熊本熊的日常

日常生活についての雑記

黒豆を煮る

2011年12月29日 | Weblog
昨夜の煮汁作りから丸一日以上かけて黒豆を煮た。黒豆を煮るつもりなどなかったのだが、煮豆を注文したつもりでいたら届いたのが生豆だったので、煮ないわけにはいかなくなってしまったのである。親切なことに煮方については袋に印刷されていたので、それに従った。錆び釘は生憎手元になかったが、ネットで検索してみたら、あれは無くても支障がないらしいということがわかったので釘なしである。砂糖は例の黒砂糖なので、ミネラルなどの甘さとは関係のない成分を含んでいる分、甘味が控え目になる。いまこの文章を書いている時点で、味をしみ込ませている過程の真っ只中なのだが、味見をしてみたところまずまずの味に仕上がっている。

黒豆を自分で煮るのはこれが初めてのことである。どのようなことでも、初めてのことというのは新鮮な体験だ。煮汁を作ることについては、特にこれといったことは無い。所定の量の水に所定の調味料を入れて沸騰させるだけのことだ。これに軽く水洗いをした黒豆を入れ5時間以上そのままにしておく。ここまでは昨夜寝る前に済ませた。今朝起きてから火を入れ、煮立ったところで灰汁をすくい取る。所謂「びっくり水」を入れ、とろ火で煮汁がひたひたになるまで煮る。この「とろ火でひたひたになるまで」というのが8時間と豆の袋に書いてある。そんなわけで今日は一歩も外に出ることなく、豆の番に徹した。とろ火で8時間煮ることの最大の障害はコンロの安全装置だ。私が使っている東京ガスのコンロには鍋底の温度を感知して勝手に火を止めてしまうという装置が付いている。「センサー解除」というボタンを3秒長押しすると、とりあえずこの安全装置は解除されるのだが、それでも1時間ほど火が出ていると勝手に消える。つまり、火の番というよりも火が消えたときに改めて点火するためにコンロの側で待機する必要がある。私が使っている鍋はロンドンで生活していた頃に買い求めたTEFALのシチュー鍋だが、火の入りが良いのか、単にサイズの関係なのか、6時間ほどで「ひたひた」になった。おかげで夕方は火の番からは解放されたのだが、種々雑多な家事をしているうちに夜になり、結局外に出る機会がなかった。

黒豆を煮るだけでもこれほどまでに拘束されるのに、かつてはどの家庭でもおせち料理を自分たちで作っていたのである。それは、年末年始に商店が休業するので1週間分ほどの保存食が必要であったという事情もあるかもしれないが、食とか家族といったものに対する意識が、今とはかなり違っていたということなのではないだろうか。手間を手間とは思わない心の姿勢があったということだろう。それが何故失われたのか。何故、我々は生活の効率や便利を追求するようになったのか。効率を追求した結果として浮いた時間で、我々はどれほど豊かさを感じるようになったのだろうか。単に怠惰になり、鈍感になり、人の気持ちを感じる能力を失いつつあるということではないのか。もしそうだとしたら、そこに寒々としたものを感じないわけにはいかない。出来合いのおせち料理を並べて正月の気分になるとするなら、正月を祝うというのはどういうことなのだろうか。何が目出たいのか。形ばかりを問うて意味を問わない空虚な思考が目出たいということか。

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