桒田三秀税理士

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面倒くさい人

2021-11-30 06:12:22 | 日記
 鼻マスクなどを繰り返し、議会での発言が認められなかった大分県の市議会議員が慰謝料などを求めて市と市議会を提訴した。他はノーマスク。

 今年9月、委員長から「正しくマスクを着用してから発言して下さい」と、鼻マスクを注意された市議。

 その後、本会議で「命令に従わないので議場の外に退去を命じます」と、議長に退席を命じられた。
 
 提訴の会見では、弁護団も「マスク着用義務不存在確認等請求事件ですので、私たちはマスクなしで…」と、ノーマスク。

 ちなみにこの市議は、マスクに限らず広く推奨されているコロナ対策については概ね否定的だ。

 時の厚労大臣が呼び掛けていた「マスク会食」も「マスクして、食べる時は外して、またしゃべる時はマスクして、ということをしたことはない」。

 ワクチンも「事実として私は打っておりません」。

 ほとんどの市民は、公衆衛生上のリスクをできるだけ減らそうと努力している中、こういう面倒くさい人は周りに一定数いる。

 独裁国家の唯一いい点は、こんな面倒な輩を強制的に排除できることだ。
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喝!

2021-11-29 06:11:28 | 日記
 日曜日の朝「喝!」を連発していた時代遅れの爺さんがいなくなるという。

 人は皆、山頂を極めると、自分の通ってきたルートが唯一の登頂ルートだと思いがちだ。
 
 そのせいで、自分と違うやり方で登頂しようとする人をけなす癖がある。

 張本氏はその典型だろう。

 春先、大谷選手に対して「今のままでは絶対打てません」と言いながら、活躍すると

 「いいフォームになってきた」などと弁解する。

 いずれにしても問題発言が多すぎて、いつ降板させられるか時間の問題だった。

 形式上は、自ら「ゆっくりしたい」ということで降りた形だが、事実上の首なのではないか。

 しかし、張本氏を目の敵にしていた人たちは、いざ降板となると、逆にさみしさを感じるのではないか。
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めっきり見なくなった

2021-11-27 05:56:41 | 日記
 数十年前は、極端なО脚や腰が90度に曲がった老人が珍しくなかった。
 
 小学生の頃は、鼻水を垂らした生徒や、しもやけで靴が履けない生徒も普通にいた。

 スカートめくりも、ほぼ毎日すべての教室で行われていた。 

 税理士のKさんは、有名なスカートめくラー(※スカートめくりの達人という意味)だったという。

 「スカートめくりは、確か中学3年生になるまでには止めていました」と言うが、

 女の子たちは「どうせK君にめくられるのなら、かわいいパンツをはいていこう」と競い合ったという。

 「勝負パンツ」というのは、この頃、福山市立幸千中学校あたりから流行ったという説が有力だ。

 
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あの人の話題

2021-11-26 07:26:45 | 日記
 遅ればせながら、あの人の話題に触れておかなければならない。

 元東京都議会議員の木下議員だ。

 最初の一歩目を誤ると、どんどんと墓穴を掘っていくいい例だと思う。

 当選直後に、無免許運転での事故が発覚したその瞬間に辞任をしていれば、ここまで袋だたきになることはなかっただろう。

 「3日まえ、女性とホテルに入るところを見たって人がいるんじゃけど」

 「あ、それ人違い」

 「車の色はシルバーで、車種は🔵🔵だったって」

 「似たような人がいるもんじゃな」

 「ナンバーは〇〇〇〇」

 「ナンバーまで同じって奇遇じゃな」

 「あんたじゃろ」

 最初の一歩目を間違うと、次々と嘘や言い訳を重ねることになる。

 「3日まえ、女性とホテルに入るところを見たって人がいるんじゃけど」

 「すみません、それは私に間違いございません」

 「認めるの?」

 「はい」

 「では、お詫びに◎◎のバッグを買って」

 「わかりました」

 こうやれば、簡単に許してもらえるのだ。


 
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命日

2021-11-25 06:09:18 | 日記
 昨日は母が亡くなって5回目の命日だった。

 母は結婚以来、父と小さな縫製工場を営んでいた。

 結婚以来50年以上仕事をして、晩年は花を育てたり旅行に行ったりして余生を送った。

 亡くなる5年前に癌が見つかり、最期の1か月は苦しんだが、普通に生活し、ひ孫と遊び、旅行にも行った。

 父と母の縫製工場を解体し、跡地に今の事務所を建てたのが母が亡くなって1年後のことだ。

 私の座っている場所は、母がずっとミシンを踏んでいたその場所だ。

 仕事の合間にふと気が付くと、母が見ているような気になる。

 「自慢の息子だった」と書き残して逝った母に恥じないよう、残りの人生を歩んでいきたい。

 
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