熊本熊的日常

日常生活についての雑記

パスポート更新

2012年01月16日 | Weblog
先月、香港行きを決めたときにパスポートの有効期限が迫っていることに気がついた。香港の場合は入国時に出国予定日から1ヶ月の期限があればよいので、そのまま旅行の手続きをしたが、今回のように急にでかけるようなことがこの先無いとも限らないので更新しておくことにした。

生活の実質的な拠点は都内だが住民登録は実家の住所なので大宮のパスポートセンターへ出かけてきた。今は行楽時期ではないので事務所は閑散としており、申請用紙を記入し、写真を撮影してすぐに手続きに入ることができた。ただ、巣鴨から大宮というのはちょっとした距離だ。池袋に出たら、たまたま湘南新宿ラインの宇都宮行きがすぐに来たのでよかったが、そうでなければ埼京線で行くか、途中の赤羽で東北線や高崎線に乗り換えることになる。湘南新宿ラインは池袋を出ると貨物線を使った迂回路線で赤羽に出て、その次の停車駅が大宮なので時間的には20分強で着いてしまう。パスポートセンターも大宮駅の近くなので、利便性に問題はない。しかし、時間はそれほどでなくても億劫な距離だ。

一人暮らしというのは身軽でよいが、役所関係のこととなると何かと不自由なものである。これはつまり、社会の制度として家族というものが単位になっているということなのだろう。確かに、管理する立場にしてみれば、ひとりでふらふらしていて、存在するのかしないのかよくわからないような人が多いというのは社会の実態の把握を困難にする。生物として人が相棒を求める本能的な欲求を備えているのかいないのか知らないが、社会としては構成員がある程度のまとまりを持って生活していたほうが都合がよいのは確かだ。「孤独」とか「独り身」といったことに否定的なイメージが世間のなかに醸成されているような印象を受けているのだが、その背後に統治する側の策略のようなものを見出すというのは穿ち過ぎだろうか。年末に小津安二郎の9作品をDVDで観たとき、戦争を挟んで一貫して描かれていたのは、人は所帯を持って一人前という価値観であった。今の日本では単身世帯が多数派を占めつつあるが、それでも「婚活」などという言葉があったり、そうした活動を支援するサービスが商売として成り立っているところを見ると、依然として家族という単位を構成することが「自然」とする価値観が存在しているということだろう。

厚生労働省の資料によれば、日本の合計特殊出生率は人口の再生に必要とされる2.1を下回って38年が経つ。傾向としては2005年の1.26を底にわずかながら上昇しているものの2010年においては1.39という低水準のままである。単身者が増えると同時に既婚者の出産も減少しているとなれば、人は当然に家庭を持つという仮定の下に設計された社会制度は遅かれ早かれ破綻をきたす。既に年金制度は実質的には崩壊寸前だろう。少なくとも私は自分が年金を受給することなく生涯を閉じると覚悟している。綻びを繕いながら社会を運営するというのは、これから困難の度合いを増すことは誰の目にも明らかだろう。手札に希望がなければ持ち札全てを交換するというのはポーカーというカードゲームのルールに認められている。そうしないとゲームが成立しないからだ。昭和天皇の最晩年、連日輸血が行われ実態としては全血交換ではないかと思われるほどだったことも、ふと思い出した。全ての手札を一遍に交換したからといってゲームを有利に進めることができるとは限らないが、少なくともそうしなければゲームをする意味がないような状況なら、そうするよりほかにどうしょうもないのである。輸血をして症状が改善するわけではなくとも、それが残された手段としては最善のものであるならば、そうするしかないのである。毎日がなんとなく続いていると、このままなんとかなるのではないかと思い勝ちだが、それは希望的観測というものだろう。勝算があろうがなかろうが、それまでの延長にこだわらない、びっくりするようなことをやらないと生きていけない時代を生きているように思う。

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