「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「耀く明日への帳・とばり」

2012-11-30 11:25:25 | 和歌

 短い九州の滞在であったが、様々な思いが募る旅であった。

 学生達との意見交換では、ともすると経験豊かなシニアが一方的に喋り続けて、若者がもっぱら聞き役になりかねない。次世代を受け継ぐ若者にも十分の発言を促し、 共に考え、議論を重ねることで相互理解を深めたいものだ。学生との対話会では、虚庵居士はファシリテータとしてそんな気配りをしつつ、司会役を務めた。
前向きな対話を契機にして、明日に向けての確たる心構えと気概を養って貰いたいと念じて、九州大学にやって来た。

 

 東電・福島事故は、周辺住民の避難を始め、汚染除去や放射性廃棄物の中間貯蔵の問題、原子力安全基準やシビアアクシデント・マネージメントの再構築、我が国の長期エネルギー政策の確立、廃炉を含む原子力技術の将来展望、或いは事故の教訓を活かした国政貢献などなど、極めて多くの課題を我々に突き付けている。

 学生との対話会の挨拶でも、「次世代への負の遺産のバトンタッチは、誠に申し訳ない」と、心からのお詫びをした。一方では、現役の後輩諸君が極めて緻密な対応策を着実に構築しつつあり、国際的にも我が国への期待が高まりつつある現実に、学生諸君は視野を開いて欲しいと訴えた。

 人類の歴史をひもとけば、大きな危機を克服し、次への飛躍のエネルギーとして来たのが判然とする。 現在の社会環境は誠に厳しいが、次世代を受け継ぐ若者は、是非とも雄々しく立ち向かって欲しいものだ。

 福岡空港で搭乗を待ちつつそんな思いを巡らせていたら、空港のイルミネーションは闇の現世から、学生達が開く「明日への帳」のようにも想われた。

 


           若者に思ひのたけを投げかけて

           明日を託しぬ 伊都キャンパスにて


           学生のカガヤク瞳と迸る

           意欲の言葉に明日見る心地す


           空港のイルミネーション眺むれば

           「耀く明日への帳」に見ゆとは


           機会あらばまた訪ね来む伊都国に

           女王卑弥呼のロマンを辿らむ


           「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)の金印も

           次にはまみえむ額を近づけ






「大宰府のもみじ」

2012-11-28 01:29:51 | 和歌

 久しぶりの九州大学訪問を機に、九州の歴史の一端に触れたいと念じて、滞在を一日延長した。 ところが旅行シーズンと重なって、博多駅周辺のホテルは軒並み 満杯で、やっと予約が取れたのは大宰府だった。九州の土地勘に疎い虚庵居士は、博多から大宰府は随分遠いものと思っていたが、調べたら電車でたった30分程の至近距離だと分かった。 歴史探訪には、却って好都合だ。

 大宰府天満宮と併せて、国立歴史博物館を訪ねることにしてホテルを出た。
驚いたことに、天満宮は観光客と七五三の参詣で溢れていて、歴史探訪どころではなかった。更に愕いたことには、参拝客の中に韓国語がかなり混じっていることだ。今や竹島問題が日韓のネックではあるが、九州と朝鮮半島の地理的な関係は、一衣帯水であることを考えれば、隣町への気軽な小旅行といった気分であろうか。

 早々に人混みから逃れ、国立歴史博物館に避難した。
博物館の静謐な部屋で、古代の展示品を眺めつつ遠い昔に想いを致し、しばし夢幻の世界に遊んだ。

 


           遥かにも千二百年余の時を超え

           君立ちませる庭を歩みぬ


           あるじなき梅への思ひを偲びつつ

           秋の山辺を如何にや見つらむ


           山の辺の紅葉は君にも語らずや

           色染めにしも散りゆくこころを


           落ち葉踏み独り歩めばかさこそと

           幽かな葉音のささやき聴くかも


           もみじ葉を透かす秋の陽いざなうは

           遥かな昔か 明日への思ひか






「釣瓶井戸」

2012-11-25 13:26:13 | 和歌

 正行寺の境内で遊ぶ子供たちに、手をふり「さよなら」をして山門に向かったら、 参道脇に珍しくも「釣瓶井戸」があった。
黄葉と紅葉の「もみじ」が釣瓶井戸に寄り添い、何とも言えぬ風情であった。

 

 水道が普及して、今の社会生活では手汲みの井戸などは殆ど使われなくなった。
この寺の釣瓶井戸も実用に供していることはあるまいが、仏道修行の寺の境内に、「汲めども尽きぬ命の水」がひっそりと残されていることに、無言の訓えを頂いた。

 釣瓶井戸を写し終えて、紅葉の葉を透かして境内の奥を見たら、子供たちは元気に遊び続けていた。晩秋の夕陽は、釣瓶落しの如く早く暮れるなどと言うが、西に傾いた夕陽が参道を木陰で覆っていた。 

 ほんの一寸した訪れであったが、紅葉と子供たちと釣瓶井戸に、豊かな心を頂いたひと時であった。

 


          境内で遊ぶ姉妹に手を振りて

          さよならすればモミジ葉舞うかな


          山門を潜らんとしてふと見れば

          釣瓶井戸かも もみじ寄り添い


          青竹の井戸蓋の上に吊り下がる

          傾く釣瓶は思案の姿か 


          仏門の黙して語らぬ釣瓶井戸は

          汲めども尽きぬ命を説くらむ


          葉隠れに奥を見やれば子供らの

          遊ぶ姿に楽園おもほゆ






「正行寺の紅葉」

2012-11-23 17:27:22 | 和歌

 九州大学を訪れた翌日、帰京を暫時遅らせて、福岡の紅葉を愉しんだ。

 ごく短い時間の駆け足の探訪であったが、銀杏の黄葉に釣られて足を踏み入れたお寺の境内では、数人の男の子がボール遊びに興じていた。

  


           黄葉の

           銀杏に釣られて境内に

           山門潜れば子等の声

           ボールを蹴りつつ右左

           共に走りて聲かけぬ

           「綺麗だね」と指させば

           元気なアイサツ 「キレイデショ!」

               僕らの自慢と  誇る顔かな




 小学2年生位の女の子が小さな妹の子守をかねて、一緒にカケッコ遊びをしていた。お姉ちゃんが「よーいドン」と声を掛ければ、3歳ほどの妹は髪をふり乱して駆けた。お姉ちゃんは妹に声をかけつつ走った。石段の手前まで走って、「やった」と拳をかざした。小さな妹もそれに倣って、モミジの様な手をかざして「ヤッタ!」と叫んだ。

 二・三回そんなカケッコ遊びを繰り返した姉妹は、石段に腰掛けて休んだ。

 

 可愛い姉妹の、ほのぼのとしたお遊びを邪魔しないように、庭の片隅からそんな情景を愉みつつ、ふと目をやれば、石灯籠の脇の「もみじ」が見事な紅葉であった。

 


          稚けなき

          妹と遊ぶお姉ちゃんの

          頬にえくぼの笑顔かな

          「よーいドン」との掛け声に

          稚児は負けじと懸命に

          走る後からお姉ちゃんは

          何やら声かけ走るかな

          拳をかざし叫ぶ姉

            「ヤッタ!!」と見倣う 小さなモミジ手


          石段に並んで腰掛けおしゃべりに

          夢中の姉妹に手を振り さよなら






「学生とシニアの対話 in 九州大学 2012」

2012-11-20 21:45:44 | 和歌

 九州大学・伊都キャンパスで開催された、「学生とシニアの対話in九州大学2012」に参加した。 九大での対話会の初回は、五年程前になろうか。
おぼろげな記憶を頼りに、福岡空港から博多駅前のホテルに入り、荷物を預けて地下鉄で九大学研都市駅へ向かった。四時起きで横須賀から馳せ参じ、睡魔に襲われて二駅も乗り越した、スカタンの出だしだった。

 

 紅葉の季節、旅行シーズンと重なって程よい時刻の便が取れず、ホテルの確保にも難儀したが、殆どが大学院生と学部四年生に迎えられて、対話会が始まった。 
学生達の質問事項と対話の関心テーマが予め寄せられ、学生達の意識レベルが
かなり高いのが読み取れ、充実した対話会の予感に、心地よい緊張感が漲った。

 

 参加学生の数は必ずしも多くはなかったが、予想に違わぬ対話会であった。
学生とシニア幹事のご尽力、加えて九大名誉教授の時宜に適った基調講演に拠る イントロが、見事に噛み合い、学生もシニアもそれぞれに手応を確かめられたものと思われる。

 学生諸君は福島事故を様々な視点から捉え、拙劣な東電・国の対応を始め、国民への情報開示の在り方、メディアの偏向報道などを批判し、新たな規制委員会や安全基準に思いを致しつつ、如何にしたら学生の立場で国民の理解を助けることが出来るかを、真摯に模索する姿に共感を覚えた。

 東電・福島事故は国民を恐怖に陥れ、ポピュリズムに堕す政治家に判断を誤らせ、今や日本は沈没の危機に瀕しているが、次世代を担う彼等の視点を是非とも「人類のエネルギー確保」、「世界各国のエネルギー戦略」、或いは「日本への国際的な期待」等に括目させたいものだ。そして、その主役が彼等であることを認識させるのが、シニアの務めであろう。

 対話会に参加した学生諸君は、次世代を「シカ」と受け継ぐに違いないが、それ以外の学生へのメッセージを如何に発信するかが、我々シニアの大きな課題だ。

 対話会の翌日、博多の「もみじ葉楓」の紅葉を垣間見つつ、次世代に夢を託した。

 


          学生の真摯な質問・関心事を

          読みつつ明日への期待を抱きぬ


          早朝に出でたつ爺は居眠りに

          乗り越すスカタン この先如何にや


          大学の 院生・学部の四年生

          爽やかなるかも ほどよき緊張は


          学生に最初に呼び掛け促すは

          ”Don't hesitate” 躊躇は駄目よと


          学生の発言促しその思ひに

          耳かすシニアの眼差し佳きかな


          次世代を担う心を育めば

          夢を託しぬ よろしく頼むと


          伊都国の楓散り敷く紅葉に

          思ひを重ねつ枯れ往く吾等は






「艶蕗・つわぶき」

2012-11-16 00:03:17 | 和歌

 ひと月ほど前から、「艶蕗・つわぶき」の鮮やかな花が咲いている。

 「うつろ庵」にも数株が咲いているが、何時でも写せると油断している間に、半月ほども経ってしまった。彼女たちの一番美しい状態は写せなかったが、艶やかな葉も鮮やかな黄色の菊花も、依然として虚庵居士を愉しませてくれている。

 「うつろ庵」の裏庭は、早朝の朝陽は差し込むが、日中から夕刻にかけては家屋の陰になって、気の毒にも陽射しが遮られる。そんな厳しさもものかわ、「裏庭の艶蕗」はふくよかに咲いた。花茎を東に傾けた姿勢からは、朝陽を精一杯受けようとの思ひが、切ないほどに偲ばれる。

 


          ふくよかに咲きつるものかわ艶蕗は

          陽ざしの少ない裏庭なれども


          ひんがしに茎傾けて首伸ばす

          姿はいとしも 朝陽を浴びむと




 早春の「つわぶき」は、春の到来を告げる薫り高い食材としても、貴重品だ。
佃煮もいいが、たっぷりの煮汁と共に頂く仄かな香りと、若干苦みがかった味は、自然の恵みそのものだ。白ワイン、或いは日本酒によく合って、酒量が些か増えるのが辛い、いやいや、たっぷりと堪能させて貰う虚庵居士だ

 東南の角に金木犀が鎮座する「うつろ庵」であるが、その木陰にも一叢の艶蕗が咲いている。生垣の珊瑚樹と金木犀に挟まれて、木漏れ日がスポットライトよろしく艶蕗の花を浮き立たせていた。この株の菊花は、珍しいことに通常の花弁と筒状の花弁とが入り混じった、誠に粋な艶蕗だ。花の印象も何処か、エキゾチックな雰囲気を漂わせて、虚庵夫妻を痺れさせるひと株なのだ。沢山咲いた中の、一茎だけを写した。

 


          木漏れ日のスポットライトに輝きて

          つわぶき眩しく咲きにけるかも


          何故ならむ何処か異なる雰囲気は

          ユニークなるかな 花弁のあしらひ


          木枯らしにカサコソカララと枯葉舞ふに

          温く咲くかな つわぶきの花は 






「ユリオプスデージー」

2012-11-12 01:23:20 | 和歌

 住宅地の庭先でよく見かける「ユリオプスデージー」だが、有ろうことか空き地のほぼ真ん中に、おお威張りで咲いていた。

 近くの何方かが、鉢植えの株が大きくなって手に負えず、空き地に放置したものが、根付いたものに違いあるまい。 空き地には雑草が蔓延っているが、そんな中でユリオプスデージーが気品を損なわずに居られるのは、生来の品格のなせる業であろうか。

 人間社会でも様々な人々が入り混じり、交流を重ねているが、「朱に交われば赤くなる」の諺通り、悪い影響は受けやすいのが通例だ。しかしながら、不思議なことに人それぞれの持つ良い意味での品性は、短期間では中々磨けないようだ。
家庭環境やお付き合いする人々が醸す環境に馴染んで、人は知らず知らずの裡に己の人格を築いていくものの様だ。長い年月をかけて人に接する態度、ものの考え方、感性などのセンス、経済感覚、生活力等などの練磨を重ねるのだ。

 自然環境の中での品性の変化も、多分同じであろうが、雑草の中ではユリオプスデージーがひと際抜きん出て、気品を湛えていた。朱に交わっても尚且つ、品性を落さぬ彼女にエールを送りたい気分であった。

 菊によく似た草花だと理解して来たが、念のため調べたら「南アフリカ原産の常緑低木」だという。小さいうちは草花のような華奢な姿だがが、年を経ると茎の根元は太くなって、表面がごつごつした樹木らしい姿になるのは承知していたが、宿根の多年草であれば当然の変化かと独りよがりであったが、「常緑低木」だという解説には驚かされた。

分類学上は「キク科」となっていることからすれば、「常緑低木状・多年草」が適当なところではなかろうか。ところで、この花には和名が見当たらないようだ。日本に渡来して、未だ日が浅いのであろうか。

 


          嫁ぎ来てまだ日が浅い故なのか

          うら悲しくも和名の見えぬは


          ユリオプス・デージーひと株咲きにけり 

          草むら蔓延る 空き地の真ん中 


          もののみな朱に交われば忽ちに

          色付き汚れて姿を変えるに


          様々な野草蔓延る中にいて

          気品をたもちぬ穢れを帯びずに


          麗しき花咲かせむと清廉な

          歳を重ねて古木になるとは






私家歌集 「虫たちの力作」 上梓

2012-11-10 15:56:46 | 和歌

 お仲間と喧々諤々の議論を重ねた政策提言、或いは矛盾と偏見に満ちた報道に悲憤慷慨し、抗議を重ねたが、それらの反応は期待を裏切るものばかりであった。

 それに引き替え、学生達の真摯な反応には目を瞠るものがあった。 膝を交えた対話会では学生達に直接問いかけ、メールによる往復書簡を交わし、次世代を担う若者に熱い思いを訴えてきた。彼らの真摯な姿勢には、「次を頼むよ」との純真な思いが、お仲間の言葉にもメールの表現にも窺えるのが、何よりの成果であった。

 一方、細切れの時間を紡いでブログ「虚庵居士のお遊び」を書き連ね、或いは芝生を踏んでゴルフに興じるなど、虚庵居士の半年はアッという間に過ぎ去った。

 子供達は何かに夢中になって、時の経つのも忘れて熱中するが、虚庵居士の毎日もまさに子供と同じで、夢中の連続であった。

 ブログ「虚庵居士のお遊び」に書き連ねた五月以降の拙作を、九巻目の私家歌集「虫たちの力作」としてCD版にて上梓した。  

 お遊びの著書もかなり溜まったので、併せて一括りの写真もお目に掛けます。
「千年の友」は文芸社刊にて、一般書店で販売中です。
AmazonやGoogleなどのウェブサイト(http://books.google.co.jp/books?id=FRCEtcE4YBYC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false)でも、内容の一部を紹介しています。

 私家歌集「虫たちの力作」等については、ご希望の方は虚庵居士宛に直接メール(kyoan2@yahoo.co.jp)にてご注文下さい。実費500円(送料込)


 


          お遊びの拙き歌とエッセーを

          歌集にまとめぬ 「虫たちの力作」 


          虫たちに負けてはならぬと細切れの

          時間を紡ぎぬ 力作ならねど


          虫たちの力作に比しわが歌は

          此の世にさまよう足跡ならむか


          子らに似て夢中に過ごす日々なれど

          爪痕残さむ此の世の名残に






「渚の美人」

2012-11-08 00:21:22 | 和歌

 観音崎の渚で、素晴らしい美人に出会った。

 彼女のすらりとした姿は、得も言われぬ気品に満ちていた。
首筋から背中にかけての曲線が誠に優雅で、躰を支える華奢な脚は、スリムそのものだ。 色白の顔にパッチリとした大きめの目が、たゆとふ波をそれとなく見続ける表情には、現世を超越した趣があった。

 暮れ往かんとする秋の陽ざしの中で、さざ波が素足を洗い、彼女は心地よさそうに立ちつくしていた。磯に寄せる幽かなさざ波の音を聞いているのだろうか、遠くの波のきらめきに様々な思いを重ねているのであろうか。

 彼女の姿には、詩情が漂っていた。
躰から滲み出す妙なる調べは、観ているだけで心安らぐ旋律になって、胸に響いてくるようだ。心に秘める豊かな思いが、自ずと音楽を奏でて、感性のある小鳥や野花に語りかけているに違いない。彼らのお仲間の一人として、彼女のこころの調べを受け止められたこの磯に、感謝したい。

 渚の美人は、程なくして優雅に羽をひろげて水面を飛び立ち、夢のような舞いを見せつつ彼方へ消えていった。虚庵居士は何時までも、いつまでも「青鷺・あおさぎ」の姿を追い続けていた。

 


          ふと見れば渚に佇む美人かな

          あるがままなる姿気高し


          何見るやたゆとふ波をそれとなく

          見るらむ姿はうつつを超えにし


          秋の陽の暮れゆかんとするにさざ波が

          素足を洗えば心地よからむ


          さざ波の寄せる幽かな音をきくや

          遠くの波に重ねる思ひは


          磯に立つ姿をみればほのかにも

          心に伝わる調べをきくかも


          磯の花 波打ち際に遊ぶ鳥と

          奏でる調べを共に聞くとは


          渚から優雅に舞い立つ乙女かな

          青鷺消えゆくあとを追うかも






「野菊の表情」

2012-11-06 00:34:42 | 和歌

 葉山の里山道を散歩していたら、林の陰に沢山の野菊が咲いていた。

 野菊の表情が清楚で少し淋しげに見えたが、秋の陽ざしが遮られて日陰だったからだろうか。だが、それぞれが天真爛漫に咲いて、耳を澄ませば少女たちの賑やかな声が聞こえて来そうだ。

 後から調べて判ったが、野菊の名前は「柚香菊・ゆうがぎく」。
柚子の香りがすることから名前が付けられたそうだが、それと知っていれば花の香りを堪能してくるのだった。花の近くで香りを嗅いでも、柚子の香はごく微かのようだ。花びらを擦り潰すと香ると説明があったが、そこまでやるのは虚庵居士の流儀には馴染まない。在るがままの姿で、仄かな香りを愉しみたいものだ。

 

 しばらく歩いていたら、「野紺菊」に出合った。

 陽ざしを一杯に浴びて、花びらを後ろに反らして逞しく咲いていた。そんな野紺菊の花蜜を求めて、「一文字セセリ」が忙しく次から次へと蜜を吸い続けていた。
蕊を前に突き出した野紺菊の表情は、「花蜜は美味しいわよ、早く吸って、吸って!」と訴えているかの様に見えた。少女が目を瞑り、清純なキッスを求めて唇を突き出している姿にも見えるではないか。

 


            寄りそいて野菊の乙女ら語らふや

            賑やかな声 聞こえる心地す


            朝陽さすその時にこそ会いに来む

            かんばせ揃える笑みを見まほし


            柚子の香を野菊にきかば如何ならむ

            とりこになるやもそれ知りませば


            花蜜を吸って吸ってと野紺菊の

            花の姿は無邪気に訴え


            目を瞑り唇突出し清純な

            キッスを待つらし野の乙女らは


            訴える野菊の期待に応えてか

            一文字セセリ せわしく蜜吸う


            野の菊はそれぞれに咲きそれぞれに

            秋を彩り おのれを謳ひぬ







「べにばなげんのしょうこ」  追記

2012-11-03 22:44:53 | 和歌

 草叢に紅色の小さな花が、一輪だけ咲いていた。花の姿、葉や実の様子も、「現の証拠」によく似ているが、花は白色ではなく紅色だった。

 取り敢えずカメラに収めてきて、帰宅してから野草図鑑のお世話になった。
先ずは「現の証拠」を調べたら、何と紅白双方の花があることが判明した。紅色の花には「紅花現の証拠・べにばなげんのしょうこ」との名前で、白色の花の「現の証拠」と区別しているようだ。また野草図鑑の説明では、北日本では紅花はごく稀で、白花が多いとの解説だ。かつて、「蓼科の野花 その4 現の証拠」にご紹介したので、白花はこちらを参照されたい。

 (追記) 蓼科高原で、何十年振りかで出会った現の証拠の導きで、小学校一年生から三年生の秋までご指導頂いた百合子先生が想い出されて、このエッセイと三首を詠んでブログに掲載した。図らずもこれを読んだ知人が、百合子先生の現住所をご連絡下さった。

 「蓼科の野花・七編」をコピーして先生にお届けした。 程なくして先生の娘さんから丁重なお手紙を頂戴した。 「母は老齢から軽い認知症にて加療中ですが、あの時のことを鮮明に記憶しておりました。頂戴した文集を繰り返しくり返し大切そうに読んでおります」と認められていた。

 数日前に、喪中のご挨拶状が届いた。
発信は百合子先生の娘さんからで、「七月十三日に母・百合子が永眠しました」と 印刷されていた。余白に「以前いただきました文集、母の棺に入れて持たせました。九十歳の誕生日四日前でした」 と追記されていた。


          指先の白墨の粉いまだなお

          まなこに残る 百合子先生は 


          遠足で現の証拠を摘採りし

          遥かなむかしに師弟は還りぬ


          かえりみれば温もりいまだ残れるは

          小学一年一組のころ


          目を瞑りご冥福をば念じつつ

          小学生に還りて 合掌
       (追記終)
           


 飲むとすぐに薬効があることから、「現に良く効く証拠」が「現の証拠」の名前の由来らしい。

 漢方薬の薬効の解説を引用する。
『根・茎・葉・花などを干し、煎じて
下痢止めや胃薬とし、また茶としても飲用する。飲み過ぎても便秘を引き起こしたりせず、優秀な整腸生薬なので、イシャイラズ(医者いらず)とか、タチマチグサ(たちまち草)などの異名も持つ』とあった。
こんな素晴らしい生薬であれば、
もっともっと大切にせねばなるまい。


          とりあえずカメラに収め記録せむと

          思ひは花の 気品を捉えず


          生薬の「現の証拠」とよく似たり

          白花ならず 紅花なれども


          調べれば「紅花現の証拠」とや

          生薬なるらし草叢の花は          


          紅白の「げんのしょうこ」は民草か

          医者に代わりて下痢など治すは


          野に咲けば有難さをも弁えず

          「現の証拠」が「医者いらず」とは


          医者いらず・たちまち草との異名もつ

          「げんのしょうこ」を崇める今日かな






「そば?」

2012-11-01 00:09:09 | 和歌

 最近、花に対する好みが変わったようだ。園芸種の花卉に比べて、素朴な野草の花に興味が惹かれるのは、歳のせいであろうか。

 思ひもかけぬ処で、「蕎麦の花」に出合った。
信州育ちの虚庵居士にとっては、蕎麦の花は子供の頃よく見かけた懐かしい花だ。それにしても、畠でもない空き地に誰が蕎麦の種を蒔いたのだろうかと、不思議に思われた。それに蕎麦はかなり姿勢よくシャンと育つが、ここのは随分と姿勢が悪い。手入れの行き届いた畑では、茎は直立するが、蔓性を帯びて這うのは、空き地と云う気の退ける出自の故であろうか、等と訝りつつカメラに収めた。

 

 帰宅して、念のために植物図鑑のお世話になった。

 「蕎麦」の花を確認して、「うん、これだ」と合点した。が、読み進めると、蕎麦は一年草だが野草に「宿根蕎麦」がある、との記述があった。更に調べたら、「赤地利蕎麦・しゃくちりそば」は多年草で、食用にならない、とあった。食用の蕎麦は葉が茎に直接付くが、野草の赤地利蕎麦は茎から葉柄を介して葉が付くとの違いを、丁寧に説明していた。

 ヒマラヤから中国原産で、ルチンを含み血管強化の民間医薬、或いは全草を乾燥させて、高血圧の漢方薬(赤地利)として利用する等の解説があった。

 


           誰蒔くや空き地に蕎麦の花咲くは

           何処かの数寄者 蕎麦をたべむと?


           背筋伸ばし矜持を保つ蕎麦なるに

           何ゆえ地に這い蔓を延ばすや


           調べれば野に咲くソバは赤地利ぞ

           蕎麦にも兄弟姉妹あるらし


           赤地利はルチンを多く身に宿し

           脳出血の特効薬とか


           それぞれの出自を辿るまでもなく

           命を救う「そば」の小花か