熊本熊的日常

日常生活についての雑記

305

2014年02月24日 | Weblog

先日、ある書類に目を通していたら「D/Eレシオは305を基本とし、…」という表記にぶつかった。その書類の元になるものを見たら「305」ではなく「30%」とあった。キーボードで「5」と「%」が同じキーに割り当てられていて、「5」をシフトさせると「%」になるのを、シフトキーを押す力が足りなかったのか「%」とならずに「5」のままタイプされてしまったのだろう。今時の誤植はこの手のものが多い。誤植の中味は記憶にないが、書籍でもそういうありがちな誤植を見たことがある。

印刷物が活版を使っていた時代、職人が箱のなかにひとつひとつの活字を植えるように組んで版を作っていたのだろう。だから、誤ってそこに入れるべきではない活字を入れてしまうのを「誤植」と呼んだのであろうことは、容易に想像がつく。今も活版で印刷されているものはあるのだろうが、割合からすればずいぶん少なくなったのではなかろうか。自分の仕事関係を見ても、昔は印刷物の形態にして客先に配布するものがずいぶんあり、印刷屋さんとのやりとりは日常業務の一部だった。それが今は印刷するものは余程特別なものだけで、たいていのものはPDFで流通させる。これが意味するのは、書き手から読み手に至る距離が短縮されたということだ。

情報の価値はその稀少性によって決まる。稀少性を左右するのは中味と伝達速度だ。誰よりも先に手に入れた情報に基づいて誰よりも先に行動を興せば、それだけその情報の稀少性の恩恵にあずかる確率が高くなる。ただし、その情報が正確ならば、という条件付きだが。書き手から読み手に至る距離が短くなるということは、書き手の情報が価値を生む確率が高くなるということだ。しかし一方で、書き手が発する情報に錯誤があった場合、それに基づいて行動した読み手は何がしかの損害を被る可能性も出てくる。発信者から受信者の間に距離があれば、そこにチェック機能を幾重にも介在させることができるが、短いとそうもいかない。勿論、チェック機能が錯誤を生んでしまう危険はあるが、仕組みや管理にもよるものの、チェック機能はそれとして作用する確率のほうが高いだろう。

市場経済という枠組みのなかでは、誰よりも早く情報を入手することのほうが、その正確性よりも価値があることのほうが多いのではないだろうか。だから粗製濫造の情報が多くなり、無駄にあくせくすることになったりもするのだろう。そういうのを「情報化社会」というのなら、それは闇雲に気忙しいだけのろくでもない社会ではないか。そんな社会を生きたいとは思わない。


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