやって照れている若者の仕草をうかがわせ、磯菊が肩を寄せる姿は、恋人に寄り添う乙女を想わせて、微笑ましくなった。

 


           椰子の木の根方を彩る磯菊を

           海風厳しく吹き荒ぶかな


           背をこごめ寒風に堪えて健気にも

           磯菊笑むかな 黄色の小花は


           車輪梅の丸葉の間に間に まろき実は

           黒紫に熟して黙しぬ


           斯くばかり控えめなればか諸人の

           めずる姿を見ぬぞ悲しき


           歩みくれば寄り添う二人に出会いけり

           丸刈り頭に肩寄す乙女か


           はにかむや頭に手をやるおの子かも

           寄り添いささやく乙女の姿か






「薮入りと磯菊」

2013-01-17 18:44:23 | 和歌

 1月15日は「小正月」、16日は「薮入り」だった。

 昔からのこの様な風習は夙にお蔵入りして久しいが、そんな言葉も日本人の優しい心すら、消え失せようとしているのは生活スタイルが変貌したからで、仕方のないことなのであろうか。

 正月は歳の初め。「お屠蘇」と「お節料理」で新年を寿ぐのが日本の年中行事の初めであるが、これとて家族一同が和服でご挨拶するお宅は、殆ど皆無になったことだろう。正月の男共は、朝からお屠蘇を頂き、美味しいお節料理を堪能して将にこの世の春であるが、主婦の負担は、年末の拭き掃除からお節料理の準備、年始の準備など並大抵ではない。忙しく立ち働いた女性たちにも、一休みさせたいとの思ひから「女正月」とも言われている所以だ。

 

 1月16日と7月16日の「薮入り」は、女中や丁稚奉公していた若者が小遣いとお仕着せを得て、晴れて実家帰りが許された日であった。嫁さんも、懐かしい実家へ里帰りの出来る、年に二回だけの日でした。

 厳しい生活習慣も、就労環境も様変わりした現代には通用しない、「小正月」や 「薮入り」であるが、使用人や嫁いできた女性に対する温かな配慮は、大切に受け継いで行きたいものだ。

 海岸の「磯菊」が、厳寒に堪えて咲く健気な姿を見て、改めて昔の人々の温かな思いやりの心が偲ばれた。

 


           薮入りのその日の寒さは何故ならむ

           実家へ帰れる悦び抱くに


           磯菊の押し合いへし合い咲く様に

           寒さを堪える思ひを偲びぬ


           背をこごめ烈風に堪えて磯菊の

           群れ咲く中に己をみるかも


           凍てつける寒気にあれども身を寄せて

           磯菊咲くかな花色豊かに


           小正月と薮入りの日をつなげてぞ

           安らぎ得よとの心にしびれぬ






「街路樹の黒鉄黐」

2013-01-14 01:24:07 | 和歌

 「黒金黐・くろがねもち」の街路樹が、見事な赤い実を付けて久しい。

 「うつろ庵」は、住宅街の中の大きな公園に接するブロックの東南の角地だが、この街路樹からは凡そ100メートルほどの位置だ。いわば、「うつろ庵」の生垣の続きのような存在だから、散歩の都度ご挨拶する街路樹だ。

 

 東京湾に沿った海岸通りは、椰子並木が数キロに亘ってつながり、この椰子並木に直角に交差する住宅地の道路には、それぞれ街路樹が植えられているが、カイヅカイブキ、マテバシイ等の色気のない街路樹が殆どだ。

 しかしながら、この通りだけは黒金黐が植えられ、秋から春までの華やぎの無い季節に、見事な赤い実が沢山なって、住民と道行く人びとに安らぎを与えて呉れていた。

 ところが有ろうことか数日前に、市役所の手配であろう、多くの植木職人が一斉に黒金黐の剪定に取り掛かり、あっという間に見事な赤い実のなった枝を切り落とし、丸裸にしてしまった。

 何とも無風流な、役所仕事であることか。  剪定は、赤い実が落ちてからにして欲しかった。


           寒空に黒金黐の赤き実の

           押シクラマンジュウに思わず笑むかな


           稚けなき黒金黐の街路樹は

           何時しか見上げる樹木に育ちぬ


           うつろ庵の珊瑚樹の実と朋なるや

           紅カガヤク黒金黐はも


           朝な夕な紅の実に挨拶を

           重ねる日々は豊かなるかも


           あろうことか紅の実の枝えだを

           伐り取る指示を誰ぞなすらむ


           悲しきは黒金黐の命なる

           紅の実のこころを知らずや






「教えて」

2013-01-12 01:51:34 | 和歌

 散歩の途上で、可憐なお花に出会った。

 真冬の今ごろ咲く花にしては、余りにも可憐で、花びらの表情も極めて繊細だ。
何処か木槿の開花途上の風情に似通っているが、開花の時節も、花や葉の姿も違うようだ。

 帰宅して、花図鑑で検索したが、「これだ」と特定できる花の名前・種類などにたどり着けなかった。読者の皆さんのお知恵にすがり、教えて頂きたいものだ。 念のため虚庵居士の観察結果に依れば、5弁の花びらの最大径は約3センチ、花丈は5センチ程度、花の枝の背丈は70~80センチ程であった。

 


           嫋やかな枝先に咲く一輪に

           じじ恋うるかな名前を知らずも


           俯けるかんばせの奥に黄金なる

           花粉を湛えて君はさくかも


           床しきは花被の色合い薄めつつ

           花びら仄かに染めるけしきは


           斯くばかりの気はひを誰から学ぶらむ

           凍てつく寒気の睦月にあれども






「白侘助」

2013-01-10 01:43:56 | 和歌

 峠を越えて小径を下っていたら、頭の上の生垣に「白侘助」が咲いていた。

 腕を伸ばし、爪先立って写したので、ピントの調整も侭ならならぬ撮影だったが、
一輪だけ咲いていた姿だけは何とかカメラに収められた。
帰宅して画面を確認したら、些かピンボケ気味であったが、ご勘弁願いたい。

 冬の寒さが厳しい時節の花は山茶花が定番で、「白侘助」は数が少ないようだ。
 茶人などは好んでこの椿を庭に植え、初釜などに際して自ら一枝を摘み取って、茶室にそれとなく飾るのであろうが、メジロなどの小鳥にとっても、掛け替えのない花蜜の供給源だ。この時節の椿の花にとっては、小鳥が残した傷跡は、ある意味では勲章のようなものだ。この白侘助の花びらに幽かに残る傷も、多分、メジロの痕跡・勲章かもしれない。

 虚庵居士の「うつろ庵」には白侘助が無いので、散歩の途上であれこれ推測しつつ愉しませて貰った。

 


           山路来てふと見上げれば生垣に

           一輪咲くかな白侘助は


           いと高き白侘助を写さむと

           爪先立ちて腕を伸ばしぬ


           ただ一輪生垣に咲く白侘助の

           凛たる姿に心を偲びぬ






「木瓜の初花」

2013-01-08 00:33:03 | 和歌

 正月早々の散歩で、木瓜の初花に出合った。

 寒気の厳しい正月であったが、木瓜の花は寒さをも厭わず、道端の陽だまりに咲いていた。生憎カメラを携えていなかったので、その姿を瞼に焼き付けて帰ったが、初々しい木瓜の花を読者の皆さんにご紹介出来ないのは、誠に残念だった。

 

 翌日の散歩には、バカチョンカメラを手に持って門を出たら、虚庵夫人がすかさず
「あら、昨日の木瓜の花を写しに行くんですの?」との問いかけがあった。虚庵夫妻の散歩コースは、暗黙裡に毎回ルートを変えているので、そんな心算はなかったが、昨日の木瓜の花が瞼に浮かび、それも一案だとの思いが頭を過ぎった。

 ところが習性とは怖ろしいもので、それ程の未練がありながら、足は別のコースを歩み始めていた。

 正月の朝寝・朝酒・お節料理で、些かエネルギー過剰だった虚庵夫妻は、何時の間にか最も過酷なコースを歩んでいた。
過酷とは云え、平地の住宅街から高低差百メートル足らずの峠道を登り、頂上から東京湾を遠望し、ひと山を越えて隣町に至る片道七・八キロ程の道程だ。
「くたびれたら電車で帰れる」との気安さもあって、時々辿る散歩道だ。

 そんな途上で、図らずも木瓜の初花が待ち受けていて、感激だった。

 この木瓜の木は、虚庵居士の背丈を遥かに凌ぐ大きさであったが、疎らな花と共に、まだ固い莟も沢山控えていて、「どうぞ又遊びにお出で下さい」と語りかけている風情であった。


           山越えて辿り来ればじじ・ばばを

           待ちにけらしも木瓜の初花


           寄り添いて木瓜の初花咲く様は

           無邪気に笑ふ乙女子思ほゆ


           枝先の一輪の木瓜と語らひぬ

           気品を湛える清しき乙女と


           未だ固き莟の数々告げるかな

           またのお越しをお待ちしますと






「うつろ庵の万両」

2013-01-05 13:14:01 | 和歌

 「うつろ庵」の万両が、赤い実を付けて久しい。

 

 この万両は、小鳥の置き土産がいつの間にか成長して、実を付けるまでになったものだ。「うつろ庵」を取り囲む生垣に沿って、ツツジのフラワーベルトが植えられているが、その背丈を超えて顔を覗かせ、やっとその存在に気が付いた「うつけ者」の虚庵居士であった。

 成長が遅い万両ゆえ、多分十余年をツツジに囲まれて、じっと耐えていたことであろう。些か涕ぐましい成長の物語が偲ばれる。

 赤い実を新年のお飾りにしようと、玄関前の甕の上に置いた。
万両にとっては晴れがましい役回りで、清貧の「うつろ庵」には相応しい設えのつもりであったが・・・。

 正月二日は、早朝から烈風が吹きすさんだ。朝寝坊の虚庵居士が身支度を整えて玄関を出たら、万両の鉢は、何と甕から吹き落され、鉢は割れていた。 
幸いにも、万両に怪我は無かったので、早速代え鉢に植替えた。

 万両の涙ぐましい成長の物語に敬意を表して、年代物の鉢に植えてあったが、安物の鉢で我慢して貰うことにした。


             紅の実粒の耀く万両を

             年の初めの飾りに据えにし


             清貧のうつろ庵には相応しく

             万両晴れて 立役なるかな


             あろうことか 烈風吹き荒れ万両を

             鉢もろともに吹き飛ばすとは


             万両を見せばやとして設えを

             高みにせしを悔やむ爺かな


             幸いに いとしき万両怪我もなく

             代え鉢に植え再び飾りぬ






「紅小菊」

2013-01-03 14:24:44 | 和歌

 正月の「うつろ庵」の庭先に、「紅小菊」の一輪が咲いた。

 昨今の寒気が厳しい気候では、よもや莟は開くまいと案じていたが、健気にも小花を咲かせて、虚庵夫妻に新年のご挨拶をしてくれた。葉の色が白っぽく見えるのは、防寒用のごく短い羽毛が菊葉を覆っているためかもしれない。それも見ようによっては、お正月の薄化粧に見えるのは、身贔屓と云うものか。

 


           いと寒き年の初めにけな気にも

           くれない一輪 小菊は咲きぬ


           新玉の年の初めのご挨拶に

           じじ・ばば思わず ほほえみ返しぬ


           おしろいをほんのり刷くや菊の葉は

           正月寿ぐお化粧ならむか