「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「馬堀海岸の夕焼け」

2012-08-30 01:38:26 | 和歌

 今年は殊のほか、猛暑が続くようだ。

 福島事故の後、関電・大飯3・4号機を除いて全原子力発電所が停止中だ。我が国の電源確保は、将に危機状態にある。一市民としても、可能な限りの節電に努めるこの頃だ。幸いに、「うつろ庵」は緑が豊かで風通しが良いので、猛暑ではあるがクーラーを殆ど使用しない毎日だ。
 汗が吹き出るので、体を動かさない生活になりがちだが、日暮れ時から夕涼みを兼ねて、海岸のプロムナードの散歩が楽しみの一つになった。

 小一時間の散歩であるが、脚を鍛え、体調を整えるには絶好だ。胸につかえた鬱々たるものを広い海に向けて放散し、爽やかな夕風に吹かれれば、煩悩が洗い清められる気分になるから、堪らない。

 横須賀・馬堀海岸は、約二キロに亘って高潮・越波対策の護岸が建設され、その護岸を市民のプロムナードとして開放しているのだ。護岸は正面に猿島を望み、更にその奥には横浜のベイブリッジ、羽田空港を経て晴れた日にはスカイツリーが遠望できる。
左手をみれば三浦半島の山並みを超えて、富士山の雄姿が見える位置になる。護岸に沿って走る道路沿いには、カナリー椰子とワシントン椰子の並木が数キロも続くので、散歩には恰好のプロムナードだ。

 

 毎夕のことであるが富士山への日没の情景、夕焼けの雲が誠に絢爛豪華で見飽きない。これほど夕焼けを愉しんだのは、虚庵夫妻の人生では経験のないことだ。
人生の終末期を迎えつつあれば、殊更に美しく感じられるのかもしれない。

 夫婦二人して、この様な時を共有できることにも感謝だ。

 



          堪えかねる猛暑の夕暮れ海風に

          吹かれて涼とるじじとばばかな


          凪の海の水面を遥かに見渡せば

          何時しかとけぬ胸の閊えは


          沈み行く夕陽と雲の織りなせる

          変わりゆく様 飽かず眺めつ


          歳かさね人生の末の近ければ

          夕焼けいみじく胸に迫りぬ


          童謡の夕焼け小焼けを口ずさみ

          妻と歩めり 「おててをつないで」






「酔いにけらしも」

2012-08-28 00:19:49 | 和歌

 窓を開け放って寝ていたら、早朝の時雨れで目が覚めた。

 昨夜は些か酒量が過ぎた様で、目覚めたとは申せ意識は朦朧としていた。窓を閉めて、再びまどろみ夢うつつであったが、ふと気が替わった。普段の生活は深夜族そのもので、眠りに就くのは午前2時・3時だから、目覚めるのは8時頃だ。時雨で目覚めたのは千載一隅だ、早朝の散歩を試みることにした。

 時雨はいつの間にか止んで、朝の冷気が誠に心地よい。
何時もの散歩と違って、ごく「のんびり」と歩いていたら、百日紅の花が時雨に濡れて、何時もより色濃く見えた。自宅に取って返して、カメラ持参で戻った。



 カメラのレンズを通して観ても、色濃い百日紅は「酔いにけらしも」といった風情であった。虚庵居士は、昨夜の酔いが残っていて酔眼朦朧としていたからかもしれないが、百日紅が「酔ふて候」などと言わんばかりの景色に、甚くこころが通じるものがあった。

 相手が人間様であれば、肩を組み千鳥足で「もう一杯呑もう」などと、意気投合するところかもしれない。



 

            朦朧とまどろむ朝の時雨れかな

            いまひと時を 酔いも残るに


            醒めやらぬ夢みごこちが捨て難く

            枕を抱きてしばしかも寝む


            何時になく朝の時雨に目覚めるは

            あらまほしきぞ散歩に行かなむ


            百日紅しぐれの雫はご酒なるや

            酔いにけらしも色濃き花は


            百日紅の濃き紅の色合いに

            「酔ふて候」つぶやき聞くかな 


            吾もまた酔いの残れる身にしあらば

            明けの迎えに一献如何か






「珊瑚の首飾り?」

2012-08-26 00:18:25 | 和歌

 「うつろ庵」の「珊瑚の首飾り」が実った。

 「うつろ庵」は、珊瑚樹の生垣に取り囲まれているが、春先には「珊瑚樹の饗宴」とのタイトルで、珊瑚樹の花と蝶や蜂達の饗宴振りをご紹介した。殆ど同じ位置から見れば、「うつろ庵」が「珊瑚の首飾り」をしたかのように観えるではないか。

 道行く人々が時には立ち止まって、若々しい声をあげていた。見れば、「珊瑚の首飾り」を背にして、お互いにスナップ・ショットを撮りっこする、微笑ましい姿も見られるこの頃だ。
また別のご婦人は虚庵居士を捉まえて、
「宅の珊瑚樹はこれ程綺麗に実を付けないんですの。何か秘訣があるんですか?」
等と問いただして、爺を困惑させるお人もいた。

 珊瑚樹は、蜜集した枝の中の細枝に花を付けるので、剪定に際して出来る限り花を表に惹き出してやるのだ。厚手の大きな緑葉が、陽あたりを遮らぬよう気配りしてやれば、殆どの花が実を結んで呉れるのだ。かつてご近所の庭師から、
「整枝の気配りを勉強させて頂きました」
などと丁寧なご挨拶を頂き、恐縮したことがあった。プロの鋭い視線に、逆に舌を巻いたことが想い出された。

 装飾品として貴重な珊瑚は、種類もお値段も様々のようだが、血の出るような色合いの品は、「血赤珊瑚」と称して最高級品だ。「うつろ庵」の珊瑚の実房に見入るご婦人たちの多くは、どうやら血赤珊瑚への憧れと重ねているのではないかとも思われるのだが、如何なものだろう。

 お世話になった方に、ブログ「虚庵居士のお遊び」の一節をプリントして、お礼代わりにお届けしてあったが、図らずも昨日は、「珊瑚樹の実が余りにも綺麗ですので、想像で描いてみました」との絵手紙を頂戴した。

 どんなプレゼントにも勝る、素晴らしい返礼を頂戴した。



 

            緑葉の茂る生垣 重たげな

            珊瑚の房々映える夏かも


            手をのべて珊瑚の実房を掌に包み

            溜め息つくらし夢みごこちに


            陽に映える珊瑚の実房に 色も濃き

            血赤珊瑚を胸に描くや






「隣家の昼顔」

2012-08-24 16:11:11 | 和歌

 お隣さんの「昼顔」が、今年もまたフラワーベルトの躑躅に絡んで可憐に咲いた。

 朝顔は、花の後に実を結び種子を残すが、この昼顔は実を結んだところを見たことがない。植物の専門家ではないので、正確なことは知らないが、毎年いま頃、同じ場所に花を咲かせるのは、たぶん宿根草なのかもしれない。

 それにしても、真夏のさ中に可憐な花を付けて虚庵居士を愉しませてくれるとは、有難いことだ。

 「うつろ庵」のガレージの丁度前に咲くので、車の出し入れの都度目に入るのだ。 ガレージに車を収め、改めて昼顔に挨拶をすれば、どことなく伏し目がちで淋しげに見えるのは、気のせいだろうか。

 ご主人に先立たれて、年老いた奥様が独りでお住まいだが、年末には京都
に居られる妹さんの処へ移住されるという。永年お隣同士でお世話になった方が、越して行かれるのは淋しい限りだ。

 昼顔の表情が、どことなく淋しげに見えるのも、そんな事情だからかもしれない。

 


          窓越しに垣間見ゆれば車降りて

          挨拶交わしぬ昼顔二輪に


          早朝に顔を寄せなば恥じらふや

          伏し目がちなる乙女の風情に


          灼熱の陽射しはものかわ昼顔の

          花涼しげに咲く躑躅に絡みて


          昼顔は花に仄かな色とどめ

          すまし顔かな熱き陽射しに


          夕暮れに淋しさ湛える昼顔ぞ

          移ろう此の世を知るが如くに






「呑兵衛と酔芙蓉」

2012-08-22 00:48:43 | 和歌

 「酔芙蓉のかんばせ」の仄かな「酔」は、どの様な変化によるものなのか、以前から気になっていた。呑兵衛の虚庵居士ではあるが、父祖伝来の体質としては「下戸」ゆえに、ほんの少々のご酒を頂いても、忽ち顔に出る体質なのだ。

 「酔芙蓉」の「酔」は、一般的には陽が西に傾く頃に、仄かな変化が観られる様だ。



 ところが、場合に依れば早朝から「酔」の花に出逢うこともあるのだ。虚庵居士は、流石に早朝から呑み始めることは先ずないが、ランチに合わせてビールやワインを頂くことは、珍しいことではない。リタイアしてお勤めの制約が無くなったこの頃は、気分次第で「酔芙蓉」を地で行くことになるのだ。

 しかしながら、本物の「酔芙蓉」はご酒を頂くのでもなく、「酔」状態になるのが誠に不思議だ。時間的に午後になればというだけでなく、早朝であっても「酔」状態の花に出遭うのは何故だろうか。ひょっとすると日差しの量が少なめになれば、夕暮れに限らず雨模様の朝なども、仄かに色づくのかもしれない。

どうやら虚庵居士が夕暮れの雰囲気になれば、グラスが恋しくなるのと何処か相通じるものがありそうだ。

 それにしても、こんな美人の「酔芙蓉」と共に酌み交わすご酒は、さぞや美味かろう。お酒であれ、ビールもワインも泡盛の古酒も、或いはコニャックであれ何でも結構だが、「うつろ庵」の庭に「酔芙蓉」が咲いていないのは、不幸中の幸いなのかもしれない。

 「うつろ庵」に咲いていたら、これ以上のヘベレケの毎日となること請け合いだ。
パソコンに向かって夥しい数のメールを読み、キーボードを叩きながら講演の準備や執筆中も、お遊びのブログに書き込む現在も、虚庵居士は横になるまでグラスを手から放さぬ毎日なのだから・・・。

 何やら支離滅裂の酔っぱらいエッセーになったようだ。ご無礼をご勘弁願いたい。


 


            酔芙蓉を相手に呑めばうまからむ

            口に含めばひろごるご酒なれ


            かんばせを染めなばグラスを手放すに

            い寝る際まで重ねて呑むとは


            かんばせを仄かに染める酔芙蓉は

            酔とは何かと呑兵衛諭しぬ 


            酔芙蓉の花無き庵は救いなれ

            花咲きぬれば酔い醒め知らずも


            酔芙蓉はかんばせ仄かに酔湛え

            明日には花を閉じる君かも


            酔芙蓉の仄かに酔を湛えるは

            閉じる命に捧げるご酒なれ






「高砂百合の来訪」

2012-08-21 01:33:26 | 和歌

 「うつろ庵」の玄関先の鉢に、二輪の「高砂百合」が咲いた。

 この鉢には、虚庵夫人があれこれの草花を植えて楽しんで来たが、高砂百合の初めてのご来訪に、虚庵夫妻は驚きつつ大歓迎であった。



 
 高砂百合は、鱗片状の百合根による多年草だが、この百合独特の子孫繁栄術が備わっているので、広く自生するのが特徴だ。開花後に筒状の実を結び、枯れて筒が割れると中から夥しい種子がこぼれ落ちる。種子にはごく薄い羽が付いているので、風に舞い散り、至る所に自生するのだ。

 「うつろ庵」の玄関先の鉢にも、風に舞って種子が着座し、それが自生して高貴な花を咲かせて呉れたものだろう。花の姿は誠に気品に満ちているので、何処のお宅でも自生に任せているのが実情だ。台湾原産の高砂百合は、日本の気候・風土がお気に召して、今や帰化花の代表的な名花である。

 二輪の高砂百合は相前後して開花したが、蕊の色の微妙な変化が、姉妹の識別の唯一の拠り所だ。


 


            風に舞い訪ね来たるやこの鉢に

            気ままに咲くかな高砂百合はも


            高砂の名前は出自の誉れなれ

            台湾の花 百合に託すは


            図らずも庵の鉢に着座して

            高砂百合は見事に咲くかな


            あね妹 花咲く僅かな時の差 

            蕊の花粉の色に留めて






「ゴーヤと花虎の尾」

2012-08-19 00:12:03 | 和歌

 「うつろ庵」の「花虎の尾」に、今年は「ゴーヤ」の友達が出来た。

 ご近所の奥様が、「うつろ庵の飛び石」を覗きに来られた際に、お土産に下さった二株のゴーヤが、花虎の尾と肩を組む友達になったのだ。

 

 「飛び石」を何べんか往き来し、「虚庵居士の棺桶ベンチ」に腰を下ろして、久しぶりの歓談を楽しんだ彼女であった。伺えば、自宅の庭に植えるつもりで、ゴーヤの苗を買い求めて来た帰りだという。
 「真夏になれば、ゴーヤの葉陰がうれしいのよ。お裾分けね!」
などと仰って、二株を置いて行かれた。暫らくは、頂戴したままの状態で置いてあったが、紫蘭の根元にポリポットから移植した。

 あれからどれ程の日数が経ったであろうか。気が付いたら、ゴーヤは花虎の尾に蔓を巻き付け、友達よろしく肩を組んでいた。 紫蘭の幅広の葉の傍では、黄色の小さな花を付けていた。 

 それにしても青物屋の店先で売っている、あのイボイボの逞しいゴーヤは、本当にこんな弱々しい蔓に生るのだろうか。蔓の太さにせよ、巻きつくヒゲの太さにせよ、あれ程の大きさと目方にはとても耐えられそうにもないのだが・・・・。 
ゴーヤがぶら下がった景色は、遠くからは見たことがあるが、近くで観察したことのない虚庵居士にとっては、我が家のゴーヤが何とも頼りなげに思われた。

 日を経ずして、ゴーヤの蔓は花虎の尾の背丈を凌ぎ、徒長した蔓を風になびかせていた。ゴーヤの栽培をするお宅では、ネットを張ってゴーヤの蔓の成長を促すのをよく見かけるが、ネットを張るのは虚庵居士の好みに合わないので、篠竹をとりあえず添えてやった。夕陽に透けるゴーヤの葉と、花虎の尾が見事な対をなして、目を愉しませて呉れるこの頃だ。


 


          板二枚の 棺桶ベンチに並び坐し

          おしゃべり続くも午後のひと時


          「あたし この庭 気に入ったわ!」

          アッケラカンと 彼女のつぶやき


          買い求め自宅の庭に植えなむと

          ゴーヤの苗の お裾分けかな


          熱き日のゴーヤの葉陰に如何ほどか

          育むお人は涼を得るらむ


          我が庵に根を下ろしたるゴーヤかな

          花虎の尾の肩を抱きて


          稚けなき黄色の小花は寛ぐや

          庵の庭の紫蘭に寄り添い


          風に舞うゴーヤの蔓のいとしくて

          篠竹添えぬ庵のあるじは


          肩抱くは心を通わす朋なれや

          ゴーヤの訓えを孫にも見せなむ


          汗垂れてゴーヤの葉が透く陽ざしかな

          終戦記念日 御魂を祈りぬ






「黄色のプチトマト」

2012-08-17 10:18:06 | 和歌

 幼稚園の送迎バスを待つ8時頃は、ご近所の子供たちが集まって毎朝まことに賑やかだったが、このところ静かな朝を迎えている。幼稚園も夏休みなのであろう。

 見送りの定番はヤングママだが、じじと手をつないで駆けて来る元気な男の子がいる。虚庵ジジにも、「オハヨウゴザイマス」と丁寧なご挨拶をしてくれる好い子だ。その子のお宅の玄関脇に、背の高い黄色のプチトマトが見事に育っている。

 お爺ちゃんは、トマトに合わせて孫の成長を念じて栽培しているに違いあるまい。玄関前を通る都度、トマトの生育を見るのが楽しみだった。そろそろ赤く色づくかと思っていたら、意外にも赤くはならず黄色のプチトマトであった。

 孫息子のママは、早朝からビジネスにお出掛けなのであろう、週末にしかお目に掛れないが、過日は息子と一緒にプールから帰って来たのだろうか、爽やかなご挨拶だった。

 翌朝、大きめの黄色のプチトマトは数が減っていた。昨晩はトマトパスタを食べながら、幸せな家族団らんを過ごしたことだろう。

 黄色のトマトは、ベータカロチンが赤トマトの10倍も多いらしい。グルタミン酸というアミノ酸が豊富なトマトは、調理には欠かせない食材だ。虚庵夫人のトマトパスタは絶品で、機会があれば読者の皆様にもご馳走したいところだ。
が、ヨーロッパには「トマトの季節には、ヘボ料理も美味くなる」との諺があるそうだから、虚庵夫人の料理自慢は控えめにしておこう。





          朝時雨れ もろ皆濡れるにプチトマトの

          ふくらむホッペは雫も湛えず


          じじ様は孫の手をひき朝なあさな

          笑みつつ見送りバスに手を振る


          プチトマト育てる思ひを偲ぶれば

          トマトに託すや孫の育ちを


          プランターのトマトの数が減る朝は

          孫と語らう夕餉を偲びぬ






「こむらさき・小紫」

2012-08-15 11:21:20 | 和歌

 「こむらさき」が、ごく小さな花を付けていた。

 葉が対になって左右に開くその脇から、花茎が二・三本づつ伸びて、それぞれに米粒よりも小さな莟を沢山付けている。小枝の根元から先にかけて、かなりの日数をかけてじっくりと咲き進むので、枝の元には既に緑の小粒の実を結んでいた。小枝の先では、まだ莟も小さな状態だ。枝の先端まで咲き進むまでには、まだまだかなりの日数が掛りそうだ。



 
 秋の訪れとともに実の紫の色が濃くなって、林の縁などに自生する「紫式部」を見かけると、はっと目を瞠る。虚庵居士の伊豆のホームコースへの行き帰り、山道を走りながらスピードを落として、車の中から挨拶するのが毎回の慣わしになっている。朝は、がんばって来るよと呼び掛け、成績の悪かった帰りには、無言ながら慰めてくれる「紫式部」だ。

 自生の「紫式部」は、紫の実の付き方も疎らだが、それなりの佳さがあって好ましい。住宅地の散歩で見かける「こむらさき」は、基本的には「紫式部」と同じ種類であろうが、園芸種として改良を加えられている故だろうか、紫の実が数多いようだ。

 それにしても、源氏物語の作者「紫式部」の名を頂いて、自生の紫の実に名付けるとは、昔の人々もなかなか乙なものだ。




             こむらさきの

             さ枝に姉妹を 思ふかな

             姉さま夙に 実を結び

             花房咲くは 妹か

             小枝の先の 稚けなき

             莟は末の 妹か

             すだく虫の音 秋風の

             吹き渡るころ 如何ならむ

             揺れる小枝は 装うや

             錦と紫 身にまとふ

             みやびの姉妹の そのお名は

                 紫式部に 小紫かな


             紫の小粒の実房に何たくすや

             いにしえ人の夢ならめやも






「小エビ草と造化の神様」

2012-08-12 17:51:14 | 和歌

 ご近所の「小エビ草」が、今を盛りと咲いていた。

 この花は、入梅ころに咲き始めて梅雨明けまでかなりの期間を愉しませてくれる優れものだが、今年は花の時節が秋口まで続きそうな気配だ。このブログでも嘗て取り上げたことを想い出して調べたら、何と2006年のことで、
「小海老草」とのタイトルであった。


 
 それにしても、造化の神様は随分と粋な計らいをしてくれるものだ。
花に「海老」の姿をさせて、退屈がっている人間どもを楽しませてやろうと考えたに違いない。頭を捻り手先を器用に使って、苞を何枚か重ねて蝦の体に見立て、一番先端に本物の小さな花を咲かせるという、手の混んだ芸当をやってのけたのだ。

 想像の物語であるが、本当のところは造化の神の方が楽しんだに違いない。
人間どもを驚かせてやろうと、思ひをめぐらし、心躍らせて工夫を重ねた造化の神の顔が、瞼に浮かぶようだ。

「こんな花を見たら、人間どもは腰を抜かすに違いあるまい、ウフフ・・・」
などと、独りごちていたろうか。出来上がって「小エビ草」を咲かせたら、

「あら! これ花なの!」 
「見てみて! こんな花、初めて見たわ!」
てな、人間どもの反応に、膝を打ち、手を叩いて喜んだのは、造化の神様だったに違いあるまい。





          梅雨明けて蝉しぐれかな小エビ草の

          花観て思ひをめぐらすじじかな






「木槿に託す思い」

2012-08-10 17:15:24 | 和歌

 暑さの続くこの季節になると、「木槿」が次々と咲いて、心を和ませてくれる。

 「木槿」は隣国・韓国の国花であることはよく知られているが、韓国の皆さんがこの花をどの様に愛し、慈しんでいるのかとなると、ほとんど知らないのが実情だ。



 韓国とは日本海をへだてたお隣の国でありながら、国民同士の交流や相互理解は意外なほど少ないようだ。最近はテレビや映画の世界では韓流と称して、かなり親しい間柄になったかの様にもみえるが、一方では竹島の領有権問題など外交問題は、厳しい間柄と言える。
 韓国は、竹島にヘリポートを建設するなど実効支配を強めているが、「朴大統領は8月10日中にも竹島上陸を目指して出発した」との報に、日本政府は訪問中止を強く要求しており、実際に訪問すれば日韓関係が極度に悪化するのは必至だ。

 かつて韓国を日本が支配した一時期があったが、従軍慰安婦問題や竹島の領有権問題などは、両国の友好善隣関係にとってはのどに刺さった棘と言える。任期切れを来年2月に迎える李大統領は、実兄や側近の不正資金事件などで窮地にあることから、日本の植民地支配からの解放を祝う「光復節・8月15日」を前に、対日強硬姿勢を示すことで求心力回復を図る狙いではないかとの報もある。

 己の政治基盤を維持・確立するためとは言え、日韓両国の外交問題を利用するのは頂けない。我が国でも、外交音痴を棚に上げイラン外交にシャシャリ出て、国内のみならず同盟国からもクレームが付いたり、脱原発デモに参加して識者の顰蹙を買った元総理がいる。何れも己の判断と行動を理性的にコントロールできない政治家は、ポピュリズムに堕して国を売るものだとの認識が、なぜ出来ないのか。

 韓国の国花・無窮花(ムグンファ)を讃美し、花の美しさを詠いこんだ愛国歌の心を、皆さんと忖度したいと念じて筆を執ったが、横道に逸れてしまった。
韓国・国歌の一節をご紹介して、彼らの「むくげ」に託す思いを偲びたい。

       むくげの花 三千里
       華麗な山河 
       大韓人よ
       大韓をとわ(永久)ならしめよ ・・・
















          むくげ咲く盛夏となりぬ天空に

          枝を伸ばして窮みなく咲け


          紅は熱き血潮の色なるや

          花芯に託す民のこころか


          民族の歴史を超えてそのもとを

          辿れば親しき思いを抱くに


          人間は悲しきものぞ己がために

          国を売るとは 君知りませぬとは






「浜木綿の思ひ」

2012-08-08 13:54:27 | 和歌

 見事な「浜木綿」の花に出遭った。

 この花は、かなり長い期間に亘って咲き続けるので、清純な花の姿に出遭うことは稀だ。美しく咲く浜木綿だが、虚庵居士が目にするのは殆どの場合、枯れた花柄が垂れ下がっていて、美しさを損なっているのだ。海岸の天然の浜木綿は致し方ないが、せめて住宅地の浜木綿は、住人がほんの一寸花柄を摘み取ってやれば、美しさが保てるのだが・・・。そんな気配りをする暇人は、居ないようだ。



 
 「うつろ庵」の印度浜木綿は、昨年も
「名残の印度浜木綿」でご紹介したが、梅雨の季節に清純な花を咲かせて愉しませてくれる。印度浜木綿は清楚な百合状の花が一茎に七つ八つ、日を措いて順繰りに咲くので、浜木綿とは雰囲気がチョット違う。

 浜木綿は細長い花びらを絡ませて団子状に咲くので、その雰囲気も花の景色も別物だ。些か奇抜な譬えだが、浜木綿の花からは、色白の乙女らが群舞する阿波踊が連想させられる。大勢の乙女らが膝を曲げ、腕を挙げ、遠くから観れば絡み合って舞う、阿波踊が想い出されるのだ。黄金色の蕊は、ひらひらと風に舞い、お囃子が聞こえて来るようだ。

 しかしながら、浜木綿の気品のある花は、また別の物語をも考えさせられる。そんな数首を詠んでみた。


 


          浜木綿の身もだえ咲くは何ゆえか

          秘めにし思ひを誰ぞ知るらむ


          白妙の花びら細く絡ませて

          思ひの深きを君よ酌みませ


          たちのぼるしべは思ひの徴かな

          かすかに揺れるは熱きがゆえか


          浜木綿は夢にみしかもみごもるを

          夢かうつつか実を結ぶとは






「蓼科高原の朝」

2012-08-06 12:03:17 | 和歌

 標高1250mの蓼科高原の朝は、爽やかだった。

 ロッジの玄関前の広場から、落葉松林の草むらにそのまま足を踏み入れたら、未だ朝露が残っていて靴が濡れた。朝露を踏むなど久しぶりのことで、自然の恵みをたっぷりと頂いた気分であった。

 目を上げて落葉松林の梢を見やれば、短い松葉が折り重なって透かし模様をなし、ところどころポッカリと口を開けていて、澄んだ青空が覗いていた。そこから朝陽が足元の草むらに射し込んで、神秘的な世界を醸していた。ゴルフのことなど忘れて、終日、林の中を彷徨い歩いたらどんなに素晴らしいことだろう。詩人になりきって、或いは哲学者になって思索をめぐらし、或いは画人の世界に没頭できるのかもしれない。

 クラブハウスで朝食を済ませ、逸る心を鎮めて、ティーショットを放った。
その先のゴルフは、解説すれば言い訳が先になって、見苦しいことになりそうだ。
じい様達の月一ゴルファーのコンペであれば、押して知るべしだ。右や左にショットはブレ、チョロあり、飛距離を誤り、グリーンでは意に反してボールが曲がり、などなど散々なゴルフであった。しかしながら、それらを楽しみに代える術を心得ている面々だから、年2回のコンペを既に22回も重ねてきた。

 白樺や落葉松でセパレートされたコースに沿って、蓼科山・八ヶ岳連峰・アルプス連峰などを見渡す、視界360度のパノラマ展望が堪能できる自然環境ではあるが、参加メンバーは殆どが自分のボールを追うのに夢中であったと思われる。

 18ホールを休憩なしで続けて回る、スループレーを終えて、昼食を兼ねたパーティーを楽しんだ。虚庵居士はモガキながらも、様々なショットを愉しんだ結果、89のベストグロスで3位だった。


 


          落葉松の林に入りぬ 草むらの

          恵みを受けて朝露踏みにし


          見上げれば松葉を透かす模様かな

          割れ目の空はいと青くして


          いや高き梢ゆ漏れ来る朝陽かな

          淡く斑な草のしとねに


          落葉松の林はまもるや乙女ごの

          黄色の小花のひと株いとしと


          なにもかもうち捨て忘れて彷徨わむ

          落葉松林の草むら踏みしめ






「夏の葉衣・梶楓」

2012-08-04 01:16:50 | 和歌

 7月末に、信州・蓼科高原にお仲間とゴルフに出かけた。
真夏の炎天下のゴルフは、じい様達には過酷だとのご批判が聞こえそうだが、東京周辺に比べれば5・6度、場合に依れば10度近くも涼しい蓼科高原だから、毎年、定例コンペを真夏から初秋にかけて催してきた。

 今回も中央線茅野駅に午後4時ころ集合。ロッジで夕食・懇親パーテーを開催したが、十分に喉も潤ってホットな交流が深夜まで続いた。

 翌朝、ロッジ玄関に7時集合までの短時間であったが、敷地の林の中を散策した。切り株の根方に、目を瞠るような新芽が伸びていた。「梶楓」の新芽が、この時期には珍しく若葉をうす紅に染めて、初々しい姿であった。


 


          いとど酔い 蓼科の星眺めむと

          夜露を踏めばふらつく足かな


          落葉松の梢を透かせる銀河かな

          飽きずに眺めぬ夜風に吹かれて


          早朝の集合時間に遅れまじ

          迎えのバスまで しばしの散策


          草叢にうす紅の若葉かな

          夏の葉衣 梶楓かな 






「夕陽に映える」

2012-08-01 00:36:40 | 和歌

 「うつろ庵の台湾連翹」が、夕陽に映えて涼やかであった。

 終日パソコンの前に座っていた虚庵居士は、気晴らしを兼ねて散水をしようかと、屋外に出た。連日、30度を超える熱暑の毎日に辟易であるが、散水後の庭の涼しさは堪らない。今日も夕涼みと、棺桶ベンチでのビールが恋しくなって、先ずは散水をしようとの目論見だった。

 西に傾いたとはいえ、強い陽射しに忽ち汗が噴き出した。
それに引き替え台湾連翹は、珊瑚樹の生垣の間から身を乗り出して咲いているが、夕陽に映えて、いたって涼やかであった。

 かつて虚庵夫人が絽の一重を着込んで、誠に涼しげな表情だったので、
「真夏に和服を着て、汗もかかぬとは・・・」 と感嘆したら、
「女性はそれなりの心構えがあれば、汗は出ないのよ」
と、いとも涼やかに言ってのけたことを思い出した。


 


          日に何度 シャワーを浴びるや吹きいずる

          汗とたたかう虚庵居士かな


          庭の木も喉乾くらむこの熱暑に

          ビールも飲みたや爺に付き合い


          西の方 陽は傾けどこの熱暑に

          台湾連翹 涼しく咲くかな


          わぎもこは絽の一重とはいいながら

          いと涼しげ着る夏のさ中に 


          この花はたしなみ知るべし熱暑にも

          こころをしずめて 涼やかにさくとは