「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「擬宝珠と コオレ」

2013-06-29 21:01:25 | 和歌

 「うつろ庵」の「擬宝珠・ぎぼうし」が咲いた。
植木の根方に鉢を置いていたので、日光が不足気味だったのだろう、気の毒にも花付が悪かったようだ。

 

 元来が林の中など、木陰でも生き生きと成長する野草だから、それをよいことに庭の隅に冷遇してあった。莟が色付いたので、急遽表舞台にご登場願った次第だが、生き物は誠に正直で、花数が少なめなのは莟みを付けるまでの環境が左右するのであろう。

 虚庵居士が育った田舎の生家には、湧水を湛えた大きな池があったが、池の端の水苔と共に、大葉ぎぼうしの一種であろう「コオレ」が植えられていた。

 葡萄棚が池とその周辺を覆っていたが、存分な水を吸ってコオレの成長は早かった。若葉を摘み取って、お浸しや味噌汁に入れて、よく食べたものだった。爽やかな緑葉の味が忘れられない。

 擬宝珠は野生種も含めると、三十余種もの種類があると云う。 食用の
「コオレ」と花を楽しむ園芸種とは別物かもしれない。 或いはコオレは信州・
諏訪の山菜の呼び名かもしれない。


           霧雨の晴れ間の庭に降り立てば

           ぎぼうし咲きぬしずくを湛えて


           鴇色を帯びし莟のぎぼうしが

           化粧を凝らすやしろたえに咲くかな


           幼き日池の端にて母さまと

           コオレを摘みにし昔を思ほゆ


           お浸しや味噌汁に浮かぶコオレかな

           あの味懐かし 緑の色をも






「Agapanthus・アガパンサス」

2013-06-27 14:58:45 | 和歌

 鬱陶しい梅雨空が続いているが、そんな気分を爽やかにして呉れる、アガパンサスが咲いた。 じじとばばの「うつろ庵」には不釣り合いかもしれないが ・ ・ ・ 。

 真冬でも新鮮な緑葉が絶えないので、庭の隅々に株分けしたら、それぞれが花を付けて、今年は賑やかな梅雨になった。

 東京に住む息子夫妻は、孫娘を連れて時々「うつろ庵」を訪ね、ニューヨークとニュージャージーを往き来する娘の家族とは、Skypeのヴィデオ電話で交流を重ねているので、淋しさなど感じない毎日であるが、アガパンサスが咲いてひと際賑やかな梅雨であった。

 花図鑑に依れば、「Agapanthus・アガパンサス」はギリシャ語の
agapa(愛らしい)と、 anthos(花)の組み合わせ言葉が花の名前になったものだと云う。
そう云えば、孫娘の璃華ちゃんはアガパンサスの莟がお気に入りだった。小さな両手で莟を包み込んで、愛おしげにアガパンサスとお話をしていたが、思いが余って莟の首が折れてしまった。

 璃華ちゃんの思いを享けて、莟はカットグラスの小さな花瓶に活けた。

 


           幼けなきもろ手に莟を包み込み

           なに語らふや孫の娘は


           思い余り莟の首が折れにしを

           つなげて戻れと祈る孫かな


           孫娘の莟にこめし思ひうけて

           カットグラスの花瓶に託しぬ


           藍白のアガパンサスの花咲けば

           孫らの声を空耳に聞くかも






「八重咲き柘榴」

2013-06-25 00:23:15 | 和歌

 珍しい「八重咲き柘榴・ザクロ」が、しかも斑入りの花びらで咲いていた。

 実のなる「柘榴・ザクロ」の花は、子房の部分が小壺の形をしていて、縁が花びら風に切り込んでいる。 小壺はやがて成長して、ザクロの果実の厚い皮になるのだ。ザクロの果実のお尻には、花びら風の小壺の縁が其のまま残っていて、秋になれば厚い皮がぱっくりと口を開け、「食べてたべて」とせがむ風情が何とも言えない。 

 八重咲きの柘榴も果実が生るのだろうか? 或いは観賞用の園芸種で、果実は生らない品種なのであろうか?
人間は、草花や樹木にまでも品種改良の細工を凝らすので、天然種か否かの判断が難しい。

 柘榴の実に纏わる鬼子母神の昔話を、虚庵居士は子供の頃に聞いたことがある。 奇怪なお話だった。それだけに鮮烈に記憶にとどまったのだろう。 
かなり以前に「柘榴とお婆ちゃま」とのタイトルで掲載した。併せてご覧頂きたい。
                  ↑クリックすれば、リンク先が開きます。

 


           八重に咲く柘榴の花を見上げれば

           初めて食べた果実を思ほゆ


           華やかな斑入りの花の結ぶ実を

           思いも描けず柘榴の姿を


           枝垂れ咲く八重の柘榴の二輪かな

           花の重みに堪えかねるらし


           皮割れて中よりのぞく紅の

           艶やかな実を瞼に描きぬ






「茅・チガヤ」

2013-06-23 20:24:18 | 和歌

 「茅・チガヤ」の穂が夕陽に輝いて、椰子並木の中央分離帯で、風に靡いていた。
危険をも顧みず、分離帯でカメラを構える虚庵居士を案じて、虚庵夫人は早く戻ってと声を掛け続けていた。

 野に自生する「茅・チガヤ」は、花穂が咲いた直後は茶色を帯びた色で冴えないが、やがて蕊が風で飛ばされると銀色の穂に変わり、沢山の穂が陽に輝く姿は見事なものだ。

 銀色の花穂は光沢があって艶やかだが、やがて穂が枯れ始めると次第に穂が肥って、毛綿状に膨れる。 更に日時が経ては、穂綿は
風に舞って、種子を遠くまで飛ばすことになろう。

 写真の穂は、そんな変化の途中段階で、逆光で写せば「茅・チガヤ」の美しさが際だつのだが、虚庵居士のカメラの力量が及ばず、残念だ。

 数日後に山の手に散歩したら、野原に「茅・チガヤ」の群落が見つかった。排気ガスの影響もない環境で、爽やかな緑に穂波が揺れていて、思わずシャッターをきった。

 漢字の一文字「茅」で「チガヤ」と読ませるのは、若干無理があるように思っていた。「茅」の読みとしては、「チ」或いは「カヤ」が無難なところだろう。そんな思いを抱いていたら、ものの本に「チガヤは群がって生えることから、千のカヤの意味といわれる」との記述を見つけて、なるほどと納得した。

 


           椰子並木とチガヤの対比が面白く

           分離帯にてカメラを構えぬ


           身を案じ早く戻れと声かける

           妹子と爺の散歩なるかな


           銀色の花穂は膨らみ緑野に

           浮き立つ如くゆるる穂波ぞ


           白妙の綿毛はやがて種子抱き

           風に舞ふ日を夢に見るらむ






「群れ咲く立葵」

2013-06-21 11:45:51 | 和歌

 色とりどりの立葵が咲いていた。

 入梅と共に咲き初め、「頂上まで咲き昇ると梅雨が明ける」と、古来言い伝えられてきた立葵だ。現代の気象観測にもとづく天気予報など無い時代の、昔の人々にとっては、貴重な梅雨の目安であったろうと思われる。

 記憶力の悪い虚庵居士であるが、立葵の咲き昇る時期は、確か梅雨明け頃だったと記憶する。梅雨が明けて真夏を迎えると、立葵の花は灼熱に耐えられず、たちまち萎んで花時を終えることになる。頂上まで咲き昇ることと、灼熱に耐えられず花時を終えることは、異なった事象ではあるが、タイミングとしては殆ど同時期だから、立葵に託した古人の言い伝えは、自然を正確に見届けたものと云えよう。

 この写真を写したのは先週だったろうか、頂上部分にまだ莟みを残していることから、梅雨明けにはまだ間がありそうだ。正確な季節情報をもとに商売をするのでなければ、日常生活には凡その季節感で十分だ。 そんな意味からも、立葵は程よい 「花時計」だ。

 


           華やかに咲き昇るかな立葵の

           色とりどりに競ふが如くに


           ひたすらに空を目指して背を伸ばし

           陽を恋ひ咲くかな 立葵の花は


           入梅と共に咲き初め頂きに

           咲き昇りなば梅雨明けとかや


           立葵をいにしえ人は花時計に

           見立てて頼るや梅雨の目安に


           花あれば花と語らひ花を頼り

           花との暮らしを雅と云うらむ






「ネギ坊主」

2013-06-19 00:16:46 | 和歌

 住宅地の近傍では、葱畠を探すことすら難しいが、思いもよらず「ネギ坊主」に 
出会って、感激しつつシャッターを切った。

 田舎で育った虚庵居士の子供の頃は、ネギ坊主は何処でも見かけたものだった。学校の登下校は何時も悪童達と一緒だったから、思いもよらぬ悪遊びを思いついて、キャッキャと遊んだものだった。当然のこと、ネギ坊主も悪遊びの対象であった。

 幼い子供の手には、ネギ坊主は何とも言えぬ手触りだった。最初のうちはネギ坊主を、一つ二つ指で千切って遊んでいたが、次第に遊びがエスカレートすると、篠竹を刀に見立てて、ネギ坊主だけをバッサリと切り落とす遊びに興じた。

 今から考えれば、「冷汗三斗」だ。
お百姓さんには大変に申し訳ないことをしたものだ。

 


           懐かしきネギ坊主かな幼き日に

           指で千切ったあの頃思ほゆ


           ネギ坊主に手の平あてればイガイガの

           あの感触が 甦るかな


           ネギ坊主に幼きいたずら想い起こし

           冷や汗 三斗を 如何にせむかな


           ネギ坊主の咲き初む姿は幼き日の

           己の姿か イガ栗頭の






「紫陽花の散歩道」

2013-06-16 14:36:59 | 和歌

 「うつろ庵」の紫陽花はごく普通の品種だが、枝を奔放に伸ばしたものの、今年は花数が少なかった。数はすくなかったものの、青紫の花が誠に爽やかだ。

 梅雨の晴れ間を縫って、ご近所の「紫陽花」を求めてゆったりと散歩した。
紫陽花の種類が多いことは承知していたが、ご近所だけでもこれほど多様な花々が咲いているとは愕きであった。

 

 このブログでも時々ご紹介したが、横須賀市馬堀海岸の住宅地のほゞ中央には、歩行者専用の遊歩道がある。歩道は1メートル半ほどの幅に赤レンガを敷き詰め、両脇はそれぞれ2メートル程の土地に、各種の植込みが二キロ弱も続く緑道だ。

 

 住民は宅地の購入に際して、この遊歩道と公園の敷地をそれぞれ負担し、横須賀市に寄付したもので、市は年一・二回の植木の手入れを分担している。植込みの空いたスペースには、住民は思い思いに紫陽花や草花を植えて楽しんでいるので、この緑道だけでもかなりの紫陽花が咲き誇っているのだ。

 「うつろ庵」は、そんな遊歩道のごく近くだが、市民にとっては往復の散歩だけでもたっぷり楽しめる、優れものの散歩道だ。

 

 それにしても、この緑道の紫陽花は見応えがある。
住民は、花数だけでなく異なる品種をも競って植えて、自ら満足するだけでなく、道行く人々を愉しませる術も心得ているのだ。緑道の花が取り持つ縁で、互いに見知らぬ同士が立ち話をするのは、こころの和む情景だ。

 


           梅雨空の晴れ間を縫って散歩すれば

           紫陽花迎えぬ彩り違えて


           緑道の所々に溢れ咲く

           紫陽花それぞれ語りてやまずも


           一筋の緑道なるになぜ斯くも

           数多の紫陽花咲き競ふらむ


           住み人は思ひを託して植えにしか

           紫陽花の華の語るを夢みて


           名も知らぬ同士が言葉を交わすとは

           紫陽花とりもつえにし佳きかな






「うつろ庵の珊瑚花」

2013-06-14 17:53:48 | 和歌

 「うつろ庵」は、珊瑚樹の生垣で囲まれているが、今年もまた沢山の花を付けた。

 間もなく実をつけて、夏の終わり頃には血の出るような色合いの「血赤珊瑚」の実房に変身するだろう。昨今は珊瑚のイヤリングやネックレス、或いはカフスボタン等の装飾品を身に付けるお洒落がメッキリ少なくなったが、珊瑚の中でも「血赤珊瑚」はごく稀な最高級品だ。

 そんな珊瑚の実房が、毎年夏から晩秋にかけて「うつろ庵」を飾って呉れるのだから、虚庵夫妻は至極ご満悦だ。

 

 珊瑚花は、住人や道行く人々には余り顧みられない花であるが、蝶や蜂たちにとっては堪らぬご馳走だ。蝶の中でも黄アゲハ蝶は珊瑚花が大好きで、「うつろ庵」によく舞い下りるが、残念ながらシャッターチャンスを逃してしまった。

 蜂たちでは、蜜蜂・黒丸花蜂・地蜂や特大の熊蜂などが、花の香りを敏感に嗅ぎ取って、集まってくる。黒丸花蜂は黒い毛で覆われ、お尻近くが黄色で、2センチ程の大きさの如何にも怖そうな蜂だ。

 

 熊蜂は、体全体が黒色だが、胸の部分が黄色の毛で覆われた、お洒落な花蜂だ。「うつろ庵の珊瑚花」に飛んでくる蜂の中では最も大型で、黒丸花蜂の三乃至五割増しほどもあろうか。そんな熊蜂が、足やお腹に白い花粉を一杯に付けて、花蜜を吸う姿には感動させられる。

 熊蜂が飛ぶ時の羽音は、他の蜂の羽音に比べてかなり逞しいが、珊瑚花の近くで聴くと親しみすら感じられるから不思議だ。ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフの曲で、「熊蜂の飛行(Flight of the Bumblebee)」が有名だが、彼も熊蜂が花蜜を求めて飛ぶ羽音をごく近くで聴いて、五線譜に写し取ったものに違いない。
小曲とはいえ、超絶技巧を駆使して奏でられる「熊蜂の飛行」には、感嘆だ。

 


           顧みる人も少なき花なれど

           蝶や蜂には饗宴なるらし  


           いずこから飛び来るらむ珊瑚花の

           香りをたよりに蝶・蜂集ふは


           花蜜をむさぼる蜂らぞいとしけれ

           足も体も花粉にまみれて


           くまんばちの羽音逞し珊瑚花の

           傍にて聞けば歌う朋かな


           リムスキー・コルサコフの曲聴きしかな

           くまんばち飛ぶ羽音に重ねて






「私家歌集・伊都国の楓」 上梓

2013-06-13 01:40:29 | 和歌

 昨年の11月下旬、九州大学を訪れて「学生とシニアの対話会」を開催した。
『魏志倭人伝』に肥前・松浦から「東南陸行五百里 至伊都國」と書かれているが、九大キャンパスは、その伊都國の領内に位置する筈だ。

 伊都国を尋ねたついでに、大宰府とその近傍の紅葉を楽しんだ。ブログ「虚庵居士のお遊び」に、その際の「伊都国の楓」を掲載してから、あっという間の半年だった。近作「うつろ庵の芍薬」までを収録して、此の程「私家歌集・伊都国の楓」をCD版にて上梓した。

 


           「うつろ庵」の棺桶ベンチに酩酊し

           あの世と此の世を往きつ戻りつ


           半年の彼岸と此岸の朦朧を

           伊都国楓に託して詠ひぬ




       「伊都国の楓」は私家歌集ですので、ご希望の方は著者宛に
       直接ご注文願います。送料込実費500円です。
       ご注文のメ-ルアドレス: kyoan2@mail.goo.ne.jp 



「塀越しのデンドロビウム」

2013-06-12 00:03:10 | 和歌

 「人間の出会い」は、思いもかけぬ劇的な出会いがあるが、「花との出会い」は花屋の店先や「ラン展見物」などを除けば、偶然の出会いが圧倒的であろう。

 隣町を歩いていたら、コンクリートの塀越しに庭木の枝がせり出しているのが目に入った。近づいてふと庭木を見上げたら、かなり太い幹にデンドロビウムが根付いて、花を咲かせていた。思いもかけぬデンドロビウムとの出会いに、住人にお断りもせずに失礼だったが、塀越しにパチリとカメラに収めさせて頂いた。

 株の大きさや絡み具合から見ても、殆ど手入れをせずに、長年好き放題にさせてる風情であった。庭木の枝が、塀越しにせり出しているのも、同じ流儀であろう。

 デンドロビウムの名前自体が、ギリシャ語の木(dendron)と、 生える(bios)に由来するというが、デンドロビウムはジャングルなどの樹に生えるのが本来の姿ゆえ、街中の庭木ではデンドロビウムにとってはご不満かも知らぬが、地上に放置されるよりは余程益しの環境といえよう。

 心なしかデンドロビウムの花が活き活きと、精気に漲っているように思われた。

 


           コンクリートの塀越しの出会い古株の

           デンドロビウムは大樹に咲くかな


           見るからに永き年月在るがまま

           寛ぐ風情ぞデンドロビウムは


           街中の庭木の居心地如何ならむ

           産まれ故郷のジャングルならずも


           住み人は花の思いを心得て

           大樹の幹に全てを託すや


           葉も茎もしどけなけれど活き活きと

           花咲く姿に精気を観しかも






「森の白花・丸葉空木」

2013-06-10 11:14:10 | 和歌

 丘陵の住宅街の坂道を登り切ると、自然がそのまま残された細い山道に繋がる。丘陵とは云えここの急峻な傾斜が、宅地造成を妨げているのであろう。散歩道としては恰好な山道なので、虚庵夫妻は時々このルートの散歩を愉しんでいる。

 巨木が生い茂る鬱蒼とした森の中に、其処だけぽっかりと木漏れ日が射しこんだかの様に、「丸葉空木」の白い花が咲いていた。

 

 もとより白い花が「丸葉空木」だとは知る由もないが、昨年の丁度いまごろ、同じ場所でこの白い花に出会って、花図鑑のお世話になった。

 その花図鑑は、この花木の識別ポイントを極めて明快に指摘していて、もの覚えの悪い虚庵居士であるが、それを鮮明に思い出した。

 曰く、「花穂のつけ根に対生する葉は、基部がハート形で柄がない」との解説であった。
それを思い出して、花穂と葉の付き方を見たら、こんな状態であった。

 丸葉空木は陽当りが佳い場所を好むようだが、ここの様な鬱蒼
とした森の中では、珍しい存在に違いない。しかしながら、巨木の葉に覆われた薄暗い森の中で、白い丸葉空木の花に出会うと、思わず「ほっとする」のは何故だろうか。

 


           うち続く家並みの坂道登り来て

           丸葉空木に逢いに来しかも


           こぞ観てし森の白花いとしくば

           今年は如何にと尋ね來しかな


           鬱蒼と巨木茂れる森中に

           白妙の花はじじばば迎えぬ


           ひととせを経にし互いのあれやこれ

           無言に確かめ安堵するかも


           薄暗き森の白花尋ね来て

           安らぎ得るかな丸葉空木に






「金鳳花・きんぽうげ」

2013-06-08 11:11:15 | 和歌

 山あいの空き地に、「金鳳花・きんぽうげ」が沢山咲いていた。

 花は小ぶりだが、黄金色の金鳳花は細い首を伸ばして咲くので、微かな風にも揺れて、目立つ存在だ。しかも是ほどの数になると、花園の雰囲気を醸して、目を愉しませてくれる。散歩の途次ときどき訪ねて、ひと時を寛がせて貰う虚庵夫妻だが、このような野草の群落が咲く野原が、昨今は殆ど見かけなくなったのが残念だ。

 

 金鳳花の花園は、どの様にして作られるのだろうか。花の後の種が芽生えるのか、或いは地下茎が逞しく延びて、数を増やすのか知らないが、金鳳花にはその生い立ちや、自生する環境で様々な種類があるようだ。

 地に這って咲く「這金鳳花・はいきんぽうげ」、高山植物の「深山金鳳花・みやまきんぽうげ」或いは「雲間金鳳花・くもまきんぽうげ」などだ。息を切らせて山登りをして、ふと見れば雲の間に顔を覗かせる雲間金鳳花は、登山家をどれ程か癒してくれるに違いあるまい。

 それにしても、金鳳花の別名を「うまのあしがた」と呼び、「馬の足形」或いは「毛莨」とも書くという。葉の形からの呼び名らしいが、黄金色の花には金鳳花が相応しいと思うのだが・・・。

 


           なだらかな坂道のぼれば息切れて

           金鳳花さく苑に憩いぬ


           金鳳花のか細き首を柵(しがらみ)に

           なして浮世の憂さ晴らすとは


           金色の小花群れ咲く山あいに

           こころを癒やしぬ野の花園に






「金盞花・きんせんか」

2013-06-05 22:04:08 | 和歌

 毎日の散歩を欠かさぬように努めてはいるが、会議や雑用に追われて、虚庵夫妻の散歩はサボる回数が意外に多いようだ。正直なもので、散歩の回数が減り、或いは歩く距離が短い散歩が続くと体は安きに慣れて、一寸タフな散歩コースを選ぶと、たちまち脚は音をあげる。

 「うつろ庵」周辺の散歩コースに、A・B・C コース等と勝手に名前を付けて愉しんでいるが、海岸の平地から丘陵地帯へのコースでは、何かの愉しみを見つけて体を鼓舞することにしている。既にご紹介した「椎の樹・どんぐりの花」や「水木の花」などは、それらの愉しみの一端だが、今回は「金盞花・きんせんか」をご紹介する。

 「うつろ庵」を出て、1キロ半ほどの長い坂道を登る。
息絶え絶えに、やっと丘陵の上に辿り着いた。住宅街の一画に、かなり大きな畑があって、道路に沿って沢山の金盞花が満開だった。切り花として商売にするのでもなく、これ程の金盞花の花壇は殆ど見かけたこともないが、花壇の主にはそれなりの思い入れがあるに違いない。

 


           いや長い坂道登れば息切れて

           振り返りつつ汗を拭いぬ


           見下ろせば遥かに靄る海原は

           猿島浮かぶ東京湾かな


           一息の休みをせんと坂道を

           登れば迎えぬ金盞花かな


           これ程の花壇に満る金盞花に

           託す思いの程を偲びぬ






「葉蘭の花?」

2013-06-03 18:14:28 | 和歌

 観葉植物の代表格の「葉蘭に、花が咲いた」と書けば、馬鹿にされそうだが、実のところ虚庵居士も「葉蘭の花?」を目の当たりにして、目を疑った。

 葉蘭は、生花に添えて活けたり、寿司の飾り、弁当の仕切などにも使われるが、昨今はそれもビニール製に取って代わられつつあるのが現状だ。

 「うつろ庵」の庭にも、二群の葉蘭が植えてあって、虚庵夫人は時々料理の盛り付けなどに活用しているが、群落はいつの間にか勢いづいて葉の密度が増し、群が拡張する。そこで、時には強引に古手の葉を持って、根元から引抜いて、数を減らすことになる。

 そんな強引な疎抜き作業をしていたら、在ろうことか葉蘭の株の傍に花の様な塊が付いたまま、引抜かれてきた。花だとは信じ難く、暫らくはためつ眇めつして、「ニラメッコ」の虚庵居士であった。

 

 塊の姿を見れば、無骨ではあるが花らしい。色も紅がさしているところから、「花かしら?」と思われた。生ごみと一括して捨てるつもりだったので、塊りをナイフで半分に切ってみた。周辺の八角のトンガリは、どうやら花弁らしい。中央の紅色の部分は、蕊かと思われた。

 葉蘭は地下茎が活発に働いて、次々と繁茂するので、花が咲くのは繁殖のためとも思われない。長い茎とその延長上の幅広い葉が茂るその根元で、「葉蘭の花?」はどんな思いで咲くのだろうか。葉蘭に覆われ殆ど陽も射さぬ日陰で、地表すれすれ、或いは落ち葉などに覆われて咲く「葉蘭の花?」に、虚庵居士は心を奪われた。

 


           生い茂るひろ葉ひろ葉の葉蘭なれど

           只にひろ葉は哀しからずや


           気が付けば葉蘭の群れのいや増せば

           そよ風抜けまし おろ抜援けむ 


           古き葉を手に取り腰を構えてぞ

           葉蘭を引けば 根株も抜けぬ           


           株際に花らしきもの在るを見て

           目を疑うは葉蘭の花かも


           八角はツノか花弁か紅に

           色付く塊り葉蘭の花らし


           広き葉と落葉も覆ひ陽もささぬ

           根元に咲くとは 葉蘭の花ぞも


           何ゆえに斯くも厳しく花咲くや

           葉蘭の花の心を思ほゆ






「うつろ庵の梅花空木」

2013-06-01 10:08:41 | 和歌

 「うつろ庵の梅花空木」が、白い清楚な花を付けた。

 花を付けるようになって今年で三年目だが、初年度のたった一輪に比べれば、今年の花数は随分増えたものだ。 元来、梅花空木の花付は疎らで花数は少なめだが、今年は枝先に七つ八つかたまって咲いて、大奮闘だ。

 

 一重咲きの「うつろ庵の梅花空木」ではあるが、七つ八つかたまって咲く姿は、かなりの存在感がある。その様な姿も見応えがあるが、一重の梅花空木の清楚な姿は、一つ二つが綻び咲く姿にこそ、風情があるように思われるが、如何なものであろう。

 梅花空木は放置すると高さ2メートル程の灌木だが、今年は花付を見てから枝先を虚庵夫人が剪定した。油断すると忽ち枝が徒長して、住人の背丈を超えかねない。狭い「うつろ庵」の庭では、程々の背丈が望ましいので、虚庵夫人の流儀で剪定をお任せすることにした。

 


           紅のさつきの花を遠く見て

           梅花空木は白く咲くかな


           白妙の花は僅かに綻びて

           蕊いつくしむかも花弁の姿は 


           白妙の一重の花も七重八重に

           寄り添い咲くかも梅花空木は