「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「うつろ庵の白梅」

2015-01-30 02:19:33 | 和歌

  「うつろ庵の白梅」が綻び、早春の到来を楽しんでいる間に、満開を迎えた。

 

 角鉢の盆栽仕立てだった白梅だが、庭先の路地に植え替えてから、花付が格段によくなったようだ。この二・三年は梅の実もかなりの数が収穫出来たので、「梅酒」や「梅味噌」を堪能している虚庵夫妻だ。



 綻んだ梅花にカメラを向けていたら、あろうことか眼の前でキンバイが梅花に取り付き、花蜜を貪って離れなかった。

 「うつろ庵」の椿には、目白が毎日花蜜を吸いに飛んで来て、じじ・ばばの目を愉しませて呉れていたが、最近は梅花の花蜜にも夢中だ。カメラでメジロの番いの姿を写したいと何遍かチャレンジするのだが、機敏な目白には逃げられて未だに写せないのが残念だ。

 それにしても、庭先の椿や白梅に飛び来る目白などを、朝昼の食事を摂りながら
ごく近くで楽しめるとは、極楽の「うつろ庵」だ。

 


           梅が花 綻びそむれば腰屈め

           香り聴く妹(いも) 感嘆漏らして


           我妹子(わぎもこ)に倣いて梅の初花に

           顏近づければ香りたつかな


           一・二輪 二・三輪と梅の花の

           綻び数えぬ 咲き初む頃はも


           目白二羽 梅が小枝に飛び交うは

           欣喜雀躍 思ひを偲びぬ


           朝昼の食事の都度にほど近く

           目白飛び交う「うつろ庵」かな






"Snow storm & Golden sunset "

2015-01-26 13:50:07 | 和歌

 米国ニュージャージー州の北部、Erskine lake の真冬の "Golden sunset" だ。

 

 マンハッタンから車で40分程の Erskine lake の畔に住む、娘婿 Jeffrey から届いた写真だ。 " Snow storm & Golden sunset " とのタイトルで、今朝は3時間半もの
”Shovelimg ” だったと書いてあった。
 広い庭園が湖畔に続き、夏はボートデッキからボート遊びや泳ぎを楽しむ彼等だが、今朝の大雪では Lakeview 通りから自宅までの除雪に、小学生の息子と共に大奮闘だったのだろ。

 ベランダのテーブルや椅子に積もった雪の写真をみても、除雪作業は大変だったに違いない。

 かつては、真冬のニュージャージ州・オイスタークリーク原子力発電所に駐在し、寒波の厳しさを体験済みの虚庵居士だが、今では暖かいブランケットに身を包み、ワイングラスを片手にメールの写真を愉しむ、ズボラな爺様である。


           目を瞠る ”Golden sunset "かな 湖の

           真白き雪に輝き写して


           メールには ”Snow storm” そしてまた

           3時間半の ”Shovelimg ”とか 


           凍てつける真冬の寒気を偲ぶかな

           遠き昔の記憶を頼りて


           厳寒の氷はハガネの弁を割り

           冬将軍の威力に参りぬ


           ヒーターを弁管などにも巻き付けて

           寒波に備えた原発なつかし


           テーブルも椅子にも積もる白雪に

           夢見る如く見惚れぬるかも






「鬼田平子の綿毛」

2015-01-23 13:53:41 | 和歌

 「田平子・オニタビラコ」の綿毛が、今にも風に吹かれて飛び立つ風情であった。

 

 道端に良く見かける、野草の鬼田平子だ。黄色の小花も可愛いが、花が凋んで暫らくすると溢れ出る、純白の綿毛も見事だ。種子を綿毛に託し、風に乗せて遠くまで蒔きちらそうとの作戦だ。野草の知恵には、誠に感服だ。

 それにしても、鬼田平子とは随分なネーミングではないか。
田んぼや畑の地表面に、タンポポによく似た葉を平たく開くことから、「田平子」との名前を頂戴する野草だ。鬼が頭につくのは、些か大きめの田平子ゆえに付けられたものらしい。古人は、自然の在りのままの姿を的確にとらえ、誠にユーモラスに野草の名を付けた知恵には、感服させられる。

 野草と人間の付き合いが、ごく密接だからこそできる野草のネーミングだ。
鬼田平子の綿毛に見惚れつつ、彼女の名前にも思ひを馳せる虚庵居士であった。

 実物の大きさは、この写真のざっと三分の一程度だろうか。カメラの向きによって、鬼田平子の表情もかなり違ってみえることに気付いた。 ほんのチョットしたことも、愉しみに替えるこの頃だ。

 


           道端に白き綿毛を見出して

           鬼田平子と挨拶交わしぬ


           白妙のか細き綿毛は微かにも

           風になびけり囁く如くに


           腰屈め鬼田平子と語らえば

           おさなご近寄り共に見つめぬ


           カメラ手にためつ眇めつ眺むれば

           表情変えて爺に応えぬ


           白妙の綿毛はやがて風に舞い

           いずこに往くや種をたずさえ






「一坪農園の大根」

2015-01-20 13:36:10 | 和歌

  近くのマンション住民が愉しんでいる一坪農園に、大根が逞しく育っていた。

 

 郊外マンションは、建物周辺のスペースが比較的ゆったり確保され、公園風の植栽やテニスコートなどもあって、住民の皆さんの生活ぶりが偲ばれるが、敷地の一郭には一坪農園が設えられて、またとない息抜きになっている様だ。

 郊外マンションとは言え住民の勤務地は、都心や横浜などのビジネス街へ通勤する方が圧倒的だ。そんな彼等にとっては、一坪農園とはいえ土いじりが出来る貴重な菜園に違いない。過日は「ブロッコリーの親子」をご紹介したが、それぞれに好みの野菜を育てる悦び、僅かであっても収穫の歓びは何物にも代え難いことだろう。

 三浦半島には、名物の「三浦大根」が大きく育ち、味も抜群だが、それにも拘らず
自分の菜園で育てた大根は、やはり格別に違いあるまい。

 良く耕した黒土から白い大根が伸び上がり、一杯に葉を拡げる姿には、一坪農園の主に応える大根の思ひが感じられた。


           緑葉を生い茂らせる菜園は?

           葉陰に伸び立つ 白き大根 


           いつくしむ農園主に応えるや

           大根の葉を拡げる姿は


           週末の楽しみならむや菜園は

           応える大根 逞しきかな


           大根と語らい重ねて惚れぼれと

           わがこを見入るや菜園の主は


           名物の三浦大根の産地なれど

           おのれの大根 誇りなるべし






「児童公園の菜の花」

2015-01-17 16:52:52 | 和歌

 子供達がキャッキャと声をあげて遊んでいる公園には、菜の花が満開だった。

 

 昨今の公園では、子供たちが集まって元気に遊ぶ姿は、殆ど見かけなくなったが、ここの公園だけは例外だ。夕方遅くに散歩で訪れても、子供たちが元気よく駆け回り、遊具での遊びやボール遊びなど、子供たちの溌剌とした声が絶えない、類い稀な児童公園だ。

 戸建住宅街の外れの公園だが、隣街のマンションからもの遊びに来ているのだろう。子供だけでなく若い親子連れや、じじ・ばばに連れられた幼児なども良く見かける、ほのぼのとした雰囲気が漂う公園だ。

 公園の入り口、なだらかな勾配のエントランスの両側には、季節に合った草花が絶えないのも魅力だ。時には草花の手入れや水遣りをする、オバチャンにお目にかかるれば、「ご苦労さん」程度のごく簡単な挨拶を交わす虚庵夫妻だが、献身的な奉仕を何年も続けて居られる姿に、心から敬服だ。

 オバチャンの姿を目で追い、菜の花を心で受け止めて、子供達はのびのびと元気に遊んでいるのだ。そんな子供達の声に活力を頂く、じじ・ばばの虚庵夫妻だ。


 
           遠くからキャッキャと聞こえる子供らの

           遊びの声に命を洗いぬ


           凍てつける寒空なるに其処だけが

           春の日和の 菜の花の歓迎


           飛び回り遊具に群がる子供らを

           ベンチに見守るじじ・ばばも居て


           おさな児の手をひく若き父親に

           遠き昔を重ねて観るかな


           菜の花の根元に置かれたオバチャンの

           ジョウロと共に移植ゴテ見ゆ


           菜の花に向うボールを追いかけて

           ヒッシにとどめる子らを誇りぬ






「ブロッコリーの親子」

2015-01-14 00:52:18 | 和歌

  近くの一坪農園を覗いたら、逞しく見事に育ったブロッコリーが鎮座していた。

 

 その隣には、既に収穫された株が、「ガンバッタよ!」と云わんばかりに、精一杯に手を拡げていた。ブロッコリーは癖のない芳醇なお野菜ゆえ、様々に料理されて多くの皆さんに好まれている。「うつろ庵」の食卓にもしばしば登場するが、菜園でお目にかかるのはごく稀のことだ。これ程に逞しく育ったブロッコリーだが、これが野菜の花の、莟の集団だとはとても信じ難い。

 何時の日か、花咲くブロッコリーにお目にかかりたいものだ。

 一坪農園の別の菜園にも、ブロッコリーの株が残っていた。こちらは獲り入れてから、日数が経っているのだろう、既に子供が幾つか育ち始めていた。 

 同じ株から育っているのだから、親子というよりは兄弟姉妹というべきだろうが、その逞しさには目を瞠る。
それ以上に、一坪農夫の逞しさを讃美したい。ブロッコリーの特性を知り尽くして、収穫後の次の発育にも期待をよせる逞しさには、感服だ。 


           はからずも散歩の途上でマンションの

           一坪農園に迷いこむとは


           何気なく覗けばそこには見事なる

           ブロッコリーが鎮座まします


           隣には千手観音 見倣うや

           収穫のちに腕を拡げて


           ブロッコリー 収穫のちにヤッタゼ! と

           腕を拡げる思ひを観しかな


           何時の日かブロッコリーの華を観む

           固まる莟が花咲くその日を


           一坪の 菜園農夫は逞しき

           ブロッコリー後の 二世を待つとは






「夕暮れの富士」

2015-01-11 17:33:44 | 和歌

  新年早々の「夕暮れの富士」の写真が、ゴルフのお仲間から届いた。

 

 厳しい寒さに背を丸め、重ね着をする虚庵居士だが、お仲間は正月の4日・8日と寒気をものともせず、ラウンドを重ねたという。ホールアウトの後も、「夕暮れの富士」と夕焼けの写真を撮影して、態々送って下さったところから推測するに、戦果は上々だったに違いない。「こころの余裕」が、富士を観る目、夕焼けを味わうゆとりとなって伝わってくる。

 

 夕焼けを写した後も、太陽が駿河湾に沈む間際までじっと眺めていた彼の、感性が素晴らしい。ブランケットに包まって暖かな環境で、函南の夕暮れの情景を味わえるなんて、思いもよらぬ新年のご配慮に与り、感激であった。


                              写真の撮影・ご提供 末木様


           夕暮れの富士の頂き白雪を

           黄金に染めて暮れなずむかな


           駿河湾の遥か彼方の夕靄も

           海の水面も染めまる夕暮れ


           いま将に沈まんとしてまたたける

           名残りの際を伝える君かな


           目を閉じれば富士のお山の頂の

           わずかな残照まぶたに残りぬ






「木枯しと満天星ツツジ」

2015-01-09 00:33:43 | 和歌

  木枯しが吹き荒んだ翌日、枯葉が満天星(どうだん)ツツジに捉まっていた。

 

 この時節の枯葉は夙に梢から散り敷いて、樹の根方や植栽の間などに溜まっているが、木枯らしが吹き荒ぶとそんな枯葉を吹き飛ばして、住宅地の舗装道路などでは乾燥した音を立てて、枯葉が乱舞する。

 虚庵居士は「うつろ庵」の門前などの掃除が日課になっているが、そんな爺を弄ぶかの様に、掃き清めた後に枯葉が乱舞して、箒を持った爺と枯葉の追い掛けっこになる。虚庵夫人は笑いながら、「ほどほどになさったら・・・」等とたしなめるが、他人様がご覧になれば将に「笑いもの」に違いあるまい。

 翌日の散歩では、ご近所の満天星ツツジがそんな枯葉をしかと捉まえている姿に出会って、自然の知恵と実力に感服しきりの虚庵居士であった。


           木枯しに枯葉の乱舞 カラカラと

           乾いた伴奏 こころよきかな


           毎朝の日課は箒を手に持ちて

           門前掃けば枯葉の挨拶


           木枯しに枯葉と爺のオッカケッコ

           「ほどほどに」とは 我妹子(わぎもこ)のこえ


           あくる日は散歩に見惚れ成る程と

           満天星ツツジは枯葉を捉えて






「お多福南天」

2015-01-07 15:55:25 | 和歌

  「うつろ庵」の「お多福南天」が、朝夕の厳しい寒さで葉を紅に染めた。

 

 厳しい寒さとはいえ、横須賀は比較的温暖な土地ゆえ、紅葉したとは申せ未だ緑葉も残り、織り交ぜた色の変化が小さな錦となって、愉しませて呉れている。

 「お多福南天」は読んで字の通り南天の一種だが、背丈は二十センチから精々
五十センチ程度で、それ以上は伸びない。また普通の南天の葉はスリムだが、この南天の葉は「お多福」で、葉の表情も何処となくユーモラスなのが面白い。

 造化の神様は中々乙なことをなさるお方で、感服だ。
南天の軸はスラリと伸びたって、頂きに紅の実房を付ける姿には惚れぼれとさせられる。「うつろ庵」にも幾株も植えてあるが、背丈が高いので生垣の近くや庭の隅が定位置となる。一方、「お多福南天」はごく背が低く紅の実は付けないが、その代り紅葉が美しいので、彼女の位置は庭の中程になる。或は盆栽に仕立ててお楽しみあれ等と、造化の神様は、人間と南天の接し方までご配慮下さって、舌を巻くばかりだ。


           縁石に寄り添うお多福南天は

           葉を紅にして寒さに応えぬ


           お多福の南天の葉は笑み湛え

           揺れるは正月寿ぐこころか


           身の丈はいとど小振りのお多福の

           南天なれども御座す(おわす)君かな






「うつろ庵の万両」

2015-01-04 12:55:46 | 和歌

  「うつろ庵の万両」が大紫つつじの後ろで、赤い実を沢山付けて誇らしげだ。

 

 万両の普通の姿は足元がスッキリ伸びて、トップの緑葉の下側に赤い実を付けるのが定番だが、「うつろ庵の万両」はフラワーベルトの大紫つつじの後ろに自生したので、伸び立った足元が大紫に隠れて、カッコ良さが半減。誠にお気の毒だ。

 若い女性たちが、装いやファッションに繊細な気配りをする事情がよく分かる。
お化粧や、装いによってその女性が醸す雰囲気やイメージは、全く別物に変身するが、万両にはそんな自由は許されない。ましてや、小鳥の置き土産から芽生え、自生した万両にとっては、育つ場所も環境も替え難いことを思えば、そんな制約の中で精一杯に赤い実を付けた万両を、褒め称えずには居れない。

 大紫つつじの枝が、万両を隠すかの様にハビコッテいたが、万両が少しでも表立つように剪定した虚庵居士の思ひに、赤い実をつけて精一杯に応えて呉れた。

 万両の赤い実に寿ぎを頂いた、「うつろ庵」のお正月であった。


           大紫つつじの後ろにひっそりと

           万両のぞき梅雨明けにけり


           万両を隠す気配のつつじ葉に

           少しは気遣いせよとたしなめ


           前面が開けて万両嬉しげに

           白き花穂を咲かす夏かな


           緑なる小さき実珠が輝けば

           くれない色を夢見る爺かな


           正月を寿ぐ心か万両の

           くれない色に輝く実珠は