「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「Erskine Lakes の紫式部」

2015-11-28 13:10:53 | 和歌

 米国NJ州の Erskine Lakesで、湖畔の生活をエンジョイする娘の家族から、”Happy Thanksgiving”のメッセージに添えて、見事な「紫式部」と共にディナーテーブルを囲む家族の写真が届いた。



 7月末には、虚庵夫妻の金婚式と孫息子Caneron君の十三詣を家族全員で祝い、米国へ帰国後、娘は思ひも掛けぬ大手術に見舞われた。
幸い元気に復帰した姿を、Thanksgiving の写真で見て一安心のじじ・ばばであった。

 半月ほど前に「Erskine Lakes の紅葉」でご紹介したが、彼女らの広い庭園には「いろは紅葉」や「紫式部」が植えられ、生活に潤いを齎す環境を自ら整えていることには感心する。 米国の社会環境に身を置く娘は、ささやかな花壇やこれらの自然 環境に心の安らぎを求めているのであろう。

 一日も早く、元気溢れる元の姿に快復して欲しいものと、願わずにはおれない。




           大手術の娘を案じるばば様は

           ひとこと ひとこと メールに託しぬ


           それぞれに手を握りあい微笑みを

           湛える家族の写真が届きぬ


           湖の畔の庭に枝垂れたる

           紫式部は実房豊かに


           Erskine Lakesの湖畔に 和のこころ

           いろは紅葉や紫式部は


           快復に感謝のディナーかテーブルの

           紫式部は ”Thanks giving”






「デンタータラベンダー」

2015-11-25 20:03:14 | 和歌
            
 晩秋にも拘らず、「デンタータラベンダー」が咲いていた。
ラベンダーは春咲きが多い様だが、このデンタータラベンダーは何時みても花を付けている四季咲きだ。



 生花を楽しむラベンダーだが、香りの強いラベンダーは、花を乾燥させてポプリを作り、香りも楽しむ二途もあろう。 デンタータラベンダーの香りはあまり強くないので、ポプリには適さないのかもしれないが・・・。

 「うつろ庵」の庭にはラベンダーを植えてないので、ラベンダーポプリは店先で嗅ぐ程度だが、毎春、真紅の薔薇が咲き誇るので、薔薇ポプリを楽しむ虚庵夫妻だ。
花を堪能し、尚且つその後も香りを楽しめるのは、ある意味でが贅沢だが、肝心なのは心の余裕があるか否かだ。 虚庵居士は学会などのボランティア活動に追われ、日常生活の雑事に忙殺される毎日だが、花を、そして香りを嗜める「心のゆとり」を、僅かながら保てていることに感謝だ。


           霜月のつるべ落としに落ちる陽よ

           しばしのお待を ラベンダーと語るに


           咲き昇るデンタータラベンダーの花穂かな

           ところどころに小花を散らして


           足早の薄暮に揺るるラベンダーの

           小花と語ればほのかに香りぬ






「琵琶の薬効」

2015-11-22 12:31:41 | 和歌

 琵琶の花が咲き始めた。
茶色の羽毛に覆われて暖かそうに莟が寄り添い、晩秋の陽ざしをうけて咲く様は、
子供の頃に寒さを凌いで遊んだ「オシクラマンジュウ」を思い出させる。



 民家の庭先などにも琵琶の木が植えられているので、ごく身近な存在だ。春には果物として栽培された琵琶が店頭に並び、仄かな甘みと独特の味わいが人気だ。

 この琵琶の種と葉が、愕くべき薬効を持っているのが余り知られていないのは何故だろう。印度の古い仏典・涅槃経(ねはんきょう)などの中に、琵琶は生きとし生けるものの万病を治す植物として、「大薬王樹」と尊ばれているのだが・・・。
琵琶が比較的に温暖な地域の植物ゆえ、寒冷な地方には琵琶の恩恵が伝わらなかったのかも知れない。

 念のためチョットだけ調べたら、葉を使う自然療法や種の焼酎漬は、万病薬として古くから利用されて来たことが判明した。琵琶の薬効については、昨今では医科学的に解明されて、葉や種に含まれるアミグダリン成分はビタミン17として、癌の特効薬として注目されているという。琵琶の薬効は癌だけでなく喘息、肝硬変、糖尿病など慢性の難病にも薬効があり、その他、血液を浄化する働きがあることも証明されている様だ。

 「虚庵居士のお遊び」の中で、生半可に薬効を解説するのは不謹慎の誹りを免れぬので、この辺で留め置くが、琵琶については改めてオオマジメに勉強してみたい。


           紅の木の葉舞い散る晩秋に

           みどり葉保ち琵琶は咲くかな


           薄茶色の羽毛に包まれ莟達は

           おしくらまんじゅう 遊ぶにあらずや


           春来ればふくよかな実を頬張らむ

           琵琶を思えば潤う口元


           琵琶こそは数多の難病の特効薬とか

           古来の知恵に愕かれぬる


           紀元前の印度の仏典・涅槃経に

           琵琶を讃えて大薬王樹と


           琵琶の持つ類い稀なる薬効に

           目を瞠るかな 心して学ばむ






「烏瓜と遊ぶ」

2015-11-20 20:48:59 | 和歌

   緑の木の葉の間から、赤く熟した「烏瓜・からすうり」が覗いていた。



 野生の蔓草で、これほど大きな実を付けるのは烏瓜を措いて他にはあるまい。しかも、住宅地をチョット離れた藪や林の端によく見かける、ごく身近な存在だ。

 一つ二つの烏瓜を蔓を付けたままもぎ取って自宅に飾ると、野趣に富んだ風情が絶品だ。
「うつろ庵」には残念ながら茶室は無いが、茶席の「お飾り」にすれば数寄者は悦ぶだろう。

 烏瓜は夏の日が暮れてから白い花を咲かせる。花弁の先から無数のごく細い糸をレースの様に広げ、10センチ程の神秘的な花になる。
一夜花ゆえ、翌朝には繊細なレースを閉じるので、殆どの皆さんが観賞するいとまも無いのが誠に残念だ。

 「からす」を冠にした野草は、「烏瓜」をはじめ随分多いことに気付いて、指折り数えてみた。可憐な花を咲せる「からす豌豆」、空き地によく見かける「からす麦」或いは「からすの茶引き」、更に「からす胡麻」・「からす山椒」・「からすひしゃく・烏柄杓」・「からす葉千両」・「からす木蓮」など等、虚庵居士の乏しい知識だけでも8種にもなった。

 なぜ「からす」が冠につくのか?
烏が好んで食べるから? 「烏瓜」を烏が好んで啄ばんだ痕跡など、見たこともない。小振りの瓜に似ているが、食用にならぬことから「からす」が付けられた可能性もありそうだ。「からす豌豆」に対して、「雀豌豆」はよく似た蔓草だが「からす豌豆」の方が大ぶりだ。「からす木蓮」と普通の木蓮はどうか? 「からす」が付く花は色が濃いようだ。「かさす麦」は何故か? 麦に似てはいるが食用にならぬ雑草だ。

 どうやら「食用にはならぬ」、或は花が「若干大ぶりだ」、或は「色が濃い目だ」など、小鳥に比べて「大ぶりで不格好な野鳥」、「雑食性」など烏の負の部分を利用したのが、冠に「からす」を付けた古人の思いらしい。飽くまで虚庵居士の、お遊びの推論であることをお断りしておきたい。


           見上げれば緑の木の葉の間より

           赤く熟した「からすうり」見ゆ


           吹き荒ぶ木枯らし一番? 烏瓜の

           蔓葉を枯らすや赤き実吊るして


           からす瓜を蔓ごと飾る「うつろ庵」に

           お薄召しませ茶室にあらねど


           昔より「からす」の冠 何故ならむ

           指折りかぞえるあまたの草ぐさ


           シービビと子供の遊ぶ蔓草を

           想い出すかな からすの豌豆


           赤き実の烏瓜みて様々に

           想いをめぐらす虚庵のお遊び






「柚香菊・ユウガギク」

2015-11-18 00:04:21 | 和歌

 腰の激痛と坐骨神経痛からやっと回復した虚庵居士は、毎朝の腰痛体操と散歩が日課になった。そんな虚庵居士を慰めて呉れる野の花に、感謝だ。散歩道の林の端で、「柚香菊・ユウガギク」が楚々と咲いていた。



 華やかに咲き誇る山茶花などに比べれば、ごく質素な野花だ。草丈も高々50センチほどで、道行く人々は殆ど眼にも留めぬが、小さな花が寄り添って咲く姿が何とも
いじらしい。

 花の名前の「柚香菊」は、柚子の香りがほんのりと漂うことから付けられたと云うが、虚庵じじの衰えた臭覚では、その微妙な香りを聞くことあたわず、誠に残念だ。

 それにしても、野草の花に柚子の香りを聞き分けて、それを名前に残した感性には脱帽だ。その様な感性を研ぎ澄まして、香道や華道、或いは茶道などの世界にも類い稀な、高度な文化を創り上げて来た日本の古人には、深い敬意を奉げずには居れない。


           散歩道の林の端に楚々と咲く

           野花のなぐさめ 柚香菊かな


           夕暮れの木影はそこまでかたむくも

           しばし待たれよ野菊と語るに


           柚子の香のほのかに漂う野の菊に

           その名をとどめる床しき古人ぞ


           柚子の香の薫るを聞かむと膝おるも

           老いを知るかな聞くもあたわず


           稚けなき小花寄り添い咲くさまに

           わぎも共々 こころ寄せにし






「箱根登山口のお猿さん」

2015-11-15 15:20:39 | 和歌

 横須賀から箱根・芦ノ湖へのドライブを、久し振りに楽しんだ。
早川にさしかかって、国道1号線から三枚橋を渡り旧東海道に左折したら、有ろう事か、橋の上で「お猿さん」の出迎えを受けた。



 国道に比べ、旧東海道の交通量は比較的に少ないので、のろ~り運転で「お猿さん」を避けつつ、車中からシャッターを切った。 後から写真を見て愕いたが、住民の3・4人がごく近くでバスを待ち、お猿の一匹は元酒屋さんの開いたガラス戸から中を覗くなど、この辺りでは打ち解けた「お猿さん」らしい雰囲気だ。

 三枚橋を渡る前に橋の袂で一匹、橋を渡りきった辺りで道路を横切って一匹、更に酒屋さんの前に三匹がたむろしていたことから、「お猿さん」軍団は少なくとも五匹以上の群れで行動している様だ。箱根登山口とはいえ、民家も交通量もそれぞれかなりな環境のなかで、住民の人々と打ち解けて生活する逞しさには、愕きだ。




           久方に箱根のお山へのドライブで

           有ろう事かな お猿の出迎え


           橋渡る車の脇にお猿さんの

           丸いまなこに オドロクじじばば


           橋渡り 旧東海道へのご案内か

           車の前を 走るお猿は


           お猿さんを避けつつ のろ~り従えば

           酒屋のガラス戸のぞく猿かな


           バス待つや住民近くに佇むに

           お猿も人も我は関せず 


           口ずさむ箱根八里に唱和して

           じじばば迎える「お猿さん」かな






「山茶花と小蟻」

2015-11-13 16:15:42 | 和歌

 10月の中頃に「山茶花の初花」を掲載したが、その後、固く閉じたままの莟が開花した山茶花を囲む、この写真をお送り頂いた。白い花びらと、頬を紅に染めた莟たちの対比が誠に鮮やかだ。


                        撮影とご提供 片岡勝子様

 莟たちも既に開花して、今頃は華やかな饗宴を繰り広げていることだろう。
開花した山茶花を丁寧に観察すると、小さな蟻が蜜を求めて花芯に入っていることをメールで指摘して居られたが、自然が創りだす互助システムには感服だ。蟻に限らず虫や鳥などは、自らの判断と力量で厳しい自然の試練に耐えるべく、逞しく生きているのだ。

 我々人間社会では、ともすると口先だけの発言や、判断を他人任せにしたり、身を護ることにすら他人の責任を云々する事例などが見られ、気懸りだ。率先して自らの責任で、身近なところから取り組むことの大切さを説いた諺、「先ず隗より始めよ」との箴言を噛み締めたいものだ。
更にまた誰に強制されるでもなく、無言で助けを提供する自然の優しさも、見倣いたいものだ。


           紅に頬を染めにし莟かな

           白山茶花との対比に見惚れぬ


           姉慕う幼児にあらずや山茶花の

           莟の頬を紅に染めるは


           白妙の山茶花の奥 花芯には

           小蟻を抱きて蜜を召せとは


           在るがままに無言で支える山茶花の

           まことの優しさ 逞しさかな






「Erskine Lakes の紅葉」

2015-11-11 01:40:35 | 和歌

 米国NJ州の北部、Erskine Lakesの湖畔に住む娘婿から紅葉の写真が届いた。
この辺り一帯は、背の高い楓の林が大地を被い、11月から年末にかけての黄葉・紅葉は見事だが、そんな中でも数少ない「もみじ」の紅葉には目を瞠る。



 秋になると湖の水面が凡そ1メートル程も下がって、露出した湖岸には落葉が敷き詰められる。数少ない「いろはもみじ」等が敷地内に数本植えられているので、鮮やかな紅葉を楽しんでいる様だ。 

 かつて孫と娘夫妻のささやかな菜園の遊びを、「小さな農場 - 小さな経営者」或は「小さな農場 - 楓ともみじ」等のタイトルで、5日連載でご紹介した。(クリックすれば、リンク先が表示されます↑) 林の中の紅葉の様子など、併せてお楽しみ頂きたい。




           なだらかに連なる山々間もなくも

           織りなす楓の錦に変わらむ


           湖の岸の近くの紅葉の

           その声聞かむ じじばば観てよと 


           無造作に伸ばすもみじの枝下に

           カメラ構えし想いを汲むかな


           アースキンレイクの秋の錦葉に

           託すあまたの想いを受けにし






「虎杖・いたどり」

2015-11-08 17:24:32 | 和歌

 石垣の上に咲いていた「虎杖・いたどり」の花に、目を瞠った。
規則正しく並んだ節毎の葉と、淡い花穂をかざす姿の対比にほれぼれと見惚れた。



 もっと近づいて花のリアルな姿を写したかったが、高い石垣に遮られてそれも叶わず残念だった。しかし、それが却って憧れの思いを掻き立てたのかもしれない。
「いたどり」の茎はかなり逞しいが、節々の花穂の重さで茎が撓み、やっと水平に保っている姿が何ともいじらしいではないか。

 田舎で育った虚庵居士の子供の頃は、何処にでも「いたどり」が自生していた。
春先のすくすくっと伸びる太めの茎は、素手でポキンと簡単に折れて、皮を剥いてよく食べた。淡い酸味が誠に爽やかで、子供達には人気だった。

 それにしても、「虎杖」を「いたどり」と読ませるのは腑に落ちない。
転んで擦り傷を負うと、葉を揉んで擦り傷を治療してくれた母の面影が偲ばれる。
痛みがスッと消えるので、「痛み取り・いたどり」は子供ながらに理解できた。

 枕草子でも、「虎杖」の読みかたには疑問を呈していたことを最近になって知った。かの清少納言も、虚庵居士と同様に「虎杖」に頭をかしげていたというから、千年を隔てての共感に思わず笑みがこぼれた。


           微かにも夕陽をうけていたどりの

           花穂は浮かびぬ石垣の上に


           律儀にも並べた節葉に花穂かかげ

           重さに堪えるいたどり愛しき


           ひざの傷にいたどりの葉を揉み添える

           母の面影 偲ぶじじかな


           腑に落ちぬ「虎杖」の読みは 千年を

           へだてし吾も 清少納言も






パグウォッシュ会議 「長崎宣言」

2015-11-06 22:05:49 | 和歌

11月1~5日の間、長崎・伊王島で開催されていたパグウォッシュ会議世界大会は、
「長崎宣言」を採択して閉会した。

南シナ海での米中対立などが注目され、原子力再稼働反対や安保法制反対などが
連日報道される一方で、核廃絶を訴える「長崎宣言」があまり報じられない現実に、
世界で唯一の原爆被災国・日本の行く末が案じられます。

「長崎宣言」を引用しますので、お目通し下さい。
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The 61st Pugwash Conference on Science and World Affairs
“Nagasaki’s Voice: Remember Your Humanity” 
1-5 November 2015, Nagasaki, Japan

Nagasaki Declaration of the Pugwash Council
5 November 2015

“Let Nagasaki be the last.” Seventy years after the destruction of Hiroshima and Nagasaki, we are still faced with the imminent dangers posed by thousands of nuclear warheads. Atomic bomb survivors (Hibakusha) are on average above 80 years old. To this day they suffer from the effects of the nuclear attacks that devastated their lives. The Pugwash Council hears the voices of the Hibakusha calling for the abolition of nuclear weapons. We urge world leaders to heed their call now. 以下和訳参照

第61回パグウォッシュ会議世界大会  2015年11月1~5日、長崎

「長崎宣言」   (仮訳)

「長崎を最後の被爆地に」―。原爆が広島と長崎を壊滅してから70年の歳月が流れました。それでも私たちは今なお、数千発の核兵器がもたらす切迫した危険に直面しています。被爆者の平均年齢は80歳を超えました。今日に至っても被爆者は、自身の人生に多大な苦難をもたらした核攻撃の影響に苦しんでいます。パグウォッシュ評議会は核兵器の廃絶を希求する被爆者の声に耳を澄まします。そして世界の政治指導者に対し、被爆者の叫びを受け止めるよう強く訴えます。

核兵器の脅威は今も増大しています。核軍縮は行き詰まっています。紛争が多発しています。核兵器転用可能な核物質の量が世界各地で増大しています。核兵器が法的に禁止され、廃絶されるまで、そして核兵器転用可能な核物質が安全な形で処分される日が来るまで、意図的ないしは偶発的な核兵器使用のリスクは常に存在し続けます。

すべての核兵器保有国は、核兵器システムの近代化計画を中止しなくてはなりません。核兵器保有国の近代化計画に割り当てられた数十億ドルもの財源は、核リスクの最小化、核の偶発的発射やサイバー攻撃の防止、軍縮の促進にこそ使われるべきです。そして最も重要なのは、核兵器保有国が核兵器の削減にとどまらず、核兵器の廃絶を確約しなくてはならないということです。包括的核実験禁止条約(CTBT)の迅速な発効も不可欠です。拡大核抑止(「核の傘」)に依存する非核保有国もまた、核軍縮を支持し、例えば非核兵器地帯への参加や創設によって、自身の安全保障政策を変革しなくてはなりません。

核拡散防止条約(NPT)の再検討(レビュー)プロセスやジュネーブ軍縮会議(CD)といった、軍縮・不拡散をめぐる既存の国際的な協議枠組みは大切ですが、その限界も明らかです。国々と市民社会、国際組織が連携して核兵器の法的禁止を目指す全世界的なイニシアティブが、核の脅威除去のために重要な役割を果たしうるでしょう。

2011年に発生した東京電力福島第1原発事故は、原子力安全の重要性、また原子力技術に付随するリスクを封じ込めることの重要性を、私たちに思い起こさせました。現代科学技術が多くの分野で急速に進展しています。そのことが究極的には人間性にまで影響を与えるという点に十分な注意を払わなければ、新たな危険が鎌首をもたげるかもしれません。恐らく今日、科学者の社会的責任はかつてないほど重大なものになっています。

「対立を超えた対話」。 これはパグウォッシュ運動の基本理念です。核兵器使用の引き金を引くかもしれない地域的緊張は外交的な措置によって解消されるべきです。すべての当事者はあらゆるコストを払って軍事衝突を回避しなくてはなりません。戦争が実際になくならなければ、現代また次世代の大量破壊兵器によって、人類はその生存が脅かされ続けることになります。私たちは、ラッセル-アインシュタイン宣言の本質に立ち返りたいと思います。核兵器を廃絶し、究極的に戦争そのものをこの地球上からなくさなくてはなりません。

強固な道徳心と倫理観がなければ、人類は生き延びることはできません。広島、長崎の被爆者、世界中で行われた核実験で被ばくしたヒバクシャの経験を次の世代へと伝承していくことは、決定的に重要です。核兵器およびその他の大量破壊兵器が存在する限り、壊滅的な結末は避けられません。ラッセル-アインシュタイン宣言を思い起こし、長崎市民と被爆者の声を分かち合いながら、きのこ雲の下で起こった惨劇が深く刻み込まれたこの地から、パグウォッシュ評議会は今一度、人類の一員として、人類に向かって訴えます。「あなたがたの人間性を心にとどめ、その他のことを忘れよ」と。

(訳;パグウォッシュ2015組織委員会)



「ピンクのオキザリス」

2015-11-05 01:57:25 | 和歌

 秋も深まり朝夕の肌寒いこの頃では、「ピンクのオキザリス」は目を惹く存在だ。
住宅街を外れて散歩していたら、庭と空地の境が定かならぬ辺りに、「オキザリス・プルプレア」が雑草と入り混じって可憐に咲いていた。



 オキザリスは白・黄色・赤・縞模様など様々な花の種類がある。それぞれに固有の名前が付けられているに違いあるまい、そんな思いを抱きつつ花図鑑を調べたら、「オキザリス・プルプレア」に辿り着いた。

 元来、オキザリス自体が野生と園芸種の区別もつけがたい草花ゆえ、雑草と入り混じった露地は、彼女らには寛げる環境なのかも知れないが、住み人の除草の支援があれば、「オキザリス・プルプレア」はもっと気品を湛えているに違いないと思われるのだが・・・。


           何処までが庭か空地か定かならぬ

           草叢に咲くオキザリスかな


           地境の定かならぬは住み人の

           長閑な暮しの証しならむか


           草叢は「極くつろげる雰囲気よ」

           オキザリス・プルプレアの声聞く心地す






「メキシカン・セージ」

2015-11-02 02:23:13 | 和歌

 「メキシカン・セージ」の花が咲き初めて、既に数週間にもなろうか。これ程長い期間に亘って目を愉しませて呉れる草花は、類い稀だ。この頃は彼方此方の庭先によく見かけるが、そんな事情もあるのだろうか。



 「うつろ庵」の庭でも、かなり以前からお仲間だ。当初は露地植えだったので草丈は1.5メートル程にも繁茂した。狭い庭先で余りにも徒長したので、少々お控え頂きたいとプランターと丸鉢に移植した。

 驚いたことに、露地からプランターに切り替えたら、翌年の草丈は見違える様に短くなって、露地植えのほぼ半分ほどだ。小振りの丸鉢では更に草丈が短く、精々40センチ程だ。

 原産地メキシコの原野で、のびのびと草丈を伸ばし、繁茂していたであろうセージには、プランターや鉢植えはお気の毒な環境に違いあるまい。

 「メキシカン・セージ」が育てられる環境で、これ程の変化が見られるとは思いも依らぬことであった。
ましてや人間社会では育つ環境、生活する環境、更には教育環境などがどれ程か人間性に影響を与えることか、改めて深く考えさせられた。


           久方にのびのび育つメキシカン

           セージに寄り添い言葉を交わしぬ


           瞠るかす原野に波打つ紫の

           メキシカン・セージを頭に描きぬ


           「うつろ庵」のメキシカン・セージはそれなりに

           草丈控えて調和を保ちぬ


           環境のなせる業かな改めて

           この二文字の威力にしびれぬ


           紫の衣をまとい白妙の

           花咲くセージに多くを学びぬ