「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

白椿「うつろ庵の雅」

2014-03-31 11:31:38 | 和歌

 玄関先に、白椿「「うつろ庵の雅・みやび」が咲き誇っている。

 大輪の「雅」は、小鳥たちが花蜜を求めて集まるので、白い花びらは忽ち傷ついて誠に気の毒だ。無疵のままの「かんばせ」に朝のご挨拶が出来るのはごく稀で、小鳥に先がけてカメラに収められたのは僥倖だった。

 大輪の白い花びらは、小鳥だけでなく椿の葉に触れるだけでも微かに疵が残るので、莟が綻びかけると、「うつろ庵」では時々切り花にして愉しむことにしている。
何年か前にもそんな活け花 「うつろ庵の雅」 をご紹介したことを思い出した。

 小鳥が花蜜を吸った後の花びらの疵は、「うつろ庵の誇りだ」などと痩せ我慢を呟いているが、見事に咲いた花の美しさは、やはり穢れない姿で愉しみたいものだ。




           玄関を出でれば朝の出迎えの

           椿の雅に「おはようさん!」


           早朝の小鳥の訪れ未だならむ

           無疵のしろたえ 雅の花かな


           しろたえの衣を揺らす春風よ

           きつくな吹きそ葉擦れをさせまじ


           しろたえの雅のはなびら蕊に和して

           楽の音なくも静かに舞ふかな






「紫花ハーデンブルギア」

2014-03-29 12:13:58 | 和歌

 一年ぶりに「ハーデンブルギア」に出会った。

 昨年、 「ハーデンブルギア・小町藤」とのタイトルで、白花の写真を掲載したが、
「紫花ハーデンブルギア」とは初めての出会いで、胸がときめく思いであった。

 花の姿は胡蝶蘭のミニチュアを観るようで、ブロック塀から顔を覗かせていた。
よそ様の庭の花を無断でカメラに収めるのは、些か気が咎めたが、「塀越しの花の
ご挨拶を黙って見過ごすのは、却って花にご無礼だ」などと、勝手な言い訳をしつつ
カメラのシャッターを切った。

 帰宅して昨年の掲載を確かめたら、四月の初めであった。 横須賀の気候では、
三・四月頃がハーデンブルギアの花時ということだろう。 白花にせよ紫花にせよ、
ハーデンブルギア等という稀に見る花を愛ずる、横須賀住民に感服し感謝しつつ、
塀越しの花との出会いを愉しませて頂いた。




           塀越しにハーデンブルギア紫の

           花房ゆれてのご挨拶かな


           常ならば塀を見上げることなどは

           無きに何故かな花房見つけぬ


           塀越しのハーデンブルギア花房の

           無言の囁き 見上げてご覧と


           腕伸ばしカメラをかかげて紫の

           ハーデンブルギア花房写しぬ


           ひと時の無言の交歓愉しみて

           立ち去り難く観返す爺かな






「雪柳と珊瑚樹」

2014-03-28 00:38:25 | 和歌

 三月の初めに「雪柳の備え」とのタイトルで、小枝の芽吹きをご紹介したが、アッと云う間に小花の満開を迎えた。



 それにしても、「雪柳」とは何とも洒落たネーミングではないか。
か細い枝に小花が群咲く姿は、将に降り積もった雪かと見紛うばかりで、そんな風情をそのまま命名した古人のセンスには脱帽だ。

 蘇芳梅の老木の下で、小枝がゆれて道行く人々に話かける風情だ。
何時もは「うつろ庵」の東側の道路から、若干見上げる視線になるが、珊瑚樹の生垣を越える視線で観たら、雪柳の小枝は隣の珊瑚樹の新芽とじゃれ合いつつ、春を謳歌していた。

 ほんのチョットだけ視点を替えただけだが、見える景色はずいぶんと変化することに愕きだ。世の中の社会現象も、全く同じことが言えるのだろう。ともすれば、自分が観た景色、視野の世界が全てだと一般的には理解されがちだが、特に社会現象や政治問題、或いは国際問題などでは様々な視点からの検討が求められる所以だ。

 雪柳を観る視点の変化から、思わず横道に逸れて理屈っぽくなった。ご勘弁あれ。




           芽吹きをば詠みにし日から間も無きに

           雪おく風情に咲にけるかも


           しろたえの小花つらなりしだれ咲けば

           雅に呼ぶかな雪柳とぞ


           雪柳のか細き枝はしな垂れて

           ささやく気配ぞ道行く人に 


           珊瑚樹の緑の新芽とじゃれ合うや

           か細き枝の白き小花は


           時に吹く春の嵐に小雪かな 

           舞い散る白き雪柳花は






「木瓜と地梨」

2014-03-26 00:06:47 | 和歌

 真冬から春のお彼岸にかけては、様々な「木瓜・ぼけ」が目を愉しませてくれる。

 花の無い真冬に、木瓜の花に出会うと感激的だが、それ故か「寒木瓜」は俳句の 
季語でもある。そんな寒木瓜の花は白色ないし淡い色で、花数も少なめの様だ。
それに引き替え、お彼岸の頃になると、花数も多く、花の色も紅が濃くなる様に思えるが、虚庵居士の独りよがりの観察であろうか。

 数日前にご紹介した「山際の木瓜」は、花数も多く花の色はかなり濃い目の紅だ。今回掲載する木瓜は、枝一杯に密集して花を付け、花はかなり大きく、色合いも
鮮やかで、将に春爛漫といった華やかさだ。



 虚庵居士の郷里、信州・諏訪は寒冷地ゆえに、野の木瓜は五・六月頃にならないと花を付けないが、夏にはゴルフボールより小さめの果実を付ける。地元の皆さんは「地梨」と呼んでいるが、香りが素晴らしい。

 信州の地梨と同様に、ごく地味な花を咲かせる野木瓜が三浦半島でも野生していたので、十数年前に「うつろ庵」の庭に移植し、今年も花を付けた。

 木瓜は、園芸種が数々出回っているが、華やかな木瓜と共に、かなり大きな果実を付ける木瓜も見かける様になった。樹木図鑑で調べたら、木瓜の果実はゴルフボール程度の大きさから、握り拳ほどの大きさの種類もある様だ。信州の地梨は、図鑑に依れば「草木瓜・くさぼけ」に相当する様だ。


           寒木瓜の花を探すも何時にしか

           春の彼岸に華やぐ木瓜かも


           春分の陽ざしを浴びて華やぐは

           枝一杯の木瓜の花かな


           元来は野に咲く地味な木瓜なるに

           目を瞠るかな 華やぐ木瓜には


           春風を頬に受けつつ幼き日

           地梨をカジッタ昔を偲びぬ


           細き枝ゆ固き地梨をもぎ取りて

           齧れば酸っぱく地梨は香りぬ






「菜の花」のお出迎え

2014-03-24 00:50:29 | 和歌

 子供たちが大勢集まる公園の入り口に、「菜の花」が満開でお出迎えして呉れた。

 この公園は幼児から小学生に人気の公園で、何時来ても子供達の明るい声が満ち溢れている。各種の遊具と程良い広場があるのが、人気の素であろうが、ご近所の皆さんの子供達への気配りが、公園の入り口の花壇に見て取れる。



 公園の内部では遊具での遊びや、広場でのボール遊びなど子供たちが自由に駆け回るので、花壇は公園への短いアプローチ部分だけだ。子供達は「お花を大切に」することを心得ていて、花壇に足を踏み入れるなどの狼藉は、見たことがない。
アプローチの花壇の手入れも程よく行き届いて、時期に合わせた花がタイムリーに植え替えられているので、子供達は言葉に出さぬまでも、花を愛で、花をいたわる心を自然に身に付けている様だ。

 元気一杯に遊びながら、一方では花との無言の交歓で、素晴らしい感性を育んでいるのが観られる、素晴らしい公園だ。

 住宅地の中には、子供達の遊ぶ姿を全く見掛けない公園もある。
どちらかと言えば、その様な淋しい公園の数が多いようだ。住民の世代交代もあるが、肝心なのは「子供のこころ」で公園が設えられているか否かではなかろうか。
お友達と一緒に楽しく遊べる公園、子供たちの明るい声が響く公園でなくば・・・。

 公園周辺の住民の皆さんの、子供達への気配りが大切だ。
子供達の勉強も大切だが、両親やオジイチャン・オバアチャンが、子供達と共に一緒に遊び、息抜きが出来る環境を造ることが、次世代を育てる原点の一つであろう。




           満開の菜の花ゆれて子供等の

           明るい声もじじ・ばば迎えぬ


           子等遊ぶ公園花壇の菜の花に

           挨拶するかな仲間に入れてと


           公園のアプローチなす花壇では

           迎えの菜の花 うなずく仕草ぞ


           微笑を送れば返る笑顔かな

           じじと子等との「友達挨拶」


           公園を横切るだけのひと時の

           子等との交わりこぼれる笑みかな





「紅白の木蓮」

2014-03-22 11:17:54 | 和歌

 紅白の木蓮が、隣り合わせで仲良く咲いていた。

 木蓮の樹はかなり大きくなるので、殆どのお宅では紅白いずれか一方にしているが、紅白を並べているのはごく稀だ。よほど木蓮がお好きなのであろう。

 流石にかなり思い切って幹をカットして枝の拡がりを抑え、紅白を共存させているが、出来ることなら、木蓮は自由奔放に枝を伸ばさせてやりたいものだ。
しかしながら、住宅街での木蓮の維持管理は中々大変だ。間もなくすればご近所の庭先や道路まで、大きな花びらが舞い散って、ご迷惑をお掛けすることになる。

 また秋口には、大きな落葉が広範囲に拡がるので、落葉の掃除と処理も並大抵ではない。従って、枝の拡がりを最低限に抑えようとするのは、極めて現実的な対応策といえよう。本来はそんな配慮が不要な環境で、樹一杯の開花を愉しみ、大きな葉の秋風に舞う景色を愉しみたいものだが・・・。




           しろたえの木蓮の花青空に

           浮かぶ姿に 春たつを知る


           もくれんの莟は春日を背に受けて

           猫背に曲げる姿ぞおかしき


           綻びしおおき花びら春風に

           ひらめき合ふは はしゃぐ気配ぞ


           見上げればしろたえの花春風に

           揺れて応えぬ長閑な日和に






「山際の木瓜」

2014-03-20 00:24:19 | 和歌

 谷戸道の奥まった山際に、木瓜の花が満開で虚庵夫妻を迎えて呉れた。

 木瓜の咲振りも見事だったが、谷戸道の脇の斜面の雑草を丁寧に刈り込んであって、近くにお住いの方の人柄が偲ばれた。 自宅の庭の手入れだけでなく、人通りも殆ど無い谷戸道の雑草を、見苦しくない程度に刈り込んだ住み人の感性に痺れた。

 世の中には、ほんの些細なことであっても手を抜かず、誰に訴えるでもなく、自分自身が納得できる次元まで意を尽くすご仁が居るが、その様な方には敬服だ。

 ともすれば世人の評判を気にしたり、ポピュリズム的な反応には違和感を覚え、
時には嫌悪感すら感じられることもある。 それに引き替え、他人の目を気にせずに精一杯尽くす姿には、その成果がたとえ些細であっても感激させられる。




           人気なき谷戸道辿れば山際に

           木瓜咲き誇り 彼岸を知るかも


           山際の木瓜の下草丁寧に

           刈り込んであり観る人も無きに


           常ならば野草のしげる山際を

           木瓜咲くゆえに草刈る君はも


           谷戸の木瓜を愛しむ人の心なれ

           花を邪魔する野草を刈るとは





「馬酔木・あせび」

2014-03-17 14:11:21 | 和歌

 彼方此方で、「馬酔木・あせび」を見かけるこの頃だ。

 「馬が酔う木」とは随分大層な名前だが、花図鑑に依れば馬や鹿などがこの葉を食べると、あたかも酔った様に足がふらつくことから、付けられた名前だとの解説だ。 植物はその種類に依り、様々異なった成分を有するので、漢方薬などに使ったり或いは薬剤の原料にも利用されるケースもある。馬酔木はかなり強力な殺虫薬としても、用いられた様だ。



 そんな薬効成分はさておき、皆さんは可憐な花を愛でて、庭木に植えるお宅が多いようだ。 この木は元来山野に自生するが、最近は園芸用の種類もかなりの数が出回っているようだ。近くの園芸店をぶらりと覗くと、鉢植えの馬酔木をよく見かける。
剪定などの手入れも殆ど不要で、毎年可憐な花を咲かせるので、人気の植木ということであろうか。




           花房はしだれて咲くかな鈴花の

           馬酔木の鈴の音? 空耳かしら


           幼けなき稚児らは頬を寄せ合うや

           白くほのかな色を湛えて


           あちこちに光るは涙の雫なれ

           歓喜に咽ぶ「あせび」の花かも





「紅要黐の芽吹き」

2014-03-15 12:01:57 | 和歌

 「紅要黐・べにかなえもち」が、「赤芽」を鮮やかに芽吹いていた。

 緑葉の枝先に、紅の花が咲いたかと戸惑うほどだが、正真正銘の「赤芽」なのだ。
生垣に設えるお宅が多いようだが、赤芽が芽吹いた後に暫らくすれば、これらの数多い新芽が紅の葉を拡げるので、緑の生垣がまたたく間に紅の生垣に変貌して、道行く人々を愕かせることになる。

 やがて端午の節句の頃から初夏にかけては、白い粟粒状の花を咲かせて愉しませて呉れる。花が散る頃には紅の葉が徐々に緑葉に衣替えして、様々な変化を見せる優れものだ。

 自然の世界の緑葉は、観る人の心を寛がせてくれる包容力豊かな存在だが、赤芽の芽吹きに始まり、変身術に長けた「紅要黐」の変わり様には、目を瞠る。

 そんな変わり身の鮮やかさを、今年も愉しみたいものだ。




           紅の花かと見紛う赤芽かな

           紅要黐の芽吹く姿は


           緑葉の枝の先々それぞれに

           華やぎ芽吹く赤芽に見惚れぬ


           枝々の赤芽はそれぞれいや増せば

           やがては紅葉の衣に変わらむ


           白たえの粟粒花の咲く頃に

           再び相見む 「べにかなえもち」に





「クリスマスローズとイガクリ頭」

2014-03-13 02:43:59 | 和歌

 「うつろ庵」の藪椿の下で、遅咲きのクリスマスローズが咲き初めて二・三週間ほど経った。 この花には様々な種類があるらしいが、クリスマスの頃から早春にかけて咲くので、この冠名が付けられた様だ。

 クリスマスローズは俯いて咲くので、上からの目線では綻びすら識別し難い程だ。虚庵夫人は鉢に植え、尚且つ60センチ程の高さのスタンドに据えて、花の位置を 高くしているが、それでも花の蕊にご挨拶するのは難儀だ。



 寒中に咲くクリスマスローズを、もっと早い時期に写したかったが、咲き初めから 花が十分に開くまでに、ほぼ半月を要してやっとカメラに納まって呉れた。

 ほとんどの種類の花は、開花とともに「見て観て」誇らしげに訴えるのが一般的だが、クリスマスローズに限っては不思議なことに、極めて控えめで、慎ましやかだ。
何ゆえに、こうべを垂れて咲くのだろうか。 対面する相手の顔を覗き込むのは凡そ失礼千万だが、「うつろ庵」の同じ住人故に、ご無礼をお許し願ってカメラに収めた。



 路地植えのクリスマスローズは、先に咲いた福寿草に顔を寄せて、恰も話かけて いる様な風情であった。カメラに写すのを一日伸ばしに遅らせていたら、福寿草は「待ちきれませんよ」 と宣て、ハラリと花びらを散らせ、「イガクリ頭」が後に残った。

 「クリスマスローズとイガクリ頭」では、どんな会話が交わされるのだろうか?




           遅咲きのクリスマスローズの開花から

           半月待つかな 笑顔を観むとて


           何故ならむ こうべを垂れて咲く花の

           こころを聴かむと蕊に問ふかも


           咲く花の後ろ姿は寂しとて

           我妹子高みに鉢を据えにし 


           藪椿の足元に咲く福寿草に

           顔寄せ囁くクリスマスローズは


           福寿草とクリスマスローズの語らひを

           写さむと待てば黄花散るかも


           クリスマスローズの花に寄り添ふて

           イガクリ頭は何語らふや





「鳩ポッポの抱卵」

2014-03-09 01:32:15 | 和歌

 「うつろ庵」の窓辺に、鳩ポッポが巣を作って抱卵した。

 リビングの西窓には、日除けを兼ねた生垣を、軒先まで伸ばしてあることは先の 「椿と小鳥達」にも書いたが、その窓辺に鳩ポッポが巣を作って抱卵中だ。

 カーテン越しに、鳩ポッポを驚かせないように、そっとカメラに収めたのが下の写真だ。中央上部、矢印の先に鳩ポッポが見える。巣に蹲って、昼夜を問わず卵を抱き続ける姿は、何ともいじらしい。



 虚庵夫妻は普段の生活スタイルを変えないで、優しく見守ることにした。
夕刻から翌朝までは厚手のカーテンを静かに閉めるが、日中はレースのカーテンを開けずに置き、室内の行動も極力静かに振る舞っているこの頃だ。

 鳩ポッポの巣の向こうは4メートルの私道で、人も車も殆ど通らないのが幸いだ。
「うつろ庵」の周りの道路の落葉や花びらを掃除するのが、虚庵居士の毎朝の日課だが、その作業も出来る限り静かに続けることにした。

 数日前から、鳩ポッポの巣の下を掃く際には、彼女にだけ聞こえる程度の小声の「鳩語」で、数回のご挨拶をする虚庵居士だ。何回目のご挨拶であったろうか、虚庵居士の小声のご挨拶に対して、鳩ポッポがごく低音で喉を鳴らして応えたのには、 感激であった。ほんのささやかな交歓であったが、確かな心の繋がりが感じられた。

 実はこの番(つがい)の鳩ポッポは、3年前から「うつろ庵」の窓辺に営巣しているのだが、悲しい物語を繰り返してきた。 最初の営巣の様子は「西窓の鳩ぽっぽ」に 記したが、残念ながら雛を孵すまでには至らなかった。

 翌年の4月再び抱卵し、その時の状況は「じじ・ばばと鳩ポッポ」に詳しく書き残したが、誠に悲痛な結果になった。「ひび割れた泥岩と鳩ポッポ」及び「母鳩の号泣」に、涙ながら書き留めた。お目通し頂き、鳩ポッポの思ひを共にして頂きたい。

 彼女ら番の鳩ポッポと共に、虚庵夫妻も今年こそは元気な雛が育って欲しいものと、心から願い、祈る思いで見守り続ける毎日だ。




           窓近く吉備の椿の鳩の巣に

           雛の孵るを じじ・ばば祈りぬ


           鳩の声に こぞおととしを偲ぶかな

           涕あふれる悲しき結果を


           吉備椿の古巣に戻り母鳩は

           ただひたすらに卵抱けり


           鳩の巣の下を掃きつつ小声にて

           励まし送りぬ鳩の言葉で


           はからずも頭の上から母鳩は

           幽かにのどを鳴らして応えぬ


           今年こそ元気な雛の声聞かむ

           餌のおねだり 羽ばたきも観む






「うつろ庵のヒマラヤ雪の下」

2014-03-07 01:05:31 | 和歌

 「うつろ庵」の庭の日溜りに、「ヒマラヤ雪の下」が咲いた。

 地面を横に這うように伸びる太い根茎から、大きな葉を拡げ、その中央に桜色の 花が二十個ほど、円錐状に集まって咲く可憐な花だ。

 ヒマラヤ山脈周辺の山裾に自生する花だという。どの様な経路を辿って、横須賀の「うつろ庵」に嫁いで来たのであろうか。日向とは云えども、未だ寒い庭先の「ヒマラヤ雪の下」の傍らで、この花が秘めている長い物語に思いを馳せた。



 何時も通る豊かな植栽が続く遊歩道にも、この花が植えられているが、毎年のことながら日陰の株が先に咲き、日向の株は「うつろ庵」の庭先と殆ど同時に、半月ほど遅れて咲くのが不思議だ。 長い年月をヒマラヤ山脈の、厳しい自然環境に耐えて、 身に付けた不思議な「性・さが」であろうか。

 花の可憐さとは別の性を持つことに、「人間のさが」を連想させられた。 
人間社会でも、それぞれが持つ知性や各種の能力とは別に、育った家庭や社会環境に応じて、云い知れぬ性が身に付くことが多い。 

 植物も人間も、地球上の生命体としての共通点があるようだ。




           庭先にようやっと咲くヒマラヤの

           雪の下かな半月遅れぞ


           如何ならむ日陰の株は年毎に

           日向の株の先に咲くとは


           ヒマラヤの過酷な自然に鍛えられ

           身に備えるや不思議な性をも


           地に這いて大きな円き葉を拡げ

           身を寄せ合ふて綻ぶ莟は


           七重八重 花を重ねて咲き競い

           春を待つらむヒマラヤ雪の下は


           花々は咲き揃ふかも日を措けば

           春待つ姿か首を伸ばすは






「紅の爪先? 唇?」

2014-03-05 02:03:53 | 和歌

 これほどに様々な名前を持っている植物は、稀だろう。

 英語では”Dollar Plant”と呼ぶそうだ。肉厚の葉がコインに見えることからの呼び名であろう。日本では「金のなる木」、或いは「成金草」などが一般的だ。穴あき硬貨の五円玉や五十円を新芽に載せておけば、穴を通して葉が成長して、やがて「お金がなる」状態になる。

 「お金」にまつわる名前は、庶民には裕福になった気分が味わえるので、洋の東西を問わず、「お金」にまつわる呼び名が付けられたのであろう。



 一方では、「花月・かげつ」或は「縁紅弁慶・ふちべにべんけい」との和名もある。

 植物図鑑に依れば、この多肉植物は弁慶草(べんけいそう)科に分類されるそうだが、冬から初春にかけて、葉の縁が見事に紅色を帯びるので、「縁紅弁慶」との命名は頷ける。「花月」の由来は調べてないが、想像できる範囲の命名で、優雅な名前だ。カメラに写しつつ虚庵居士は咄嗟に、「紅の爪先」との呼び名が頭に浮かんだが、如何なものであろう。

 それにしても、これ程沢山の呼び名があるのは、世界中の皆さんに可愛がられている証しであろう。 子供の頃から現在に至るまで、皆さんも様々なニックネームや 呼び名を賜わったことであろう。それらは皆さんが頑張った、人生の勲章だ。大いに誇りにしたいものだ。




           凍えつつ降り立つ庭には紅の

           爪先透けて花月はいとしも


           縁紅の弁慶草の緑葉は

           おしゃべりするかな春の陽に透け 


           紅は 爪先ならず 乙女らの

           唇ならむか 声きく心地す


           あまたなる呼び名・あざなや ニックネームは

           此の世に励んだ証しと誇れや






「雪柳の備え」

2014-03-03 01:08:49 | 和歌

 春の足音が、すぐ近くに聞こえる様な一両日だった。

 一昨日は、三浦半島の最高気温が14度を越えた。温かな陽射しに誘われて虚庵夫妻は、久々に葉山でゴルフに興じた。 コース脇の日陰には残雪が彼方此方に残り、前夜の強風で吹き千切られた松の枝葉が散乱していたが、温かな陽ざしに思わずブルゾンを脱ぎ捨て、初打ちを堪能した。

 それにしても、ごく狭い三浦半島にも拘らず、そしてまた横須賀の「うつろ庵」と葉山の距離はごく僅かだが、残雪量の多いのには愕かされた。「うつろ庵」周辺では、雪の翌日にはすっかり溶けてしまったが・・・。



 「うつろ庵」の生垣と重なって小枝を伸ばしている雪柳も、緑が目に見えて膨らみ、あっと云う間に小さな葉をひろげた。 そよ風に揺れる小枝が陽を浴びる様は、恰も春を手招きしているかの様な風情であった。

 枝が密集する辺りに目をやれば、枝には小さな莟の塊りを既に備えていた。
開花にはまだ間があるが、自然の世界では気候の変化を敏感に感じ取って、花時への備えを怠らない姿に感服した。 明日へ向かっての虚庵居士の備えは如何にと、思わず自問させれた。




           残雪の日陰に残るを目にすれば

           雪害偲びぬ 甲信武蔵の


           残雪のいまだに残る葉山かな

           庵の雪は翌日消えるも


           如月の大雪の名残りも消えやらぬに

           芝踏みにけり小春日和に


           いと細き小枝の緑の 風にゆれて

           春呼ぶ風情の雪柳かも


           積る雪に枝垂れて耐えにし小枝なれど

           莟の備えに目をみはるかな


           か細くも小枝は日々の移り行く

           自然の変化に備えをなすとは