つい最近気が付いたことがある。
私が好きな食べ物の傾向についてだ。
私の好きな食べ物は、そのものというより、そのものの「ある部分」である。
例えば、グリーンアスパラの、先っちょ。
白菜キムチの、葉のビロビロしたところ。
巻きずしの、端っこ。
出汁巻き卵の端っこ、など。
端っこには、愛とロマンと、お得感が詰まっている、と思う。
端っこではないが、「じゅんさい」も好きだった。
「だった」と過去形で言うのは、とんだ思い違いをしていたからだ。
私の、じゅんさいのイメージは、
「澄んだ深海にひっそりと佇んでいる、純粋無垢な植物」。
ところが、実際は、その辺の沼とか池に生えているものだと最近知った。
そのショックは計り知れない。
松方弘樹と目黒祐樹が兄弟だと知った時のショックに匹敵する。
じゅんさいは、おばさんが一人乗りの箱舟に乗り、池に生えたのを摘み取るのだ。
推定Eカップの人魚が海底から摘み取ってくるのではない。
池ですよ、池!!
近所のオッサンが、毎朝、立小便しているに違いない池。
養鶏場のニワトリの糞を垂れ流した池。
行方不明の爺さんが沈んでいるかも入れない池。
それらを栄養分として育つのだ。
もう、じゅんさいは食べないと思う。
私が好きな食べ物の傾向についてだ。
私の好きな食べ物は、そのものというより、そのものの「ある部分」である。
例えば、グリーンアスパラの、先っちょ。
白菜キムチの、葉のビロビロしたところ。
巻きずしの、端っこ。
出汁巻き卵の端っこ、など。
端っこには、愛とロマンと、お得感が詰まっている、と思う。
端っこではないが、「じゅんさい」も好きだった。
「だった」と過去形で言うのは、とんだ思い違いをしていたからだ。
私の、じゅんさいのイメージは、
「澄んだ深海にひっそりと佇んでいる、純粋無垢な植物」。
ところが、実際は、その辺の沼とか池に生えているものだと最近知った。
そのショックは計り知れない。
松方弘樹と目黒祐樹が兄弟だと知った時のショックに匹敵する。
じゅんさいは、おばさんが一人乗りの箱舟に乗り、池に生えたのを摘み取るのだ。
推定Eカップの人魚が海底から摘み取ってくるのではない。
池ですよ、池!!
近所のオッサンが、毎朝、立小便しているに違いない池。
養鶏場のニワトリの糞を垂れ流した池。
行方不明の爺さんが沈んでいるかも入れない池。
それらを栄養分として育つのだ。
もう、じゅんさいは食べないと思う。