「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「月下美人・ Queen of the night」

2011-10-30 04:19:56 | 和歌

 「うつろ庵」の月下美人・Queen of the night が、10/26の夜咲いた。

 この花は横文字で、Night Blooming Cereus とも呼ばれるが、日本名に近しいセンスとしては ”Queen of the night” であろう。花の名前にも、国境を越えた共通の感性が見られる事例であろう。




 
 莟が膨らみ始めると、二・三日のうちに成長が加速するようだ。そろそろ開花かなとの期待をこめて、観察するのも楽しいものだが、莟に花びらの白色が際だってくれば、「今晩咲くわよ」との彼女自身の宣言だ。虚庵居士は早速大きな鉢の汚れを洗い落とし、テラスの手作りのテーブルに運び上げた。

 夕刻近くには並々とワインを注いだグラスを片手に、テラスの椅子に腰を据えて早くも花見の宴の態勢だ。気の早い虚庵居士を見て、「随分と手際がよろしいこと」とひと言ある虚庵夫人であった。日がとっぷりと暮れて、なおそれから暫らく経たねば咲き始めぬことを承知している彼女は、「月下美人の傍で夕食を」との夫の誘いを察知したのであろう、「お食事ですよ」との機先を制する彼女の呼びかけで、しぶしぶ室内に戻った虚庵居士であった。

 老夫妻の夕食は、たっぷりと時間が掛る。
食事を終えて、莟が口をあけたのを確認したのは、案の定、二〇時頃であった。更に満開になったのは、深夜二十四時ころであった。それまでの間に友人宅を訪ね、月下美人の生家の大鉢の開花をも楽しんだ虚庵夫妻であった。


 


 翌日は、町内のゴルフコンペが予定されていた。幹事さんがバス手配を済ませて、明日の車内でのご挨拶をよろしくと念を押されているので、遅刻は許されない。何時になく早朝・五時半に玄関を出てテラスに回ったら、昨晩の月下美人とは色合いも気配もすっかり変身した彼女が待っていた。早朝の爽やかな光を浴びて、清楚で気品に満ちた明けの美女の姿であった。



 

          恋い焦がれ此の夜の来るのを待ちしかば

          膨らむ莟に息吹を観るかも


          待ちかねてグラス片手に日暮れずも

          月下美人に寄り添うじじかな


          テラスにて月下美人と共にせん

          語りの盃酌めども尽きまじ


          恋う人のゆらめく心そのままに

          花芯は燃える炎ならむや

        
          手を広げ心をひらき在りのままに

          己をさらせと訓える君かも


          ただひと夜に全てをかける君なれば

          全てをなげうち共に過ごさん
         





「駆け足の金木犀」

2011-10-25 02:26:33 | 和歌

 「金木犀」の花時が、駆け足で過ぎ去っていった。

 毎年のことながら長月から神無月の頃になると、何処からともなく高貴な香りが漂ってきて、「あ、金木犀だ」 と心の中で呟きつつ、辺りを見回すのは楽しみの一つだ。
金木犀はごく平凡な庭木で、花も葉陰に隠れて咲く小花ゆえ、華やかさもなく目立たない存在だ。住宅地などを歩いていても、馥郁と薫り立つ「高貴な香」に、金木犀の存在を初めて気付かされるのが何時ものことだ。
 
 小花が咲き始めて暫くすると、木の下には金粉を撒き散らしたかのように小花が散り敷いて、何とも言えぬ景色を醸しだしてくれる。毎朝の庭掃除では、散り敷いた小花を掃かずにそのまま留めて、金木犀独特の風情を堪能する虚庵居士だ。

 そんな夢見心地の日が続くと、何時の間にか高貴な香が失せても、それに気づかず、小枝には萎れた小花の名残だけになっていた。素晴らしい環境が続くと、愚かな虚庵居士は何時しかそれが当たり前になって、感性も忽ち鈍くなっていた様だ。

 気が付いたら、金木犀の花時は駆け足で過ぎ去った後だった。



 

          散歩すれば佳き香に知るかな木犀の

          花を探しぬこうべをめぐらし


          帰り来れば庵の庭の木犀も

          仄かな香りで咲に初めにし


          明けぬれば主を待つらし木犀の

          香り溢れぬ狭き庭にも


          金粉の撒き絵に紛ふは木犀の

          小花散り敷く今朝の道路は

        
          散り敷ける金木犀を掃かずおけば

          せかずに行きませ道行く人びと






「うつろ庵の住人」

2011-10-22 01:38:43 | 和歌

 「うつろ庵」には様々な生き物達が、虚庵居士夫妻と仲良く暮らしている。

 それぞれが、どの様なきっかけで「うつろ庵」に棲みついたは不明だが、いつの間にか腰を落ち着けて居るところを見れば、住み心地がいいのであろう。小鳥の置き土産?から芽吹いた花木や、自分の意志で飛んできた昆虫、時には野良猫。椿の枝に巣作りして抱卵した鳩ポッポは、お隣さんの雨戸の軋み音で逃げ出したが、そんな些細な事は意にもかけない風情の蜥蜴(トカゲ)など等だ。

 玄関先の浜姫榊(はまひさかき)が些か徒長したので、刈込をしようと大鋏を構えたら、「蜥蜴」が腹を広げて日光浴の最中であった。「うつろ庵」には大小様々な蜥蜴が棲みついているが、初秋から晩秋にかけては腹を広げて、日光浴を楽しんでいる姿をよく見かける。この蜥蜴も太陽の恵みを精一杯受け止めて、ご満悦の風情であった。



 以前にも同じ浜姫榊の刈込の上で、日向ぼっこをしていた蜥蜴をカメラに写したことを思い出した。やっとの思いで探し出したら、浜姫榊の白い小花と一緒に納まったトカゲ君が見つかった。

 トカゲ君も「うつろ庵」の住民ではあるが、彼らについて物を書くことなど全くないので、漢字を思い出せなかったが、パソコンではたちまち漢字に変換された「蜥蜴」を、改めてまじまじと見た。「虫偏に折れ易い」とは・・・。

 トカゲは身に危険が迫ると、咄嗟に自らシッポを切り落とす非常手段の持ち主だ。 切られたシッポは、激しくピコピコと動き回り、攻撃した側はそのシッポの動きに気を取られている間に、トカゲ君は素早く身を隠すという、極めて高度な護身術を身に付けているのだ。「蜥蜴」という漢字を当てた古人は、「折れ易い=切れ易い」シッポの特徴を知り尽くしていたのであろう。

 それにしても、身に迫る危機を的確に感じ取り、自ら長いシッポを切り落とす蜥蜴の決断力には、人間どもも見習いたいものだ。極めて大きな危機に見舞われて、何時までも右往左往する人間社会は、蜥蜴に言わせれば「シッポも切れない阿呆」ということになろう。しかしながら、重大事に見舞われてヘッポコな部下の首を切って、己の安泰を図るトップを間々見かけるが、これは頂けない。

 「うつろ庵」では、シッポの切れた蜥蜴をトンと見かけぬので、彼らにとっては安心この上ない住処なのであろう。


 

          剪定をせむと鋏を構えれば

          のどかに蜥蜴が日浴びをするらし


          ゆく秋の日差を浴びて心地よげに

          身じろぎもせぬ蜥蜴くんかな


          虫偏に折れ易きとは是如何に

          咄嗟に身を切る蜥蜴の秘策を


          身に迫る窮地に至らば己が尾を

          切り捨て命を守る蜥蜴ぞ


          小首傾げじじの言葉を待ちおるや

          庵の蜥蜴も相住む朋かな






「陸奥のまゆみ」

2011-10-17 01:18:41 | 和歌
 
 陸奥の宿では、早朝の湖畔の散歩が虚庵居士のお気に入りだ。

 宿の敷地の中とはいえ広大な湖ゆえ、一周するにはかなりの時間がかかる。朝の散歩では、早起きしないと叶わぬのが辛いところだ。前の晩も呑みすぎて午前様だった虚庵居士は、何時もの散歩コースのごく一部分で我慢せざるを得なかった。

 湖の縁の散歩道から、チョットだけ離れた小径に足を踏み入れたら、「まゆみ・真弓/檀」の実が揺れていた。

 真弓は秋になれば、木の葉も実も見事な紅に染まるので、遠くからでも目立つ存在だが、紅葉にはまだちょっと早かった。だが、実は仄かに色づき初めて、初秋の薄化粧といった気配だった。


 

 実の表面には既に朱を差した筋が交差しているが、やがてこの線に沿って皮が破れ、中から真紅の実が顔を出す日も遠くあるまい。

 そんな「まゆみ」の写真をインターネットで探したらに、イメージにぴったりの写真をみつけた。桃色に色付いた外皮が十字に割れて、中から艶やかな紅の実が顔を覗かせているではないか。小鳥たちに「食べて、たべて!」とセガンデいる様が何とも可憐そのものだ。
                                  HP・せいいちろうのへや より借用


          朝露を小径に踏めばまゆみゆれて

          おとめご微かに挨拶するらし


          稚けなき乙女ごなるかと思ゆるに

          仄かな化粧に愕かれぬる


          秋の日も深まりゆかば装いを

          紅に染むその日を観まほし


          実を包む衣を破りそのひまゆ

          真紅したたる身をのぞかせるとは


          激しくも恋ふる乙女か艶やかに

          滾る想ひを誰に捧ぐや


          あい集い小鳥ら啄ばむその声を

          秋の真弓は如何に聴くらむ






「陸奥の初秋」

2011-10-14 00:24:44 | 和歌

 羽田を早朝に発って三沢空港へ飛び、車で六ヶ所村に到着したのは10時を過ぎていた。丁度ひと月ほど前のことだが、大学を卒業して社会人になったばかりの若者達と、熱のこもった対話会が楽しみで出張した。対話会のキックオフは、昼食の弁当を若者と一緒に食べるのが最初のスケジュールで、誠に粋な計らいであった。半世紀ほどの年齢差があれば、若者とシニアは中々打ち解け難いが、弁当を食べながらの顔合わせでは、「あっと言う間に」打ち解けた。

 若者の悩みや提起する問題に、経験豊富なシニアが体験事例など紹介しつつ、双方向の意見交換による研修を目指したものであった。期待するレベルに到達できるよう、様々な配慮が整えられていて、研修担当の皆さんの入念な事前準備は、誠に見事であった。教育や人材の育成は、専門の程度が高ければ高いほど困難を極め、多様なカリキュラムが求められるが、出来れば企業の枠を超えた情報交換や、相互のテクニカル・トランスファーが求められるところだ。

 コンピューター・ソフトの開発では、産官学の枠を最初から設定せずに、専門家もアマチュアも自由にアクセス出来る環境を設定して、極めてオープンにソフト開発を進め、自由な利用を促すことでより高度で、拡張性に優れたコンピュータソフトも環境が確立しつつある。今後のより優れた文明の確立には、そのような開かれた発想が欠かせない。若者との刺激的な交流を終日重ね、懇親会では思わずアルコールのピッチも上がり、眠りに就いたのは午前様であった。
 




 陸奥の初秋の気配を肌で感じたくて、三沢に降り立ったが、前日はその時間もとれぬ過密なスケジュールであった。一夜明けて宿の湖畔の散歩は、短時間ではあったが別の世界を堪能させてくれた。まだ紅葉は始まっていなかったが、冷涼な早朝の気温が身を引き締め、湖面も向こうの小高い森も仄かに秋への備えが感じられた。

 湖畔では、足音を聞きつけた鯉が、朝の撒き餌を期待したのであろう、虚庵居士の足元近くに沢山寄り集まってきた。此処にはまた、異次元の世界が展開されていて、ともすれば近視眼的になりがちな虚庵居士には、暗示的ですらあった。





 湖畔を散歩したら、強い風で折れ曲がったのであろう、月見草が種を宿し、細い葉をほんのりと紅葉させていた。己の行き着く先を垣間見る様な情景で、水面に浮かぶ木の葉との静かな対比が印象的であった。





 

          昼飯の弁当食べつつ若者と

          言葉を交わせば歳の差消え失せ


          ほとばしる爺らの言葉を受け止めて

          悩みをブツケル彼等 若者


          膝交え互いの思いをぶつけあえば

          懇親会では肩を寄せ合い


          激しくも言葉をブツケタ乙女らが

          グラス片手に寄り添いて来るかな


          みちのくの初秋をこの身で受けなむと

          湖畔の散歩に寛ぐ今朝かな


          足音を聞きつけ集まる湖の

          鯉の社会を垣間見るかも


          人の世と異なる次元の世界なれど

          鯉の世界に人の世見るかも


          折れ曲がり種を蓄え未だなお

          命ながらふ月見草かな


          翻りわが身を思えば月見草に

          己の姿をいつしか重ねぬ


          漂える水面の落ち葉に草ぐさに

          もの思ふかも陸奥の湖畔に






「日除けのむかご」

2011-10-10 16:13:45 | 和歌

 「うつろ庵」のテラスは、簾を庇風に設えて日除けとした。
この日除けの効果は抜群で、テラスが虚庵居士のお気に入りの休息場所になった。

 いつの間にか自然薯の蔓が柱をよじ登って、日除けの縁に絡み、あろうことか零余子(むかご)が垂れ下がった。簾の日除けに風情を添えて呉れたので、在るがままの姿を楽しむことにした。

 かつて虚庵居士は近くの防大山を散策した際に、自然薯の零余子を摘み取って来て、それを「うつろ庵」の庭にばら撒いた。すっかりそのことを忘れていたが、翌年になって自然薯の蔓が伸びだして驚いた。そんな経緯を数年前にも「零余子・むかご」とのタイトルで、写真と一文を掲載した。
しかしながら、自然薯の蔓が余りに蔓延って見苦しいので、蔓の根元からバッサリと刈り取って、サッパリとした気分になった。ところが、翌年も再び蔓が伸びだして唖然とした。

 思い余って蔓の根方を掘ったら、何と、立派な自然薯に成長していて驚いた。
あの時の、記念すべき収穫の写真を「うつろ庵の自然薯」に掲載した。

 それにしても、防大山の散策で摘み取った数粒の零余子が、素晴らしい生命力を発揮して「うつろ庵」に根を下ろし、斯くも多くの物語を提供し、楽しませて呉れようとは予想だにしなかった。これから先、どんな楽しみを提供してくれるのであろうか。 




 

          手作りの日除けの下に腰おろし

          ふと見上げれば零余子揺れいて


          逞しき生命力かな自然薯は

          己の居場所を日除けに得るとは


          日除けより蔓を垂らして語らふや

          下に寛ぐ爺を相手に


          散策の途上で摘みにし数粒の

          零余子のもたらす多くの楽しみ






「秋茗荷」

2011-10-05 00:56:05 | 和歌

 「うつろ庵」の茗荷に季節外れの花が咲いた。

 狭い裏庭が茗荷畑になっていて、今年も初夏から盛夏にかけては沢山の茗荷がとれて、夏の冷麦には、無くてはならぬ薬味として重宝した。
「家事の序に、茗荷畑を覗いたら見つかったのよ」と言いつつ、虚庵夫人がまだ土のついたままの二つを、大事そうに手に捧げて見せに来てくれた。秋台風を過ぎて涼しくなってからの茗荷は珍しい。

 茗荷は地下茎をどこまでも延して、思わぬ処に芽を出してかなり背丈も高く伸ばす精力的な植物だ。そんな茗荷だが食用として人気のあるのは、地下茎から地表面すれすれに顔をだす莟の部分だ。この莟から地表に淡い黄色の瑞々しい花を咲かせるが、気の毒なことに茗荷の花を愛ずる人はごく少ないようだ。茎と葉がかなり茂った足元に咲くので、殆ど人目につかぬためであろう。ごく薄いフリルの花びらが水気を帯びて、極めて繊細で短命な花だ。そのような花を咲かせるために、ふくよかな莟の萼の部分は、かなり肉厚で水気をたっぷり含んでいる。そのような莟だからこそ、食用の薬味として人気があるのであろう。

 かつて沢山とれた二年程前にも「茗荷」とのタイトルで、写真と一文を掲載したが、この茗荷をお土産に下さったNご夫妻宛に、絵葉書に仕立てて郵送したら、早速折り返し電話があった。

 茗荷がとりもつ絵葉書と久方ぶりのお電話で、懐かしい交流が甦った。




 

          香り立つ茗荷を摘めば偲ばるる

          新居を祝いしお心くばりを


          絵葉書に仕立てて歌添え送りなば

          懐かしき声電話に聞くかな


          既に早や落ち葉降り敷く秋なれど

          命を惜しむや花咲く茗荷は


          吾ぎ妹子(もこ)は土の茗荷を捧げ持ち

          目にも声にもよろこび溢れて






「孫へのメール  おんぶばった」

2011-10-01 00:46:36 | 和歌

 孫が写した写真集の一部を3回シリーズでご紹介してきたが、横須賀のじじ・ばばの「うつろ庵」に庭には、図らずも別種の Grasshoppers がご挨拶に来訪した。

 テラスで夕涼みを兼ねて、二人だけの月見の宴がすっかり気に入った虚庵居士は、夕暮れ近くになるとそわそわ落ち着かなくなる。テーブルクロスに代えて竹簾のテーブルセンターを敷き、風灯を吊り下げ、蚊遣り等の準備万端を整えて、グラス片手に晩酌が始まる。虚庵夫人は「あら、もう始まったんですか?」などと、愕きと蔑みの声が掛るのも当然だ。

 やがて陽も落ちて、虫の集きも盛んになる頃には、夕食の準備を整えて虚庵夫人が合流する。夏から初秋にかけての、又とない楽しみのひと時だ。ごく狭い庭だが、生垣にすっぽりと囲まれた空間には、庭木や草花の鉢植えがそれぞれ住人としての位置を占めて、秋の虫たちには恰好の演奏環境となっている。そよ風に吹かれつつ頂く食事は、エアコン環境の室内とは全く別世界だ。ついついグラスの数も重なって、毎晩が酩酊状態でこの世の極楽を堪能することになる。

 そんな朦朧とした目の前に、「うつろ庵」の Grasshoppers がご挨拶に現れた。
テラスの手作りのテーブル脇には、花虎の尾が咲き誇っていたが、散り残りの花が萎れる花柄に、「おんぶばった」の番が止まって、風に揺らめいていた。老夫妻の酩酊に付き合って、「おんぶばった」も酔いを醒ましているかのような気配であった。

 孫からの「写真集」メールの返信に、横須賀の Grasshoppers を送った。




 

          虫集く秋はきにけり我が庵の

          風灯ゆるるは 酔いにけらしも


          坪庭に秋の夜風は誘うや

          おんぶばったの番(つがい)が訪ぬは 


          夕暮れの庵の庭に語らわむ

          めおとのわれ等とおんぶばったは


          わが孫に紹介してよ望むらむ

          おんぶばったが訪ね來たるは


          海越えておんぶばったを遣わすは

          愕く孫の顔見ま欲しき