「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「孫からのメール その3 Dahlias」

2011-09-27 01:02:55 | 和歌

 孫からの「写真集」メール、その3をご紹介する。

 写真集を添付したメールに続いて、多数のメールを受信したが、それぞれのメールにはDahlia の花の写真が一枚づつ添付してあった。孫のメッセージは添えられていなかったが、彼の意図するところをどの様に酌んだら良いのであろうか・・・。 

 小さな手で苗を植え、水やりも自分でやって育てた Dahlia の花には、孫の特別な思いが凝縮されているに違いあるまい。それ故に、Dahlia の花の一輪づつが愛しくもあり、自慢の花であろう。 その様に考えれば、Dahlia の一輪づつをメールに添付して送って来た孫の思いは、胸が痛くなるほどよく理解できる。
 
 花を育てたことのある人間にとって年齢の如何を問わず、その花は大切な花であり宝そのものの筈だ。孫はまだ小学3年生だが、じじの送った蝉の標本にたいするお礼の気持ちを、この様な形で伝えてこようとは思いもよらぬことであった。宝物の花をカメラに収め、それぞれ一枚ずつメールに添えて送ってくれた心には、感嘆するとともに熱いものがこみ上げてきた。

 最後の一枚は、画面の構成がユニークで目を瞠った。たまたま何気なく写したものに違いないが、中央に据えた赤い Dahlia と、画面を二分する支柱で全体のシンメトリーを創り、花にとまった黄色の蝶と左手の萎れかかった小ぶりの一輪が、シンメトリーを破りながらも左右のバランスを保っている。何やら、近代絵画芸術の真髄を見せつけられた様に感じられたのは、「じじ馬鹿が成せる錯覚」であろうか?



 

          送りくるダリアの花に思ふかな

          一枚づつの花添える心を
          

          未だ幼き孫にしあれど花人の

          思ひを抱けり彼はこころに


          そのことに思い至ればわが孫の

          心づくしに打ちふるるかな






「孫からのメール その2 Lake Erskine」

2011-09-23 17:48:28 | 和歌

 孫からの「写真集」メール、その2をご紹介する。

 花柄にとまった番の Grasshoppers は、孫が見つめる中で花柄の頂きまで登りつめた。孫息子も息をころして、ジッとカメラを構えていたことだろう。
登りつめた番も見つめていた孫も、「ヤッタ!」と叫びたくなるような、彼らの思いが伝わってくる一枚である。バックには、爺とボール遊びをしたり転げまわって遊んだ芝生の庭と、ボート遊びをした Lake Erskine が見える。

 孫の「写真集」メールの中のこの一枚からは、 
 「じーじ、僕の庭と Lake Erskine を忘れないでね!」そんな声が聞こえそうだ。

 米国NJ州の北部には、天然の湖や人口湖が無数に散在している。なだらかな丘陵がうねり、それが何処までも続く自然環境を考えれば、湖の数が多いのは当然かもしれない。この Lake Erskine は湖尻に簡単な止水堰を設置しただけの、プライベートな湖だ。周辺住民のコミュニティが自分たちの湖を大切に管理していて、羨ましい環境だ。湖畔に面したレイクハウスには、それぞれにボートデッキを設え、ボート遊びの人とデッキで寛ぐ人々が気楽に声を掛け合うのが、日常のご挨拶だ。



 

 孫からの「写真集」メールには、ダリアの花も添えられていた。
庭の隅々には、孫専用の花壇が設えられていて、苗の移植や水やりなども孫に任せている娘夫妻であるが、「僕のお花も観てね」との孫の思いが伝わってくる。
 



 












                                                           
          蝉集め

          脱け殻も添え手作りの

          箱に標本仕立てあげ

          エアーメイルで送る爺かな


          お返しは

          あまたの写真庭先の

          グラスホッパー ダリア花

          孫の思ひにしびれる爺かも


          孫の託す

          思ひをそれぞれ汲みとれば

          言葉はなくも頷きて

          こころの通い路胸を打つかな






「孫からのメール その1 Grasshoppers」

2011-09-19 16:03:06 | 和歌

 孫から「写真集」のメールが届いたので、3回シリーズでご紹介する。

 3歳ころからカメラを玩具にして遊んで来た孫息子にとっては、カメラのレンズを通して花や昆虫を見るのは、ごく普通のことゆえ驚くことではないが、夥しい数の写真がメールに添付されていて驚いた。父親の手ほどきで、お遊びの延長線で送って呉れたものだろう。

 米国では夏休みと学期末の休暇が重なるが、その間の自由研究で「蝉の標本作り」をしていると聞いたので、日本の蝉と脱け殻を航空便で送ったことは、半月ほど前に「蝉の脱け殻」でご紹介した。 

 横須賀の蝉を手にしてにこにこ顔の孫息子であったが、虚庵じじへのお返しに、自宅の庭で写した Grasshopper の写真と、庭に咲くダリアの花のプレゼントを送って来たものだ。TV電話という便利な文明の利器があるが、小さな胸に抱いた感謝の思いを安易な手段で伝えずに、自分でカメラに収めた昆虫と花の写真に託して送ってくれた、孫息子の心にしびれた。 

 つがいの Grasshopper に近づいて、辛抱強くカメラを構える孫の姿が瞼に浮かぶ。「つがい」の動きはしごく緩慢で、花柄の下に止まっていたのが、花柄の頂きに登るまでジッと息を殺して見つめていたに違いあるまい。警戒心の旺盛な Grasshopper が孫息子の接近を許したのは、危害を加えないとの安心感と、「おともだち」としての心のつながりが持てたからだろうと、返事に書き送った。



 

          数あまた届くメールのその中の

          横文字レターにときめき覚えぬ


          発信の同じメールが重なれど

          それぞれあまたの写真が届きぬ


          数々の写真の目線の低ければ

          孫の背丈で庭を観しかも

   
          番いなすグラスホッパーは花柄に

          とまりて秋を孫と過ごせり


          ごく近く息をひそめて番い追う

          孫の鼓動を爺も聞くかな


          花柄の頂に来て晴ればれと

          番いの眺むる思ひを聞かまし

          
          カメラ手に固唾をのみて番い追う

          孫の思ひを写真に読むかな






「ブーゲンビリアの棘」

2011-09-15 00:33:18 | 和歌

 ブーゲンビリアの、紅の色が鮮やかな昨今だ。

 写真の紅は、色付き初めの部分を写したものだが、花の満開となる辺りは紅一色で、顔が火照るような思いだ。色付き初めの部分は風情に趣が感じられるので、どちらかと言えばこの様なところが、虚庵居士の好みかもしれない。

 娘がまだ高校生の頃であったろうか、「うつろ庵」の庭先にもブーゲンビリアが繁茂していた時期があった。「棘のある庭木は娘を縁遠くするそうよ」との言伝を、虚庵夫人が何処からか聞き及んで来た。根拠のない言伝とは知りつつも、それが気になって伐採した記憶がある。その結果か否かは不明だが、娘は遠く海を越えて嫁いでしまった。
ところが孫息子とのTV電話は、たどたどしい日本語と英語交じりになるが、物理的な距離を一気に圧縮して、地球の裏側に嫁いだことなど気にならぬ昨今ではある。

 一般的に紅は花の色だが、ブーゲンビリアに限ってはごく小さな、白い部分が花の本体で、紅色の目立つ部分は萼だというから、愕きだ。 しかしながら、その様な区別はたまたま人間様が勝手に区分したもので、ブーゲンビリアの心は花も萼も関係ないのかもしれない。花であれ萼であれ、ブーゲンビリアの「みて、見て、観てよね!」との思いに、共感し心奪われる虚庵居士である。




 

          くれないは花の色ぞと思ひしに

          花を支える萼の色とは


          手を合わせ花を支える萼なるに

          熱き思ひを湛える君かな


          手に抱くはごくいとけなき花ならば

          愛しかるべし萼の思ひは


          か細くも花芯は立つかな紅の

          思ひを享けにしブーゲンビリアは


          魂きわる花の命のみなもとを

          ブーゲンビリアの萼に見しかも


          海越えて嫁ぎし娘を偲ぶかな

          君行く末の棘を伐りしを






「酔芙蓉の涕」

2011-09-11 11:30:03 | 和歌

 木槿や芙蓉の時節をむかえた。

 何れも真夏の炎天下の日差しに堪えて花を付けるが、芙蓉は木槿に比べれば、花を付けるのがほんの少しだけ遅いようだ。木槿はどの株を見ても沢山の枝を空に向けて伸ばし、それぞれの真っすぐな枝に沢山の莟を付けて、次々に咲き上る。誠に逞しさに溢れた花木だ。お隣の国・韓国の国花だそうだが、彼らにはそのような逞しさ,生命力が堪らない魅力なのであろうか。

 芙蓉の花は、木槿(無窮花)と見比べても花そのものは見分けが付かぬほどよく似ているが、虚庵居士はどちらかと言えば芙蓉が好きだ。芙蓉の葉は五角形で、木槿よりかなり大きく、箒状に真っすぐ立ち上がる木槿に対して、芙蓉の枝ぶりは懐がゆったりと広いのが特徴だ。この写真の酔芙蓉は、早朝には純白の花びらを開くが、太陽が真上に来るころから淡い紅色がさして、午後には斯くの如く酔芙蓉そのものに変身する。一年三百六十六日、酩酊状態の虚庵居士にとって、酔芙蓉は将に注しつ注れつするお仲といったところだ。

 ご酒をたっぷりと頂いた後は、だらりと酔い潰れるのが世の呑兵衛の姿であるが、酔芙蓉に限ってはその様な節度ない姿は見せないから、これまた虚庵居士にとっては立派なお師匠様だ。日が暮れてしたたかご酒を頂いた後は、花びらを乱すことなく丸め込み、翌日には自ら花の命を全うするから見事なものだ。




 

          しろたえの衣をまとい咲く芙蓉と

          共に酌むかなかんばせ染めつつ


          相見れば君も酔うらしかんばせを

          はや染めにけりまだ陽も高きに


          夕立に紛れて何に涙するや

          一日限りの朋のいのちは


          花びらに湛える涕は誰がため

          君が思ひを如何にや受けなむ






「明日なきと・・・」

2011-09-07 10:26:46 | 和歌

 久しぶりに筆を持って、画仙紙に向かった。

 プロの書家であった義兄・清華のお弟子さん達が、義兄の逝去後もグループを結成し、二十年を超えて書の研鑽を続けておられる。同人展を開催するので賛助出品せよと、幹事役・俊山先生から丁寧な依頼状を頂いていたが、多忙な日程に追われて筆を執るいとまもなく、締切ギリギリになった。

 書に限らないが、日頃から研鑽を積み重ねていても、なかなか思いどおりの作品を創るのは並大抵ではない。まして、やっと時間を作って筆を執っても、作品を創るなどと意気込むのは、凡そ烏滸がましい限りだ。清華兄は日展や山梨書道協会、或いは故津金寉仙師が主宰した書藝大観などを活躍の場としていたが、本質を弁えぬエセ芸術やポピュリズムに走る書芸術の会派を厳しく批判していたのを思い出す。そんな義兄が生きていたら、筆を執る姿勢そのものに厳しい叱声があることだろう。しかしながら、「お世話になった皆様に、些かなりともお応えしなくては」との、義理堅い思いに駆られる一両日でもあった。

 思ひ通りに働かぬ筆先と格闘した。
ギリギリの時間のなかで辿り着いた一枚だが、恥を忍んでお届けすることにした。素材には、偽らざる現在の思いを和歌二首に託した。今年のお書初めに添え書きした和歌であるが、以前にこのブログでも「明日あるを」との表題でご紹介した二首である。




 

        明日なきと思えばひたぶる夜なべかな(奈)

        い寝るを忘れて何をのこすや
             

        明日あるを(遠)おもえば(ハ)この世はゆたか(可)なれ

        けふを限りの(能)命にあらねば(ハ)


        あすのためけふのなすべきことなせば

        ほのかにあけそめ あすはきにけり






「娘婿のプレゼント」

2011-09-03 16:07:13 | 和歌

 「うつろ庵」の廊下のドア・ガラスに、目にも鮮やかな小さな虹が写って、息を呑んだ。

 この廊下のドアは、謂わば「うつろ庵」の建物の中心に位置するので、直射日光がここまで射し込むことはあり得ない。どこかで反射した太陽光線が小さなプリズムを透過して、ごく小さな虹のプレゼントをじじ・ばばに下さったことになる。




 
 ドア・ガラスの虹は、ビーズのタペストリーを吊り下げている鎖の影を作り、微細なガラス模様に反射して、神秘的ですらあった。写真では若干拡大されているが、現実の虹のサイズは虚庵居士の小指程度の、ごく小さなものであった。薄暗い廊下を歩いて来て、この虹に出合った時は、小さなエンジェルが舞い降りたかと、驚いて息を呑んだ。

 夢の世界に誘われたのだから、その夢をそっと大事にすればよいものを、探究心旺盛な虚庵居士はさっそく虹を作り出しているプリズムの探査にかかった。ドア・ガラスの前面にたち、小さな虹を手で遮って光の投射の方向を確かめた。ダイニングの窓辺に、クリスタルの花器や小壺などが飾ってあるので、大よその見当はたちまち絞り込めた。

 だが、クリスタル一群をタメツすがめつして覗き込んだが、これだというプリズムは発見できなかった。
そうこうする内に、雲が太陽を遮ったのであろう、急に陽光かすんで探査を断念した。



 

 翌日のほぼ同じ時刻日、再びエンジェルの小虹が降り立った。
窓辺のクリスタル類の後ろに、ゴルフボールほどのクリスタルの吊玉が転がっているのを見つけた。窓の外の珊瑚樹の葉が揺れて、木漏れ日が揺らめくとそれに連れて、ごく小さな虹がいく筋か現れた。前面に置かれたクリスタル花器の狭い隙間から、二間ほど離れたドア・ガラスに小虹を反射させていることが確かめられた。

 すっかり忘れていたが、NYのブロードウェーにアイグラス・ショップ(メガネ屋)を経営している娘婿が、お土産に持って来てくれたクリスタルの吊玉だ。
10年以上の歳月を経て、小さな驚きとトキメキのプレゼントを頂いた。



 

          薄暗き廊下の奥のドア・ガラスに

          息を呑むかな 神秘の虹観て
             

          ドア・ガラスの謎の小虹を写さむと  

          息をころせば揺らめく虹かも


          窓際のクリスタル花器眺むれど

          小虹を生み出す もとを辿れず


          翌日も小虹のエンジェル降り立ちて

          手招きするらし私はここよと


          窓際の木漏れ日の中にクリスタル

          ボールを見つけぬ小虹も揺れいて


          娘婿の土産なりけり吊玉は

          煌めく小虹に思い受けにし