「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「皇帝ダリア」

2013-11-30 12:21:15 | 和歌

 住宅街を歩いていると、背の高い「皇帝ダリア」が目に付くこの頃だ。

 以前は殆んど見かけなかったが、ここ数年の間に人気が高まったようだ。
草丈が3~4メートルにも及ぶ、超大型のダリアだ。種苗店などの解説では、メキシコ原産でダリアの原種だそうだ。このダリアは日照時間が短くなる晩秋に咲くので、庭の草花が枯れて淋しくなるこの時節には、貴重なお花だ。かなり大きめの花は、吹き荒ぶ秋風に傷み易いのが気の毒だ。

 背が高いので、見上げれば殆どの場合が家屋や背の高い邪魔物がファインダーに入り、彼女(彼?)の気品ある姿だけをカメラに収められないのが残念だった。醜い夾雑物の姿と共に写したのでは、撮影技術が拙い虚庵居士の力量では、清純な表情を写せずに悔しい思いであった。が、やっと秋空をバックにした、皇帝ダリアに巡り合えた。

 ブログに掲載する段になって、改めて写真を吟味したが、虚庵居士の意図する皇帝ダリアの清純さと、華やかさが撮れていないのが残念だ。勝手なお願いで恐縮だが、ご覧になる皆さんの感性で、拙い虚庵居士のカメラを腕を補って頂きたい。
皇帝ダリアの素晴らしさを、想い描いて頂きたいものだ。




           軒越える背丈の高きダリアかな

           舞ふが如くに衣手ひろげて


           見上げれば澄み渡る空に浮かぶかも

           皇帝ダリアの花は咲き初め


           木の葉散り草花枯れるこの秋に

           花ほころびぬ皇帝ダリアは


           俯きて咲けるかんばせ見上げつつ

           語りかければ揺れて応えぬ


           ゆく秋の寒さに堪えよ頂きの

           莟みの数々咲ききる迄は






「落葉のご挨拶」

2013-11-28 00:07:18 | 和歌

 「うつろ庵」の周りの道路掃除が、虚庵居士の朝食前の日課だ。
秋は落ち葉が舞い散って、風が吹けば落ち葉と箒のオッカケッコを演じるなど、手を焼くこともしばしばだった。11月も末になって、殆どの落葉樹も散り尽し、やっと手が省けるこの頃だ。

 そんな或る朝、珊瑚樹の小さな落ち葉が一枚だけ、朝日に輝いていた。
「ジジ、おはようございます!」 と、朝のご挨拶だった。

 手に取って見れば、紅に染まった艶やかな葉は、漆塗りの工芸品を思わせるような気品を湛えていた。箒と塵取りを脇に置き、道端にしゃがんで紅葉とお話していたら、「オハヨウゴザイマス!」 と、背後から幼い声のごあいさつがあった。

 振り向いたら、ご近所の幼稚園に通う幼児と母親の、笑顔でのご挨拶だった。
手に持っていた小さな紅の葉をさし出して、「ハイ、朝のプレゼントで~す!」

 「わー きれいだ!! ありがとう!!」 
頭をぴょこんと下げた笑顔が、何とも爽やかだった。




           風に舞う落ち葉を追うかな秋の朝の

           日課は楽しも戯れるにあらずも


           落葉散り梢の小枝は櫛なるや

           うす雲透けて深まる秋かな


           紅の小な落葉の煌めきは

           じじへの朝のごあいさつかな


           手に取れば艶やかなるかな紅に

           金色蒔き絵の漆器ならずや


           道端に落葉と語れば背後から

           おさなごの声 オハヨウゴザイマス!


           紅の一枚の葉をさし出して

           朝の挨拶 プレゼントで~す!


           ありがとう! ピョコンと頭を下げてから

           こぼれる笑顔で小おどりする僕






「お茶の花?」

2013-11-26 00:14:15 | 和歌

 「お茶摘み」の季節からは遥かに外れ、「お茶の花」が咲く季節とは思っても居なかったが、それらしき花に出合った。 朧な記憶を辿ってみたが、如何とも致し難く、取り敢えずはカメラに収めて帰宅した。

 若葉を摘む頃の「お茶の葉」は、もっともっと瑞々しく小ぶりだった! 
お茶の葉は、これ程に逞しかったか? これ程に濃き緑色か? これ程に葉の縁はイカツイか? お花は、もっと小ぶりだったのではなかったか? などなどの疑問が、次々に???を投げかけた。 だが咲き方は、虚庵居士の記憶と合致していた! 

 帰宅早々に花図鑑を繙いたら、矢張りお茶の花だと確認できた。
頭の働きが悪く、記憶力を争うことを避けてきた虚庵居士には、「お茶の花?」との 出会いで、己の人生の大半を無にして来たのではなかったか、との思いが募った。

 日頃の記憶力を誇る虚庵夫人も、「お茶の花?」との問いかけに「??」だったことを悔やんでか、帰宅早々の「お薄」には、心から救われた虚庵居士であった。




           ふと見れば「お茶の花?」かも背の低き

           緑葉に咲く白妙の花は


           今頃の寒気に咲くとは「お茶の花」か?

           以前に遭ひしは 温かき頃?


           茶摘み頃の葉色は遥かにみづみづし

           これほどイカツイ茶葉ならめやも


           俯きて茶花の咲ける面影を

           いまだに追うかな年月を経て


           わぎもこに茶花かと問えば目を閉じて

           想いを廻らす風情ぞいとしき


           帰り来てお薄をたてるその心を

           おもえば救わる心地こそすれ






「伊豆の山なみ」

2013-11-24 12:13:57 | 和歌

 ゴルフのお仲間から、伊豆半島が霧に包まれた写真が届いた。
頂いてから聊か間があいたが、水墨画を思わせるような稀な景色ゆえ、皆さんにも ご紹介したい。

 彼のメールに曰く、「何人かの皆さんと函南でゴルフをラウンドしたのですが、生憎の天気で、雨と霧と風でのラウンドでした。 御昼前、少しの晴れ間に撮った写真を添付します。実に幻想的でした。」



 「雨と霧と風」の三重苦では、さぞや難行苦行のゴルフであったことと思われる。
そんな厳しい環境条件であっても、霧に煙る「伊豆の山なみ」に目を遣り、幻想的な景色をカメラに収める余裕と感性には感服だ。

 彼からは以前にも「田代山湿原の花々」の優れた写真をご提供頂き、ご紹介したので、振り返ってお楽しみ下さい。   ↑(クリックすればリンクが開きます)

 一枚目の写真は、富士山を背にして伊豆半島の稜線を南に眺め、二枚目は富士山を右斜めにして、伊豆半島と駿河湾の方向を眺めた景色であろう。


                             撮影及びご提供 末木隆夫氏 

           息をのむ情景なるかな濃き霧と

           伊豆の山なみ織りなす景色は


           雨と霧さらには風も吹き荒ぶ

           難行苦行を楽しむ? 友かな


           一時の息継ぎの間に山なみの

           煙る姿に痺れる友かな


           たまわりし写真を眺め何時やらに

           我が身をそこに置きて痺れぬ






「小菊の季節-その5」

2013-11-22 19:52:37 | 和歌

 晩秋の朝は、一点の雲もない晴天だった。
そんな朝日を受けて、路傍に目の覚めるような黄色の小菊が咲いていた。

 花数はごく少ないが、幹を見れば古木を思わせるようにも見えた。宿根草の菊は、年代を重ねれば古木の様な趣きが備わるのだろうかと思われたが、虚庵居士の勝手な思い違いかもしれない。

 数日して、虚庵夫人との散歩の途上で出会った黄色の小菊は、花数も多くかなり賑やかだった。

 この季節は様々な小菊に
出会うが、鉢植えの三本仕立ての菊などと違い、天真爛漫に咲き誇っている小菊に出会うと、思わず顔が綻ぶ。小花が押し合いへし合い、頬を寄せ合って無邪気に語らうような風情は、小菊でなければ見れない情景だ。




           見渡せば秋空高く突き抜けて

           もろ手を拡げ溶け込む朝かな


           透ける陽に黄花輝く小菊かな

           歳を重ねてふくよかに咲くとは


           小菊らが頬を寄せ合い咲く様に

           無邪気な児らの声を聞くかも


           じじばばも思わず微笑み立ち止まり

           仲間に入れてと歩みよるかな






「ジンジャーリリー」

2013-11-20 02:35:18 | 和歌

 生姜のお仲間の「ジンジャーリリー」が咲いていた。

 例年だと初秋に咲くはずだが、今年は11月になってもまだ花を付けていた。
猛暑の夏だった今年は、花の咲く時期にも影響があるのだろうか。葉の縁が傷んではいたが、半耐寒性の多年草だから、寒さが加わった晩秋になっても、花を咲かせているのは不思議ではないのかもしれない。

 別名、「花縮紗・はなしゅくしゃ」とも呼ばれ、花弁がゆったりと優雅に咲いて、香りにも気品がある。虚庵居士はまだお目に掛っていないが、赤やピンク・橙色などの品種もあるという。ジンジャー(生姜)を名乗ってはいるが、食用の生姜とは別種ゆえ、根は食べない様にご注意あれ。




           広き葉の重なる中に白妙の

           衣をまとうはニンフならめや


           白妙の衣をなびかせ群れて舞う

           ニンフを観しかもジンジャーリリーに


           広き葉の縁のいたむはニンフ等の

           舞の舞台を堪えにし証しか


           白妙のニンフの香りか仄かにも

           馨り立つかなジンジャーリリーは


           見紛うや夢か現か白妙の

           花に惑いぬジンジャーリリーに






「小菊の季節-その4」

2013-11-18 13:10:11 | 和歌

 小菊には、花の咲き方がユニークな種類も数々あるようだ。

 今回の小菊は、花の咲き方がどこか風車の形に見えるところから「風車菊」と呼ばれているようだ。黄色の花芯の周辺の花冠は白い管状で、先端の匙弁の部分だけが赤いので、一輪毎が見事な風車になっているではないか。

 何処の何方かは知らぬが、凝りに凝ってこのような小菊を創りだしたご仁にとっては、掛け替えのない歓びだったに違いない。

 小菊に限らず、花の品種改良は気の遠くなるような年月の積み重ねが必要だ。
花の交配の結果は、最低限でも次の年の開花を待たねばならぬ。一度に幾種類もの交配をして、次年度にはその中から数種を選りすぐって、再び交配を重ねるのであろう。 結果を予測できない、そんな努力の積み重ねの末に、突然変異で生み出された品種かもしれない。

 小さな菊の花ではあるが、想像を絶する努力と研鑽の「賜物」なのであろう。 
このブログでは、菊花展覧会などの表舞台の花ではなく、殆どが散歩途上の路傍の花との交流のご紹介であるが、殆んど手入れもされずに咲く小菊に、こころ痺れる
虚庵居士である。 




           なんとまあ粋に咲くかなこの小菊は

           可憐な風車を花に写して


           金色の蕊の周りにしろ冠を

           さじ弁赤きは風車の羽根かな


           何処の誰 創りいだせし小菊かな

           気の遠くなる年月重ねて


           小菊観てこころ痺れる爺なるも

           創りし人の歓喜をおもほゆ






「秋雨と野牡丹」

2013-11-16 01:21:02 | 和歌

 「うつろ庵」の野牡丹が、晩秋の雨に濡れて咲いている。 野牡丹は春から初夏にかけて咲き誇ったが、秋の気候に誘われたのだろうか、再び清楚に咲いた。

 今年の夏は殊のほか熱暑が続いたので、虚庵夫人は「門被り松の下での鉢植は気の毒よ」と言いつつ、大きな鉢を一人で抱えて庭の片隅に運び、路地に植え代えた。珊瑚樹の生垣の近くがお気に召したのだろうか、野牡丹はご機嫌で秋花を咲かせ、虚庵夫人の植え替えに応えている様にみうけられる。



 秋雨に濡れて咲く野牡丹の表情に痺れた虚庵居士は、思わずカメラに収めた。

 撮影した時には気付かなかったが、野牡丹の花が咲いて間もない表情と、数日を経た花とでは、花弁の色や蕊にもそれなりの変化が観られるのは、自然の世界の当たり前の変化であろう。

 しかしながら、花びらに湛える雫の形にも、微妙な変化が観られることに気付いた。
自然の世界の厳密な摂理に、改めて目を瞠る虚庵居士であった。




           門先の野牡丹の鉢植えはお気の毒と

           路地への植え替え汗の妹子は


           わぎもこの路地への植え替え嬉しけれ

           野牡丹秋に咲きて応えぬ


           秋雨に濡れそぶるかな野牡丹の

           花の雅を君に観せまし


           野牡丹の花の色あい斯くばかり

           変わるものかな日々を重ねて           


           雨傘をさしつつ花と語らえば

           雫の風情にこころ痺れぬ


           日をおきし野牡丹の花の雨雫の

           姿に自然の摂理を知るかも


           花びらの微妙な肌の移ろいを

           滴の姿が斯く語るとは






「小菊の季節 - その3」

2013-11-14 12:34:49 | 和歌

 小菊は群れ咲く満開の華やかさも良いが、咲き始めの初々しさにも風情がある。

 まだ稚けない莟みが仄かに色付き、或は間もなく開花を迎えようとする莟の中で、一・二輪が開花したばかりの姿には、初心な清純さが溢れている。

 人間世界でも云えることだが、この「清純さ」が貴重だ。世に出て荒波に揉まれれば、逞しさは鍛えられるが、それと共に何時しか清純さが失われかねない。
本人も周りも、意識して研鑽を積んでも清純さを保つことは誠に難しい。それ故にことさら貴重なのだが、せめてその様な清純さを感じられる、澄んだ心だけでも保ちたいものだ。

 齢を重ねると、何事にも応答が遅く、感性が摩耗して見ても観えず、耳にしても聴こえずという域に到達するが、感性の磨り減るのを少しでも防ぎ、願わくば多少でも磨ければとの微かな営みが、このブログ「虚庵居士のお遊び」での試みだ。




           霜月のこえ聞く頃より咲き初めし

           小菊はいとしき 色づく莟も


           稚けなき小粒の莟のその頬を

           微かに染めるは恥じらう乙女か


           一・二輪 綻ぶ小菊は初々し

           花の歓ぶ そのこえ聞かまし


           咲き初めし小菊の微笑み受けま欲し

           朝の寒さに温きこころを


           清純に小菊綻ぶその脇に

           色づくあまたの莟も控えて






「石蕗と一文字セセリ」

2013-11-12 12:06:51 | 和歌

 「石蕗・つわぶき」の黄色の花が、鮮やかに咲いた。

 秋は花が少ない季節だが、石蕗は場所を選り好みせずにどこにでも咲き、かなり長く咲き続けて目を愉しませて呉れる優れものだ。しかも面白いことに、株を植えずとも思いもかけずに自生し、放置しても宿根草として毎年花をつける逞しさには感服だ。

 花が終わるのは寒さも厳しくなる初冬だが、タンポポよろしく丸い綿毛を付けるのも愉快だ。綿毛は風に吹かれて気侭に舞って、着地した処で翌春に芽吹くのであろう。種の保存の挙動は、まさにタンポポと同じだ。念のために花図鑑で調べたら、石蕗もタンポポも同じ「きく科」の草花だと判って、納得した。



 そんな事情から、「うつろ庵」の庭にも三か所ほど石蕗が腰を据え、鮮やかな花を愉しませて呉れている。偶々カメラを構えていたら、「一文字セセリ」がサッと飛んで来て、ポーズをとった。 思わずシャッターを押した。

 一文字セセリは三角翼のジェット機を連想させるが、蝶のお仲間ではあるが飛翔は極めて俊敏だ。狙ってもなかなかカメラに納まって呉れないが、虚庵居士と石蕗が親しそうにしているのを見て、「ワタシも仲間に入れて」 と飛んで来たのかもしれない。




           あちこちに石蕗咲くかな鮮やかに

           自から生えて律儀に咲くとは


           逞しき石蕗なるかな風に舞い

           うつろ庵にもその根をおろして


           石蕗の自生の花の多ければ

           数多の人々気にもせずとは


           つわぶきに寄り添い語れば一文字

           セセリ飛び来てポーズをとるかな


           一文字セセリは妬くや石蕗を

           じじ独り占めはずるいと飛び来て


           眼の前にサッと飛び来て一文字

           セセリは恋ふるや 蜜を吸いつつ






「小菊の季節 - その2」

2013-11-10 18:27:32 | 和歌

 「うつろ庵」近くの遊歩道は何時も歩いている故か、何れの草花も見慣れて、見ても殆どが眼に入らぬ状態になった。まことに悲しむべきことだが、それにすら気が付かぬ毎日であった。そんな或る日、白い小菊が目にとまった。

 恋する若者は、お互いのごく僅かな表情や、気配の変化にすら気付いて心を躍らせ、或いは必要以上に悩むのが常だ。 されど、見ても眼に入らぬとは感性が鈍り、物の存在すら意にも介さなくなった己に幻滅だ。 加齢が為せる業かもしれないが、それ以上に、本人の意識を刺激する何かが失われつつあることを、改めて知らされた散歩であった。



 こんな可愛い小菊が、これまで眼に入らなかったとは ・ ・ ・。
丸ポチャの白花も、白く縁取りされた小葉もそれぞれに呼応して、何とも言えぬ雰囲気を醸しているではないか。花弁の短い白菊は黄色の花芯を取り囲み、ふくよかな丸ポチャの幼児のイメージだ。小ぶりな葉は切り込みが浅く、白い葉裏が見事に縁取りして小菊に彩りを添え、先ほどまで降っていた雨の雫も煌めいていた。

 帰宅して花図鑑をあれこれ調べたが、なかなかこの小菊が見当たらない。
と云うことは、ごく稀な小菊に違いない。長い時間を費やして、やっとこの小菊に再会できた。 「足摺野路菊・あしずりのじぎく」 が彼女の名前だ。
短い解説に曰く、「野路菊は海岸に自生するが、この小菊は足摺岬に咲くことから、この名が付けられたようだ」 とあった。

 どの様な経路を辿って、「うつろ庵」の近くに咲いているのだろうか ・ ・ ・。




           歩き慣れ通い慣れにし道往けば

           まなこは虚ろに物を見ぬとは 


           見てもなお眼に入らぬとは哀しけれ

           磨り減る感性 己をしるかな


           路の脇に微笑む小菊の一株の

           声をきくかも 「じじ! こんにちは!」


           これまでも いく度か手を振り 呼び掛けた

           そんな小菊は微笑み忘れず


           恥じ入りて頭を下げつつ傍により

           丸ポチャ小菊と語らう爺かな


           君の名の「足摺野路菊」 探しあてて

           ここに花咲く道のり偲びぬ






「鈴なりの柿」

2013-11-08 01:13:51 | 和歌

 「鈴なりの柿」を、彼方此方で見かける季節になった。

 「うつろ庵」のご近所は、住宅街が造成されて未だ30余年だから、樹の高さは左程でもないが、柿の実がたわわだ。日本列島は北から南まで、柿の種類は様々だが、気候と風土が柿に適しているに違いない。 



 虚庵居士の子供の頃は、屋敷に植えられた数種類の柿の樹に登り、お友達と一緒にキャッキャともぎ取って、かぶり付いた。

 屋根の高さを超える程の木にもよじ登り、柿の実に爪を立てて甘柿か渋柿かを確かめてから、かぶり付いた。時には間違えて渋柿にかぶり付き、余りの渋さに思わず柿を投げ飛ばしたことも懐かしい。

 完熟した柿を潰さぬように、両手でそっと持ち、とろける甘~い柿に吸い付いたのも、つい昨日の様に想い出される。

 秋が深まれば虚庵居士の母は柿の皮を剥き、「吊るし柿」をせっせつくっていた姿が瞼に浮かぶ。


           柿の実のたわわに色付く季節かな

           子供の頃の故郷おもほゆ


           柿の木に競って登ったトモダチを

           想い出すかな柿を齧れば


           柿の実に爪をたてしか渋柿を

           見分ける術を子等は身に付け


           柿の木のいや高きまでよじ登り

           肝を冷やしぬ枝の撓みに


           柔らかき熟柿(じゅくし)を手にうけ吸い付けば

           とろりとノドまで流れこむかな


           幾星霜 歳を経れども故郷の

           子供の頃はいまだに昨日か


           見上げれば梢の柿の啄ばみの

           痕に観るかな小鳥の思いを






「小菊の季節 - その1」

2013-11-06 01:39:01 | 和歌

 寒冷地の11月は、まさに霜月そのものだ。日の出前の寒気は、地表近くの湿気を一気に霜に変えて厳しい朝を迎える。信州・諏訪盆地で育った虚庵居士の子供の頃は、こごえる指先に息を吹きかけ、手を擦り合わせたものだった。

 横須賀の「うつろ庵」周辺は温暖な気候ゆえ、霜は殆んど見かけないが、霜月には「小菊の季節」迎えて、花と香りを愉しませて呉れる。

 磯や海岸に沿ったプロムナードには、磯菊が黄色の莟を膨らませ、綻び始めた。 小菊に限らず、丹精込めた菊花の展覧会も彼方此方で開催されることだろう。時間的に余裕があればそんな菊花展を観覧したいものだが、忙しない毎日を過ごす虚庵居士は、散歩の途上で小菊に出会うのがせめてもの愉しみだ。

 小菊も丹精込めた鉢植えの菊も、或いはまた切り花の菊花も、共通するのは独特の香りだ。虚庵居士の実家はかつて、庭一面に菊を栽培していたので、まさに菊の香の中で育った子供の頃であった。

 小菊の花に出合い、その香りに亡き両親や長兄夫妻に思いを致し、しばし瞑目して故郷を懐かしむ虚庵居士であった。




           椰子の木を見上げる子等か磯菊の

           つぼみは顔寄せ 何ささやくや


           磯菊のつぼみは寄り添いへし合うに

           その声聞かばや耳をそばだて


           吹き荒ぶ汐風気にせず綻ぶに

           歩みをとどめて暫し語らむ


           磯菊に遅れてならじと稚けなき

           つぼみに先がけ小菊は咲くかな


           咲き初むは 黄花赤花 入り混じり  

           自然の世界は分け隔てなく


           菊の香の気品に満ちた香りかな

           瞑目すれば故郷おもほゆ






私家歌集「春女苑」 上梓

2013-11-04 00:49:28 | 和歌

 「虚庵居士のお遊び」をご愛読下さって、有り難うございます。

 5月末に掲載しました「リラの花」以降の、半年分を収録した私家歌集 第十一巻
「春女苑」を、CD版にて上梓しました。

 お蔭様で虚庵居士は、花を愛で酒を愛し、時にはゴルフに汗をかき、次世代を担う学生諸君と膝を交えて、喧々諤々の意見交換を重ね、彼等とのメールの交換を記録にとどめて新書版を上梓し、時には多くの皆様を前に講演を重ねるなど、毎日を精一杯に過ごしつつ、凡ての身近な事共を愉しみつつ毎日を過ごしております。
そんな一コマ一コマを拙いエッセーに書き留め、心のときめきを和歌に詠み、恥じらいもなく皆様にご披露して参りました。

 私家歌集 第十一巻「春女苑」を上梓できましたのも、読者の皆様のご支援のお陰と、こころから感謝申し上げます。




           毎日を精一杯に過ごし来て

           もろもろのこと愉しむ爺かな  


           朝な夕な心づくしの食事かな

           飼いならされた? 味覚におぼれぬ


           細切れの時間を紡ぎ書き溜めぬ

           我妹子料理の音を聞きつつ


           人生の一コマづつを書き溜めて

           重ねたそれは捨てるに惜しくも


           雑文と心のときめき歌に詠み

           おのれの区切りの「春女苑」かな




      私家歌集は書店・CDショップに販売委託をしておりませんので、
      ご購入は下記メールアドレス宛に、直接ご注文願います。
      E-mail: kyoan2@mail.goo.ne.jp   送料込 定価 500円





「貝殻のプレゼント」

2013-11-01 00:56:15 | 和歌

 孫娘のりかちゃん一家と、「うつろ庵」の庭でバーベキューを楽しんだ。

 たっぷりのお肉やお野菜と共に、幸いにもトコブシ貝が手に入って、バラエティーに富んだバーベキューだった。 トコブシ貝はアワビのお仲間ゆえ、直火で調理すればこの上なく美味だ。初めて食べるりかちゃんは、ホッペや指の汚れなど意に介さず、パクパク平らげた。

 「うつろ庵」の庭には、小型のバーベキュー・コンロを備え、何時もは焚火に使って炎のゆらめきを愉しんでいるが、本来のバーベキューは久方振りだった。 夜遅くに、ベンツの窓から身を乗り出して、「また来るねー!」と叫びつつ手を振る姿が、何とも愛らしいりかちゃんだ。

 トコブシの貝殻に目を瞠ったりかちゃんに、じじとばばは「貝殻のプレゼント」を思いついた。トコブシ貝だけでなく、観音崎の砂浜の貝殻を広い集め、磯の小貝を採ってプレゼントを準備した。 



 砂浜に打ち寄せられた「ナミマガシワ」は、薄紅色や淡い黄色のごく薄い貝殻で、虚庵夫人のお好みの蒐集貝殻だ。 磯の岩には、ごく小さな一枚貝が棲息しているが、「ウノアシ貝」や「マツバ貝」などの貝を集め、改めて貝殻を観察すれば、なかなかの芸術品だ。 

 りかちゃんが次に来た際のお土産に準備したが、余りの見事さを一日も早く見せたくて、宅急便で「貝殻のプレゼント」を送った。 りかちゃんの「お電話」が愉しみだ。




           久方の孫の来訪 待てば今

           扉の外からゴアイサツの声


           お二階のじじの書斎に駆け上がり

           エレクトーンに飛びつく璃華かな


           孫の声 じじ・じじ! じーじ!と 蝉鳴くや

           にぎやかなこと爺呼ぶ声は 


           キャメロンのカートを取り出し乗ってみる?

           問う間も待たず飛び乗る璃華ちゃん


           りかちゃんがカートで走ればその後を

           息きらせつつ 爺は追うかな


           バーベキューにトコブシほおばり貝殻の

           輝きみつめる孫娘かな 


           じじ・ばばは手を取り合いて海岸に

           孫の気に入る貝殻探しぬ


           磯岩の鵜の足貝や松葉貝を

           孫に贈らむ 波間に採りて


           改めて集めし貝殻並べれば

           その見事さに息をのむかな