「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「新入社員とシニアの対話研修会」

2011-05-28 00:23:53 | 和歌

 さる会社の要請で、新入社員とシニアとの対話研修に参加した。
東日本大震災の被災地の真っただ中に本社を構えるその大企業は、新入社員の導入教育を既に4月以来続けて来たが、被災地の様々な事情が重なって、全社大の入社式は対話研修のつい数日前であったという。

 新入社員もそして受け入れる会社の幹部も、中にはご親族を失い、或いは住居を失った方も居られることだろう。伺えば、壊滅的な被災地の事業所では社員寮を津波で失い、事業所の駐車場に仮設寮を建設して凌いでいるという。




 誠に厳しい環境の中で、多くの不安を抱えた新入社員を勇気づけ、鼓舞し、先輩として手を差し出す べき対話研修は、シニアにとっても多くの配慮が求められる対話会であった。過度の気配りは、慣れない新入社員を却って緊張させかねないので、極力自然に振る舞い、明るく温かな雰囲気の対話会に盛り立てるよう、シニアの面々にお願いした。

 午前中の基調講演を終え、談笑しながら昼食を食べつつ次第に打ち解けて、午後の対話が始まった。
二時間の対話の中では、新入社員諸君が胸の内に秘めてきた不安を、それとなく打ち明けられるよう 仕向け、お仲間の新入社員にもさりげなく発言を促して、次第に活発な対話が展開できた。

 対話会の最後は、シニアとの対話を通じての感想・得られたポイント・今後の業務への決意表明など、新入社員全員がそれぞれの思いを込めた一分間のスピーチで締めくくられた。対話を通じて胸の閊えが 解消し、或いは前向きに取り組む新たな意欲が示され、それぞれに拍手を送るシニアの面々であった。






            それぞれに秘める不安の故ならめ

            若者にして眉顰めるは


            打ち解けて爺に思いの一端を

            告げればかんばせ笑みを湛えて


            一分の短いスピーチ若者の

            思いが届けば胸に響きぬ


            我がことを超えて人々思いやる

            尊いこころに拍手を送りぬ






「花水木」

2011-05-23 00:08:18 | 和歌

 「うつろ庵」の裏手に、粋な散歩道が2キロ程も連なっている。

 その散歩道に「花水木」が、「ひょうきんな」表情で咲き始めてから、かれこれ一か月もの日数があっという間に過ぎた。カメラに収めたまま忙しさに紛れてご紹介するのが遅れたので、花水木からブーイングを受けそうだ。

 本来の花水木の綻びは、この写真を写してからもっと後のことだが、本物の花水木の花は小粒で目立たぬので、この萼が開くのが開花だと理解されているようだ。鮮やかなピンクの萼も、真っ白な萼も花びらに見えるから、無理もない誤解だが、真に罪作りな花水木だ。ピンクや白い萼が、「ひょうきんな」恰好で中に守っている緑の小粒が、本来の花水木の莟だ。

 



 3・11以来、東日本大震災と福島原発事故の関連報道が続き、虚庵居士もそれに翻弄されてきた。 原子力に携わってきたお仲間は、悔しさに歯ぎしりしつつも、些かなりとも収束のためにお役に立ちたいと念じ、情報交換や提言の取りまとめに時間を忘れて取り組んできた。虚庵居士もその中の一人だが、 唯一の原爆被災国でありながら、放射能・放射線について何ら学ぶ機会がなかった市民の皆さんが、 放射能に怯え放射線被ばくの不安に駆られているのは、見るに忍びないものがある。

 たまたま生涯学習センターからの要請で、「低炭素化社会と原子力発電について」の講演をお約束していたが、今回の福島原発事故を踏まえて、急きょテーマを「東日本大震災 原発事故と放射能」に切り替えて、一昨日できる限る平明なお話をさせて頂いた。聴講希望者が募集数をはるかに超えたので、抽選で数を絞ったとうかがい、聴講できなかった皆さんに申し訳ない思いで一杯だ。

 事態は徐々に落ち着きつつあるが、ここに至って政府や東電の記者会見での発言に、ちぐはぐなところが散見されるのは、何故だろうか。本来ならば、技術情報も指示した事実関係も、その間に食い違いや齟齬があってはならぬはずであるが、誠に由々しき事態である。事故の収束と市民のご理解に、些かなりともお役に立てればと努めて来たが、残念だ。今回のような国難の時こそ、関係者相互の理解や情報開示には、何よりも透明性が求められるところだ。

 花水木の萼が花びらだと騙されるのは、花の世界に限った笑い話で済ませるが、原子力事故に関してはあってはならぬ齟齬だ。関係者は改めて襟を正して貰いたい。






            花水木の花綻べば笑ふかも

            踊るや花びら ひょうきん者かな


            花びらと思ふは萼ぞと聞かされて

            腕で頭を抱える友かな


            粒々の小粒の莟がやがて咲き

            くれない実る秋をぞ偲びぬ


            あまたなる市民は集いぬ原発の

            事故をし憂い不安を抱きて


            もろびとの真摯な眼差しわれ見つめ

            ひと言毎にうなずく彼らは

   
            納得と安らぎを得るしるしなれ

            ほほえむ挨拶 残して帰るは






「茱萸・ぐみ」

2011-05-16 16:45:14 | 和歌

 「うつろ庵」の「ぐみ」が、沢山の花を付けた。

 この「ぐみ」は、枝の半分ほどがガレージの屋根に覆われているので、謂わば温室効果があるのかも
知れないが、それにしても小ぶりの木にしては夥しい花数だ。





 この写真は大分拡大されているので、実物の花の大きさは三分の一程度だろうか。
小粒の花で、花の外側にはごく短い薄茶色の羽毛が、斑状に分布するので、ちょっと離れて観ればごく地味な目立たない花だ。
友人に言わせれば「華がない花だ」となる。

 花の写真をブログに掲載しようと準備したが、忙しさに紛れている間に、花の付け根がいつの間にか膨らんで幼い実が姿を現した。ところがこの頃は、かなりの数の幼い実を撒き散らして、虚庵居士を悲しませてくれる。
やがて実が赤く熟したら、可愛い孫娘と一緒に摘み取るのが虚庵居士の夢だ。
散り敷いた「ぐみ」の幼い実を掃きながら、
「おいおい、そんなに撒き散らさずにいてくれよ」 と言いたくなる欲張り爺さんだ。

 柿や果物は、六月頃になると果実が成熟を始める前に、自ら青い実を落として数を減らし、程よい数の果実を成熟させる自然の摂理がある。欧米では ”June Drop”と称するが、「ぐみ」は初夏には実が赤く熟すので、早めの ”June Drop”なのであろう。


            気が付けばぐみの花元膨らみぬ

            ブログに花を飾らぬいとまに


            稚き孫の娘は何時にしか

            小学生になりにけるかも


            ぐみの実の赤く熟さば孫娘と

            共に摘む日を夢見る爺かな


            身を振るい幼き実をば撒き散らす

            茱萸の知恵にぞ驚かれぬる


            身を削る己に厳しき生き方の

            茱萸の訓えにわが身を照らしぬ






「十万余人のご来訪に感謝」 

2011-05-08 16:04:56 | 和歌

 大変うれしいご報告です。
このブログ「虚庵居士のお遊び」のご来訪者数が、5月6日現在で「十万人」を超えました。
日頃からあたたかなご声援を静かに送って下さる皆様に、心からの感謝を申し上げます。

 「河津桜のさくらんぼ」 とのタイトルで、「うつろ庵」のさくらんぼをご紹介するつもりでおりましたが、写真だけはその侭活かして、急きょ皆様への御礼号に切り替えてご報告致します。

 「うつろ庵」の柴の戸をそっと押し開いてお訪ね下さる皆様は、殆どが結び文なども残されずに静かにお帰りになりますが、gooのブログは、皆様のご来訪の気配を数え、ご覧下さったページ数までも几帳面に
カウントして記録に残してくれています。画面左下の欄外に「アクセス 閲覧 241 PV 訪問者 128 IP」 「トータル 閲覧 291,762 PV 訪問者 100,197 IP」との表示があります。アクセスは昨日のご訪問者数と閲覧ページ数、トータルはこれまでの累計数を示します。 ページの設定は5作品(5日分)を1ページに括ってありますので、お読み頂きました作品数は146万もの多くを数え、皆様のご愛読にただただ感涙に咽ぶ思いであります。

 時には「心休まる」とのお言葉や、「癒されました」とのご感想を頂きますと、皆様のそのひと言が虚庵居士にとりましては無上の支えであります。今後とも変わらぬご支援とご愛読をお願い申し上げます。





            凍てつける 

            如月の朝 綻びし 

            河津のさくらは 五月晴れの 

            空に振るるか 稚き 

            さくらんぼあまた たがために

            くれないの色を 陽にかざし 

            色を深めて 待つぞかし 

            わが身を奉げる その朝を 

            ほろ苦き実は 初恋の

            思いを伝える 味ならめ 

            へんぽんと舞う 鯉幟の
 
            やがて立つべき おのこごの 

              胸に届けと

              焦がれる実なれや






「定吉爺の君子蘭」

2011-05-05 03:19:57 | 和歌

 植木職人だった定吉爺さんの君子蘭が、今年もまた沢山の花を付けた。
 「うつろ庵」の門被り松の手入れを終えて、半月程も経たろうか。定吉爺さんは、自宅の庭に育てた君子蘭の鉢を抱えてやって来た。 「これは手が掛らないからね」と言いつつ、松の根方に鉢を置いた。

 お勧めしたお茶も飲まずに、「じゃあなっ!」と手を挙げて門を出て、自分の手入れした松を何べんか振り返りつつ、去っていった。

 あれから何年が経ったろうか。君子蘭の鉢は、株が随分と増えて太い根が鉢から溢れた。幾つかの鉢に株分けして、ご近所にもお裾分けした残りが、今年もまた沢山の花を付けた。 

 世の中の君子蘭は赤味がより勝って、「見て観て!」と訴えているようだ。定吉爺の君子蘭は、花の色が抑え目で、床しいところが虚庵好みだ。

 花に託す思いは人それぞれ故、花の優劣を論じても始まらないが、花にまつわる思い出や好みは、いつの間にか観る人の脳裏で、花のイメージとそれらが渾然一体となり、人それぞれに大切なものを育んでいるようだ。

 花壇の組み合わせ一つを見ても、同じ種類の花を並べて整然とした美しさを演出する人も居れば、雑然とした組み合わせの中に微妙なコンビネーションの美しさを好む向きも在るようだ。さて皆さんは「虚庵居士のお遊び」のブログの花に、どのような思い胸に描きつつ、ご覧頂いているのであろうか。


            あの爺は鋏を鳴らして今もなお

            戯れ遊ぶやあの世の松にて


            日焼けした口元懐かし職人の

            前掛け姿の爺を偲びぬ
            

            手入れした松慈しむらし振り返り

            振り返りして去りゆく爺は
 
                            
            給わりし君子蘭の花未だなお

            爺のこころを咲きて告げるに






「珊瑚樹の新緑と ひと言」

2011-05-01 15:21:07 | 和歌

 「うつろ庵」の珊瑚樹の生垣が、若葉で煌めいている。

 狭い敷地だが、東・南・西の三方が珊瑚樹で囲われているので、この時節の「うつろ庵」はご近所でも羨望の的だ。東側の生垣の足元には白つつじが連なり、南側は門を挟んで両側に、珊瑚樹を背にした大紫つつじが咲き乱れている。西側は窓の日除けを兼ねて、珊瑚樹の背丈を軒下まで伸ばしているので、日に透ける新緑のカーテンと木漏れ日が、リビングに至福の空間を提供してくれる。

 この時節の珊瑚樹は古い葉を振り払い、枝々は新緑を一斉に芽吹き、日に日に目覚ましい成長を遂げる。それ故に艶のある新緑は太陽に煌めき、皆さんの羨望の的になる。





 しかしながら、油断すると枝々はたちまち育って、生垣の枝葉は密に重なり盛り上がり、窒息状態になる。更に手を拱いていると背丈も忽ち徒長する。「うつろ庵」は幸にして三方が道路ゆえ、脚立を立てて剪定する作業は困らないが、切り取った枝葉の量は膨大な量になって、処分に困惑することとなる。そんな大げさな剪定作業はご免だ。

 そこで、若葉が芽吹いて間もないうちに、余分な枝葉を摘み取るのが虚庵居士の毎朝の日課だ。
芽吹いて間もない枝葉は柔らかいので、鋏を使うまでもなく指先で摘み取れるのだ。ものぐさ爺さん流の剪定術だ。珊瑚樹の生垣を「透かし造り」に保つのは並大抵ではないが、道行く皆さんやご近所の皆さんのひと言が、ご褒美代わりである。

 この時期になると、新入生や新入社員など新たな環境に馴染めないで、戸惑う若者が出始める。いわゆる5月病だ。家族や周りの人々のほんのチョットした気配りで、彼らはどんなにか救われる筈だ。虚庵居士のような爺様ですら、「道行く人のひと言」がご褒美になり、励ましを受けるのだから、敏感な若者へのひと言は素晴らしい「良薬」になるに違いあるまい。身近な新人に、ほんのチョットしたひと言を、話しかけてやりたいものだ。






            咲き誇る花にはあらねど緑葉の

            煌めく姿に見惚れぬるかも


            珊瑚樹の若葉茂れば指先で

            摘み整えるは愛撫ならむや


            ご褒美は道行く人のひと言ぞ
            
            日毎の芽摘みに珊瑚樹応えて


            子供らにひと言かけましひと言は

            子らを励まし支えになるらむ