田中克彦 『ことばと国家』 岩波新書
『ことばとは何か』の約20年前に刊行されたもので、『ことばとは何か』の中に本書に言及した箇所がある。
今から二十年ほど前、私が『ことばと国家』を書いたとき、はじめて言語学を社会や政治にむすびつけようとした試みだとして、そのような著者に期待が寄せられたことがある。構造主義に閉じこめられていた言語学が、ますます、自ら作った体系のわくの中に閉じ込もって、その節をつらぬこうという時代だったから、言語学者からは、私は学問の作法をよく知らない、行儀の悪い言語学のしろうとだと非難されたが、といって他方、その枠を破るほどの向こう見ずではないにせよ、ちょっと扉にすき間を作っただけの私に期待する側からは能なしの小心者だという失望を与えてしまったのはやむをえない。
田中『ことばとは何か』ちくま新書 164頁
言語学を政治と結びつけることが「試み」であったということに驚くのだ。今は当然のことだと思うが、それが高々二十数年前までは学問の「作法」に反することであったというのである。学問というのは真理の探究だと思っていたが、そうではないらしい。
尤も、学問も商売なのだから、市場原理の中に収まる在り方でないと成り立たないのは確かだ。政治勢力は学問にとっては主要な顧客であるようなので、そこに受け入れられないことには学問として存在できない。その政治にとっては、まとまった単位の票の供給源が主要顧客となる。供給源の素性は一切問わない。政治も市場原理下にあるので、数字が全てだ。市場原理の下で巨大資本が優位に立つように、選挙においては巨大宗教もものをいう。7月の暗殺事件以来、ちょっとした話題になっているようだが、政治家にとっては票をくれる勢力はどのようなものであろうと「神」なのである。神の世界では「はじめに言葉ありき」なので、政治と言葉と宗教は、なるほど親密であるはずだ。
もちろん、本書にはそんなことは書いていない。書いていないが、四章の「フランス革命と言語」を読むと、フランスもフランス語も私にとっては知らない世界だが、グッと現実味のある世界に感じられる。思えば、20世紀の終わりに雪崩を打つように崩壊した「人民」とか「労働者」の国々も、日本の明治維新も、フランス革命同様、人間というものが「社会的」な生き物であることを再認識させるものだった。要するに上下関係という構造抜きに人間社会は成り立ち得ず、その構造を決するのは理念理想というような綺麗事ではあり得ず、「国王」だの「将軍」だのといった呼称を「ナントカ議長」であるとか「ナントカ書記長」であるとか「ナントカ大臣」に変えただけで統治の仕組みは従前の体制を実質的に居抜きで使っているようなものだろう。権力や権威を支えるのは結局のところは市場原理で、その市場原理を巧みに活用できない権力は早々に崩壊する。「美人薄命」という言葉があるが、綺麗事に徹すれば早々抹殺されるというのが、たぶん、本当の意味だろう。どのような組織であれ、社会構造の基幹部分は多かれ少なかれ火事場泥棒風の人々が担っているように見えなくもない。
どのような統治システムであれ、統治の言語は体制安定の鍵を握る。この点で母語は決定的に重要なのだが、その重要性は我々日本人にはわからない。否、わかりすぎているのかもしれない。殆どの日本人にとって母語=母国語なので、事実であるか否かを問う以前に、母国語で記録に残るものは感覚としてほぼ絶対なのである。「書いたものがものをいう」と言われるのは、書かれたもの、つまり、母国語表記に対する信頼感が強力であるからだ。
しかし、諸外国、殊に世界情勢において発言力の大きい国々との交渉が国運を決する一大事と考えられた時代には、当然のことながら、その信頼感が揺らぐ。日本の統一国家としての揺籃期にあっては大陸の言語を母国語にしようと考えられた時期は当然あったであろう。結果としては、母語はそのままで文字だけが取り入れられた。さらにその結果としては、大陸の激しい権力闘争からは距離を保ちつつ、大陸の先進知見の導入と活用が進むことになった。そうして千年近くを経て、欧米列強との交渉の時期を迎えた。黒船に度肝を抜かれて、言語の見直しも当然検討されたであろう。
幕末から明治はじめにかけて、いわゆる国語外国語化論が議論された。後に日本の郵便制度創設の立役者となる前島密は「漢字御廃止之議」という建議書を将軍徳川慶喜に提出。その後も、国語調査委員としてこの問題に取り組んだ。維新後の初代文部大臣森有礼は英語を日本の国語にすることを主張した。熊本の第五高等学校で英語の教師をしていた夏目金之助が1900年5月に文部省より英語教育法研究のため英国留学を命じられたのは、そうした国語問題の一環であったのかもしれない。夏目金之助は帰国後、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任し、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる。後に『吾輩は猫である』を執筆、小説家夏目漱石が誕生する。1905年のことだった。
結局、我々は相変わらず日本語を母語=母国語としてこうやって暮らしている。明治維新の時に英語を国語にしていたら、果たしてどのような国になっていたのだろう。それ以前に、人は実利的な理由で母語を自発的に放棄できるものなのだろうか。母語と母国語との葛藤のない国に生まれ育っているので、そういう葛藤がどのようなものなのか全く想像ができないのだが、世界で母語と母国語が一致していない圧倒的大多数の国々はかつて列強の植民地であったところだ。その列強の方にしても、複数の言語を内包している。日本のように母語=母国語という国は極めて珍しいのである。このことは何を意味しているのだろうか。
高間大介(NHK取材班) 『人間はどこから来たのか、どこへ行くのか』 角川文庫
これも職場で言葉について一席ぶつのにあれこれ下調べをする中で読んだ。本書を知ったのは山﨑努の『柔からな犀の角』(文春文庫)を読んだときに、その中で触れられていたからだ。山﨑の本を読んだのは、ほぼ日の「俳優の言葉」という不定期の連載を読んだのがきっかけだ。
本書は2008年10月から翌年10月にかけてNHKで放送された「サイエンスZERO シリーズ ヒトの謎に迫る」をもとに構成されたものだ。本書のタイトルはゴーギャンの晩年の作品に因んでいる。ちょうど2009年の夏に東京国立近代美術館で「ゴーギャン展」が開催され、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(ボストン美術館所蔵)は目玉の一つだった。展覧会の図録の90頁から125頁までが本作のために割かれている。私は2009年7月29日に本展を見た。本作に絡めてフランスとタヒチとの関係から言葉について何事かを語ることもできるのかもしれないが、今はその何事が思いつかない。それよりも、人類は元を辿ればアフリカ大陸のかなり限定された地域に源を発するのに、言葉がこれほど多様化したのは何故なのかという問題意識から今回本書を手にした。
各章ごとにテーマが異なり、それぞれの分野の専門家が案内役を務めている。その中で特に気になったことをまとめておく。
第1章 DNAが教えるアフリカ大陸からの旅路
篠田謙一 国立科学博物館人類研究部人類史研究グループ長(現:同博物館館長)
まずは思考の大前提として挙げるべきは、我々人類はアフリカ大陸で誕生したということ、それが世界中に移動して現在の様相に至ったということ。それはDNAに蓄積された突然変異を調べるとわかるのだそうだ。
たとえば、現在のアフリカ人と、その他の大陸に長く住んでいる人々のDNAを比べると、アフリカの人々だけが圧倒的に多様である–つまり、いろんなタイプの突然変異を見つけることができる。このことからズバリ、「現生人類はアフリカで誕生し、そこにかなり長いあいだとどまったあと、アフリカの外に出た」と結論づけられる。
12頁
我々ホモ・サピエンスが20万年ほど前にアフリカに誕生し、6万年ほど前から移動を開始して世界中に広がるのである。その一部が日本列島に辿り着いたのが4万年ほど前だというのである。日本への到達ルートは大別して3つあるらしい:1)大陸沿岸部から南の島々を伝って北上するもの、2)朝鮮半島経由、3)サハリンからの南下。当然、それぞれのルートの起点に至るまでに様々な経路があるはずだ。その経路がDNAの分析でわかるのだという。例えば、案内役の篠田の祖先は3万年前頃にパキスタン付近からシベリアへ向かい、北回りで東アジアへ入って日本に至った、という。DNAの何をどう調べてそんなことがわかるのか、私にはさっぱりわからないのだが、ミトコンドリアのDNAは母から子に遺伝する(父母ごちゃ混ぜにならない)という性質があるので、その性質を利用して分析すると遺伝経路がわかるらしい。
DNA分析が明らかにしたのは、同じ民族が必ずしも遺伝的に近い関係だけで構成されているわけではないという事実なのである。
19頁
ちなみに、父から息子にだけ受け継がれるDNAもある。性染色体のひとつであるY染色体だ。ミトコンドリアのDNA同様、Y染色体のDNAを辿ることでも個人の祖先の何事かを知ることができる。南米の山岳地帯で暮らす先住民族のケースが興味深い。ペルーでの事例が紹介されている。
母親を通して受け継がれるミトコンドリアDNAについては90パーセントを超える人が、先住民族本来のDNAを受け継いでいたのに対し、Y染色体では半数以下だった。残り56パーセントはどこから来たか。じつは、主にヨーロッパ人のDNAだったのだ。(中略)ミトコンドリア、つまり母方では、先住民族のDNAを受け継いでいる人は80パーセント以上。しかし、Y染色体、つまり父方では、わずか8.6パーセントだったのである。この数字、大雑把にいえば、父親の系統を遡れば、9割がヨーロッパ出身であるということで、先住民族の男の遺伝子は大半が駆逐された状況なのだ。
33-34頁
人間だけでなく地球上の全ての生物はDNAという同じ記号で書かれた生命の設計図で作られている。進化の過程を遡ると全ての生物は同じ祖先に行き着く。それが今はたくさんの種類に分かれて互いに食い合い、時に同類同士でも殺し合いを繰り返している。そこには自他の別の意識や認識があるということでもある。そうなると「自分」とか「私」とは何者なのか、という疑問が当然に湧く。明白なのは「私」にとっては生物種の上での同一性というものは意味をなさないということだ。人間同士、仲間同士、というのはそれほど強い同一性ではないのである。
第2章 私という”不思議のサル"
山極壽一 京都大学大学院理学研究科教授(現:総合地球環境学研究所所長)
山極の見立ては、人は他者との融合、和合のなかに己を見出す生き物だということだ。「他者の中に自分を見たがる」性質が「群れのという社会のなかに、さらに家族という単位をつくる」特異な社会を進化させたという。そして家族という単位を設けたことで教育という行為を可能にし、それが独自の進化をもたらした、というのである。
興味深いのは、一夫一婦制が文化の問題というよりも種の保存の問題を交えているという点だ。確かに、世界には一夫多妻の文化もあれば、その逆もあるかもしれないし、一夫一婦とは言いながら、二号三号を囲う人もいる。しかし、そういうのは一般的ではないということにして、家族という形態を形成するのは人類だけらしい。他の生物の様子を見て、そこに「家族」を見出すのは人間の側の幻想であって、群れを形成する生物は基本的に乱婚なのだそうだ。家族という仕組みは人間の精子の運動能力の限界を補うことと関係あるらしい。
人間の精子を調べてみると、運動能力はかなり低い。乱婚のチンパンジーなどとは比較にならないほど緩慢な動きであり、濃度も極端に薄い。これは子宮内競争があるか、ないかという違いに起因するそうだ。子宮内競争とは聞き慣れない言葉だが、チンパンジーはメスが複数のオスと交尾するため、いち早く卵子にたどり着かなくては子孫を残せない。つまり子宮内で精子同士のデッドレースが行われる。これが子宮内競争だ。
47頁
そうなると性行為のあり方が人間は特異ということになる。つまり、精子がおとなしいので、無事に受精させるためには行為の最中に邪魔が入ってはいけない。他の生物の交尾は大ぴらだが、人間は性行為を秘匿する。それは性交能力の弱さに起因する。そこで交尾環境の安定化のために家族という制度ができたという見方もできるのである。
食という点でも人間の特異性がある。霊長類は果実食が基本だそうだ。森で暮らしているなら、木から必要なだけ採食して、空腹になったらまた木に成っているものを同じように食べればよい。しかし、人間は森を出て草原に生活の場を移した。その過程で肉食が取り入れられた。小魚や小動物ならともかく、ある程度の大きさの動物の肉は一度に食べきれない。そこで複数の個体が協働して獲物を確保して共同で食べるという行動が生まれる。
人間の子は自立できない状態で生まれる。子育てが必要だ。それを可能にするのは共同作業、殊に共同食だ。自立できない赤ん坊を産むのは、直立二足歩行の代償だという。直立二足歩行に適した体型になったため産道の形状が制約を受け、他の類人猿に比べて未熟に生まれるようになったらしい。その代わり、未熟で出産するため他の類人猿より出産サイクルが短い。また、母乳だけに依存して生きる期間が人間は他の類人猿より短い。人間は1年から2年、ゴリラは最低3年、チンパンジーは約5年だそうだ。森を出て草原で暮らすようになったことで生存リスクが一気に高まり、多産かつ短乳児期である必要が生まれたということだろう。出産後、次の妊娠が可能になるまでに要する時間も人間は短い。
人間の場合、もっとも早くて40日で妊娠が可能になるそうだ。実際、年子の兄弟姉妹も決して珍しくない。ところが、ほかの類人猿はまったく違う。ゴリラの出産間隔はおよそ4年。チンパンジーで5年。オラウータンでは8年にもなるのだ。
57頁
人間が他の類人猿と違って、森を出て草原で生きることを選択し、草原での生存に有利なように直立二足歩行を発達させた。草原での生命維持のためにそれまでの果実食から肉食にも適応して栄養状態が変化する。直立二足歩行に適応した体型になることで、未成熟での出産かつ多産と、幼児育成のための一夫一婦という小社会の形成をするようにもなった。また、直立二足歩行は大きな脳と両手の自由をもたらした。
その脳の発達と両手の運用技能の向上には肉食が深く関係する。肉食の最初は、他の肉食獣の食べ残しを摂食したことだろうと言われている。肉食獣は獲物の胴体、内臓を主に食べる。このため、四肢の肉と全身の骨が食べ残しとなる。人間の祖先が肉食を始めた頃の肉はこの四肢と骨であった。肉は当然タンパク源だが、骨の髄も栄養価が高い。ただ、骨髄は骨を粉砕しないと手に入らない。当然、手先の器用さが要求される。高い栄養価と食べるのに一工夫必要な食物は脳の発達を促す。
言葉の由来を調べるのに、随分遠回りをしているようだが、人類の進化の過程を辿ってみないことには、どのあたりで言葉が登場するのかわからない。ここまでは主に人間個体の成長と家族の形成についての話だが、他の類人猿との比較で人間の大きな特徴がもう一つある。それは老年期の長さだ。
老年というのは生殖能力を失った後の期間を指す。よく長寿は衛生状態の改善と医療の発達によるものだとされる。しかし、医療が発達するなら生殖可能年齢も引き上げられて然るべきだ。実際は、多少の延長はあるものの、寿命の伸びほどに長くはならないのは、本来的に人間の老年期が長いという事情がある。生殖に関与不能の個体が生きていられるのはなぜか。これは、未解明ではあるが、未熟状態での出産と関係しているらしい。つまり、老人は未熟で生まれて手のかかる子の生育を補助する役割を追うているという面があるのではないかと言われているらしい。
また、人間には教育という独特の習慣がある。年長者が年少者に生活に必要な技能を伝授する。猿真似という言葉があるが、人間以外の類人猿は他の個体の行動を真似することはあっても教えるということはないそうだ。教育、すなわち、個体から個体へ意図を持って特定の知識や技能を伝えるには、共感という心理作用が不可欠らしい。
「共感というものがあるからこそ、自分が時間や手間を使っても知識のない子どもたち、仲間たちに教えようという感情が芽生える。もちろん人間だけが共感できるわけじゃありません。仲間のやっていることに対して自分は同調できる、そういう能力は霊長類ならもっていると思います。ただ、それを非常に人間は伸ばしたんではないかと思いますね」
69-70頁
この共感に大きな役割を果たす身体器官の一つが眼だそうだ。
「私たちに身近なニホンザルでも、食べているときは決して相手の目を見ませんね。やはりそれは相手に対する挑戦になってしまうんですよね。ところが人間は逆。わざわざ向かい合って、見つめ合いつつ食べることがふつうになっているわけです」
見つめ合うのが人間だというわけだ。それが端的に表れているのが、目の構造だ。人間の目には、黒目と白眼がある。そのため、視線の微妙な動きで相手の感情の動きがわかってしまう。ところが人間以外の霊長類は類人猿でも、白目と黒目がない。
「人間に黒目と白目ができたのは、向かい合ってお互いに感情の動きを探り合うようなことが日常的になったので、そうなっていったんじゃないかと思うんです」
71頁
昨今は直接顔を合わせてどうこうするということが以前に比べて重要視されなくなった感がある。我々の暮らしは、科学技術の発達で、それまで不可能であったことが可能になったことで満ちているかのように思われている節がある。しかし、その陰でたくさんのことが失われているのも事実だ。人と人とが直接交渉せずに物事が進捗していくことで、人にとって幸福な結果が得られるものなのだろうか。
それはともかくとして、山極は人間について本書では以下のようにまとめている。
「人間が一人で独立して生きているんではなくて、他者とつねにこう融合、和合しながら生きているようになった、そこに本質があると思うんですね。要するに、他者と自分との境界をどこかで取り払うような社会性を身につけてしまったということなんです。それが教育を可能にし、家族というものを可能にし、そして家族を超えた地域社会というものをつくることを可能にしたんじゃないかと思いますね」
72頁
「他者との融合、和合」する生き物が人間であり、そこに言葉も生まれたということだと私は理解している。しかし、今の現実は個人が分断され断片化していく方向に進んでいるように見える。自分が生きている間に劇的な変化があるとは思えないが、自分の終わりが射程に入り、随分気楽になった身にさえも、どこか不穏な雰囲気を感じる。今更不安はないのだが、他人事ながら心配ではある。
言葉とは少し離れる話題だが、農耕についての第9章が興味深い。よく人類の発達史として、狩猟採集社会から農耕を発見あるいは発明して農耕社会に移行するという説明を聞くのだが、本当にそうなのだろうかと近頃疑問を抱いていた。きっかけは宮本常一の一連の著作、殊に『民間暦』の最初の方の記述に引っ掛かったからだ。
農家が食料を買わねばならぬというほど矛盾したことはないのだが、日本の農家の大半はそうであるといっていい。
宮本常一『民間暦』講談社学術文庫 36頁
現実がどうであったかは知らないが、歴史の前提として農民は収奪される側の存在として語られることが多い気がする。時にその圧力に耐えかねて一揆であるとか、反政権的運動が起こったりするという史実が現れる。農耕は土地を耕し、種を蒔き、手入れをして、収穫を迎えるまで長い時間を要する上に、収穫を得る保証はどこにもない。その上、収穫物のかなり部分を権力者に上納する仕組みになっていることが多い。農耕は誰にとって望ましいのかと言えば、農耕に携わる本人ではなく、その地域を支配する権力者にとってである。そんなものを好き好んで人々が始めるだろうか、と思うのである。つまり、農耕があって、そこから権力構造が構築されるのではなく、先に権力構造があって、その権力が農耕という支配装置を統治手段の一つとして活用したのではないかと考えた。本書第9章はその疑問に関係している。
第9章 農耕・人類の職業選択のゆくえ
佐藤洋一郎 総合地球環境学研究所副所長(現:名誉教授)
人類が農耕を始めたのは約一万年前らしい。トルコ南東部で麦を中心としたものと、中国長江流域でイネを中心としたものだ。始まりは相互に関係しているわけではなく、それぞれの土地に根ざした作物が農耕の中心になる。日本では、現在の考古学的調査に基づけば、3千年ほど前に稲作が始まったとされている。歴史上は農耕が始まった時期には強大な政治権力があったとは認識されていない。しかし、農耕という共同作業を監理する社会はあったということになる。ただ、いまだに農耕の起源は明快にはわかっていないらしい。
農耕以前と農耕以後の本質的な違いとは何だと問えば、組織的に特化するか否かという点が浮かび上がる。農耕とは、たくさん利用していた食料のなかから、数種類(あるいはほぼ一種類)を選び出し、集団で一致してその育成に心血をそそぐことであり、いわば集団として食料確保の方法を切り替えることではないか。
すると、「最初に農耕をはじめたのは、なぜだ?」という疑問はこう変わる—最初に集団的に食料を切り替えたのは、なぜだ?
273頁
地球環境の変動も当然に影響するだろう。環境保護とか持続的発展といった科学の仮面を被った政治的な動きが活発だが、そもそも地球環境は安定などしていない。たまたま人間が実感を持って見通すことのできるスケールの範囲内で「安定」という幻想を抱く程度の振幅で変化をしてきたというだけのことだ。それはせいぜい数百年程度のことだろう。以前にも『万葉集』のところで書いたが、地面はちっとも確かではないのだ。地殻の内側はマントルという液体状のものが対流している、なんてことは義務教育で教わった、はずだ。その地殻は複数のプレートに分かれていて少しずつ動いている、なんてことは常識だ。だから地震が起こるわけで、そもそも我々の生活は足元が揺らいでいる。自転軸の話にしても、地球の自転だけでなく、地球が太陽の周りを巡る公転があり、おそらく太陽系丸ごと何かの周りを回っている。そして、その「何か」は別の何かの周りを回っていると考えるのが自然というものだろう。農耕が始まった一万年前は、たまたま地球の気候の変動が安定期に入った時期らしい。
グリーンランドの大地を覆う分厚い氷河(大陸氷床という)を円筒状にくり抜き、その氷を分析して判明した。およそ一万年前を境にして、平均気温の様子はガラリと変わっていたのだ。直近の一万年は平均気温の変化はおよそ一度の範囲内に収まっていたのに対し、それ以前は激しい乱高下を繰り返していたのだ。
207頁
日本国内にも長期にわたる気温の変動がわかるものがあるという。喜界島のハマサンゴだ。ハマサンゴは年輪を刻んでいて、海水中に溶けているカルシウムを取り込んで成長する。このとき、微量のストロンチウムも一緒に取り込む。このストロンチウムの量が、海水温が低くなると多くなるというのである。このことからハマサンゴの化石に含まれるストロンチウムの量を計測することでサンゴが生きていた時代の水温を知ることができるらしい。なぜ喜界島かといえば、このあたりがフィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界で、島が一年に二ミリずつ隆起しているのだそうだ。このため、海に潜らなくてもハマサンゴの化石が入手できるのだ。
2009年の夏までに、七つの年代のデータの分析を終えたという。その結果、喜界島周辺の海水温はこの一万年のあいだ、およそ三度の幅で変化していたことがわかった。
「これは海水の温度なんですけれども、それと連動して気温も同じように変化したと考えられます」
目につくのは、およそ四千年前に急激に海水温が下がっていることだ。
佐藤さんによれば、この四千年前という時期は、東アジアの農耕の歴史では大きな事件が起きているそうだ。
「長江の下流にあった長江文明が表舞台から去るのが、ちょうどその時期なんですね。気温低下が直接影響したのか、何らかの連鎖反応で最終的に長江文明が衰退したのか、そのあたりはまだよくわからないんですけど」
280頁
農耕は自然の中での営みであることには違いないのだが、植生を大きく変動させるという環境破壊の元凶でもある。本書ではアラル海の事例が取り上げられているが、程度の差こそあれ、人間が己の生存のために己の生存基盤を破壊しているのも事実だ。身も蓋もない言い方をすれば、人間の存在そのものが地球環境にとって脅威であり、その人間がSDGなどと騒ぐのはどこか滑稽でもある。
人間がいかに地球環境において特異な存在であるかは、他の章でも様々に語られている。我々の我儘を放置しておいてよいはずはないのだが、今更ながら人間は身勝手で、自分で思っているほど賢くはないということがよくわかった。
小倉芳彦 訳 『春秋左氏伝 (上中下)』 岩波文庫
『代表的日本人』を読んだ時に西郷隆盛の章で本書への言及があり、なんとなく気になって読んだ。全三巻だが、本文だけならそれほど長くもない。尤も、原書の方は約二十万字で難解なものだそうなので、その全てがこの日本語版で網羅されているのかどうかわからない。『春秋』については以下の説明がわかりやすい。
人は身の回りのことに理屈を付けないと安心できないのだろう。歴史を過ぎ去ったあれこれの羅列にしておくのではなく、無理矢理にでも因果関係をつけて整理して、教訓めいた原理原則を語らないわけにはいけないようにできている生き物なのだと思う。
確かに、いわゆる「正義」であるとか「あるべき」規範のようなものがあると思うことで、自分の行動や存在が正当化される気がするものだ。また、過去を振り返るとき、人はちょっとした神の気分を味わうことができる。あれをこうしてああすれば事態は一気に解決するというようなことが一目に見渡せる。だから、、、と雄弁になり、そういう自分に酔うことができるのである。それが他人事であれば、だが。
国家の興亡は人体の健康と似ている気がする。健やかな状態であればそこそこの気力があって物事に穏やかに前向きになるが、そうでないと不安な部分を補おうと妙に強がっておかしな前傾姿勢になり、そのことで全体の調和が乱れて破滅に至る。無理矢理何かをしなければならないという時点で、深刻な問題が生じている。そこは強がるのではなく、一歩退くなり休むなりしてしっかりと状況を把握して自分の内から対策を施すべきなのだろう。しかし、どれほど気を配ったとしても、どうにも身動きができなくなって変化に応じきれなくなる時が来る。それが寿命というものだ。苦痛なく終焉を迎えるには、やはり全てに穏やかであるよう心がけなければならないのだろう。
本書で示されているのは、上に立つ者の心得だ。それは決して特別なことではなく、どうすれば民心が従うのか、交渉事で相手との信頼関係を築くにはどうするべきなのか、というような、人一般にも言えるようなことばかりである。結局は、恥ずべきことのないように振る舞い、後は天命に委ねるより他にどうすることもできないということなのだろう。「心に瑕がないならば、家がなくとも心配するな」という諺があるらしい。
以下、本書で気になった箇所を列挙する。
「亡びるときは神意をあてにする」というのは、おそらく心ある日本人なら「あのことかな」という心当たりがあるはずだ。
この「武」という漢字の成り立ちの話には感心した。母語の表記として千数百年を経ても漢字はまだまだ借り物で自分のものとして消化しきれていないと思った。確かに「武士」といえば軍人的な側面があるが、そればかりではなく、平時においては領主として政治を行うのである。むしろ、戦はここ一番という非常時のことであり、それをいつまでも続けていては身が持たない。武力は戦そのもののためにあるのではなく、戦を止めて人々に安心と豊かさをもたらすのが本分だということは、今まで考えたことがなかった。
「義によって利が生じ」とは、どういうことなのだろうか。
「金は天下の廻りもの」という。上下左右に活発に流れていれば、本当は誰もがそこそこに安穏に暮らすことのできる社会になるはずではあるのだが、現実はそうはいかない。無闇に溜め込んだり、何の有用性の無いものに注ぎ込んでみたり、次に繋げるということを考えようともしない輩がいて、また、そういうことで己を誇示しているつもりの輩も少なくない。結果として世の中は平らにはならず、いつの時代のどこの社会も不公平だの不公正だのと騒ぎが収まらない。収まらないようにできている、と思うよりどうしようもない。
こんな世の中を生きてみたい。つまらない気もするけど。
結局、政権の命運は適正な課税にかかっているということだろう。これは至難だと思う。経済環境は時々刻々変化する。人類史上、社会も政治も経済も自然環境も安定したことなど一瞬たりとも無い。毎日安穏としているように感じるとしても、それは単に鈍感なだけだ。我々は見たい現実しか見ないし、都合の悪いことは見ないふりをするか、都合の悪さが理解できないかのいずれかだ。そうした中で、人々の最大多数の最大幸福を実現するに足る為政のコストを納得させ負担させるのは「徳」と言ってしまえば確かにそうかもしれないが、果たしてそんなものがあり得るだろうか。
禍だらけの気がしないでもない。
君子とは想像上の人物のことだろう。
ところで、本書には孔子の弟子である子路の最期の様子が書き記されている。色々に引用されているが、ここが出典とは知らなかった。
今、我々は春秋時代の国々がその後どうなったか知っている。「人の振り見て我が振り直せ」と言うが、過去から学ぶべきは取って付けたようなハウツウではないだろう。