「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「蝉の脱け殻」

2011-08-30 12:47:39 | 和歌

 うるさい程の蝉時雨の鳴き声も、いつの間にか ツクツクボウシ に替わった。
ヒグラシに替わるのも、間もないことだろう。

 そんな真夏の気晴らしに、テレビ電話で孫との会話を楽しんだ。彼は夏休みの自由研究でトンボや蝉を蒐集し、自分でウィキペディアなどで名前や習性を調べていると聞き、タマゲタじじ・ばばであった。
孫息子は9歳になるが、既にインターネットの百科事典 ”ウィキペディア” へアクセスして、自分で調べることも出来るのだという。まだまだ子供だと思っていたが、成長の速度は愕くばかりだ。
蝉が飛び立つ際に、”ぴっ”とオシッコをするが、それは身を軽くするための自然の知恵だと教えられて、 じじ・ばばは恐れ入った。 虚庵居士も子供のころ、蝉を手で捉えようとしてよくオシッコを掛けられたが、そんな話には笑い転げる無邪気ぶりも残っている彼であった。横須賀の蝉とヌケガラを集めて、送る約束をした。

 不思議なことに、それからというもの「うつろ庵」の庭やベランダ等に、蝉が盛んに集まって来た。蝉は何年もかけて幼虫の生活を土中で過ごすが、成虫になって羽ばたく期間はごく短い。空を飛ぶ訓練も十分できないので、飛び方も誠に下手だ。 飛んで来て、何かに捉まるつもりだろうが、捉まり損ねてベランダの床に仰向けに落っこちる。しばらくバタバタと羽を動かすが、何も捉まるところがないベランダでは、気の毒に仰向けのまま静かになる。いとも簡単に蝉取りが出来るわけだ。

 斯くして蝉は、瞬く間に7・8匹が集まり、脱け殻は庭木の枝から集めた。段ボールでしっかりした箱を作り、待ち針で蝉を固定して発送準備は整った。航空便で送った蝉の標本と脱殻も、そろそろ届くころだが、米国東海岸沿いに北上したハリケーン
”IRENE”が気がかりだ。孫息子の一家は、沿岸から離れたニュージャージーの湖のほとりに住んでいるが、山から湖畔へ流れ落ちる雨水の被害はどうか? 庭の巨木も倒れなかったろうか? 連絡がつかないが、無事でいてくれと念じるのみだ。

 脱け殻を水盤の楓の枝に捉まらせて、余韻を楽しんでいるが、元気な声を聞くまでは気がかりだ。



 

          パソコンの画面に映る笑顔かな

          地球の裏側 孫との電話は


          既にはやパソコン使って蝉の名を

          調べたと聞きたまげる爺かも


          じじばばに聞かせてあげるとピアノ弾く

          孫のリズムにばば様ノルかな 


          脱け殻と蝉の標本 箱に納めて

          孫の名前にミスターを付けぬ


          脱殻を楓の枝にとまらせて

          孫と爺との会話は続きぬ 




 (追記) Are you OK? とのメールを入れてあったが、簡単な返信を見て安心した;
       We are fine and no damage to the house and outside. But no electricity
      since Sunday @6am at home, just gas. The store has power. Don't worry.
       蝉の標本については触れてなかった。
       届けば、孫からTV電話のおねだりがある筈だ、
       「じじー、skype しようよ!」 と。



「房珊瑚」

2011-08-26 12:45:58 | 和歌

    生垣の珊瑚樹の「房珊瑚」が、見事に色づいた。
 五・六ミリの小粒の実が、およそ 三百個ほどビッシリと房をなす姿は、其れだけでも見ごたえがあるが、鮮やかな珊瑚色に発色した様は、見事の一語に尽きる。

 本物の珊瑚は、古来、宝飾品として人気がある。一般に出回っているのは朱色あるいはピンクの珊瑚だが、色の濃い「血赤珊瑚」は貴重品で、お値段もまた格別だ。更に黒みがかった深みのある色合いのものは、目利きの世界でも垂涎の品だ。

 「うつろ庵の房珊瑚」は、光線の陰りによっては黒味を帯びぬでもないが、むしろ鮮やかな「血赤珊瑚」の部類であろうか。虚庵夫人には日頃から宝石のプレゼントなどしたこともないが、「房珊瑚」の一部を切り取り、彼女の豊かな胸もとを飾ったらどんなであろうか。

「やっぱり本物がいいわ!」 虚庵夫人の声が聞こえるようだ。



 

          生垣に緑を連ねる珊瑚樹は

          夏惜しむらし実房を染めるは


          粒々のあまたの実をば残りなく          

          血赤に染めるは滾る思か


          一つならず血赤珊瑚の房々の

          滾る思いを誰ぞ受けなむ


          としふるにいまだわぎもここふるかも

          ちあかさんごにたくすやおもひを 






「花虎の尾の合唱」

2011-08-22 15:36:00 | 和歌

 「うつろ庵」が急に賑やかになった。

 狭い庭だが「花虎の尾」の房花が群れ咲いて、テラスのテーブルで夕涼みをしながら頂く夕食は、虚庵居士にとっては至福のひと時だ。 が、ついつい時間が長引くのが玉に瑕だ。
手作りのテーブルの天板は陽に焼け風雨に晒され、反り返ったり木目が際だって来たが、そんな古びたテーブルのすぐ傍に、花虎の尾の花が咲き乱れて、じじ・ばばのお相手をしてくれるから堪らない。



 

 テラスに沿って「花虎の尾」が咲いているが、彼女らは昨年の種がこぼれ散って、自生したものだ。この場所がお気に召したようで、年々歳々花数が増えてきた。紫蘭の長い葉も混じっているが、秋ウコンの幅広の葉もお仲間だ。今年も純白の花を見せてくれるだろう。春には同じ花壇に水仙やムスカリが咲き、季節毎に主役が交代するので、誠に手間なしの花壇である。

 「花虎の尾」の房花を近くで見ると、何ともユーモラスな表情に思わず吹き出したくなる。
小さな子供たちがお行儀よく並び、大きな口を一杯に開いて、合唱している姿を思わせるではないか。 そのように見れば、花壇の房花からはそれぞれに、可愛い子供たちの歌声が聞こえてくるようだ。花の少ないこの時節に、「うつろ庵」の庭は「花虎の尾」の房花が一杯だが、かてて加えて子供たちの歌声までも溢れて、誠に賑やかこの上ない。

 夕暮れには、蚊取り線香を焚き、グラスを片手に椅子に腰を下ろせば、生きながらに極楽浄土を味わえる。その昔、茶の湯を極めた茶人は、一畳台目の茶室にこもり、その茶室を己の生きながらの棺桶だと称してこよなく愛したと、どこかで読んだ記憶がある。俗人の虚庵居士は侘び寂びに徹し、ものごとを極める程の器ではないが、心穏やかに包み込んでくれるささやかな場所が持てたのは、以って幸せと申すべきであろう。


 

          腰おろし椅子に座れば風に揺れて

          花虎の尾は足にじゃれるや
            

          近く見れば子供らお口を一杯に

          開けて歌うや花虎の尾は


          じじ・ばばと花虎の尾はお友だちよ

          夏の日暮れに子らの声聞き

          
          セミも和しカラスも和してうつろ庵に

          花虎の尾の歌声溢れぬ 


          ささやかな庭の片すみ居心地の

          よければ己の竟の場所なれ 






「平身低頭の台湾レンギョウ」

2011-08-19 15:10:14 | 和歌

 「うつろ庵」の生垣の間から、「台湾連翹」が枝をせり出して、花を付けた。

 珊瑚樹の生垣は、少しでも風通しをよくしようと丹念に枝を剪定してあったので、台湾連翹は苦も無く 生垣を潜り抜けた。生垣の根元のフラワーベルトには、大紫のつつじが植えてあるがこれをも乗り越えて、枝先は通りまでせり出した。





 「うつろ庵」の前の通りは住宅地の中の道路ゆえ、車も人通りも疎らなのをよいことに、花枝の我が侭を暫しの間お許し願うことにした。 案の定、道行く人々は足をとめて「台湾連翹」にご挨拶したり、ケータイ電話のカメラに収めて行く娘さんもいて、皆さんに評判がよさそうだ。 




 
 甲子園の全国高校野球大会の開始と共に、咲き始めた頃は花数も疎らで、せり出した枝先も控えめであったが、勝ち残り校の数が絞られるにつれて、台湾連翹の花数は日に日に増えたようだ。

 驚くことには、花数が増えて枝先が重くなったら、道路にせり出していた台湾連翹は自ずと首を垂れて、道行く人々のお邪魔にならぬ程度の姿に納まって来たことだ。 「うつろ庵」の住人の身勝手を、「台湾連翹」自らが首を垂れてお辞儀し、許しを乞うかのよのうに見えるではないか。

 「あるじが剪定すべきところ、我が侭な男をどうかお許し願います。斯くの通りお詫び申し上げますによって、今暫し、この花をお楽しみ下さい。間もなく、あるじも身勝手さに気づき、私めの枝を剪定してくれるでしょうから・・・」
などと、ひたすら平身低頭の風情だ。

 甲子園大会が終わったら健児らの健闘を湛えて、台湾連翹の花を刈り取って彼らに捧げたい。

 

          生垣をくぐり抜けにし枝先の

          つぼみの花房 風に揺蕩う 


          稚き莟の房は風に舞ふに 

          雅に台湾連翹咲きませ


          さえだ延べて台湾連翹ささやくや

          道行く人の袖に触れつつ


          何時にしか台湾連翹枝垂れ咲くは
 
          主に代わりてこうべを下げるや






「北大の大野池」

2011-08-15 02:05:21 | 和歌

 北海道大学の学生たちとシニアが、真夏の一日、膝を突き合わせて対話する催しに参加した。

 対話会に先立って、学生達が実験研究の 施設を案内して呉れるというので、虚庵居士は自宅を早朝に出て札幌には10時前に到着した。午前様が続く虚庵じじにとっては、肉体的にはかなりキツカッタが、集合指定の時間より早めに工学部に辿り着いて、ほっとした。

 小一時間の余裕を、同行のG氏と共にキャンパスの散歩を楽しんだ。工学部本館近くの大野池には、蓮の花が咲いて待ち受けていた。

 北大の広いキャンパスは、銀杏・ニレ・ポプラ等の巨木の並木が連なり、所々ナナカマドの巨木も混じるので、殆ど毎年訪れてはいるがその都度新たな発見や出会いが、興味を惹きだしてくれる。大野池はその様な巨木に囲まれた、落ち着いた池であるが、これまで蓮はとんと目に入らなかった。噴水や水鳥の遊ぶ姿が印象に残っていたが、広い池の大半を蓮の葉が占めて、純白や薄紅の花が見事であった。



 

 定刻通りに学生が研究室の視察案内をスタートし、代るがわる丁寧な説明をしてくれた。かなり厳しいシニアの質問にも、学生たちは率直に答えて、何時しか楽しい交流が重ねられた。
昼食の後、大学院・エネルギー環境システム専攻の院生・学部生とシニア合わせて、約50名が真剣に意見交換を重ねた。福島原発の事故を踏まえて、学生からは厳しい突っ込みと共に、「自分がその問題を抱える当事者であったら」との発想のもとに、シニアに学生の思いをブッツケ、シニアの経験と知見に
基ずく真摯な発言を求める対話会であった。

 次世代を担うことに夢と希望を抱きつつも、福島事故の余りにも厳しい実態に、躊躇を隠せぬ彼等で
あった。シニアとの膝を交えた対話を通じて、何物にも代えがたい「よし、やるぞ」との思いを、学生の多くが抱いたように見受けられた。打ち解けた懇親会の席でも、包み隠さぬ本音に接して、大野池の蓮の花の爽やかさと同じ、清純なものを虚庵居士に抱かせてくれた一日であった。



 

          白妙のはちすが花はしきたへの

          緑のしとねに目覚める今朝かも
             

          まろき葉も水面の鏡も目にとめず

          高きをみつめて頬染めるとは


          大野池に浮かぶ蓮花こがれるや

          いや高きかなニレの梢に 


          学生の揺れる心の悩み訊き

          まことを伝えぬ疑念を晴らせと


          爽やかな笑みは悩みの晴れにしか

          眉間の縦しわ何時しか消えうせ 






「名残の印度浜木綿」

2011-08-07 13:15:24 | 和歌

 梅雨の頃から咲き続けてきた「印度浜木綿」が、名残を惜しむかの様に咲いている。

 「うつろ庵」の表通りのフラワーベルトは、 つつじの大紫が占めているが、西端の三尺程は印度浜木綿の美女たちの楽園だ。 

 幅の広い葉をゆったりと寛いで延べる姿は、どこか平安朝のお局の風情を思わせる。 くせのない緑の垂帯は、六・七センチほどの幅で長いものは一尋ほどもあろうか。、

 梅雨の真っただ中から梅雨明け頃は、逞しい1メートル程の花茎が10本ほども林立する。頂には七・八個の純白の花を咲かせるから、此処だけが一気に華やぐことになる。 
殊に純白の花びらに雫を湛え、風に揺れて花と花がぶつかり合う様は、圧巻だ。色白の乙女らが笑みと涙を湛えて顔を寄せ、互いに肩を抱きあう姿は、人間世界ではどのような情景に譬えたらいいだろか。

 風情からしてスポーツではなさそうだ。大勢の乙女らが笑みつつ涙を湛えて肩を抱きあうのは、合唱コンクールでの優勝かもしれない。乙女らが精魂こめて、お仲間と共に努力した結果が報われた一瞬かもしれない。そんな勝手な想像をしながら萎れた花を摘んでいると、彼女らの感激が虚庵じじの胸にも伝わってくる様だ。

 「名残の印度浜木綿」は、お仲間からはひと月以上も遅れて花茎を伸ばしたが、どこか頼りなげで背丈も半分ほどだ。見れば長い垂帯の重みで撓んでいるではないか。緑の垂帯をかき分けて、少しでも花の位置が高くなるように手を貸してやった。

 人間世界でも、チョットした支援があれば逞しく社会に出て活躍する人々もいる。
数日前に、国立県営の障害者職能訓練校からの依頼を受けて、放射線に関する講演をしたが、彼らは様々なハンデキャップを乗り越えて、社会のために役立ちたいと訓練を重ねているのだ。車いすで講堂に参集した人びと、何の障害も無さそうに見えても、講演のスライドと手話通訳士の手元を食い入るように見いる人々など、様々であった。彼らも、チョットした支援が得られれば、素晴らしい人生が拓けるのだ。

 




          梅雨過ぎて葉月となれるに未だなお

          名残の印度浜木綿咲くなり


          頼りなき名残の花かとふと見れば

          折敷く長葉の花茎に凭れて


          垂帯の長々しきをかき分けて

          名残の花と声を交わしぬ


          一筋のおくれ毛ならむか白妙の

          花にまつわり風情をそえるは


          においさくいんどはまゆうみどりはの  

          おりしくたれおびにしろたえうきいで